男系女系

女帝は奈良時代に圧倒的に多く、
平安遷都してからはしばらく途絶えて、
その次は江戸時代の明正天皇まで時代をくだらなくてはならない。
後水尾天皇が春日局と家光に腹を立ててむりやり明正天皇に譲位したのだから、
やはりかなりイレギュラーな即位だった。

私は思うのだが、
歴史に残ってないだけで、実は推古天皇より昔にもたくさん女帝はいたのではないか。
天照大神から推古天皇の間に一人の女帝もいないと考えるほうが不自然ではないか。
推古天皇より前の皇統というものはそれだけ不確かなものなのだ。
あ、そういえば神功皇后がいたな。
彼女もまた女帝だったはずだ。

天皇はやっぱ男子でしょ、
という話はやはり平安遷都をきっかけにして固定したのだと思う。
桓武天皇がどんな人だったかよくわからないが、
嵯峨天皇ならばよくわかる。
漢風。唐風。これに尽きる。
万事中国の制度に倣って中央集権な国家にする。
女帝なんてありえない。
則天武后の一件がやはり日本の皇位継承ルールにも影響を与えただろう。

女系男系という話も実は持統天皇より以前にはほとんど意識されてなくて、
天皇には男がなっても女がなっても良いとされた時代があって、
それが今から見ると男系に見えるとか、
男系に見えるように皇統が改竄されたとしたほうがすっきりする。

それでまあなぜ男系ということになったかというとそれは全然天皇家古来の家訓というのではなしに、
藤原氏の都合であっただろう。

女帝の息子でも天皇になれるというのでは、
皇統はどんどん分岐していってコントロールがきかない。
一つの有力な貴族だけが天皇の外戚となって皇統をコントロールできる仕組み、
それが男系なのである。
その仕組みは平清盛にも崩せなかった。
清盛は藤原氏がそうしてきたように、
娘を入内させてその皇子が即位するのを待つしかなかった。
しかし清盛の死後、平家は滅亡した。
藤原氏はたくさん皇族の親戚がいて存続した。
ある意味この仕組みは昭和天皇まで残ったのである。

皇統とか皇位継承のルールというものは天皇家主体ではなく、藤原氏、北条氏、
足利氏、徳川氏などの時の実力者の恣意によって決められてきた、
天皇主体の時代にはむしろ皇統というものは案外好い加減だった、
ということは先に[皇統の正統性](/?p=15983)に書いたとおりである。

今の女系男系議論は、そもそもなぜ天皇家は男系となったのか、
という前提にまったく基づいてない。
万世一系天皇家は男系だったから、というほとんど根拠の無い理屈。
或いは持統天皇や推古天皇、舒明天皇などのあまりにも古い時代の例を挙げて、
男系ならば女帝でもいいじゃないかと言う。、
或いは女権論者が欧州の王位継承ルールの話を持ち込んできたりする。
論理的にプアな右翼と同じくらい論理的にプアな左翼が子供の喧嘩をしてる感じだ。

男系でも女系でも実はどっちでもよい。
おそらく考古学的学術的に精査すればそういう結論になるのに違いない。
しかし中世や近世、近代の事例を尊重するならば、
皇位継承のルールをいきなり書き換えようとすれば天下大乱となってきたことを念頭に置くべきだ。

今ホリエモンが皇太子がどうしたという話も実にナンセンスで、
ホリエモンはただのリベラルだがそこにかみついてくる連中の論理がお粗末だ。
リベラルにはリベラルの論理武装というものがあるから、
単に感情的に反論してもなんの意味も無い。
いつかどこかでみたような議論が蒸し返されるだけで何の価値も無い。

歴史的に言えば臣下に殺害された皇子はたくさんいる。
以仁王がそうだし、
護良親王もそうだ。
安徳天皇は違うかもしれない。
皇太子で殺された例はなかったかもしれない。
皇族をなぜ敬わなくてはならないのか、
なぜ敬わなくてもよいのかという問題は、
自明ではない。
皇室を敬うべきであるという論拠は、
皇統が割れて、
皇子らがどんどん戦争に巻き込まれて行き、
どんどん殺されていった南北朝の事例にこそあるのだが、
誰もそこを論点にしようとしない。
護良親王なんてすごく面白い人なのにまるで人気が無い。
おかげで鎌倉宮も参拝客や観光客集めに必死だ。
やはり私が「剣豪親王護良」とかいう小説を書いてみせなきゃダメか。
いやそれでもまだ全然ダメだな。
読者がいないことには。

ああいうことをもう一度繰り返さなくて済むという意味では、あの歴史は実に貴重である。
天皇家の歴史というのはおおむね連続的にきちんと残っているのだから、
すべては歴史に記されていて、
それをまっとうに解釈すれば済むだけなのだが、
そんな議論はめったに見かけない。

深む2

昨日書いたことは少し自信がなくなったので、非公開にした。
改めて書いてみる。

[「秋深む」を認めるかどうか](http://ameblo.jp/muridai80/entry-11876310023.html)

