古典とポストモダン

ポストモダンって何だってことを少し調べているのだが、
普通は古典、モダン、ポストモダンという三者の対立で言われることが多い。
モダンは常に今このとき、現代であり、モダンはアンチ古典として現れてくる。
モダンはその時代時代の現代において常に古典を否定する。
ところが現代が過ぎて次の時代になると、その一つ前のモダンは古典に組み込まれて、
古典の一部となり、新しいモダンができてくる。

まあこういう考え方自体がアウフヘーベンであって、一つの予定調和であって、輪廻なわけよね。
永遠に同じことが繰り返される。
そしてそこから解脱したいな、永遠にモダンが古典に組み込まれていく過程から解脱したいな、
という考え方が「ポストモダン」だという人がいて、
それはそれでまた一つ新たな「ポストモダン」の定義を与えただけなんじゃないかと思うんだが、
それを「ポストモダン」と呼ぶかどうかはともかくとして、まあ一つの考え方としてありかもしれない。
古典-モダン-ポストモダンという一直線の時間軸なのであれば、ポストモダンはモダンとともに古典に組み込まれざるを得ない。
その時間軸の外側にあるべき理論がポストモダンであると。
その時間軸から外れたところに何があるのか。
作家と鑑賞者の双方向性とか参加型の芸術とかなのか。
矛盾や偶然性を吹くんだ芸術なのか。
それらも一つのソリューションかもしれない。
いずれにしても私にとって関心があるところはそういうことではない。

「なぜいまなお古典を愛好するのか。」「古典が何でそんなに面白いのか。」
「なぜモダンやポストモダンではなく、古典愛好家がこんなに多いのか」という問いは面白い。
普通の人が神社仏閣巡りや百人一首が好きなのは、おそらくそれが単に古いから、昔からあるから、
長い歴史の中で淘汰されて残ったものだから価値がある、そう思うからだろう。
則ち、古典は評価が確定されていて安心感があるけれど、
モダンやポストモダンなどはほんとか嘘かまだはっきりしないから安心して好きになることができない、
というわけなのだ。

ところで私が古典が好きなのは逆説的になるが、モダンやポストモダンに絶望したからだ。
なぜモダンやポストモダン(例えば現代短歌など)がダメなのかといえば、それは現代における古典の解釈が間違っているからだ。
だから本来の古典というものを再発見し再構築しなくてはならない。
我々が普段古典だと思っているものは単にいろんな人の手垢がついただけのものであり、
本来の意味から大きくずれてしまっている。
そしてステレオタイプとなり偶像となって、永遠の過去、永遠の真実のようになってしまっているから、
それを壊すところから始めなくてはならない。
つまり私にとっていわゆる古典もモダンもポストモダンもどれも気に入らないから、
まずは大もとの古典をどうにかしようというのが私のスタンスだ。

繰り返しになるが、現代短歌が何でダメかと言えば明治以降の短歌がダメだからだ。
明治の短歌がダメなのは江戸時代や室町時代の和歌がダメだからである。
ならば鎌倉時代、平安時代までさかのぼるとどうか。
ここらへんまでくるとなるほどこれがこういう風に解釈されてしまったためにこんなことになっているのかってことがおぼろげにわかる。
それで代々おかしなことが積み重なって現代に至っているわけで、それらをすべて矯正してやっと現代短歌を攻撃できる。
歌学というものが藤原定家で一つの完成を見たのはまず間違いない。
それでまあ定家については少し勉強して本も書かせてもらったが、
定家についてはまだ書き足さなくてはならないことが少しある。

消極的なコンサバティブと積極的なコンサバティブがあるだろう。
たとえば保守的な人は毎年お歳暮を贈り、年賀状を書く。
しかしちょっと調べればみんながみんな年賀状を書くなんてのはせいぜい明治までしかさかのぼれない。
そんなものは伝統でもなんでもないからやめてしまえというのが積極的コンサバティブ。ウルトラコンサバティブ。
古いかどうか古典かどうか保守かどうかなんてことはきちんと歴史的に立証されねばならない。
ある時代に照らせば古典と言えるが、別の時代だとそうはいえなかったりする。
ある史観では古典でもその史観自体が間違っていることもある。

そう、まさに、古典とか歴史というものは極めて不安定で不確かなものなのだ。
だから私はわざわざ古典をやっている。誰もがいじくりもてあそべるものに私は興味を持ったりしない。