新田次郎

新田次郎著「新田義貞」上下巻を図書館から借りてくる。
いちいち取材旅行しているのがなんとなく、経費で旅費落としているんだろうなあと思わせる。

稲村ヶ崎の解釈はずいぶんくどい、しかし、それが正解だとも思えない。
できるだけ科学的に史実に忠実に記述しようとしたあとがあるが、
そんなことをしてどれほどの意味があるのだろうか。
太平記は確かに作り話臭い。
作り話臭さを解消するために天文学的に分析をしてみる。
しかしそれだけでは単に新解釈を加えたにすぎないだろう。

新田次郎としては、
一ノ谷の断崖を馬で駆け下りた義経のように、あるいは平忠常の乱のとき源頼信が浅瀬を馬で渡ったときのように、
稲村ヶ崎も奇襲であったと解釈したいようだ。
私も最初はそうかと思ったが、
実際には、
六波羅が落ちて関東の武士がこぞって倒幕軍に合流した結果、
鎌倉側がとうとう支えきれなくなって、
たまたま稲村ヶ崎が突破された、
と考えるのが自然ではなかろうかと思う。
幕府に反抗したのはもはや足利尊氏や新田義貞だけではなかったということだろう。
新田義貞が挙兵してわずか15日で鎌倉幕府が滅んだのは、それだけ、
倒幕の機運が満ちていたからだと言える。

また新田次郎は、金剛山が落ちなかったのは、楠木正成が特に有能だったからではなく、
寄せ手にやる気がなかったからだという。
果たしてこの解釈もどうだろうか。

ところで、wikipediaなど読んでいると、
一ノ谷にはひよどり越えのような絶壁はなかったと書いてあり、
また一ノ谷の別働隊は義経ではなくて多田行綱だったという説もあるようだ。
多田行綱は、平家物語では清盛に鹿ヶ谷の陰謀を密告した人物となっているがそのような事実は疑わしいなどとも書いてあり、
どうも摂津源氏の子孫らが行綱に同情的な記述をしているようにも思える。

そのように歴史的に正しいか正しくないかという観点で軍記物語を読んでもおもしろくないのであり、
太平記は太平記のままに読まなくてはつまらんのであって、
史実は脚注に書くなりしてもらえば良いのであり、
戦後民主主義作家の脚色の方がよほどうっとうしいと言う気もする。

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