「深む」だが、口語では自動詞の場合「深まる」であり、他動詞だと「深める」である。
文語だと他動詞下二段「深む」はあるが、自動詞の「深む」は存在しない。

ただ、文語にも自動詞で「青む」とか「赤む」、「白む」、「黒む」などはある。
このように青、赤、白、黒などのク活用の形容詞となり得る語幹に
「む」がついて自動詞となる例は多い。

従って「深し」に対して四段「深む」があってもおかしくないということになる。
秋深まず、秋深みたり、秋深む、秋深むとき、秋深めば、秋深め。
一応活用してみせることもできる。

要するに、問題は、すでに口語の「深まる」があって、
それに対する文語が存在しないので、「深む」を造語して良いかどうかということだ。
現代の言語に合わせて古語や文語を改変するというのは国学的にはあり得ないことだが、
そうすると、
古語で「深まる」を表現するには「深くなる」と言う以外ない。

ただ、「秋が深まる」ということを古語では普通は
「秋たけゆく」とか「秋たけぬる」のように「たく」を使うのであり、
「秋」を「深まる」と表現するのもまた近世的なのである。
おそらく近世「たく」がすたれてしまったので代わりに「深まる」が使われるようになった。

「深み」という名詞はすでに平安時代にはあったらしいので、
これに対応する「深む」という動詞があってなぜいけないのか、
そもそもなぜ「深まる」なのか。
なぜ「青まる」「赤まる」ではないのかという話になる。

似た例で思いつくのは「暖める」と「暖まる」だが、古語では
「暖む」と「暖まる」であって、自動詞四段「暖む」は存在しない。

「高める」「高まる」あるいは「強める」「強まる」、
「広める」「広まる」などもそうか。
これらは要は自動詞と他動詞を明確に区別しようとする近世語の傾向なのかもしれん。
これらを自動詞で「高む」「強む」「広む」ではやはり何か変だ。
現代俳句では遠慮なく使うのかもしれんが。

「休まる」「休む」のように、自動詞に二種類あるものもある。
他動詞の「休める」とともに、昔からある言葉だ。
ということは、「深まる」も用例が残ってないだけで昔から使われていたのかもしれん。

松尾芭蕉の

> 荒海や佐渡に横たふ天の川

もやはり同じ部類の問題であるかもしれない。
「横たはる」という古語は存在する。
自動詞の「横たふ」は存在しない。
もし存在するなら、
四段に「横たはず」「横たひたり」「横たふ」「横たふとき」「横たへば」「横たへ」と活用せねばなるまい。
「横たふ」と「横たはる」の関係は「休む」と「休まる」の関係と同じであろう。

ますますもってよくわからない。
ただ大胆に仮定してみると、
「横たはる」「休まる」などは「あり」との合成語で本来ラ変であったかもしれんね。
そうでないとしても何か規則性は感じられる。

俳句は主に名詞と助詞でできているが、
和歌は動詞や形容詞、助動詞でできている。
俳句は体言に「てにをは」つけて適当に配置すれば足る。
和歌は、用言をさまざまに活用させ屈折させることによって複雑な心理を表現する。
故に和歌で活用がおかしいのは非常に奇妙な感じがするが、
俳句ではあまり気にならない(気にしない)のだと思う。
さらに俳句では季語を入れなきゃならないという規則があるわけだが、
「秋深む」は季語だよと歳時記なんかに採録されてしまい、
いろんな人が使っているのに慣れてしまった日にはなぜいけないということになってしまう。
俳句とか季語というものは、他人の趣味にケチをつけるようでなんだが、
素人がよってたかっておかしなことをやらかす。
いわば大衆化した文芸で、二次創作の一種だが、
次々に変な文語や季語を作り出して言語感覚を狂わせてしまう。
それもこれも始祖の芭蕉が変なお墨付きを与えてしまったからだ。

私とはまったくスタンス違うわけだからぐちぐち文句言わずほっとけばいいんだが。

京都巡り

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旅行に出かけて寺や神社に詣でるときには、
寺では鐘楼を、
神社では舞殿を撮るようにしている。
鐘楼を撮るのは「巨鐘を撞く者」を書いたからであるし、
舞殿を撮るのは「将軍放浪記」を書いたからである。

[鐘](/?p=12653)については以前も書いた。
上の写真は相国寺の鐘楼だ。
相国寺の近所に一泊した。
特に新しいとか珍しいものではなさそうだ。
相国寺は金閣寺や銀閣寺の総本山らしい。


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この写真は上賀茂神社の摂社の新宮神社というもので、
たまたま第二日曜日に参拝したので中まで見れたのである。
なかなか一般人が見る機会はないと思うが、
舞殿なのか拝殿なのかよくわからん。
というか、本殿があってそのそばに拝殿が作られ、
拝殿が舞殿としても機能するというのが古くからの使われ方だったと思う。

舞殿は、もともとは四本の柱で囲って〆縄をめぐらすものであったはずだ。
薪能の舞台もそうなっているし、相撲の土俵も古くはそうなっていたはずである。
石清水八幡宮で奉納される舞楽は今もそのようになっているようである。

したがって舞殿の柱は四隅に四本あるのが正しいのだということを、
これも以前[舞殿](/?p=12046)というのに書いた。
なぜそこにこだわるかというと頼朝、政子そして鎌倉武士らに囲まれて静御前が舞を舞ったのは、
鶴岡八幡宮の回廊の真ん中に設置された、
四隅に柱を立ててしめ縄を引き回した一種の結界であったはずだと思うからだ。
それが舞殿の原点であるはずだ。

本殿は神の依り代であり、
人にとっては神の表象である。
神の依り代はかつては自然そのものであり、人の手によるものではなかった。
後に鏡などがご神体というアイコンとなり、本殿に納められた。
上賀茂神社では神山が、後にはそれを模した砂の山が神のアイコンであり、
社殿ができたのはずっと後のことである。
といってもその社殿の創建も奈良時代のことであるという。

拝殿は神に対面する人間のための結界なのである。
結界に入って神に対面する人は当然貴人である。
貴人というのはつまり特に選ばれて潔斎したものという意味である。
そして拝殿に神遊びする貴人の姿を周りの一般人が眺めるから拝殿は舞殿ともなるのだ。
本殿と拝殿がこのように位置しているのが本来の姿なのではなかろうか。
舞殿はしばしば参道のど真ん中に本殿を遮るように建てられている。
我々はしばしば舞殿を迂回して本殿に進まねばならぬ。
本殿、拝殿、舞殿が直列に分裂してしまったからである。
社殿や伽藍建築が次第に宗教的な権威となってしまった。
いずれにしても「本殿を拝む」とか「本殿が依り代」という感覚は本来おかしいわけである。
将軍放浪記冒頭、

> 段葛を進み朱塗りの鳥居を二つ三つくぐると、参道を遮るように舞殿が設けられている。白木造りの吹きさらし、檜皮葺の屋根はあるが壁はない。まるでこの、屋根と四本の柱と舞台で切り取られた空虚な空間が、鶴岡八幡宮の神聖なる中心、本殿であるかのようだ。

結局人間中心に考えれば、神社の中心は舞殿なのである。
それほど重要なものだからあのようにわざと邪魔なところにあるのだ。

この新宮神社の拝殿がまさに四本柱なので私はうれしくなったのだ。
しかも、四本では強度が不足するためにか、柱に添え木がついている。
面白い。

上賀茂神社は平安京遷都前からある由緒のあるもので、
京都が世界遺産になる理由の一つともなったのだが、
北のはずれにあるせいか観光客はほとんどいない。
ていうか、上賀茂・下鴨神社だけでなく、八坂神社、上御霊神社、下御霊神社、平安神宮など、
神社はいずれも修学旅行の定番ルートから外れているのだが、
いったいどういうわけなのだろうか。
そういや京都御苑もルートから外れているわな。
あ、北野天満宮はかろうじて入るのか、修学旅行だけにな。
今回はたまたま気が向いて清水寺にも行こうかとしたのだが、
あんなひどいところはない。
五条からの参道は狭くて車が多いし、
建物も江戸時代のものなのに国宝になっている。
見た目が京都っぽいってことだろうか。
京都七不思議の一つにすべきだ。
上賀茂神社などにお詣りしたほうがずっと気持ち良いはずだが、
逆に中学生や高校生がわらわらたかってないほうが良いともいえる。
実際ああいう連中は太秦の映画村あたりに連れまわして、
京都御苑や上賀茂神社からは隔離したほうが良いとはいえるのだが、
教育効果的にはどうかと思う。

上賀茂神社は日曜日だからか、のんびり結婚式などやっていた。

銀閣寺にも行ったが、ここも参道も中もかなりひどい。
しかし建物はよかった。
義政の時代のものが珍しく残っていて地味だが面白い。


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これはどこで撮ったのだったか。
たぶん下鴨神社に隣接するなんとかという末社だったと思うが、
やはり柱は四本のみ。


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三十三間堂には今まであまり興味がなかったのだが、
「西行秘伝」を書いたので見に行った。
法住寺。
すごいなこれは。
清盛が後白河に建ててやったものだが、
京都にはこういう平安時代の建築は案外残っていないものだ。
他に何かあっただろうか。
まったく思いつかない。
後白河が大喜びしているのに息子の二条天皇が落成式に来なかったのでがっかりしたという逸話を思い出す。


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中は撮影できないから外だけ写したが、
ここで矢通しをしたわけだ。
不思議なことをしたものである。
西行の時代に通し矢があったかどうか。
たぶんなかっただろう。


