ジブリ

ディズニーチャンネルなど見ていると、
どうしても、なぜジブリはディズニーになれなかったのだろうと考えてしまう。
「もののけ姫」や「千と千尋」を出してた、一番体力のある頃に、
もう少し経営を多角化しておけばよかった。
ディズニーみたいにCGも使い、ゲームも作り、実写も作り、
ジブリチャンネルみたいなものも始めていればよかった。
しかしそうしなかったのは、宮崎駿や高畑勲というワンマンがいたからだろう。

ジブリは「もののけ姫」や「千と千尋」でCGを使いこなしてみせたのにそれを棄てた。
文芸的な、手描きセルアニメにこだわることによって、
ディズニーや他のアニメ制作会社と差別化を図ったつもりだろうが、
自分で自分を縛ってしまったのだ。
CGが使えなければ当然ゲームも作れない。
ゲームというものに対する反感や憎悪を感じる。
子供はぎりぎりアニメはみても良いがゲームは悪だ、そう思っているのに違いない。
だからジブリ美術館のような方向へと走っていった。

時代に逆行して手描きセルアニメばかりやってれば制作コストは増大し、
古典芸能に、伝統芸能みたいになっていくしかない。
そういう文芸部門は残しつつ、新しい部署や新しい人材を育てていけばよかったのだ。
宮崎駿や高畑勲が引退するのを待つまでもなく。
しかし日本の企業は、そういうトップダウンの経営判断が苦手だ。
鈴木敏夫ですらそれができなかった。
日本のゲーム会社がみな過去の成功体験にとらわれて世界企業に育たなかったようなものだ。

ドワンゴはそんなよどんだ日本社会の救世主のようにも見える。
しかしジブリはすでにだいぶ体力を失った。
宮崎駿は老いて、彼以外にはとくにめだった監督がいない。
監督というよりか、原作と脚本が地味すぎる。
一般受けするはずがない。

なぜここまでこじらせなくてはならなかったのか、というのが結果論ではある。
ぎりぎりまで「マーニー」に期待していたのかもしれない。
「マーニー」がこけたせいでやっとジブリのメンバーもあきらめがついて、撤退できたのかもしれない。
まさか監督を一子相伝しようとしたのか(特に血縁という意味ではなく)。
なぜそこまでしてジブリを一色に染めたいのだろう。
なぜそんなにしてまで孤立主義・純血主義なんだろう。
ジブリという会社で作品を作ることとジブリという会社を経営することとは別なはずだ。

和歌の詠み方

[和歌の詠み方に関するメモ](http://trushnote.exblog.jp/23085500/)
というものを読んだ。
なるほど確かによくまとめてある。
だが一方で、これでは結局現代人が歌を詠もうと思って詠めるようにはならんと思う。
頭でっかちになるだけで、今の時代を生きる自分が、どのような歌を詠めばよいのかという指針にならない。
これはどちらかと言えば和歌の詠み方というよりは和歌の鑑賞の仕方というべきだろう。
実際に和歌を詠まない人が古典的な和歌を鑑賞するにあたり、
知っておくべき歌論というのにすぎない。
歌論を知った上で歌人は実際に自分の歌を詠まねばならぬ。

戦後和歌はあまりにも変わってしまった。
現代短歌と古典的な和歌は別物といってよいほど違う。
まず、自分は、現代短歌を詠みたいのか。それとも古典的な和歌を詠みたいのか。
その選択をしなくてはならない。
現代短歌にも良いものはある。
たとえば俵万智を評価しないわけにはいかない。
私も俵万智には大いに影響されたが、しかし、結局はそこから離れた。
現代短歌を詠みたい人は詠めば良い。

で、古典文法に則った古典的和歌を詠みたいのだと覚悟を決めたとしたら、
アララギ派(万葉調)が好きなのか、
それとも桂園派(古今調)が好きなのか、
どちらかを選択しなくてはならない。

