兼明親王
> 小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり、心も得でまかりすぎて又の日、山吹の心得ざりしよし言ひにおこせて侍りける返りに言ひつかはしける
> 七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき
「道灌」(落語)では「あやしき」が「かなしき」になっている。
あやし、とはこの場合見苦しい、みっともない、お恥ずかしい、心苦しい、申し訳ない、と言った意味ではなかろうか。
山吹の枝を出したというのは、謎かけのようなものだっただろう。
太田道灌のほうの話では、和歌の教養がない、ということになっているようだが、
三代集ならともかくとして、こんなマイナーな後拾遺集の歌まで覚えるのが室町時代の関東で要求される教養だったとは思えない。
普通の歌人ですらしらなかっただろうと思う。できの悪い作り話としか言いようがない。
太田道灌について江戸時代に捏造された伝説は所詮この程度のものだが、江戸っ子たちには受けがよかったのだろう。
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