文学のレッスン

丸谷才一「文学のレッスン」を読んだ。
丸谷才一はもうなくなってしまったが、ものすごい長寿で、死ぬまで執筆活動をしていた幸運な人だ。
この本もインタビューという形で2007年頃から始めて2010年に出たものだが、
80才をとっくに越えていた。
「文学概論」のようなものというのをうたっているが、
いろんな作家や作品が羅列されているがその一つ一つについて解説しているわけでなはい。
体系的とも言いがたい。
エッセイのたぐいというべきだろう。

短編小説のことをスケッチと言うと書いてある。
私も「川越素描 (a sketch of kawagoe)」というのを書いた。
しかし私の書いたものの中では「川越素描」は一番の長編と言ってよい。
長編だけど普通の長編小説みたいな構成にはなってない。
千一夜物語のようなつもりで書いたもので、その個々の要素は素描にすぎない、
と言いたいわけである。
長編小説というのは今で言えば指輪物語やハリーポッターみたいなのを言うのだろう。
どちらもイギリス人の作家だ。
丸谷才一もフランスは短編、イギリスは長編が発達したと言っている。
なるほどなと思う。
ましかし、フランスでも「レ・ミゼラブル」やスタンダールなんかは長編だわな。
私はたぶん、長編を書こうとしても書けないんだと思う。
書こうとすると「川越素描」や「司書夢譚」のような短編を束ねたようなものになるか、
束ねきれずに「エウドキア」「ロジェール」のような中編小説の集合体のようなものになってしまうだろう。
書こうとしたけど書けなかったというのは一つの成果だと思う。

丸谷才一はモーパッサンは短編(どの作品がとは言ってない。脂肪の塊や女の一生は明らかに短編ではない)、永井荷風の「墨東綺譚」を中編と言っていて、
私にしてみるとどちらも短編のような気がするが、
気分としてはたしかにモーパッサンは短編であり永井荷風は中編の人な気がする。
志賀直哉がスケッチがうまいというのは分かる気がする。
「小僧の神様」「清兵衛と瓢箪」「剃刀」「万暦赤絵」・・・。

p117

> 「太平記」という歴史物語が日本の国運を左右したというのが僕の前々からの説なんだけれども、「太平記」というのは、怨霊がいかに世の中を乱すか、要するに後醍醐天皇や楠木正成の怨霊が怖いという話ですよね。それを読んだ人たち、階層的にいうと一番上の徳川光圀や頼山陽から、「太平記読み」の講釈を聞いた庶民まで、みんなそろって正成は偉いし南朝は尊い、彼らの怨霊は怖いから大事に祀らなくちゃね、そういうイデオロギーを持っていた。

丸谷才一は戦後民主主義の文化人で、太平記とか頼山陽とか徳川光圀とか本居宣長などを徹底的に抹殺しなきゃならないと考えていた一人だ。
むろん現代的な意味において太平記や日本外史や大日本史や古事記伝などはナイーブで脚色されているわけだが、それを言うなら源氏物語だって平家物語だってそうだ。
太平記のせいにして議論を終わらせるのは単なる思考停止にすぎぬ。

南北朝や室町時代は難解だが非常に重要な時代である。
それがわからんから降参しますというのが嫌で全部太平記のせいにする。
太平記に影響を受けたであろう徳川光圀や頼山陽のせいにしようとする。
それではだめだ。
南北朝がわからねば天皇はわからん。
南北朝がわかってる日本人がどれほどいるか。
だから日本人のほとんどは天皇とは何かがわかってない。
天武天皇や天智天皇とか古代の天皇のことをいくら学んでも天皇のことはわからん。
藤原、北条、足利、徳川がどのように天皇を利用してきたかということがわからんと天皇はわからん。
天皇がわからんというのは南北朝がわからんというのとだいたい同じだと私は思う。
太平記のせいにしないでほしい。