和歌とはまず第一にやまと歌である。
古典的な大和言葉で詠むものがやまと歌である。
五七五七七の定型詩を和歌ということはできない。
それは必要条件に過ぎない。
古い言葉を用いて新しい心を詠むのがやまと歌である。
敷島の道である。
和歌を詠むということは、歌道というものは、国学の一部である。
国学を学ぶ気がないのなら最初から和歌など詠まない方がよい。
国学の要素がほとんど完全に欠落しているのが現代短歌である
(左翼は国学が嫌いだ)。
国学を尊重していてもアララギ派には古今調がよくわかってない正岡子規みたいなやつが多いので要注意だ。

では古ければ古いほどよいのかとか、中世や近世の言葉がよいのかというと、
そのどちらもよくない。
古典的な大和言葉が一番充実し厚みがあるのは源氏物語が成立した時代である。
古今と新古今の間だが、どちらかと言えば古今に近い。
韻文も散文もこの源氏物語の時代が一番用例が多く、完成度が高い。
用例が多い、つまり、サンプリング数が多い、ということは非常に重要である。
言語というものは曖昧だが、用例が多ければ、正しい用法を確定できる。
奈良調以前の言語ではそれが難しい。
あまり古すぎる言葉を無造作に使うのは危ない。

我々は古典語の基準をこの平安朝中期に求めるべきである、と私は思う。
この時代にも奈良時代の言葉遣いが残存している。
そのある種のものは不協和音になるので、使わないほうがよい。
奈良時代と平安時代ではすでに母音や子音などが変化しているので、
文法的にも無理のある言葉(特に助詞や助動詞)が少なくない。

私が万葉調を敬遠するのはまず第一にこの平安朝の言葉遣いとの不整合にある。
奈良朝の言葉と平安朝の言葉を完全に分離して操れる人だけが、
つまり、奈良朝の和歌を完全に再現できる人だけが万葉調で歌を詠む資格がある。
しかし万葉調を好む人というのは往々にして見境無くいろんな時代の言葉を混ぜ合わせ、
それだけでは飽き足らず、自分で勝手に新しい言葉を造ったりする。
そのだらしなさ、無節操さが気持ち悪いのだ。
新しい言葉を造ることは凡人には無理である。
なぜ無理かがわからぬから凡人なのだ。

たとえば、助動詞は、
なんでもかんでも「り」を使うのではなく、
状況に応じて「ぬ」「つ」「たり」を使い分けるべきであり、
それが平安朝の大和言葉というものだ。
平安朝の助詞や助動詞をうまく使いこなすということは極めて重要だ。
俳句にはそれがない。というのは、俳句は体言の配列によってできていて、
用言の組み合わせに無頓着だからだ。
正岡子規もそこがよくわかってない。
なんでもかんでも「り」を使うのは例えば文語訳の聖書などがそうだ。
もし「ぬ」「つ」などをうまく使いこなしていたらもっと王朝文学のような訳になっていただろう。

釈教歌などでは古くから漢語も容認されていた。
外来語は絶対和歌に使ってはならない、とは言わない。
しかし普通は使わない。
純血主義というのとも少し違う。
平安朝の口語との相性が悪いからだとしか言いようがない。

では平安朝の言葉を用いて五七五七七の定型で詠めば和歌かと言えばこれも違う。
春夏秋冬花鳥風月を詠めば和歌かと言えばそれも違う。
[情と詞と体](/?p=15694)に書いた通りなので繰り返さないが、
今まで歌に詠まれたことのないような心情を敢えて古い詞で言い表すのが和歌である、
と私は思う。
古い心を古い言葉で歌ったり、
新しい心を新しい言葉で歌うのは和歌ではない(それを現代短歌だと言ってもよい)。
たとえば新しい心を現代語で歌うには私は都々逸が比較的適していると考えている。

