勅撰集の成立

白河天皇の時代に、後拾遺集と金葉集という二つの和歌集が出たこと、かつ、白河天皇の時代に、古今集、後撰集、拾遺集が整備されたことは大きな意味があった。
これらの、白河天皇の時代の事業によって、
初めて勅撰集というものが定期的に刊行されることになったからである。

伊勢神宮が定期的に建て替えられるようになったのも、
最初からそのように決まっていたからではなく、
何かの理由で反復されることになったのだと思う。

古今集・後撰集・拾遺集のあと、後拾遺集まで長いブランクがあった、
などと書いている人は、
要するに、勅撰集というものは、定期的に作られるものだという固定観念で言っている。
また、三代集というものが、後世言う意味での勅撰集と同質のものであり、
かつ、勅撰集というものが古今集ですでに完成されたものだと思っているのである。
その幻想を産んだのは白河天皇のせいでもある。
彼が、或いは彼の時代の歌人たちが、古今集までさかのぼり、
古今集を理想形とした、勅撰集という形式を確立したのだ。

もしかすると、古今集・後撰集・拾遺集という三部構成になったのも、
後拾遺集が出たあとかもしれない。
どこまでが古今集で、どこまでが後撰集で、どこからが拾遺集なのか。
もとの古今集というのはもっと短くて、
四部構成や五部構成になっていたかもしれない。
その可能性は否定できない。

ともかく、白河天皇の、というより白河院の時代に、
勅撰集とはこうしたものである。
その初めは古今集でその内容はこうである、
その次とその次はここまでである、
そして後拾遺集はこんなんだから、次は誰かが作ろうや、
ということになり、金葉集を作ることになったが、
これがまたすったもんだした。
後拾遺集が案外きれいにまとまったもんだから、
金葉集はどうしようかというので、いろいろ試行錯誤することになる。
難産だったというのと、選者にセンスがなかったのと、両方だろう。

白河院はたぶん途中であきれてあきらめた。
二奏本ができた段階でもう飽きていて、
三奏本を持ってきたときには、あっそうみたいな感じで受け取っただけだった。
嘉納とかありえんと思う。
白河院の執念であんなに時間をかけたのではないはず。

こうして金葉集が不完全燃焼な形で終わってしまったので、
次の世代の人、
つまり崇徳上皇だが、
彼が詞花集を作る。
詞花集によってやっとある一定の形で、継続して勅撰集が作られていく、
という合意が形成されたと思う。
詞花集はコンパクトによくまとまっていて、
ゆえにその次の千載集までくると、割と作りやすかっただろうと思う。

よく似た有名な議論がある。
さっきの伊勢神宮の話もそうだが、
神武天皇から雄略天皇の手前まで、天皇は実在しないとか、
さかのぼって捏造されたのだというもの。
実在したかしなかったかなんてことは今更わかりようもない。

古今集から後拾遺集までの勅撰集の成立に関しては、
しかしほとんど誰もが疑っていない。
定説にあるごとくあったとする。
俊成の古来風体抄についてもほとんど誰も疑わない。
あのような完全な形の歌論がいきなりできた、
そう信じているらしい。
そうではない。
捏造でもなければいきなり完成したのでもない。
どうしてそう両極端に考えようとするのか。
最初に原初的なものが生まれ、不完全なものが次第に完成されていったのに決まっているではないか。
しかし人間はどうしてもそういう過渡的で曖昧な状態というのを認識しにくい。
あったかなかったかの二元論で片付けてしまいがちなのだ。
そして後世の人が必ず最初からきちんと完成されてましたとさかのぼって説明しようとする。
よせばいいのに適当に証拠を捏造する。
そしてもっと後世の人がそれは実は捏造でしたといいだす。
実は何もなかったんだ、と言い出す。
どっちもどっちだ。
時代が古かろうと新しかろうと、どうしてもそんなふうにゼロか一かという議論をしたがるのだ。

議論とはそうしたものなのだろう。
創造説とはそうしたものだ。
あるとき急に世界は作られた。
或いは大昔から今のとおりに存在した。
神が作った。
開祖様が決めた。
温泉は弘法大師が見つけた。いや、役行者がみつけた。

そんなわけはない。
進化論というものが受け入れられたのはごく最近になってからだ。
状況証拠の積み重ねによってはじめて、
人間の思考や直感に基づかず、
おそらくこのへんであったろうということが、
結論づけられるようになってきたのだ。

安本美典だって神武天皇が実在したと主張しているわけではない。
神武天皇以後の天皇がみな実在していたとして、
その頃の在位期間の平均は十年くらいだと仮定できるから、
神武天皇が即位したのはこのくらいの時だっただろうと言っているだけである。
で神話の通りに天孫というのが続いたのなら天照大神はこのくらいの時代にいたことになるだろう。そう言っているだけだ。
そういう状況証拠的、統計学的なアプローチしかできない。
或いは考古学的な事実を積み重ねていくしかない。
それでいいのである。

和歌や歌論はそういう議論に比べるとはるかに遅れている。
戦前の佐佐木信綱でだいたい終わっている。
戦後だと丸谷才一と大野晋くらい。
ほとんど議論されないから話が全然古いままで止まってる。

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