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寺町通の三嶋屋というところですき焼きを食べたのだが、
ランチだったが、ずいぶん散財した。
よくよく考えると京都はすき焼き発祥の地ではない。
牛肉を食うのは横浜が先だし、
それよりか前は両国広小路でももんじ屋というのが鹿や猪などの肉を食わせたはずなのだ。
だからわざわざ京都ですき焼きを食う必要はなかった。
上野のガード下でもつ焼きでも食ったほうが正統な気もするのだが、
なんか京都的大正ロマンみたいなものを満喫できたので良かったということにしておく。
両国広小路のことは成島柳北を主人公とした「江都哀史」というものを書こうとしていろいろ調べた。
そのことは「川越素描」にちょっとだけ出てくる。
いずれほんとに書いてみたいとは思ってる。


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ついでにどうでも良いことだが、
鴨長明の方丈というのが下鴨神社の隣の河合神社にあったので、
めずらしくて撮影した。
鴨氏というのは平安京遷都前から鴨川流域、つまり京都盆地に住んでいた豪族だろう。
鴨長明はその子孫だからこんなところに家が復元されているわけである。
河合とは賀茂川と高野川が合流する地点だからそういう名なのだろう。


指月殿

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以前に修善寺温泉というのですでに書いたのだが、京都旅行をして気になったので少し加筆する。

伊豆修善寺に政子が頼家のために建ててやったという指月殿というのがあるんだが、もし当時創建のままだとすると鎌倉初期。当然国宝になってなくてはならない。それ以前に拝観料払わないと見れないだろう。

壁は古色蒼然としているがやたらとお札が貼られている。屋根が綺麗すぎるから葺き替えだろうし、ガラス戸は当然最近付けられたものだ。もとは経堂だったというが、そのお経はみんな焼けてしまったというし、お経が焼けるくらいだから経堂も一緒に焼けたのに違いない。

伊豆最古の木造建築、というのは、もしかすると当たってるかもしれない。ちなみに今の修善寺本堂は明治時代の再建。それよか韮山反射炉のほうが古いわな。

※追記。これ、実はかなり新しいものではないか。ガラス戸が最初からついていたとすれば古くて大正、明治末期くらいだろう。伊豆最古の木造建築というのを信じるとすれば江戸末期くらいのものか。

京都

京都には十ヶ月ほど住んだことがあるのでだいたい土地勘はあるのだが、普段あまり近寄らない清水寺に出かけてみて最悪だと思った。五条から歩いて登ろうとすると歩道は狭いし車は多いし、途中で引き返した。本堂は国宝らしいが、家光の時代の再建だ。せいぜい重要文化財止まりではないのか。京都は古そうに見えて徳川の世になってから再建されたものが多い。仁和寺なんかは日露戦争より後に修復された。そういうものをいちいち国宝にしててはきりがない。清水寺が国宝なら根津神社だって国宝ではないか。

京都で平安時代から残っているものは案外少ない。法住寺の三十三間堂は古い。あれは清盛が後白河のために建ててやったものだから、正真正銘平安時代だ(※追記。火災で焼失し鎌倉時代1266年に再建されたもの)。他になんか残っているかというと思いつかない。

銀閣寺は義政の頃から残っているから、古い。確かに国宝だ。他にも竜安寺石庭など室町時代のものはいくつかあるようだ。

それはそうと、伊豆修善寺に政子が頼家のために建ててやったという指月殿というのがあるんだが、もし当時のままだとすると鎌倉初期。当然国宝になってなくてはならないのだが、あまり有名でもない。壁は古色蒼然としているが、屋根が綺麗すぎるから葺き替えかもしれん。国宝になってないということはだいぶ改築されたのではなかろうか(※追記。多分ごく最近建てられたものだろう)。

京都の話に戻ると、修学旅行生は、嵐山、映画村、龍安寺、金閣寺、大徳寺、北野天満宮、二条城、三十三間堂、銀閣寺、哲学の道、清水寺、などを回るようだ。まあそのことにいちいち文句を言う気はないのだが、京都が文化遺産になった根拠の一つとして、平安遷都以前からの由緒がある上賀茂神社をなぜ見ないのかと思う。いや、上賀茂神社に中学生や高校生がわらわら来られても困るわけだが、修学旅行生はほんとの京都を見ていないことになると思うなあ。

皇統の正統性

状況証拠的に見ると大化の改新というものはなかった、と言って良いだろう。中大兄皇子と中臣鎌足が謀り、皇位簒奪をもくろんだ蘇我氏を滅ぼしたことになっている。

皇族と蘇我氏の間で紛争があって、蘇我氏が排除され、孝徳天皇が即位した、という以上の意味はないと思う。

大化の改新は、天武天皇のもとで最初の太政官となった藤原不比等の創作であろう。私が思いついたというより、wikipediaに挙げられている説の中で、私が一番もっともらしいと思うものである。