対句と対聯

聯という字が我々にほとんどなじみがないように対聯という概念も日本人には希薄だと思う。
対聯は五言排律のような比較的長い漢詩にのみ使われる用語であり、
律詩や絶句くらいしか親しみがない日本人にはよくわからん世界である。

対聯は二句だけでも成立し、中国では今も門の左右に掲げたりする。

八股文の股というのも聯であり、
すなわち八股文とは四つの対聯を胴体とする文章というのに他ならない。
対聯が三つの六股文というのもあり得る。

八股文には頭と尾がついている。五言排律とまったく同型である。
このことについては「帝都春暦」に詳しく書いておいた。
八股文と五言排律のアナロジーに気づいたのが私が初めてだとはとても思えない。
中国の文学会ではすでに定説なのかもしれぬ。

対句というのは二字でも時には一字でも成り立つものだが、
対聯はたいてい五字、さもなければ七字とか八字などである。

このように対聯というものは中国文芸には非常にポピュラーなものだが、
日本文芸ではほとんど発達してないと言って良いと思う。
古今集仮名序の
「人の心を種「よろづの言の葉」とか、
「花に鳴くうぐひす」「水に住むかはづ」とか、
「力をも入れずして天地を動かし」「目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」とか、
「男女のなかをもやはらげ」「猛きもののふの心をもなぐさむ」
は典型的な対句だが、
これはおそらくは真名序の
「託其根於心地」「発其華於詞林」とか
「動天地」「感鬼神」「化人倫」和夫婦」が原型であろうと思われるのである。
当時の人々には文芸を論ずる言葉がなく、漢文を参考にするしかなかったと思う。

しかるに後世になると、
連歌というものが流行りだして、一つの歌が上の句(発句)と下の句(付句)に分かれた。
これはある意味非対称な対聯と呼び得るものであるかもしれない。
さらに発句は三つの句でできているから、
音楽に二拍子と三拍子があるように、
俳句はある種対句を発展させたワルツ形式の句構成であるかもしれない。
そう考えると俳句の意義というものがわかった気がするのである。

日本人は、干支や陰陽五行説のようなものを、外来思想として受け入れつつも、
そういう完全なシンメトリーというものを忌避する傾向があると思う。
七五調のような非対称なものが逆に安定すると考えている。
阿吽の形相なんかも対称の中にも非対称をもたせている。
右近の桜、左近の橘なんかもそうかもしれん。
夫婦岩も非対称だ。

日本人の場合はそれをさらに発展させて、
生け花でいうところの天地人とか真留体などの非対称な三角関係を安定していると考える。
同じことは庭石の配置にも言えるし、俳句の句の配置にも言える。
これは決して完全に等辺な正三角形のようなものを言うのではない。
キリスト教における三位一体説とはよく似ているがまったく別種の発想から来るものだ。
日本人はシンメトリーとかトリニティーというものを意図的に排除する傾向がある。

和歌というものは、近世の日本人好みの非対称三角関係というものにはおさまらぬ。
形も無くぐにゃっとしたものだ。
正岡子規は最後までそれが理解できなかった。

産経購読10年

今となってはもう大昔だが、
[地方紙5紙の社説がソックリ。](/?p=1635)
というのを書いた。
もう10年も前になるわけだ。

私は高校生の頃に朝日が嫌いになり、
大学生の時に読売が嫌いになり
(理由は敢えて秘す。巨人が嫌いとかそんなどうでも良い理由ではない。
朝日以上に心底嫌いだ)、
毎日は好きとか嫌い以前につまらなすぎて読みさえせず、
仕方なく折り込みのチラシや自治体の広報を読むために一番安い東京新聞を読んでいたことがあるのだが、
東京新聞も朝日に劣らず偏っていることを知り、
やむなく高いがまともだと思われた日経新聞を読んでいたことがある。
日経は悪くなかったが、2006年にも書いたようにおかしな記事を書いたので、
もう他に読む新聞がなかったので仕方なく産経新聞を読むようになったのである。

何度も書いているが、田中久三という名前は tanaka0903 の方がさきにできている。
2009年3月からこの名前を使い始めて田中久三はその当て字である。
それ以前は某所で実名でブログを書いてたわけで、
日経読むの辞めましたというのはそのころに書いたわけである。
昔のブログの記事も当たり障りのないやつはサルベージしてある。
当時の日本経済新聞社東京本社編集局総務の小孫茂という人の講演もすでに本家にはないが、
Wayback Machine で読むことができるのでわざわざリンクを張り直して読めるようにしている(笑)。

> 中国や韓国につけいる隙を与えているのも結局は国内マスコミとか有識者連中らが大騒ぎするせい。ほとんどは国内問題、マスコミ問題なんだよね。鯨問題もまた同じ。売国発言する連中が後を絶たぬのはなぜか。悪女の深情けというやつか。一億二千万人の日本世論が毅然と正論を通せばよいだけのことなのだが。

「悪女の深情け」が意味不明だが、
今のネトウヨが言うようなことをすでに言ってるよな。
「国際問題」と思われることのほとんどすべては「国内問題」であり、
日本世論が一枚岩ならば簡単に他国につけいられることはない。
人口400万人のノルウェーが毅然として商業捕鯨をつづけているようにね。

でまあその頃は産経読むのは「右翼」と後ろ指を指される時代だったので、
多少恥ずかしくもあったのだが、
今は産経はずいぶん人気が出てきてまさに「隔世の感」があるわな。
産経は当時から読んでもいらいらする記事がなくて今も特に不満なく読んでいる。

今も紙の新聞をわざわざ読むのは、折り込みチラシや市や県の広報を読むためである。
毎日読むわけでもなく、週に一度くらいたまったのをまとめ読みしている。
ネットでは読み過ごしてた記事を拾ったり、
あるいはネットで話題になった記事を再確認したりしている。

四十而惑五十而未知天命

今年49才で、まさに「四十ニシテ惑ヒ、五十ニシテ未ダ天命を知ラズ」の感が強い。

同じ町、同じ職場にずっと居続けるとその嫌な部分がどんどん見えてきて、
最初良かったと思ったことがつまらなく退屈に感じてしまう。
これはひとつの錯覚であって、転職し転居したらまたいつの間にか煮詰まってしまうのだろう。
私はいつも自分の職場がほんとうにひどいところだと思ってしまうのだが、
ではどこにひどくない職場というものがあるかと考えるときっとどこにもないのだ。
人間関係も制度も組織も必ずどこかに歪みがあって矛盾がある。

たとえば、私自身はパチンコが大嫌いだが、
たまたま渡世の義理で警察庁長官をやらされることになったとしたら、
「警察はパチンコの景品の換金については一切関知してません」
というようなコメントを立場上言わざるを得ないだろう。
法務大臣になってたら人殺しは嫌いでも死刑執行の書類にサインをしなきゃならないだろう。
原子力規制委員会の委員長になってたら、原発は完全に安全とは言えない、
といったような歯切れの悪い発言をしなきゃならないだろう。
そういう公の仕事にすら気持ちの悪い立場というものはあるのだから、
私の仕事が気持ち悪いのは当たり前なのだ。

もし気持ち悪い仕事がしたくなければ世の中とほとんど接点がなくて、
一人でできる仕事をやるべきだが、
一人でできて食っていけるうまい仕事なんてなかなかない。

孔子はどういう気持ちで「四十而不惑五十而知天命」などと言ったのだろうか。
自嘲気味に言ったのか。
本気でそんな気持ちになるとしたらただの老人の自己満足誇大妄想なんじゃないのか。
逆説的な意味で言ったのかも知れない。
「天命を知る」とはもうこれ以上自分の力ではどうにもならないという意味かもしれない。
それはつまりは「未だ天命を知らず」ということではないか。
「六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩」も隠居した老人は若い者の迷惑にならないように、
おとなしくしていようというような諦めの境地かもしれん。