平安朝に日常的に使われていた言語に対するリスペクトがなければ和歌は詠めぬ。
赤染衛門の歌が非常に役に立つ。
当時の俗語を使って、極めて俗物的な歌を詠んだのが赤染衛門であるが、
彼女の歌にはまれにたまたま風雅な歌が混じっていた。
ただの偶然だろう。
浪速のおばちゃんでもたまにどきっとするようなうまいことを言うことがあるようなものだ。
少し時代が下るが、俊成や定家は言葉を巧まずにうまい歌を詠む人だった。
参考になる。

現代語で現代の心を詠んだってそれは普通だ。
あえて古語で現代の心を詠むからそれは和歌となるのだ。
そのためには当時の言葉で自然に歌を詠んだ人たちの詠み方にひたすらなじむのがよい。
それが風体というものだ。
ひたすら赤染衛門や西行や俊成の歌を学ぶ。
そのうちふと巧まずにそういう歌が詠めれば完成である。

歌を詠もうと思うと歌は詠めない。
まず何かに心が動かねばならない。
つまりは写生だ。
実体験、実景に基づかない歌はすなわち自分の頭の中から出てきたものであり、
限られた狭い世界から無理矢理こしらえたものであり、たいていつまらない。
外の世界の方がずっと情報量が多くて意外性があり、新しい発見があり、
新しい可能性がある。
心が動いたらそれをなんとかして歌という形に整えてみる。
それが詠歌というものだ。

鎌倉時代や室町時代ともなると、すでに、
みな大和言葉を自然に話すことも、和歌を自然に詠むこともできなくなっていた。
すでに大和言葉は古典語になっていたからだ。
このころの和歌を見るとどれも詠み手の苦心がにじんでいる。
だからこそ、たとえば江戸時代に巧みに古語で歌を詠む人はさすがにひと味違う。
上田秋成などは実に巧みだった。
要するに、国学者でなくては歌は詠めないのであり、
ただ学問好きなのではなく感動することのできる心と表現力がなくては歌は詠めぬ。
本物の国学者だけがその苦心のあとを残さず、
まるで平安時代の庶民が現代にタイムスリップしたかのような自然な和歌が詠めるのである。

日常語から離れて古典語で歌を詠むのは難しい。
美しいと自分が思ってないことを美しいと歌に詠むのは歌では無い。
そんなものはすぐにばれる。
感動の少ない人、というより、感動というものを誤解している人には歌は詠めぬ。
美しいと思ったことをそのまま言葉に表すのではなく、
定型の古典語に翻訳してみるのが和歌だ。

「とある」と「かかる」

「或る」を「と或る」と書く表現がはやっていて、特に、
ラノベのタイトルに唐突に用いられるのがよく見受けられる。
なぜ「ある」と書けばよいところをわざわざ「とある」と書くのかという疑問がわいてくるのだが、
文法的に間違っているとも言い難い。
この違和感をどう説明すればよいか。

調べてみると、太平記に
「とある辻堂に宮を隠し置いて」というのが初出らしい。

も少し調べてみると、「とあれかくあれ」「とまれかくまれ」のような形はもっと古くて、
それが「ともかく」「とかく」のような形で定着する。
「ともかく」の「と」と「とある」の「と」は同じ由来なのだ。
そしてこのような「と」の使い方は万葉集の時代までさかのぼる。
つまりは由緒正しい古語なのである。

「とある日」は不確定の日であろう。
「かくある日」「かかる日」は特定の日であろう。
「とあれかくあれ」ならばそれら全部をひっくるめてすべての場合という意味になる。

「或る」はもともと漢文訓読に由来するという。
この「或る」が「とある」と混同されて広く使われるようになったのかもしれない。
そもそも「或」は「とある」と訓読すべきであったかもしれぬ。

「とある科学」とか「とある魔術」のような言い方が重宝されているのはなぜか。
新しいニュアンスが追加されているのは間違いない。

会話記号

[『山月記』の会話記号](http://ameblo.jp/muridai80/entry-11901836130.html)。

確かに中島敦は句読点やカギ括弧の使い方にかなりのゆらぎがある人で、
私としてはそれに好感を持っている。
言語として意味が通るかぎり作家は出版社や新聞社の慣習や、文部省の指導要領などから自由に、
文章を書くべきである。
作家は型にはめられるべきではなく、また自ら型にはまるべきではない。