なんと言えばよかろうか。皇族というか、天皇家というか、王家といおうか。おそらく、天武天皇までは、日本の王というのは、抜き身の武力に基づく勝者以外の何物でもなかっただろう。強い者が王となる。強い一族が王家となる。日本で一番金をもって土地をもったものが王となる。それがなんとなく天照大神の時代までさかのぼることができるが、連綿と続いてきたものなのか、いろんな断続があったものなのか、確かな記録がなくてよくわからない。ただまあ継体天皇以後はだいたい続いているらしい、ということがわかるだけだ。

藤原不比等は、皇統というものをコントロールして、自らを天皇の第一の臣下と位置づけることによって、大陸から輸入した舶来文明を模倣することによって、自分の一族を安定にすることを発明した最初の人だったはずだ。藤原氏が天皇家に対して行ってきたことは結局はそれだ。つまり、万世一系とか皇統というものは、藤原氏によって初めて創作されたのである。天皇が自らそう主張したというよりも、藤原氏が天皇家と外戚関係を結んで自分の地位を確立するために皇統というものを必要としたのである。

力が強いものが天皇になれば良いのならば外戚なんて無意味だ。皇統と外戚は同時にできた。外戚を藤原氏が独占したから他の氏族は枯死してしまった。というより、藤原氏が一族を挙げて守った皇子が皇統ということになってしまう。それ以外の皇子やそれ以外の氏族は死んでしまう。それだけ藤原氏の一族の結束は強かった。当時、政治的に結束できる一族は藤原氏以外いなかった。天皇家にも藤原氏以外の氏族にも、そんな強固な団結なんてものはまるで見られなかった。藤原氏以外の王家や氏族はみな砂のようにばらばらだった。藤原氏に匹敵する結束というものは、のちに在郷武士の間から芽生えてくる。

王家だけを他の氏族より突出させるというマジックを演出したのは藤原氏であった。天皇家はこの時代そんな器用なことはできない。とにかくやたらとたくさん妃を持ってたくさん皇子や皇女を生ませた。皇子は父親に似てみな遊び人でやはりたくさん妃をもってたくさん皇子や皇女を生ませた。まさにカオス。源氏物語の光源氏をみよ。嵯峨天皇や文徳天皇や清和天皇や陽成天皇らの皇子たちを見よ。天皇家が子孫を自分でコントロールできるようになったのは白河天皇になってから。白河天皇は皇太子以外の皇子をみんな出家させてしまう。法親王というやつ。法親王は一生独身。彼一人多少贅沢したところでたかが知れている。皇室財産は自然と本家に集約し、分家は消滅する。皇太子が誰を妃とするかもコントロールできる。つまり外戚をコントロールできる。白河院は天皇家の長老として完全に一家をコントロールする。気づいてみれば当たり前のことだ。なんだ自分でやればできるんじゃないの、ってことは白河天皇になってからで、それ以前はそんな当たり前なことすらやってなかった。

ともかく、奈良平安時代に、外戚と皇統をリンクさせて臣下として権力を握るってことを明確に意識していたのは藤原氏だけだった。天皇家すらそんなことは考えすらしなかった。だから、皇子たちは一致団結することなく、藤原氏によって各個撃破されてしまった。

天武天皇は戦争ばかりやっている人だった。嵯峨天皇はやたらと皇族を増やして分家を作った。清和天皇もかなりむちゃくちゃだ。陽成天皇までの天皇というのは、ただ日本の王様というだけであり、何か具体的に世の中を治めたり、王位継承や皇統というものをコントロールしたという形跡がない。王位継承に介入し、王位というものに権威付けをしたのはもっぱら藤原氏である。

天皇家の皇統に着目して藤原氏がその外戚となって権力をふるったのではない。藤原氏が皇統を発明したのである。その戦略は嵯峨天皇の皇統に介入した藤原冬嗣、その子の良房、その養子の基経らによって確立された。つまり摂関政治というやつだ。藤原氏は天皇家を搾取しつつ、天皇家にとって変わることはしなかった。そのかわり一族を挙げて自分らと血縁関係のある皇子を守り、それ以外の皇子を排除した。そうして実利を得た。この構図はおおよそ道長の時代まで続いた。

白河院はおそらく藤原氏を観察した結果、皇統というものを天皇家が自分で管理すれば藤原氏要らなくね?ということに皇族で初めて気がついた人だっただろう。このとき初めて自分の一家は自分で制御しなくちゃならないという意識が天皇家に生まれたのだ。つまり天皇家は皇統とはどうあるべきかということを外戚の藤原氏から学んだということになる。

それ以前の宇多上皇は白河院ほどではなかったにしろある程度その必要性には気づいていたと思う。宇多上皇は自分の皇子の醍醐天皇に確実に皇位を伝えるために生前に譲位した。平城天皇や嵯峨天皇も上皇になったのだが、そのことをわかってやったのかどうかよくわからない(皇統は決して安定せずコントロールもできてなかったから)。後三条天皇や二条天皇も、取り巻きの下級公卿と組んで藤原氏を排除し、中央集権を目指した形跡がある。この二人は名君であった可能性もあるがその治世はあまりに短すぎた。

