宗武と在満と馬淵

修身の教科書には「松坂の一夜」というのがあって、戦前は、賀茂真淵と本居宣長は理想的な師弟関係ということにされていた。
賀茂真淵は、本居宣長の師だというので、やはり権威付けされた。

田安宗武もまた賀茂真淵を師としたので、戦前の権威付けの中で批判しにくいされにくい位置に居たわけだ。
本居宣長と田安宗武は、共通点を探す方が難しいくらいなのだが。

それで、田安宗武の死後、「天降言」が遺臣等によって編まれ、さらにそれが「悠然院様御詠草」にまとめられた。
ちらと読ませてもらったが、そんなに分量のあるものではない。
最初の辺りに秀歌らしきものがまとめてあり、後は時系列の詠草のようだが、まさに「詠草」と言うのにふさわしいレベルだと思う。

窪田空穂は田安宗武を西行にたとえたというが、窪田空穂はほんとうに西行がわかっていたのか。

> 山里はまだ消えやらぬ雪のうちにうぐひすのみぞ春を知らする

> 山里に春や遅くもたちにけむむらむら残る去年のしら雪

> 五月雨の空なつかしくたちばなの匂ひをさそふ軒の夕かぜ

> 千代ふべき君がかざしのためとてやさかり久しきにはの白菊

> うすくこく色づくにはのもみぢばはしぐれもことに心あるらし

> こと草はうつろひかはる庭のおもに秋をぞ残すしらぎくの花

などはまあまあだ。
ただ、少しオリジナリティがあるようにも見えるが、よく見ると典型の範疇に収まっていて、すごくすごいわけではない。
田安宗武という人がほんとにまっとうな歌人であったならば、万葉調の歌以外にも、
これらの比較的典雅な歌も、生涯にもう少し残っていてもよかろう。
というか、残ってないとおかしい。
まっとうな歌人ならばそのくらいは詠みわけられるし、
理屈として詠みわけできるくらい理解しているはずだからだ。

宗武は吉宗の次男で家重の弟、宗武、家重ともに側室の子であるから、
どちらというのでもなかったが、家光の時に家督相続でもめたから、文武に秀でた宗武でなく、
長男の家重を将軍にしたのだろう。
家重の名は家康の一字を採っているが宗武、宗尹は、吉宗の一字を採っている。
吉宗が宗武をどのくらい気に入っていたか、宗武がどのくらい文芸の才能があったのか、
わかりにくいが、しかし、上に挙げた歌にしても、数がごく少ないということは、
いくらでも疑うことができる。
つまり何かのはずみで将軍にもなる人であるから、周りの学者たちが徹底的に、
少なくとも初心の頃は、添削するだろう。もともと大した歌ではなくとも、うまく添削すれば良い歌になるかもしれん。
で、一見、天衣無縫だが、割と整っているというのは、実はそうした事情ではなかろうかと、つまり師との合作の疑いもあるかと、
思ってしまうのである。

宗武が二十代後半になると万葉調の歌をどんどん詠み始めるのだが、
なぜいきなりそんな歌を詠み始めたか。
わけがわからない。
師の荷田在満は当時としてはごく普通の芸術至上主義者で新古今的な人、つまり、二条派の人だった。
しかし宗武がだんだん自分のやりたいようにやり始め、
在満とは違う方向へ突っ走りたくなったのかもしれない。
もしかするとその時期からすでに賀茂真淵の影響下にあったのかもしれない。

賀茂真淵は京都で荷田春満(在満の叔父にあたり、在満は春満の養子になる)に学び、
春満が死去すると江戸に移って歌を教え始める。1736年くらいだ。
宗武が万葉調の歌を読み始めたのは、在満との論争が起きた1742年くらいからだ。
宗武は在満の養父春満の門人である馬淵とは何らかの形で接触があったに違いない。
春満は父吉宗の臣下でもあった。

宗武は在満的耽美的世界に閉塞感を感じていたのだろう。
武士による武士の歌が詠んでみたい。そこで、馬淵から学んで、万葉調の歌を詠み始めたのではなかろうか。

そもそも万葉調の歌というのは実朝の頃からあり、後鳥羽院や定家も、初心者は真似るべきではないが、
だんだんわかってきたら万葉集も学ぶべきだ、などと言っている。
万葉調の歌を詠んだから特段珍しいわけではない。
が、しだいに、武士も和歌を詠むようになり、尊氏のころはそれほど顕著ではなかったが、
やがて公家とはまったく違う武士らしい歌というものがだんだん芽生えてきて、
宗武において一気に開花した。
というのは、宗武は、誰に憚ることもなく歌を詠めたはずであり、
それが多少珍妙でも、誰も批判できなかった。
馬淵はむしろそれを褒めたのにちがいない。
そうするとそういうふうな歌が東国にはあってもいいじゃないかとか、
いや、新しくて良いではないかなどという話になり、
幕末維新、明治以降になるとますます影響力を持つようになったのではなかろうか。

で、実朝や尊氏などはまったく公家文化に浸りきったところで和歌を詠んでいる。
実朝は万葉、尊氏は新古今という違いはあるが。
それはそれで、あやうく体裁を保っている。
が、宗武の歌というのは、はなはだしく常軌を逸している。

> 洲崎辺に漕ぎ出でて見れば安房の山の雲居なしつつ遥けく見ゆも

> 真帆ひきて寄せ来る船に月照れり楽しくぞあらむその舟人は

なんというか、人麻呂とか赤人とか素戔嗚尊などの歌がごちゃまぜになっていて、
まるで神話時代のコスプレか何かを見ているようだ。
或いは万葉時代のテーマパークというか。
テーマパークやコスプレがなぜいかんかという人もいるかもしれんが。
現代人にとって神話時代や万葉時代というのは所詮ファンタジーとしてしか体験できないものだから、
積極的にファンタジー化してしまえばよい、という発想。
しかし、それは私は好かん。

後鳥羽院が

> まだしきほどに万葉集みたるおりは、百首の歌なかば万葉集の詞よまれ、源氏等のものがたり見たる頃は、またそのようになるを、
よくよく心得て詠むべきなり。

などと言っているが、まさに宗武はその通りだと思う。
そして誰も諫めるものとてなく、死後、詠草まで一切合切が出版されてしまった。
そういうことではないかと思うのだが。

なんというか、万葉調の勉強をしましたと言って、それをそのまま出すのではなく、長い和歌の時間軸の上で、
違和感のないように、自分なりにアレンジして出さなくてはならんのではないかと思うのよね。
定家や俊成や西行や後鳥羽院は、巧まずに(いや、もちろん巧んだとは思うが)できたかしれんが、
そうでなければ手の内が丸見えの手品みたいに面白くないんじゃないのか。

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