32までは似たような仕事をしていた。
少し方向転換して44くらいまでまた同じようなことをした。
その後また少し方向転換して今にいたる。
もう32頃にやってた仕事はまったくやる気がない。
完全に新しい仕事新しい人生を始めたい気分だ。

だがそれは錯覚なのだ。
今の立場で、今いる場所でできることをそつなくこなしていけば良いだけなのだ。
おそらくそれが最善の策。
それ以上の、それ以外の事をやろうというのが無茶。
私の力量を超えている。

田舎から19で東京へ出てきた。28か32くらいまでに田舎に戻っていれば、
たぶんかなり無難な人生を送れたと思う。
しかし32の頃はまだ東京に未練があった。まだまだやりたいことが残っていた。
49になると身動きがとれぬ。
父母にも迷惑をかけた。
今までさんざんほっつき歩いていて、今更帰っても間抜けな気がする。
でも人間関係でがんじがらめになればなるほど田舎に帰りたい気もしてくる。
もし、働かなくて食っていけるならすぐにもやめて、田舎でのんびり暮らすだろうと思う。

伊東静雄

* [「わがひとに與ふる哀歌」](http://homepage2.nifty.com/onibi/wagahitoiatahuru.html)
* [「夏花」](http://homepage2.nifty.com/onibi/natuhana.html)
* [「春のいそぎ」](http://homepage2.nifty.com/onibi/harunoisogi.html)
* [「反響」以後](http://homepage2.nifty.com/onibi/hankyouigo.html)
* [全詩集補遺](http://homepage2.nifty.com/onibi/siduohoi.html)

詠草

若かりしころに学びしたのしさも よはひとともに消えはてむとす

いつよりかなりはひをかくいとひけむ たのしかりけるほどもありしを

世をはなれ歌のみ詠みて暮らさまし むかし学びしことも忘れて

スペイン

思うに、完全に個人の感想レベルだが、
スペインのワインがうまいのは、普段現地で飲んで消費しているのと同じものを輸出にも回しているからだろう。

ブラジルはブラジル人が好きだからコーヒーを栽培したのではない。
今はブラジル人も好きなのかしれんが、
少なくとも最初のうちは、外国資本を投入するためのプランテーションとしてコーヒー栽培が始まった。
チリも同じなんじゃないか。
現地のチリ人がチリワインを毎日消費しているとは想像できない。
あのやたらと濃い、フルボディのピノノワールなんか飲んでると特にそう思う。
安いワインを大量生産して外貨を獲得するか、
海外資本が搾取しているか、そのどちらかではないのか。

毎日、日常的に、たくさんの人にのまれているワインのほうがうまいワインに違いない。
スペイン、それもバルセロナ地方なんてのは、まさにそんなところではなかろうか。

カリフォルニアワインはアメリカ人の好みなんだろうが、何の癖もなくて、
つまらない。

フランス人だってわざわざ国産の高くてこむつかしいワインを飲んでるはずはないと思う。
輸入物のほうが安ければそっちを飲むのじゃないか。

ワインのうまい店の見分け方だが、
ハウスワイン、グラスワインにもいちいち銘柄を書いているところはうまい。
ハウスワインに複数の銘柄があって選べるところはまず間違いなくうまい。
オーナーがワインを飲み慣れていて自信をもって勧めている証拠だ。
イタリア、スペインなどのワインがまんべんなくそろっているところはうまい。
フランスワインは高いから採算とれるにはかなり値段を高く設定しなきゃいけないはずだ。
そういうのを一つか二つ、
ラインナップに加えてるならともかく、フランスワインメインでそろえているところはたぶん良くない。
コストパフォーマンス的にはありえない。
ドイツワインとかはまずありえない。
それに対してハウスワイン、グラスワインとしか書いてないところはたいていまずい。
たぶん銘柄が一定してないのだろう。
へたすりゃ混ぜてるかもしれない。
オーナーもワインには関心ないのだ。
日本酒ならどんな安酒でも銘柄くらいは教えてくれる。
それさえしない店のワインがうまいわけはないわな。

