百人一首への招待

この本には私が疑問に思ったことについてほぼすべてが書いてある。
つまり百人一首の成立過程で、
現在分かっている事実のほぼすべてが網羅されていると言えると思う。

それで読んでみて、結局確かなことは、

1. 定家の日記『明月記』には、天智天皇から飛鳥井雅経・藤原家隆までの歌を障子色紙に書いた、としか書いてない。それが百首あったかとか、その歌がどんなだったかは不明。
1. 最も古い『百首秀歌』の写本は冷泉家に伝わるもので、鎌倉末期までさかのぼることができるらしい。
1. 小倉色紙は東常縁が伝授したと言っているのだが、東常縁の古今伝授というものがそもそも虚偽である以上は、小倉色紙もまた贋作である可能性が極めて高い。

ということだ。
東常縁を含めて、
定家の子孫や一派は『明月記』を読んでいたはずであり、
定家が選んだ小倉色紙というものが、もし現存していなかったとしたら、
その復元もしくは贋作を試みたであろう。
それを百首とまとまりの良い形にしたのは、おそらく、
鎌倉末期の二条派と京極派が正統をあらそい、不毛な歌学論争を行い、
故に棒にもはしにもかからない歌論を大量生産していた頃であろう。

つまりやはり小倉百人一首は定家の選ではないということを疑ってみなくてはならないということだ。

定家が選んだかどうかということは、
定家が選んだ私選集と、
定家一人で選んだ勅撰集である新勅撰集の選び方と比較してみないとわからんだろうと思う。
そうすればかなりの精度で小倉百人一首が定家によるのか、
或いは定家の選の原型をある程度とどめているのか、
それとも全くの贋作かがわかるはずだ。
ものすごく大変な作業だが。

Visited 6 times, 1 visit(s) today

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA