白石と家宣

白石は家宣将軍就任当時五百石の旗本だったそうだ。
町奉行の遠山金四郎とちょうど同じ知行だ。
低くもないが高くもない。
旗本だから将軍お目見えはできるが、老中らが執務するご用部屋には入ることができない。
つまり将軍の家臣として直接執務することはできない。
側用人間部詮房は一万石だから大名だ。
後に五万石。譜代で五万石ということは老中クラスということになる。
家宣から間部を通して白石に下命があった、ということだろう。
家宣と白石は、甲府時代はもちろん直接面会をしていたはずであり、
また、綱吉の養子となって江戸城に入った五年間も、白石とじかに会えたのだろうが、
綱吉が死んで家宣が将軍になってしまうと、そう簡単には、少なくとも形式的には会えなくなった、ということだろう。
いやいや、たぶん、白石が職務上正規の手続きを経るにはそのような形式を踏む必要があったが、
白石は家宣が将軍になった後も、直接相談に乗っていた、と考えるべきだろう。

白石はしかし、官位は筑後守従五位下であるから、殿上人であり、御所に昇殿が許されている。
決して低くない。藩主か大名クラスだろう。
浅野内匠頭と同じくらいだ。
つまりは、天皇や朝鮮通信使などの接待の仕事の都合そうなっているのだと思われる。
贈正四位というのは明治に入ってからのことらしい。

元猿楽師の間部ですら五万石の大名になったのに白石は千石の旗本止まり。
何かおかしい。おそらくは白石の希望だったのだろう。

家宣就任時に48才、白石は53才、当時としては、十分に高齢だったと言える。
わざわざ将軍になった後に読史余論などの講釈をしたはずがない。
甲府時代、家宣三十代頃におこなった講義を、家宣が将軍になったあとに清書したということであろう。

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