> 「おはよう」と言った。

> 「おはよう。」と言った。

には若干のニュアンスの違いがある。
それを誤記だと決めつけられるのは困る。
この例ではわかりにくいかもしれないが、私はカギ括弧の終わりの「。」は原則省かない主義であり、
しかし、「。」を意図的にはぶく場合もあるのだ。
記法が統一してないとか誤記だとか言われても困る(もちろんうっかり間違うこともある)。

間接話法だからカギ括弧はいらず、直接話法だからつけなくてはならない、とかそんなことはどうでもよろしい。

> 次の朝いまだ暗いうちに出発しようとしたところ、駅吏が言うことに、これから先の道に人食い虎が出るゆえ、旅人は白昼でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたがよろしいでしょうと。

カギ括弧を付けたほうが落ち着きがよいのはわかる。
特に「通れない。」で一旦切れているから、全体をカギ括弧でくくったほうが会話の切れ目がわかって親切だ、
という理屈がわからぬでもない。
せめて「通れない、」にしてくれというのも、理屈はわかる。
しかしだ。もし私がいちいちそういうことまで編集者に口出しされたら、そのうちぶち切れるかもしれん。
中には有用な、傾聴に値する、自分では気付かなかった、ありがたく従わせてもらうような指摘もあるだろう。
しかし最終的に、自分の書きたいように書いて発表できなければ意味はない。

小説というものは、往々にしてわざとわからぬように書くものである。
わかるように書くのであればシナリオのト書きのように書くのがよい。
だれが話したかわかるからだが、
しかし、
よく読めば誰の発言かがわかるのが小説というものだ。
よく読んでも誰の発言だかわからないこともあるが、それはその他大勢の脇役が不規則発言をしたと考えてもらいたい。
わからないのにはそれぞれそれなりの意味がある。

たとえば私の書いたものの例でいうと、「エウドキア」の冒頭、

> ある穏やかに晴れた朝、エウドキアは庭先の丸石に腰を下ろし、目の前に広がる故郷の海の砂浜でブルトゥスが波にじゃれているのをぼんやりとながめていた。

としたが、これは何度も何度も書き換えてこの形に落ち着いたのであり、
私としてはこう書かざるを得なかった。
ここではエウドキアが何者かはわからぬ。
もちろん「エウドキア」というタイトルの話だから主人公だということはわかる。
副題やあらすじもつけているからエウドキアが将来ローマの皇帝になることも読者は知っていよう。
だが、ブルトゥスが何者かはわからぬ。
波にじゃれているのだから子供か飼い犬か何かだろうとは予測がつくが、
実際ブルトゥスが何かというのは、ずっと後になってみないとわからない「仕掛け」になっているのだ。
多くのものはこの段階ではぼんやりと、ラフに描かれていて、
次第に細密に描きこまれていくのだ。
それが小説というものだろう。

私の場合は特に、歴史小説の冒頭は、
現代小説のように書くようにしている。
しばらく読んでいくうちに歴史的な小道具を出してきて、
現代ではありえない、過去の、ある場所の出来事であることがわかるようにしている。
なぜかというにあたまっから過去の歴史の話であると思って読んでほしくないからだ。
今自分の身の上におこったことのように感じてほしい。
つまり当時の空気の中に読者を連れ込み没入させたいからだ。
また作者自らも当時の空気の中に浸ってみたいのだ。

