新田次郎の「新田義貞」をさらに読んでいるが、あまり気持ちの良い話ではない。
いちいち作者が解説をしているのもいらいらするし、
太平記が元々小説だから、自分も小説家として同じような解釈はしたくない、
などとどうでも良いことを書いている。
千早城がなぜ落ちなかったという理由の第一に、寄せ手にやる気がなかったから、
というのがあるのだが、これもやはりおかしい。
たとえば同時期の戦闘では、笠置城が落ちて、後醍醐天皇は捕らえられて、大塔宮護良親王は落ち延びて、
吉野山金峰山寺にたてこもるが、やはり激戦の末あえなく落城している。
それからさらに高野山に匿われ潜伏することになる。
またそれより先、北条高時が得宗の時代に蝦夷の反乱が起きていて、やはり鎮圧されている。
従って当時の鎌倉幕府の御家人どもがまるでやる気がなくてそれで小さな山城一つ、一年近くも落とせなかった、
と結論付けるのはやはりおかしいだろ。
護良親王は素人同然だったから負けた、
しかし、楠木正成は、功名第一で利己的で猪突猛進な関東武者を翻弄するような、
ある種の才能があったと考えるのが自然ではないか。
まあしかし、天皇か親王であれば、戦は素人で、
ちょっと攻めればすぐ落ちる、
功績もわかりやすい。
しかし、田舎侍の山城を落としたところで、
ほんとに報償があるかわからんし、
万一負ければ大損だし、
と思えば戦意は衰えるかもしれんわな。
しかしそこが楠木正成のねらい目で、
だんだんに幕府を切り崩し、離反する勢力が出てくれば目的は達したわけだから。
楠木正成があっさり湊川の戦いで戦死するのは不思議で、
南朝挽回の機会はその後何度もあったと思うのだが、
まあよくわからん。
楠木正成の戦術は常に劇場的な効果をねらったものだから、
一番劇的に死ねるタイミングだったから、
つまり生き延びるより死ぬ方が効果が高いと思ったから、死んだのではないかとさえ思えるよな。