増鏡を頭から読み始めたのだが、
> 見渡せば やまもとかすむ 水無瀬川 ゆふべは秋と なにおもひけむ
これだが、
水無瀬離宮を建てた記念に、その障子絵にふさわしい歌を、何ヶ月も推敲してこしらえたもの、
典型的な屏風歌であって、当座の実景を詠んだのでないのは間違いあるまい。
すべて屏風歌というものは、実景ではない。
当座に詠んだ歌をのちに屏風歌に採用した、という例は私の知る限り無い。
つまり、屏風歌、障子歌というのは、新築祝いにあらかじめ発注される歌であって、
建てた後に詠んだり、すでにできた歌を採用するということは、
原則なかったということだと思う。ただし小倉色紙に関しては少し事情が違う。
これには古歌が含まれていた。
もしかすると古歌を色紙に書いて障子に貼るというのは小倉色紙以来なのかもしれない。
この離宮は、久我通親が養女で土御門天皇の実母である在子の御所として寄進したもののように思われるが、
通親は1202年に死んでおり、
代わりに九条良経(というより後鳥羽院自身)が1205年に水無瀬離宮で歌合を主催して、
上の歌が成ったものである。
しかしその良経も翌年には死んでしまう。
さて、嵯峨中院には定家染筆の小倉色紙形が障子に貼られていた。
それは後嵯峨院の時代に亀山殿の一部となったはずだ。
亀山殿は西園寺実氏が後嵯峨院に寄進したもので間違いない(それ以外あり得ない)。
定家は増鏡の時代にはすでに非常に高名であり、増鏡の中でも何度も引用されているのにもかかわらず、
かつ後嵯峨院が何度も亀山殿で歌合を行っているのにもかかわらず、
増鏡にもとはずがたりにも嵯峨中院、小倉色紙の話は一切でてこない。
おそらく、小倉色紙は、嵯峨中院が亀山殿に建てかえられたときにすでに失われたのだろう。
増鏡が書かれたのは建武の新政当時のことと思われる。
が頓阿の時代にすでに知られていた小倉色紙とか、すでに存在していた小倉百人一首、百人秀歌などというものも、
増鏡には出てこない。
これまた推測だが、頓阿は、小倉色紙に関するなんらかの写本を入手し、
それをもとに彼が小倉色紙を再構成したのではないだろうか。
だからこの時代頓阿以外の歌人は小倉色紙を知らなかった。