藤原氏の次に皇統を管理しようとした臣下は北条氏だった。北条氏は三種の神器に皇位の正統性があると主張した最初である。そんなことは藤原氏は発明してない。藤原氏にとって自分たちの権力の正統性とは、先祖の中臣鎌足と天智天皇が起こした大化の改新というもの、藤原が天皇家の外戚であること、皇統は大事ですよということ、ただそれだけだ。そして藤原氏は自分たちが拠って立つところの大化の改新なるものが、まったくの虚構であることも十分承知していたはずである。

北条氏はこんどは三種の神器という虚構を創作して、仲恭天皇を廃し、後堀河天皇を立てた。今度もまた、皇統というものをコントロールし、皇統のルール付けをしたのは臣下の北条氏であった。天皇もしくは上皇による宣旨以外に、神器の正統性というものが北条氏によって追加されたのである。当時の天皇や上皇が神器は大事だよ、なんて言うはずがない。後白河法皇は神器など無視して後鳥羽天皇を立てたではないか。だが、北条氏にしてやられた天皇は、今度は神器を逆手にとって北条氏に楯突いた。俺は神器を持ってるし譲位もしないよと言ったのは後醍醐天皇である。いや、おそらくはそのブレインであった北畠親房である。神器に権威が生まれたのは北条氏と北畠親房のせいだ。そして神皇正統記は親房のプロパガンダだ。北条氏は自分が作った虚構に縛られて滅亡した。

次に皇統のルールを書き換えようとしたのは足利尊氏である。尊氏は後醍醐天皇から没収した三種の神器の権威によって北朝第一代光厳天皇を立てる。ここまでは北条氏と同じである。北畠親房も困った。権威の源泉と自ら認めた神器をとられちゃったんだから。神皇正統記にもそのへんのことはしどろもどろ。「神器?神器にも権威はあるよ、もちろん」みたいな書き方をしている。

その後、神器は南朝に奪われ、上皇も天皇もみな南朝に連れ去られた。尊氏は、北朝第四代後光厳天皇を、神器もなく、天皇もしくは上皇による宣旨もなしに即位させたのである。廷臣に擁立されて即位した継体天皇の先例に倣う、という理屈しか付けられなかった。説得力ゼロ。いくらなんでも、継体天皇の前例持ち出されても誰も納得しない。このことが北朝にとっては致命的な痛手となる。

北朝第六代後小松天皇は南朝の後亀山天皇から神器と皇位を譲られる。これによって南北朝の合一はなったのであるが、北朝第四代後光厳天皇と第五代後円融天皇には皇統の正統性がない。このことは明治になって蒸し返されて、北朝ではなく南朝が正統であるとされた。北朝すべてに正統性がなかったというよりも、後光厳と後円融に正統性がなかったというべきだ。

ここで勘違いして欲しくないのは、国権というものをマネージメントしていくために皇統というものが必要とされたのであり、万世一系の皇統から国権が派生したのではないということである。国権とは日本の政治的権限の中心をどこにどういう形で定めるかということであり、そのために皇統というものが長い年月をかけてじっくりと形成されてきたのである。イングランド王の王位継承ルールが異様に複雑なのは、イングランド王国の国権がどのように継承されていくかを明確に定める必要があったからである。ルールが不確かだとすぐに国王が複数立って継承戦争がおきてしまう。血統が大切なのではない。継承戦争が起きないようにするために血統がその根拠とされたのである。欧州の継承戦争を良く学ぶと良い。南北朝の騒乱を良く学ぶと良い。そうすれば血統がなぜ重要かわかる。他にとって代わる土地相続の方法論が、当時はなかったのだ。欧州ではキリスト教というファンタジーが血縁をオーバーライドしてくれたがその実効性にも限度があった。ヨーロッパ人もそこまで信心深くもなかった。他にはもう切り札はない。

藤原氏によって王家から大臣や官僚というものが分離され、北条氏によって皇統というものが「血の通わぬ」神器というアイコンに移された。要は、天皇の歴史とは、武家の歴史とは、皇位継承というものが王族の恣意によるものから、政治権力に関わるもの全体のパワーバランスと、合議と、客観的な手続きに移行していくという、至極当然な過程なのだ。

国権に皇統なんて必要ないと言ったとたんに日本の歴史は天智天皇や天武天皇より前にさかのぼってしまう。奈良平安時代に営々と築き上げた王朝の伝統はすべてご破算になる。
強いやつが自分の都合で天皇になればいいといったとたんに継体天皇の時代まで戻ってしまう。さもなくば中国の易姓革命の思想を輸入する必要があっただろう。日本人はそのどれも採用しなかった。自らの国に続く皇統というシステムを現実に即するよう作り替え整えていくことにしたのである。

