> 今でもよく憶えてゐる。われわれ松浦先生の門下で作つてゐた紅葉会では、よくいくらか冗談半分に「何々の恋」とか「寄する恋」、例へば「虫に寄する恋」とか「花に寄する恋」とかいふ題で詠ませる習慣があつた。深窓の処女といへども歌の練習にこれを作つたのである。後の世になると事実と空想の境がはつきりしなくなつて、これをしも真実の告白と思はれてはたまらない。
> 日本の文学は不幸な歴史をもつてゐて、事実応用するような場合のない人にまで「嗜み」として和歌を作らせ、お茶、花、琴などと一列にして、歌も少しは教へてありますなどといつてお嫁にやる時の条件にしたりした。そのため、本当はどこの恋だつたのかと談判されると、閉口するやうな「待つ恋」だの、「待ちて会はざる恋」だのを、平気で若い娘さんも書いてゐたのである。これが日本の文学の一つの大きな歴史であつたことに注意しなければならない。
> かういふフィクションの歌をいちばん詠んでゐるのが坊さんであるといふのも興味あることである。江戸時代にも、室町時代にも頓阿とか兼好などといふ歌僧がゐて秀歌を残してゐる。頓阿は門人を集め「草庵集」といふのを出してゐるが、その中にもちろん恋の歌がずつと出てゐる。面白くないことにかけては、これくらゐ有名な面白くない歌集はないが、半折の本で誰でももつてゐた。
> 大体、足利時代から江戸時代の初期にかけての和歌は、みなかういふやうな安らかなものであつた。今ではあのころの歌を悪くいふが、当時は人数がずつと少なく詠む者は珍重せられてゐたので、あれでも何か一節あるやうに思はれた。「ああも詠める」といふ手本にはなつたのである。これが「類題集」といふものが出来たもとであつた。題をたくさん集め、作例を下へ集めたのが類題集で、これは大変な仕事であつた。手紙を書いても歌がなくては求婚にならないとか、そのまた返歌を書くなど、どうしても男女ともに歌を詠まねばならぬ時代であつたから、誰でも「恨む恋」とか「待つ恋」の練習をするため、類題集は必要であつた。「草庵集」はこの類題集の一番早いもので、前に記した秋元安民の「青藍集」まできてゐるのである。
> この類題集を見ると、恋歌の変化とか、恋歌の目的の変化がよく分る。松浦先生は非常に堅苦しい方であつたから、わざと恋歌などは出さなかつたが、それでも酒などの出た時の当座の題に、何々の恋といふやうな題を出した。人によつてはそれに力を入れて、いくらか興奮させる点を利用して、深窓の娘さんにまで作らせる例もあつたのである。
> 新しい人たちが、古風な歌を月並だといつて馬鹿にするのも、つまりは歌の必要が一地方にゐた一人、二人の職業歌人とか詩人とか以外の、素人にもあり、一通り嗜みとして題詠を練習したことからきてゐるのである。
大塚英志は柳田国男のことを「自然主義文学の成立に深く関わり、そのくせ、そのあとは生涯にわたって自然主義文学を批判し続けた天の邪鬼な人物」と評しているのだが、私が見る限りにおいて、柳田国男はごく普通の桂園派の歌人として生まれ育っているので、決してもともと「自然主義文学」畑の人ではない。桂園派の歌人が自然主義文学の人であるはずがない。
松浦先生というのは松浦辰男(1843~1909)という人で、「最後の桂園派歌人」と言われているそうだが、桂園派は大正時代までは普通にいたし、柳田国男はどこにもそんなふうには紹介されてないようだが、明らかに桂園派の歌人の一人なので、少なくとも桂園派の歌人は彼が死ぬ1962年まではいたのである。
ある意味私も桂園派の歌人と言えなくはないので、現代でも桂園派の歌人はいるのである。
もしかしたら私も「最後の桂園派歌人」と言われることになるかもしれないが、
まさか私で終わりなんてことはあるまい。
世の中の、現代歌人らはみな、明星とか正岡子規らによって桂園派は駆逐されてしまったことにしたいらしい。
私はその風潮に断固反対するし、抵抗していく。
松浦辰男の紅葉会には柳田国男と、彼の実兄の井上通泰、田山花袋、他には、
太田玉茗、宮崎湖処子、櫻井俊行、土持綱安らがいたという。
それで「いくらか冗談半分に」とか「酒などの出た時の当座の題」などとあるように、明治の頃になると桂園派でも普通は題詠で恋の歌などは詠まなくなっていた。それは高崎正風の『歌ものがたり』などを見てもわかることである。単に松浦辰男独りが固い人だったわけではない。
江戸時代の堂上和歌ならばともかく、香川景樹などは単なる題詠に過ぎない恋歌などは詠んでないはずだ。しかるに景樹の弟子らにはまだ題詠というものの需要があったから、仕方なく景樹も芸事としての題詠を弟子たちに教えることもあっただろう。
こういう馬鹿げたフィクションの恋歌を流行らせたのは明らかに藤原定家である。
それについては『虚構の歌人』にも書いた通りなのだが、
定家の二条家の血筋が途絶えて坊さんが二条派というものを継承しだすとなおさらこの虚構の恋歌というものをこじらせるようになった。
江戸初期に後水尾院、松永貞徳、細川幽斎らが比較的まともな恋歌を詠んだが、
その後はもうからきしダメになってしまった。
というのも定家があまりにも完璧な嘘の恋歌の技法を編み出し、それを頓阿が体系化してしまったからだ。
まさに「日本の文学」の「不幸な歴史」である。
> 「写生文」以前の文学は架空の「私」を作るジャンルとしてあった
と大塚英志は締めくくるのだが、
江戸時代までの日本文学がすべてそうだと思われるのはたいへん困る。
定家より前は架空ではなかったし、またその後も架空の文学に抵抗した人たちはたくさんいたのだし。
また、与謝野晶子の歌にしても、もともと題詠の恋歌という膨大な蓄積があって、
それが天真爛漫な彼女によって解放されることによって初めて生まれ得たものである。
ありとあらゆる形の恋歌のパターンが江戸時代までに分類され体系化され、準備されていたことの意味は大きい。
ところで草庵集は類題集ではなくて頓阿の私家集であるはずだ。
単なる勘違いであろうか。
或いは草庵集を類題集代わりに用いたりしたのだろうか。
宣長は類題集の例として『題林愚抄』を挙げている(『うひやまふみ』)。