ブドウの品種ごとに味が違うってことはわかった。
同じ品種だとほとんど違いがないような気がする。

最近コレステロール値があがり、血圧も上がったのは、体重が増えたせいだろうと思う。
要するに食べ過ぎなのだ。
痩せなくてはならない。

小説の書き方

マンガのコマ割りと、動画の絵コンテは違う。
絵コンテは一見四コマ漫画みたいのがずーっと続いているようにみえるわけだが、
同一のカメラでここからここまで連続して撮る、という情報が含まれてなくてはならない。
これをカットと言っている。

カットを集めたのがシーン。
同じ場所同じ時間にカメラを据えて撮った一連の絵がシーン。
アニメだと実写ほどシーンの縛りがないのでシーンを分けないこともあるようだ。

カメラは一つのカットで同じ位置同じ向きに静止しているとは限らず、移動したり、パンしたりする
(細かいことを言えばズームしたりピントを合わせたりそのほかいろんなエフェクトをかけたりするし、
編集でカットをトランジションしたりもするわな)。
マンガのコマ割りにも似たような視線移動の手法はあるかもしれんが、
パンやドリーと言ったものとは別にコマ割りできる。

シナリオだと時系列にセリフとト書きが並ぶ。

まあ私の場合、
ネームを描いてからマンガを描くわけでもないし、
コンテを描いてからCG作ったり映像編集するわけでもないのだが、
マンガや動画は普段から見慣れているわけで、
コマ割りとかカットとかシーンという概念はすでに多くの事例から知ってるわけで、
知らず知らずそれを使って自分も動画や漫画を作っているし、
アニメや映画を見ているときもそれがもともとどんなコンテだったかを想像できなくもないわけだ。

だが、小説の場合はどうか。
自分はどういうふうに小説を書いているのかと言われると、非常にこまる。
うまく説明できない。

頭の中に映像を思い浮かべてそれをそのまま文章にする人もいるかもしれない。
情景描写、特に書き出しの部分などでは、私もそうしているかもしれない。
前景があって中景があって遠景があって、人や建物がどういうふうに配置しているか、とか。
会話のシーンなら、特に言葉では書き表してないが、
たぶん映画にするならこんなふうに交互に役者の顔を切り替えるだろうなとか。
マンガや映画の原作を書く人はたいていそういう書き方をしているのだろう。

しかし小説は必ずしも映像表現ではない。
私の場合なまじ映像表現はやっているから、映像では決して表現できないことを小説では表現してみたい、
などと考えることもある。
逆に、映画にするならこの場面はこんな具合に映像表現してほしいなと考えながら書いたりもする。

小説は簡単に映像に翻訳できない部分と、映像的な部分が自由に混在しているから面白いのだと思うし、
だから自分がどのように小説を書いているのかと言われてもうまく説明できないのだと思う。

普通人は目の前の光景をぼんやりとみている。
気になるものがあれば注視するし、
考え事を始めると周囲の景色も音も消えて完全に観念や記憶の世界に入り込む。
そしてまた何かのきっかけで現実に戻る。
会話があれば演劇にも芝居にもなるが、
小説にはしばしばモノローグすらない。
言語ですらないこともある。
そういう意味では小説のあらわす世界は非常に広いし、定型というものはこれだとさだめにくい。

五感をすべて盛り込むと良い小説になるということもある。
だいたいは視覚を文章化するものだ。
そこに聴覚や味覚や触覚、嗅覚などをまぜるとそれっぽくなる。
確かにそうだ。
だが人間の精神活動はそれだけではない。
感情と理性。
飛躍のある発想と理詰めの推論もぜんぜん違う。

