和歌データベースで「さみたれのころ」で検索かけて驚いたのだが、486件もある。
極めて好んで用いられたフレーズなのだ。
> 下草ははずゑばかりになりにけり浮田の森の五月雨の頃 藤原俊成
> 降りそめていくかになりぬ鈴香川八十瀬も知らぬ五月雨の頃 藤原俊成
> 小山田にひくしめ縄のうちはへて朽ちやしぬらむ五月雨の頃 九条良経
> 玉ぼこやかよふ直路(ただぢ)も河と見て渡らぬ中の五月雨の頃 藤原定家
> ほととぎす雲ゐのよそに過ぎぬなり晴れぬ思ひの五月雨の頃 後鳥羽天皇
> なつかりのあしのまろやのけぶりだに立つ空もなき五月雨の頃 九条教実
> ほととぎす聞けども飽かず橘の花散る里の五月雨の頃 源実朝
> みつしほのからかの島に玉藻刈るあままもみえぬ五月雨の頃 飛鳥井雅経
> 難波江やあまのたく縄燃えわびて煙に湿る五月雨の頃 後鳥羽天皇
> なかなかにしほ汲みたゆむあ人の袖や干すらむ五月雨の頃 藤原家隆
> 都だに寂しかりしを雲はれぬ吉野の奥の五月雨の頃 後醍醐天皇
「五月雨の頃」をこうして年代順に並べてみようとするとなかなか難しい。
ただ、一番最初にこのフレーズを使ったのはおそらく俊成だろう。
驚いたことに定家も詠んでいる。
後鳥羽院の「ほととぎす」は新古今で、当時実朝は十歳そこらだから、
実朝の「ほととぎす」は後鳥羽院を真似たものに違いない。
「難波江の」は遠島百首なので、新古今よりも承久の乱よりも後だ。
家隆は長寿なので「なかなかに」がいつ詠まれたのかよくわからんが、
家隆は隠岐に流された後鳥羽院と親しかったし、
後鳥羽院は、
> 墨染めの袖の氷に春立ちてありしにもあらぬ眺めをぞする
> しほ風に心もいとど乱れあしのほに出でて泣けどとふ人もなし
などと言った歌も詠んでいるので、
もしかすると家隆の歌は後鳥羽院のことを詠んだのではなかろうかと、
思われるのである。
いずれにせよ俊成が最初に流行らせたものではあるが、
後世「五月雨の頃」が後鳥羽院を暗示するフレーズになったのは間違いあるまい。
後醍醐天皇ももちろんそれを知った上であのような歌を残したのだ。
しかし、こうして見ても、俊成が非常になめらかでわかりやすい歌なのに対して、
定家はひねくり回して屈折した歌であるし、
実朝は若者らしい習作であるし、
家隆は直球真ん中な歌であるし、
後鳥羽院は後鳥羽院らしく帝王調で、
後醍醐天皇は後鳥羽院とはまた違った意味で帝王調で、
じつにありありと個性が出ていて面白いなと思う。