源氏物語のように句読点もカギ括弧もなかった時代の文章に、
適当に句読点やカギ括弧やふりがなを付けるのは良いだろう。
しかし近代の小説をいちいちいじくり回すのはやめたほうが良いのじゃないか。
我々が普段目にしている夏目漱石の小説も、おそらく、
新聞に連載されるときに新聞社の都合で手直しされ、
教科書に掲載されるときに出版社の都合で手直しされたものであって、
夏目漱石そのままの文章では無い。
そうやってだれかの不作為の意図によって文章は改編され均質化されていく。
決して良いことではない。
昔の人が書いた油絵を俺ならこう描くと手直ししているようなものであって、
絵画では決して許されないことだ。
文章だから心理的にも技術的にも割と簡単にできてしまう。

労働からの解放

H・G・ウェルズのタイムマシンというSFでは未来の人は働く必要がなくて、
ずっと子供のまま成長せず、遊んで生殖活動だけしていると描かれている。

人類は文明が発展して労働から解放されつつあるのは確かだが、
同時に労働を奪われつつもある。
みなが労働しなくて遊んで暮らせれば良いが、
実際には労働しなければ貧困におちいり遊び暮らすどころではない。
同じ事は産業革命の頃にもあった。

人類が労働から解放されて貴族のように遊んで暮らせるようになるのはいつのころか。
そんな時代が未来にくるのだろうか。
ディストピア?

安積

たまたま郡山に行っていたのだが、郡山と言えば安積(あさか)である。

> 安積山かげさへみゆる山の井の浅き心をわが思はなくに

極めて古い歌である。

> 安積香山 影副所見 山井之 淺心乎 吾念莫國
> 右歌傳云 葛城王遣于陸奥國之時國司祗承緩怠異甚 於時王意不悦怒色顕面 雖設飲饌不肯宴樂 於是有前采女 風流娘子 左手捧觴右手持水撃之王膝而詠此歌 尓乃王意解悦樂飲終日

この葛城王とは橘諸兄のことであるという。
聖武天皇の時代。
ほかにも、古今集に

> みちのくの安積の沼の花かつみ かつみる人に 恋ひやわたらむ

とあるが、これもおそらくかなり古い歌である。
芭蕉の奥の細道で有名。

伊勢物語の

> みちのくの信夫もぢずりたれゆゑに乱れそめにしわれならなくに

これも相当な古歌であろう。
安積が郡山とすれば、信夫(しのぶ)は福島である。

> みちのくの 安達太良真弓 弦はけて 弾かばか人の 我をことなさむ

> みちのくの 安達太良真弓 はじき置きて 反らしめきなば 弦はかめかも

弦は「つら」と言ったらしい。「はく」は弓に弦を「付ける」。
「反る」は「せる」。
安達も信夫も安積もほとんど同じところ。

これらの歌がリアルタイムで現地で詠まれたとすると、
聖武天皇から桓武天皇の頃までであろう。
白河の関の外ではあるが、坂上田村麻呂は多賀城まで征服したのだから、
安積や信夫はすでに前線基地というよりはそれより後方の兵站基地であったろう。
このみちのく征伐に常陸や下野の関東武士が動員されたのは当然あり得ることである。
将軍クラスは大和の人たちであり、和歌くらいは詠めたのに違いない。

上記の歌は本来はえぞみちのくという外征先から大和にもたらされた音信のようなものであっただろう。
光孝天皇によって平安朝に和歌が復活した以後には単に歌枕となってしまい、
実景を詠む人はいなくなってしまった。
いたとしても頼朝くらいだが、
頼朝は自分で白河の関を越えてはいない。

西行は信夫佐藤氏であろうとされている。
佐藤は藤原氏である。
関東や陸奥の藤原氏はみな藤原秀郷の子孫を称するが、
秀郷は下野の人である。
下野を拠点とした藤原氏が朝廷の外征に従って、
白河の関を越えて安達、安積、信夫と勢力を広げていった、
と考えられる。

