相変わらず岡本太郎を読んでる。
岡本太郎は伝統は過去のものではなく現代のものだと言っている。確かにその通り。過去の、死んだものではなく、その継承者や文化、生活とともに in vivo に保存されたものでなくてはならない。しかし、続けて言うには、
「伝統」は、もっぱら封建モラル、閉鎖的な職人ギルド制の中で、むしろ因襲的に捉えられて来ました。今日でもほとんど、アカデミックな権威の側の、地位をまもる自己防衛の道具になって、保守的な役割を果たしています。
そうした不毛なペダンチズムに対する憤りから、岡本太郎は『日本の伝統』を書いたのだという。「伝統」と言っても明治後半に作られた新造語に過ぎず、「内容も明治官僚によって急ごしらえされた」「文部省がバックアップして権威になると」「無批判に、ウムを言わさず国民に押し付けてしまう」「新しい日本の血肉に決定的な爪あとを立ててはいない」「大層に担ぎあげればあげるほど、かえって新鮮さを失い、新しい世代とは無縁になりつつある」「学者、芸術家、文化人、すべてが官僚的雰囲気の中で安住している」、要するに、東京大学文学部の亀井勝一郎、竹山道雄なんかが嫌で嫌でたまらないんだろうなってことはよくわかった。私が佐々木信綱に抱く感情に近いものがある(佐々木信綱には私が好きな歌もあるが、考え方で相容れないところも多い)。
まあよろしい。しかし
絵描きには浮世絵や雪舟よりも、ギリシャ・ローマの西洋系の伝統の方が、現実の関心になっている。
などとくると、はて、それは単に、あなたの感想ですよね、としか言いようがなくなってくる。浮世絵や、明治に入ってからの錦絵などにも、面白いものはいくらでもあるではないか。もちろん明治の錦絵や、もっと後の川瀬巴水なんかは西洋画の影響を受けたものではあるのだが。
源氏物語だとか(中略)新古今だとか俳諧だとか(中略)それよりもスタンダール、ヴァレリー、ドストエフスキー、サルトルでも、カフカでも、フォークナーでも構わない。多少のインテリなら、若い日、むしろそういうものに夢中になり、魂が開かれ、(中略)音楽でも、ベートーヴェンやショパンよりも第何世常磐津文学兵衛の方がぴんとくる、なんていう若者は珍しい
などというに至っては、それってただの西洋かぶれですよね?としか言いようがない。スタンダールも私は読んでみたが長すぎて展開が遅すぎてとても読めなかったんだが、岡本太郎は読んだことがあるのだろうか。サルトルなんてばかばかしくて読む気もおきない。三遊亭円生が落語の中で常磐津なんかをうたったりするが、常磐津がすごく好きなわけじゃないが、ああいうふうに歌えたらきっと気持ちが良いだろうなとは思う。
岡本太郎の視界には、杜甫や李白、史記、平家物語や吾妻鑑や太平記、日本外史、三国志演義、西遊記、水滸伝、紅楼夢のようなものはまったく入ってこないのだろう。彼に見えているものは伝統そのものではなく、伝統を掲げてふんぞり返っている官僚や学者、虎の威を借りる狐らの姿なのだ。トゥキディデスやクセノフォンやアリアノス、イブン・バトゥータも見えてはいるまい。
岡本太郎は、どこか書きすぎるところがある。突っ走り過ぎるところがある。面白いことを言ってるけれども、明治政府が作り出しそこに乗っかった権威主義的アカデミズムが嫌い過ぎて、そこへ自分自身の偏見と無知が加わって、いたるところで論理がねじ曲がり破綻しており、勢い、明治以前の文芸を否定し西洋を礼賛している、ように見える。しかしながらしょせん彼は言論の人ではない。評論家ではない。画家であり芸術家であるから、多少おかしなことを言っても、あーあの人は芸術家だからと見逃されているだけだ。
私もつい先日文学というものを書いたが、私が感じている近代文学のいかがわしさというものを、岡本太郎も感じているのだと思う。