装飾

岡本太郎は『日本の伝統』で

装飾性と芸術の関係は大へん複雑ですが、芸術が本質においてはたんなる装飾の反対物であることは確かでしょう。真の芸術は装飾性をおびることはできますが、けっして純粋の装飾ではなく、それを越えたものでなければならない。

装飾的絵画では、意がみちてそれを越えたばあいはよい。しかし一つまちがえば平板なデコレーションに堕し、無内容な非芸術におちいってしまう危険性をいつもはらんでいる

などと言っている。しかしながら岸田劉生は『想像と装飾の美』において

美術というものは元来人間の想像の華(はな)である。その根本は装飾の意志本能にある。美術とは世界の装飾にあるともいえる。美は外界にはない、人間の心の衷(うち)にある。それが外界の形象をかりて表われると自然の美となりその表現が写実となる。それが外界の形をかりずにすなおにじかに内からうねり出て来たものが、装飾美術になる。

と言っている。ここでまず注意せねばならぬのは、岸田劉生は美術における写実と装飾を対比させているのに対して、岡本太郎は、美術の本質は装飾を超えたところにあるべきだ、と主張しているところだ。岡本太郎は写実と装飾の間の緊張関係などというもの、つまり写実などというものには何の関心もないように思える。

岸田劉生は洋画も描き、自ら日本画も描いてみて、日本画で写実を追求するのは無意味である、日本画の本質は装飾にある、美術とは世界を装飾することであり、装飾とは人の心の中にあるものだと言っている。尾形光琳や岸田劉生の境地に至れば、装飾もまた芸術であるということについて、岡本太郎は反対するわけではあるまい。

岡本太郎は「デーモニッシュな緊迫感こそ芸術の内容」であるといっている。それはそうであろう。伝統美術にもデーモニッシュな緊迫感は必要だ。世の中には伝統美術をただ継承し墨守し、「単なる装飾」「平板なデコレーション」にしてしまう人が多い傾向がある、それはそうとして、伝統美術が本来、悪魔的な何かを欠いているわけではない。装飾的でない写実的な絵画であろうと、抽象画であろうと、現代美術であろうと、前衛芸術であろうと、意が満ちておらず、デーモニッシュな緊迫感を欠いておれば、平板なデコレーションに堕し、無内容な非芸術におちいってしまうのは同じことではないか。そこを分けるのは伝統と前衛の違いではないはずだ。世の中には無内容で非芸術な現代アートだっていくらでもある(LEDでただピカピカ光るだけのインスタレーションとか、都庁なんかに投影したプロジェクションマッピングとか)。伝統芸術以上にデーモニッシュな現代アートを見つけるほうがむしろ難しいほどではあるまいか。

岸田劉生のアートは過去との連続性でできている。一方で岡本太郎は過去を切り捨て、過去に価値を見ないことでそこからアートというものを定義付けようと企んでいるように見える。明らかに岸田劉生のほうが無理がなく自然であり、岡本太郎のほうは強引で、決めつけで、いたるところで論理が破綻しているように見える。

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