西行は二度も京都からみちのくに下っているのだが、単なる郷愁であったのか。
それとも何かの仕事か。
二度目は東大寺の大仏が焼けたので平泉に大仏を再建するための金を勧請に行ったのだという。
しかしこのころ安達・安積・信夫は奥州藤原氏の支配であって、
頼朝とは白河の関で対峙し、京都とつながり、義経を匿っていた。
頼朝は藤原氏によって背後をうかがわれていたのである。
結局頼朝と京都は和解し、孤立した奥州は頼朝に討たれてしまう。

西行は奥州藤原氏に連なる人なのだが、
頼朝はよく彼を通したと思う。
西行は明らかに頼朝の敵である。
西行が京都・頼朝連合側の間諜だった可能性もあるかもしれん。

> 美み知ち乃の久く能の 安あ太だ多た良ら末ま由ゆ美み 波は自じ伎き於お伎き弖て 西せ良ら思し
馬め伎き那な婆ば 都つ良ら波は可か馬め可か毛も

弓の弦をはずしてそらしっぱなしにしておくと弦が付けられなくなるよ、
あまりほったらかしておくと、元の仲に戻れないよ、という意味。
安達太良真弓は非常に強い弓であったとされる。
「めかも」は反実仮想だわな。

山家心中集

岩波書店の全集あるいは岩波文庫などでは、
勅撰集は定家の新勅撰集まででそれ以後の歌集がほとんどない。
8代集以降の21代集やら数々の私家集は、確かにおおむね退屈だが読まなくて済むものではない。
特に私は最近、正徹に注目しているのだが、詳しいことはほとんどわからない。
禅宗とも関連がある。
こういう人がいるからうかつに何も大したことのなかった時代では済まされない。

鎌倉後期京極派の玉葉集、風雅集に関しては岩佐美代子氏による精細な研究書があるが、
他はほとんどうち捨てられ、
鎌倉時代や室町時代の和歌などどうでもよいというような状態である。
唯一、角川国歌大観があるのみと言ってよい。

時代がずっと下って江戸後期や幕末の歌人、
たとえば香川景樹や小澤廬庵などは全集に採られているものの、
やはり江戸時代、特に、後水尾天皇や細川幽斎の時代の厚みが無い。

それはそうと「山家心中集」を見てみると、「山家集」とくらべて歌の配置がずいぶん変わっていて、
詞書きも略されている。
「山家集」から誰かが抜き書きし配列し直したものだといってよい。
特に注目すべきは、あの有名な「ねがはくは」の歌がずっと巻頭のほうに移動していて、
「花」が「さくら」特に「やまざくら」としか解釈しないような配置になっているということだ。
これがまあ後世の西行の見方なのだが、
すでに鎌倉期成立の「心中集」においてすでにそのような形になっていた、
もし「山家集」が失われて「心中集」だけが伝わったら、
西行という人はよりわからなくなっていただろう。

西行は多作な人で当時から人気も高く、また自ら人に自詠を披露するのも好きな人だったようだ。
だから歌が残るのは当たり前だが、
「山家集」が自著かというのはあやしい。
かなり不親切な、雑多な寄せ集めのようにも思える。

「明治天皇百首」というようなごく短いものを書こうと思うのだが、
なかなか書けない。難しい。
私は明治天皇御製から和歌を学んだので、
明治天皇を師として私淑したわけで、
その批評をするというのは非常におこがましい気がする。
しかし、私以外の誰が明治天皇の歌の真価を広く知らしめられようかと思うと、
いずれ書かぬわけにはいかないとも思う。
明治天皇の歌を評価するということは、
ありのままの明治天皇と一人の人間として向き合うということだ。
明治大正の歌人たちにはそれが恐れ多くてできなかった。
しかたのないことだ。
天皇の歌を知るということは人としての天皇を知ることだ。
誰かがやらねばならない仕事だとは思わないか。

人気記事の順位で言えば明治39年が一番アクセスされている。
日露戦争が終結した年だ。
なるほどみんなそこが好きなんだなあと思う。

「いただく」と「くださる」

例によって病院で処方箋もらってドラッグストアで薬出てくるのぼーっと待っていたのだが、
店内アナウンスで、最初に
「本日のご来店まことにありがとうございます。」とか
「ご来店いただきましてありがとうございます。」という枕で始まって
「ご来店いただきましてありがとうございました。」でしめている。

