光の君へ

私はNHKの大河ドラマを見る趣味はないのだが、今回は仕方なく最初から見始めた。

いきなり藤原道兼が紫式部の母親を殺すという展開にはびっくりした。花山天皇の性格設定にもかなり疑問を感じた。

私もフィクションを書くのだけど、歴史に残ってないことはなんでもフィクションにしてよいという考え方は、間違ってはないのだが、ぎりぎりまで考証をして、どうしてもわからないところに補助線をひいて、補助線も引けないところには大胆にフィクションを使う、というのならばまだわかる。

最初からおもしろおかしいように、あるいはわかりよいように、フィクションにしてしまうのは感心しない。

寛和の変のとき道長は20才、右兵衛権佐。三男坊で、文官としての出世をあきらめて武官として出世することを考えていたと思う。では武官として出世するには。そのため源頼信、藤原保昌、平維衡、平致頼ら、道長四天王の若者らとつるんで、自らの武士団を作っていた。おそらくそれは右近衛大将だった父兼家から受けた教育によるものだったはずだ。兼家はきっと清和源氏の将来性に気付いていたと思う。いやというよりも話は逆で、将来伸びる清和源氏に目をつけたから、兼家、道長は天下をとれたのだと思う。

寛和の変で内裏と粟田口を封鎖し、花山天皇が帰ってこれないようにしたのは兼家の指図を受けた道長の役割だった可能性が高い。また父兼家は源頼信の兄源頼光を従えていた。つまり、兼家道長父子は清和源氏嫡流の武力を掌握していたので、兵を速やかに動かし、あのようなクーデターを起こすことができたのだ、と考えるのが自然だと思う。

私だったら道長を野心家の武家の棟梁、昭和の青年将校のような人間として描くだろうと思う。あんなふうなぼんやりとした三男坊にはしない。

大鏡にも競べ弓という逸話が載っているが、道長は普段から武芸を鍛錬した、めちゃめちゃ武闘派の体育会系な人だったと思う。そういう腕白で腕力に訴えようとする人は藤原氏の中に当時、道長以外にはいなかったのだと思う。

あと、あの道長の姉、藤原詮子が妙に理想主義者に描かれているのが気になる。当時の藤原氏は一人残らず、男も女もみんな腹黒い極悪人だった。詮子と道長だけ善人に、兼家や道兼を悪人のように描き分けるのは私の感性からかなり遠い。なんでそんな勧善懲悪的なストーリーにしたがるのかな。だから大河ドラマは嫌いなんだよ。

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