定家私撰集

すでに定家の私撰集と百人一首の異同を調べている人がいて驚く。
[秀歌体大略](http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/100i/tairyaku.html)、
[近代秀歌](http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/100i/kindai_s.html)、
[秀歌大体](http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/100i/daitai.html)、
[八代集秀逸](http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/100i/hatidai_s.html)。

これらを見比べてみると、定家の趣味がよくわかる。天智天皇の

> 秋の田のかりほの廬のとまをあらみ我が衣手は露にぬれつつ

は四つすべてに採られている。定家はよほどこの歌が好きらしい。
うーん。まあ、良くはないけど悪くもない歌。
明月記にも「天智天皇から」と書くくらいだからそうとう好き。
これはもう定家の趣味だから仕方ないとしか言いようがないと思う。
持統天皇の

> 春過ぎて夏きにけらししろたへの衣ほすてふあまのかぐ山

は二つに採られている。
光孝天皇の

> きみがため春の野にいでてわかなつむ我が衣手に雪は降りつつ

も二つ採られている。
これらは天皇が詠んだ古歌として、定家のお気に入りだった、ということがわかる。

柿本人麻呂

> 足引の山鳥のをのしだり尾のながながし夜を独りかもねむ

四つ全部に入っている。
なぜか知らんがこれが相当好きらしい。

紀友則

> ひさかたのひかりのどけきはるの日にしづ心なく花のちるらん

小野小町

> 花の色はうつりにけりな徒に我身世にふるながめせしまに

坂上是則

> 朝ぼらけ有明の月とみるまでに吉野のさとに降れる白雪

在原行平

> 立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今かへり来ん

これらはそれぞれ三つ。やはり好きなのだと思う。

百人一首の中で一度も出てきてない歌というのが、興味ぶかい。

陽成院

> つくばねの峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりける

源融

> 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに

藤原定方

> 名にしおはば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな

藤原兼輔

> みかの原わきて流るる泉河いつ見きとてか恋しかるらむ

源宗干

> 山里は冬ぞ寂しさまさりける人めも草もかれぬと思へば

藤原興風

> 誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに

平兼盛

> 忍ぶれど色に出にけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで

壬生忠見

> 恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひ初めしか

藤原敦忠

> あひ見ての後の心にくらぶれば昔は物も思はざりけり

藤原朝忠

> 逢ふ事の絶えてしなくは中々に人をも身をも恨みざらまし

藤原義孝

> 君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひぬるかな

藤原実方

> かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを

藤原道綱母

> 嘆きつつひとりぬる夜の明くるまはいかに久しきものとかはしる

藤原公任

> 滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ

紫式部

> めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月影

大弐三位

> 有馬山いなのささ原風吹けばいでそよ人を忘れやはする

赤染衛門

> やすらはでねなまし物をさよ更けてかたぶくまでの月を見しかな

清少納言

> 夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ

藤原定頼

> 朝ぼらけ宇治の川ぎり絶えだえにあらはれわたる瀬々の網代木

周防内侍

> 春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなくたたむ名こそ惜しけれ

三条院

> 心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな

能因

> 嵐吹く三室の山の紅葉ばは龍田の川の錦なりけり

大江匡房‎

> 高砂の尾上の桜咲きにけりとやまの霞たたずもあらなむ

藤原忠通

> 和田の原漕ぎ出てみればひさかたの雲ゐにまがふ沖つ白波

藤原顕輔

> 秋風にたなびく雲の絶え間よりもれいづる月のかげのさやけさ

待賢門院堀河

> 長からむ心も知らず黒髪の乱れてけさは物をこそ思へ

徳大寺実定

> ほととぎす鳴きつるかたをながむればただ有明の月ぞ残れる

道因

> 思ひわびさても命はある物をうきにたへぬは涙なりけり

俊恵

> よもすがら物思ふころは明けやらぬ閨のひまさへつれなかりけり

皇嘉門院別当

> 難波江の葦のかりねのひとよゆゑ身をつくしてや恋わたるべき

式子内親王

> 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする

殷富門院大輔

> 見せばやな雄島のあまの袖だにもぬれにぞぬれし色はかはらず

源実朝

> 世の中は常にもがもななぎさ漕ぐあまのをぶねの綱手かなしも

慈円

> おほけなくうき世の民におほふかな我が立つ杣に墨染めの袖

飛鳥井雅経

> み吉野の山の秋風さよ更けて故郷寒く衣うつなり

西園寺公経

> 花さそふ嵐の庭の雪ならでふり行くものは我が身なりけり

藤原定家

> こぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くやもしほの身もこがれつつ

藤原家隆

> 風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける

後鳥羽院

> 人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は

順徳院

> 百敷や古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり

まず、疑惑の源融は定家私撰集には一つも採られていない。
たぶん定家は源融には全然興味がない。

陽成天皇の歌が採られてないことには素直に喝采したい。

驚いたことに公任や能因を定家はあまり高く評価してなかったようだ。
赤染衛門もあんまり評価してない。
藤原興風もなぜかない。

明月記に出てくる飛鳥井雅経は定家の私撰集には全然出てこない。
これはどうしたことか。
式子内親王や慈円もあまり評価してない。つまらないと思ったか、それとも余りに身近すぎるからか。
さらに実朝はまったく出てこない。
定家は実朝を新勅撰集には採ったが秀歌に挙げるつもりはなかったのではないか。
実朝が歌人として有名になったのはもう少しあとだったのではないか。
飛鳥井雅経が出ないのも似たような理由か。

待賢門院堀河も定家と同時代の人だと思うが、あまり評価してない。

紫式部、清少納言も私撰集には出てくるが百人一首の歌とは違う。
百人一首に大弐三位や紫式部や清少納言や小式部などがわざわざ入っているのも後世の人の趣味な感じがする。

あの有名な、平兼盛と壬生忠見の歌合の歌も抜けている。
私撰集にも歌は出てこない。
やはり定家の趣味ではないのだろう。

定家自身は私撰集には出てこないが、私家集ではないから自分らの歌は採らなかった、
と解釈できなくもない。
父俊成は出てくる。

定家の趣味は明らかに反映されている。
だが、定家が選んだとしても誰か他の人の好みを取り入れているだろう。
やはり最初は、百首という整った形ではなかったのではないか。
他の私撰集ではそんなことはやってない。

もし私が小倉百人一首を偽造するなら、定家の私撰集の中に出てくる歌を百首選んだと思うが、
そういう傾向はまったくみられない。
かなり自由に、自分の趣味で(笑)選んでいるように思える。
後鳥羽院と順徳院を入れたということは、藤原為家が作ったというのはあり得ることだ。
それがいつの間にか定家自身で選んだことになったのかもしれない。
で、為家が選んだことにしても全然悪くないのに、おかしなことをしたものである。

なぜすでにこれだけ多くの私撰集があるのに、そこへさらに、定家選とは言いがたいような、
小倉百人一首が現れねばならなかったのか。
そしてなぜ小倉百人一首だけがこれほどまでに有名になったのか。
要は、百人一首という分かりよい形態が、伝授好きな後世の歌人たちに好まれたのだろう。
そしてそれは定家が選んだということにしなくてはならなかった。
定家が選んだという箔付けが必要だったのだ。

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