で、
竹田恒泰という人が
[問題 次の文の誤りを正しなさい。「ご来店いただき、ありがとうございました。」](https://twitter.com/takenoma/status/487542912381493249)
などと言っているわけだが、正解は
「ご来店くださり、ありがとうございました。」
なのだそうである。
はて。何か変ではないか。

この理屈で言えば、
「ご宿泊いただきありがとうございました。」
「お召し上がりいただきありがとうございました。」
などもダメで、
「ご宿泊くださりありがとうございました。」
「お召し上がりくださりありがとうございました。」
でなくてはならないことになる。

ここでは「お客様にご来店いただいた」
「お客様にご宿泊いただいた」
「お客様にお召し上がりいただいた」ことに対して、
店主や従業員が「ありがとうございました。」とお礼を言っているだけのことであって、
特別問題とは思えない。

「いただく」は「もらう」の謙譲表現、「くださる」は「くれる」の尊敬表現。
「もらう」は動作の主体が自分だから謙譲、
「くれる」の動作の主体は相手だから尊敬になっているにすぎず、

> 客に来てもらう

> 客が来てくれる

のように「に」「が」と助詞が異なり、
それぞれ

> お客様にご来店いただく

> お客様がご来店くださる

となる。

> 客が来る

ならば対応する表現は

> お客様がご来店になる(ご来店なさる)

となるだろう。

では違和感があるのはあとに続く「ありがとうございます」「ありがとうございました」だろうか。

竹田氏は
[嬉しく存じます](https://twitter.com/takenoma/status/487546879983370240)
なら良いといっている。
おそらく主体が店側にあるということが明確になるから良いと言いたいのだろう。
だが、「嬉しく存じます」が良くて「ありがとうございます」がダメな根拠は何か。
「ありがたく存じます」ではどうか。
「ありがたく存じます」と「ありがたく御座います」の違いは何か。
この程度の表現の揺れは時代とともにあるのであり、
文法的に問題がないのであれば許容すべきだ。
センター試験のマークシート問題のひっかけみたいなことにいちいちこだわるべきではない。

「ありがとうございました」となるのは上に書いたように店内アナウンスの都合であり、
やはりこのくらい許容すればいいじゃないか。
間違っているとまでいう必要があろうか。
というか、
「いただく」は謙譲語だから客の動作に言うのはおかしいと反射的に考えているだけのように思える。

話は変わるが「させていただく」は「する」を無理矢理謙譲表現にしたものだが、
気持ち悪い。逆に恩着せがましい。
浄土真宗に由来するとも聞く。
「する」の謙譲表現は単に「いたします」で良いじゃないかと思う。

自殺

すでに誰か指摘していることだと思うが、
夏目漱石の「こころ」では「K」がまず自殺し、次に乃木希典が妻を巻き添えにして殉死という形で自殺し、
最後には「先生」も自殺してしまう。
この小説のテーマが自殺であることは紛れもない事実だ。
なぜ高校の教科書に必ずと言ってよいほどに「こころ」が掲載されているのか。
自殺した作家も多い。
すぐに思いつくだけでも病気を苦にして死んだ芥川龍之介、情死した太宰治。
三島由紀夫も自決という形で自殺したし、
江藤淳も妻を追って自殺した。
他にもいるかもしれないがこのくらい挙げれば十分だろう。

日本は自殺が多い国だが、この特殊な、近代日本文学の影響は当然あるだろうし、
そうした状況で、「こころ」が必ず教科書に採られるというのは異様な気がする。
自殺防止に躍起になる一方で自殺を美化しているような。

小説やテレビドラマでは死、殺人、自殺があふれていて日本人は不感症になっている。
だから別に高校教科書だけ健全でも仕方ない、影響ないと言えばいえるかもしれない。
実際古代ギリシャ悲劇にも死や殺人はつきものだ。
アガメムノーンの娘イーピゲネイアも、神に犠牲として献げられる形で自殺している。