こうしてみていくと、皇統の正統性は、いつの場合も、天皇や上皇が自ら主張しているというよりは、皇室を擁立する公家や武家がルール作りをし、コントロールしようとしていることがわかるのである。藤原氏は天智天皇までさかのぼった。北条氏は天智天皇より昔の皇室伝来の神器に正統性を求めた。足利氏は仕方なくそれよりもまえの継体天皇までさかのぼって正統性を求めたが結局うまくいかなった。後からルールを追加する者ほど古い神話時代の権威を掘り起こしてこなくてはならなかった。本居宣長の国学はある意味で神話時代を掘り返した北条氏や足利氏などの武家の理論武装に利用されたのである。藤原氏にとって神話時代のことなどどうでもよかったと思う。藤原氏には天智天皇という自分たちだけの偶像がいればそれで十分だったのだ。それ以外の権威を持ち出されても藤原氏には不利なだけだ。

明治維新はさらに神武天皇や天照大神まで皇室の権威をさかのぼろうとする。別に近代人のほうがそれ以前の封建時代の人より信心深いというわけではない。新しい時代ほど、まだ手垢のついていない古い権威を必要としただけのことである。また古い権威を創作するための学問や想像力も、それ以前の時代より発達していた。

藤原氏や北条氏、足利氏、徳川氏などは、神武天皇や天照大神がどうこうなどということは考えてもみなかっただろう。どんなものか想像すらできなかったし想像してみる必要性も感じなかった。空想力がそこまでいたらなかったはずだ。家康は自らを東照神君と呼んだ。明らかに天照大神とタメをはろうとしている。家康はまた天台宗にも凝った。かなりやばい人だが要するに宗教も神話もよくわかってはいなかったのだろうと思う。周りの人もやはりわからなかった。誰もわからないからダメだししなかっただけだと思う。

国粋主義によって国家が生まれるのではない。産業革命によって近代国家がうまれ、近代国家というのは王室を持つにせよ共和国であるにせよ、国民万能主義であるから、国民の要請によって国粋主義が生まれるのである。国粋主義は往々にして太古の昔の神話を必要とする。近代考古学によって箔付けされた神話を。ヒトラーが「アーリア人がー」と言ったのにも似ている。イタリアルネサンスもキリスト教以前の多神教を必要とした。トルコからギリシャが独立するのにもヘレニズムやそれ以前のギリシャ神話を必要とした。国粋主義者は国粋主義がどのようにして生まれてきたかをしらない。国粋主義者は国粋主義に「酔う」が故に国粋主義の本質が見えぬ。国粋主義とは何かということは覚めた目で見なくてはわからぬ。本居宣長の理論も、日本に産業革命がおき、近代国家が成立したから必要とされたのである。国学という国粋主義が発展して国民国家ができたのではない。国民国家ができたから国粋主義が必要になったのである。たぶん日本の国をありがたがっている人たちはなぜ日本という国がありがたいのかよくわかってない。天皇をありがたがってる人たちも、ほぼ誰も天皇を知らない。天皇を知るには藤原氏や北条氏や足利氏を知る必要がある。南北朝の歴史を知る必要がある。しかし日本人のほとんどは南北朝音痴なのだ。歴史はつねに緩慢に連続的に進化していく。あるとき急に完成した形で生まれるのではない。急に過渡的に突然変異したように見えても、そう見えるのにはしばしば何か見落としがあるのだ。ちゃんと調べれば連続性はあるものだ。些細で不確かなものが、次第に明確でしっかりしたものに成長していくのだ。日本はその歴史を一応独力で今日まで、地道に地道に、積み重ねてきた。しかしその長い長い過程をきちんと連続して観察し理解するのは一般人には無理だ。だから学者が要領よく整理して見せてやらねばならぬ。しかし現代の学者は通史というものが苦手であり、日本史なら日本史、世界史なら世界史。その中の特定の時代しかやらない。完全にたこつぼにはまってる。司馬遼太郎の如きは幕末維新と戦国時代しかやらない。歴史のつまみ食い。これでは歴史はわからない。

明治天皇や昭和天皇も、また敗戦当時の右翼(山本七平の言説を見よ)らもみな、いわゆる「天皇制」というものが一種のファンタジー(虚構)であることは十分承知していた。従って、人間宣言というものがあのような形で出た。その内容は極めて妥当なものだった。昭和天皇は「天皇制」にまとわる虚飾を捨て去りたかった。

朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス
(We stand by the people and We wish always to share with them in their moments of joys and sorrows)。

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ (The ties between Us and Our people have always stood upon mutual trust and affection. They do not depend upon mere legends and myths)。

朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ、自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ
(We expect Our people to join Us in all exertions looking to accomplishment of this great undertaking with an indomitable spirit)。

これが天皇と日本国民の間で新たに結ばれた契約であって、またしても敗戦とGHQという外圧によるものであったのは皮肉であるが、皇統のルールが更改(再認識)されて、明文化されたのだ。しかるに右翼はこの人間宣言を認めず過去のファンタジーに固執し、左翼は鬼の首を取ったように勝ち誇って「天皇制」という右翼を攻撃するための偶像を捏造しようとし、今日に至っているのである。

