新学異見

佐佐木信綱編「日本歌学大系」第7、8巻を借りてくる。
契沖から大隈言道まで、江戸期の歌論を要領よく収録してくれている便利な本。
そのうちのとりあえずは景樹「新学異見」をざっと読んでみる。

「新学異見」というか景樹の歌論というものは、紀貫之を崇拝して、古今集を理想とするものと一般には説かれているのだが、
読んでみたところ、そんなファナティックな論調はどこにも見られない。
ただ単に真淵の「新学(にひまなび)」の引用箇所のそれぞれに対して反論を試みているだけのものであり、
特に古今集が良いとか、紀貫之の論が優れているなどという主張をしているのではない。
面白いのは、真淵が実朝をほめているところを、景樹がけなしているところで、正岡子規と真っ向から意見が対立しているのが面白い。

にひまなびに

> (万葉集には良い歌も悪い歌も混ざっているが) これをよくとれるは鎌倉の大まうち君(実朝)なり。その歌どもを多く見て思へ。

とあるのを(以下一部省略)、

> 按ずるに、歌はおのが思ひを尽くすのほかなければ、何を模(カタ)とし、何を学ばむ。

歌は自分の思いを尽くす以外のことはなく、何かを規範としたり、何かを学ぶということはない。

> また鎌倉の右府の歌は、こころざしある人たえて見るべきものにあらず。いはんこれにならふべけむや。

歌に志す人は、実朝の歌は決して見てはならない。まして真似してはならない。
そもそも古歌を尊ぶのは、それが真心から出ていて、人情や世態の隠れる隈もないからだ。

> 且つ、かたはら己が詠嘆するも、古人の偽りなきにならはんがためぞ。

自分が古風な歌を詠むのは古人の偽りの無さにならうためである。

> しかるに右府の歌の如く、ことごとく古調を踏襲し、古言を割裂したらんには、或る人は情をいつはり世を欺くの作なりといやしむべし。

要するに、実朝の歌は万葉調をわざとらしくまねたものであって、古人にはあった誠実さがなく、世の中を欺こうとするもので、卑しいものだ、というのである。同じことは近世に万葉調を尊んだ歌人たち全員に言えるだろう。

思うに、少なくとも景樹にとって、古今集時代に完成した古典文法、あるいは文語文法と言った方がぴったりくるかもしれないが、
その文語文法というのは、口語文法と相容れないものではなくて、互いに補完しあいながら共存すべきものだっただろう。
景樹にとっては文語文法とは今現在実際に使われている言語、つまり現代語の一種だっただろう。
必ずしも無理矢理いにしえにまねたというつもりはなかった。
景樹が、「大御世の平言」と言っているのはこの文語文法のことであろうと思う。
何しろ江戸時代にはもう膨大な類題和歌集のたぐいがあって、平言のサンプルは無限に蓄積されていたと言って良い。
この膨大な古典文献こそが「平言」たるゆえんなのだ。誰もがその意味を理解できるのだから。
景樹が嫌っているのは「聞こえざる」「聞きまどふ」「聞きがたき」「聞きぐるしき」言葉である。
たとえば万葉の言葉など。
景樹にとっては当世の俗語も文語も「聞き惑はぬ」言葉という意味では同じなのだ。

いにしへにはその誠実さだけを学んで、「大御世の平言」によって歌を詠めば良いと言っているのは、
つまり、新古今以来のような、言葉を飾ったり、見もしない仮想世界を歌に詠んだり、
わざと(万葉調などの)古くさい言い回しを使うのでなく、
今日皆が使っている完成された文語文法を使って心に偽りの無い歌を詠めばそれで良いと言っているのである。

心に偽りなく「大御世の平言」を正しく使って歌を詠めば、詞の調べも整って自然と良い歌になるというのが景樹の歌論であって、
紀貫之を崇拝し、古今集を理想とした「詞の調べ」を重んじよなどとは言ってない。
なんでそんなことになってしまったのかは、いろいろ思い当たるふしがありすぎる気もしなくもない。

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