だが、それにしても「こころ」は大した話の盛り上がりもないのに、
「K」「先生」の二人が自殺するというのは異常ではないのか。
高校生の頃は案外読んでもピンとこないものだが、
年をとってから改めて考えてみるとどうにも疑問だ。
少なくとも夏目漱石は日本の高校生全員に読んでもらうためにこれを書いたはずない。
きっとあの世で困っているに違いない。

「こころ」以外にもいくらでも良い小説はある。
菊池寛とか志賀直哉とか吉行淳之介とか安岡章太郎とか。
志賀直哉にしても「城の崎にて」よりかは「清兵衛と瓢箪」とか「小僧の神様」のほうがすっと面白い。なぜ高校生に「城の崎にて」を読ませる必要があるのか。
芥川の「羅生門」にしてもそうだ。
どうも終戦直後の暗い雰囲気をいまだに引きずっている感がある。
個人的には葉山嘉樹が好きだ。「セメント樽の中の手紙」とか。
中島敦にしても「山月記」でなく「名人伝」ではなぜいけないのか。

「こころ」「城の崎にて」が「小僧の神様」「名人伝」に置き換わるだけで国語教育の雰囲気は全然変わってくると思うのだが。

詩人は伊東静雄が良い。「春のいそぎ」とは言わぬ。
「わがひとに与ふる哀歌」「水中花」「そんなに凝視めるな」などをなぜ読ませないのか。
なぜいつもいつも中原中也や宮沢賢治なのか。

みささぎにふるはるの雪
枝透(す)きてあかるき木々に
つもるともえせぬけはひは

なく声のけさはきこえず
まなこ閉ぢ百(もも)ゐむ鳥の
しづかなるはねにかつ消え

ながめゐしわれが想ひに
下草のしめりもかすか
春来むとゆきふるあした

「みささぎにふる」「はるの雪」ではないのだな。
「みささぎに」「ふるはるの雪」なんだな。
七五調かと思わせておいて五七調。
そこがトリッキーなのだが。

そんなに凝視(みつ)めるな わかい友
自然が与える暗示は
いかにそれが光耀にみちてゐようとも
凝視(みつ)めるふかい瞳にはつひに悲しみだ
鳥の飛翔の跡を天空(そら)にさがすな
夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな
手にふるる野花はそれを摘み
花とみづからをささへつつ歩みを運べ
問ひはそのままに答えであり
耐える痛みもすでにひとつの睡眠(ねむり)だ
風がつたへる白い稜石(かどいし)の反射を わかい友
そんなに永く凝視(みつ)めるな
われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち
あゝ 歓びと意志も亦そこにあると知れ

伊東静雄は46才で死んだのか。私が死に損なった年ではないか。はは。
「春のいそぎ」が戦中で「そんなに凝視めるな」が戦後だ、というヒントだけで、
勘の良い人には詩の意味するところがわかるだろう。

それから、俳句や、まして短歌を詠ませるな。
まして自由詩を作らせるな。
代わりに都々逸を詠ませれば良い。あれはもともと口語で歌うもので、
誰でも比較的簡単に作れる。
そうすれば詩とは何か、歌とは何かということがわかるに違いない。

シンクロ率

小説を書けば書くほどにわからなくなっていく。
著者と読者が共感できる話を私は書けないのだろうか。
読者と、せめて50%くらいはシンクロしたい。
100%はまあ無理として(著者しか知らない裏設定などがあるから)80%とか90%くらいは普通にシンクロしたい。

だが現状は10%くらいだと思う。
どうしてこうなってしまうのか。

120%くらい理解してくれる読者がいてくれるとうれしいのだが。
つまり、私が隠しているつもりの裏設定までみやぶり、
私自身も気づいてない私の深層心理までも指摘してくれるような。