ある人は、あらすじをまず書くかもしれない。
目次案のようなものを書くかもしれない。
私はそれもあまりしない。
だらだら書いていて、いくつかのパーツができてきて、
それを並べ替えたり捨てたり書き足したりする。
やはり何か一つの書き方というものがない。
定型が決まっていれば量産もできるのかもしれないが、
逆に、定型が決まってしまうと書きたくなくなるのかもしれない。
暗中模索しているのが楽しいのだ。

プロットを決めてえいやと書くこともある。
数か月後に新人賞の〆切がある、という場合などにそういう書き方をしたことがある。
というかむしろ最初決めたプロット通りにだいたい書けるようになってきた。
でも、最初のプロットと全然違うほうが面白いこともあると思う。
特に、昔書いた断片を数年後に読み返して、それらの断片をつなぎ合わせると面白い話になることが多い、
と思い始めている。
それはある種、フィクションを偽装した私小説であるかもしれん。
とにかくなんか書き溜めておくと良いのかもしれん。

ありきたりだが、起承転結は、つけるようにしている。
落語にオチがあるようなもので、やはりあったほうがいい。
伏線とかどんでん返しも好きだ。
逆に起承転結もなくオチもない話を読むとそんなのはブログに書いとけと思う。
つまり人に最後まで読ませるためにはそのくらいの仕掛けをしこんでおけということ。
逆にうまいオチがつけられなくて長い間放置していて、急にオチをおもいついて一本にすることもある。

雰囲気とか空気感のためにストーリーと直接関係ないネタを振るのも好きだ。
伏線と見せかけて何の意味もない小ネタとか。
ゲームでいうとシークレットみたいなものか(違うか)。
とにかくざらついたノイズの多いものにしたいといつも思う。
ストーリーに関係ある大筋と伏線だけの話はつまらん。
そういうのはディズニーがやればいい。

私の場合いろんな小説を読んで飽きてしまい、
誰も書かない小説を自分で読んでみたいから書いているところがある。
自分で書いてみてしばらくして読み返すとつまらないので書き直したりする。

定型というのとは違うかもしれんが何かの文学理論で書かれたものはあまり好きではないし、
自分でもやらんと思う。
前衛・実験的な文芸も好きではない。
実験も前衛もある種の定型であって、そこから出てくるものにあまり意外性がないように思う。

自分がどう書くかということに、他人がそれをどう読むかという要素をつけたすと、
もうわけがわからなくなる。
とりあえず自分は自分の書きたいように書くしかない。
他人が読んで読みやすい文章というのは、まあ、ノベライズのようなものだろう。
マンガや映画やドラマのようなものをそのまま小説にしたもの。
マンガや映画やドラマの原作として書いた小説。
そういう小説は、テレビドラマを見させられているようで苦痛だ。
私はドラマが嫌いだからだ。
ドラマはそういう意図で作られてもいる。

ラノベやファンタジーなんかだといきなりキャラ設定や世界観の説明から入るのがある。
てっとりばやくて良いといえば言えるのかもしれない。それが現代風なのだろう。
逆に延々と自然描写が続いてじらすのがある。
意味があるならともかくただの文芸趣味ならやめてほしいし、
それならまだいきなりキャラ設定書かれたほうがましだと思うこともある。

一つ言えることは、何度も書いたことだが、
私が物語の書き方を直接学んだのは「日本外史」だということで、
特に初期の作品にはその傾向が強い。
だんだんそこから離れてきていると思う。
どっちのほうへ離れてきているのかと言われても自分でもよくわからん。

世の中やらせと仕込みが多いってことが良くわかった。
嘘のドキュメンタリーのほうが面白がられるし、取材も楽で、商売にしやすいから、
プロほど、一度そのパターンを覚えてしまうと、つぎつぎに捏造してしまう。
たまたまヒットしてもいつかはスランプに陥る。
給料は毎月もらわなきゃならない。
すると楽をする。ずるをする。ずるしてだましても金になるとわかるとさらにずるをする。
たいていは読むに値しない作品ばかりだ。
つまらないから読まれないとは限らない。
しかし読まれないことには始まらない。

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