治天2

いろいろ検索してみたが、平家物語には出てこない。
吾妻鏡にも出てこない。
玉葉はデジタルデータが(一部しか)ないので検索できない。

源平盛衰記には何ヶ所か出てくる。

> (後白河)法皇は百王七十七代の帝、鳥羽院第三の御子雅仁親王とぞ申しし。治天僅に三年也。忽に御位をすべらせまし/\ける。

これはつまり後白河天皇の治世(在位)がわずか三年だったという意味であり、上皇とか法皇の意味はない。
また以仁王から頼朝への令旨に

> 未至即位、而清盛入道、以一旦冥怪、令治天下、誇非分権威、

などとあるがこれはつまり以仁王が未だ即位してないうちに清盛が勝手に政治を行った、と読める、たぶん当たってると思うがよくわからん。

> 我与皇恩、以東北武勢、何不治天下哉、

これは以仁王の皇恩と関東・北陸の武力を合わせればどうして天下を治めないことがあろうか、と読める。
治承四年の冬、坂東に何者かの落書ありとて、

> 此叛逆絶古今、前代未聞之処、若称院宣、若号令旨、恣下行之、何王之治天、何院之宣旨哉、皆是自由之漏宣也、

院宣と称し、または令旨と号し、誰の治世と言い、どの院の宣旨なのか、これみな自由勝手に宣旨を出している、と読める。
他にも枚挙にいとまないが、どれもただ単に「治世」「天下を治める」という意味に使ってあるだけで、
院政とかいわゆる「治天の君」という意味に使われているのではない。

愚管抄に出てくるのは二ヶ所のみ。

> 黄帝求仏道避位如脱云々。
國王ノ治天下ノ年ヲ取コトハ。受禅ノ年ヲ弃テ次年ヨリ取ナリ。踰年法ナリ。

中国古代の話。

> 雄略ナド王孫モツヅカズ。又子孫ヲモトメナドシテ。ソノノチ仏法ワタリナドシテ。
國王バカリハ治天下相応シガタクテ。
聖徳太子東宮ニハ立ナガラ。推古天皇女帝ニテ卅六年ヲサメヲハシマシテ。

推古天皇の時代には天皇だけでは天下を治められないので聖徳太子が摂政したという話。

やはり院政とかいわゆる「治天の君」という意味に使われているのではない。
まだ確実ではないが、
承久の乱以前の、後白河法皇の時代までは、
「治天」は単に「治世」「在位」という一般的な意味に、また、
「治天下」は単に天下を治める、特に天皇に即位する、在位している、
という一般的な意味に使われている。
幼帝に代わって天下を治める(つまり事実上の家督相続者、院政)というある特定の用例はない。
「治天下」を武士政権の「傀儡」という意味に使った例は太平記にはある(承久の乱以後の、後鳥羽上皇の時代)。
しかし、必ずしも「院政」を意味しない。
単に武家にとって天皇よりは上皇が傀儡になりやすかった、或いは他に適当な人がいなかったということだろう。
なので、「治天の君」を「武家がその都合によって天皇に擁立しようとする幼少の皇族の父または母」と言った方がわかりやすいのではないか。
上皇でないケースすらあるわけだし、またその方がずっと緊急避難的かつ実際的である。
子供が天皇になってしまえば、その父親は太上天皇を追号されて、
律令的には天皇と同等な法的効力を持つ
。つまり、院宣を出すことができる。
子供が幼すぎて統治能力がなくともその父親を通して正当な「律令政治」を行うことができる、というわけだ。
ともかく天皇の子でも孫でもまだ幼児でも良いから連れてきて、即位させて、
その親を「治天」と称して、院宣を出させる
ことで権力を正当化できる。
実にえげつない。

もっとも典型的な用法としては、
後堀河天皇に対する後高倉院・守貞親王(承久の乱の戦後処理として、北条義時が)と、
後光厳天皇に対する広義門院・西園寺寧子(北朝再建のため、足利義詮が)
の二例であろう。
この頃には天皇でも皇后でもないのに、天皇の父母であるがゆえに「~院」とか「~門院」という人たちが居る。
紛らわしい。
皇后や門院は皇族とは限らないが、院は親王か元天皇である。

広義門院の場合は単なる皇太后なので律令的にはどうなんだろうか。
しかし、以仁王など親王が令旨を出しただけで天下が乱れることもあったわけだし、
どうでもよいのかもしれない。
ま、ともかく、太上天皇が天皇とほぼ同格の権限を持つことを利用して、
後白河法皇までは天皇家(皇族)がそのシステムを外戚(具体的には藤原氏)の干渉を排除するために利用しようとしたのだが、
後には武家にとって都合の良い政治システムに変容してしまった、ということだろう。
そもそも天皇と上皇と最高権力が二つあって、
それぞれ軍事力を動員する正統性(律令政治的には宣旨を出す権限)を持っていれば当然保元の乱のような軍事衝突が起こる。
当然の帰結。世界史的必然。

信長が自ら治天の君になろうとした、などという言い方に至っては、もう何がなんだかわけわからん。

北条氏も足利氏もそうとうな権威と権力を持っていたが、天皇家に取って代わることはしなかった。
ものすごく姑息な手段を使っても王朝を存続させた。
もし完全に天皇家と独立した政権を立てようとしたら、皇族と称する人たちが全国で令旨を乱発して、
「皇軍」が全国に群がり起こって収拾つかなくなる。
敵側に大義名分を与えることを避けたのだろう。
また、律令制に相当する法律体系を自前で用意しないといけない。
それもまた当時としては非現実的だったのかもしれない。

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