「是」は難しい。
漢和辞典を見ると、「是」は「これ」「この」という指示代名詞であると書いてある。または「ただす」という意味だと。
しかし中日辞典では、たしかに書き言葉として「是日(この日)」という使い方もあるにはある。
たとえば李白の詩に「疑是地上霜」というのがある。
また杜牧「無人知是荔枝來」とあり、伊達政宗に「不楽是如何」などがあって、これらはいずれも「これ」と訳すことができる。
「ただしい」「ただす」という意味では「是古非今」という例が挙げられているが、これもマイナーである。
これはほとんど例がない。
「是」は主に「である」という意味に使われる。
いわゆる英語の be動詞にあたる。
我是日本人
とか。あるいは、
他不是老師
とか。あるいは、
誰是友
とか。このように人称代名詞 + 是 + 補語、という場合が一般的、使って間違いない。
しかし思うに、「我不是日本人」を「我非日本人」と言ってはならないのか。いいのか。よく分からない。
或いは「我是日本人」を「我日本人」と言ってはいけないのか。あるいはありなのか。これもよくわからない。
良寛の詩に「我詩非是詩」とあるが、これは明らかに文法的に間違っているだろう。
「不是」とは言っても、「非是」と言う言い方はしない、と中日辞典には書いてある。
たぶん「我が詩はこれ詩にあらず」と読ませたいのだろうが、
「我詩不是詩」と書いて「我が詩は詩ではない」と解釈させるのが無難だ。
毛沢東の詩に「人間正道是滄桑」とある。
「世の中のうつりかわりは激しいものだ」という意味になる。これも be動詞的。
「疑是地上霜」も「月光是地上霜」というように be動詞的にも解釈可。
「江上客不是故郷人」「西北是融州」などというのもある。
思うに、「是」を漢詩で「これ」とか「この」という意味に使うのはさけた方がよい。
というか、そういうふうに解釈しないことが多い。
「是」を「A is B」の意味に、「誰是」を「who is X」の意味に、「不是」を「A is not B」の意味に使うのは良い。
「非」はあまり使われない。使わない方がよい。「非」を使うくらいなら「不是」を使った方がよい。
「非」には咎めるような意味合いが込められているのだろう。陶淵明の「富貴非我願」、くらいか。
これも「富貴不是我願」と書いて特に問題はあるまい。
王安石の「遥知不是雪」も、明らかに、「是は雪ではない」ではなく単に「雪ではない」と解すべき。
これを「遥知非雪」とすると、なんだか雪であることが悪いことのように思えるのだろう。