京町屋

豪雨の関東を脱出してなぜか京都にいた。雨も降ったが割と晴れていた。普通のホテルではなくて町屋一棟借りて住んでみたのだが、町屋というのはいわゆる一軒家ではない。棟割り長屋、つまりテラスハウスであって、長屋でないとしても、隣の建物と完全に密着して建てられているから防音というものがない。実際隣のうちの声など聞こえてくる。上下左右が他人のうちである賃貸マンションよりは少しましかもしれないが、やはり全然落ち着かない。そのうえ下水臭かったり、蚊が入ってきたりしてかなりやばい。まだ六月の初めだからよかったが夏に借りたらどうなっていたのだろう。よく見ると京都にはまだまだ町屋建築がたくさん残っているようだが、空襲がなかったおかげだろうが、いまさら私はこんなところには住みたくないなと思った。

日本建築はすばらしいとは思う。銀閣寺東求堂なんかには実際住んでみたいと思う。それは庭付き戸建てだからである。町屋は所詮賃貸長屋である。あれをわざわざ良いというのはどうかと思う。東求堂にしてもエアコンは効かないし虫は入るだろう。私の子供の頃ならともかく今は逃げ出すかもしれん。特に夏や冬。

六人、いや、下手すりゃ十人くらいはなんとか泊まれるからそういう大人数で行くのには良いかもしれん。例えば女が二階に、男が一階に、シェアハウスみたいにして泊まれば案外割安ではなかろうか。

だがまあこれからは自分は四条とか七条あたりの普通のビジネスホテルに泊まると思うわ。

左翼は良い仕事をした。

私は高校生の頃、日本史ではなくて世界史をとったのだが、それは、日本史というのは世界史が理解できないような馬鹿が取る科目だと思ったからだ。世界史もわからないのにどうして日本史がわかるのだろう。日本史というのはローカルで、閉鎖的で、つまらぬ学問だと思った。語呂合わせで年号を覚える勉強に思えた。或いは戦国オタクや幕末オタクがやる科目だと思った。三十年前は明らかにそうだったし今でもだいたい同じだ。古文や漢文は面白かったから古文II、漢文IIまで取った。古典は嫌いではなかった。しかし日本史は嫌いだった。

私が文系を馬鹿にして理系に進んだのもだいたい同じ理由であった。文系なんてどうせ大学四年在学しててろくに勉強なぞしないのだから行くだけ無駄だと、普通の感覚の人間なら思うだろう(しかし世の中は文系がマジョリティなのだから、一般社会では彼らが普通なのだろう。人間社会で馬鹿がマジョリティなのは別に驚くべきことではない)。

今から思えばだが、江戸時代の文人が到達した日本史というものはそれなりにレベルは高く、成熟したものだった。その思想は十分に明治維新に耐えた。少なくともドイツやイタリアで起きた市民革命と同レベルの水準にあった。しかし次第に陳腐化した。敗戦によってそれまでの日本史は否定された。過去の遺物ということになった。左翼につけいるすきを与えた。左翼は日本史をさんざんおもちゃにし、切り刻み、解体した。おかげで右翼の気づかない、敢えていじらないところもいじった。日本史はそれでそれなりに戦後進歩したのだが、しかし左翼思想によって明らかにおかしな方向へねじ曲げられ、粉飾された。

左翼(革新)の仕事には見るべきものもあり、右翼(保守)の一部もその意義に気付き、自分たちの理論武装に取り入れようとする動きもある。現代的な保守思想というものも生まれつつあるのを感じる。しかし多くのネトウヨを含む右翼は、未だに戦前の、場合によっては江戸時代とか神皇正統記の頃の理論を使おうとする。それでは左翼の思うつぼである。坂本龍馬を偉人だと思う連中と同じで、何の役にも立たない。それだからある程度もののわかる若者は右翼や日本史を馬鹿にして学ばないのだ。左翼はこれまでかなり敵失に助けられてきたのだ。もちろん私は左翼が大嫌いだ。三十年前から嫌いだった。私は右翼のふがいなさに悔しくて仕方なかった。右翼はなんて頼りないんだろう。馬鹿ばかりで。日教組みたいな左翼連中をのさばらせて。朝日新聞みたいなやつに勝手ほうだいなこといわせて。高校には右の教員もいたし左の教員もいた。右の教員は合気道をやっていた。精神論者だった。なんのロジックも身につけてなかった。これじゃダメだと思った。

古文Iの教員はただの粗暴な馬鹿だった。古文IIは合気道。しかし、古典文法はなぜか英文法の教師が教えていた。わりとまともな教師だった。そりゃそうだろう。英語のわからんやつに古文が教えられるわけがない。

日本史というのは私は研究するに値しない学問だと思ってきた。しかし和歌を詠み、和歌好きがこうじて小説を書くようになって、いろいろ調べるうちに、面白いところもあるなと思い始めた (何度も言うが世界史はもともと好きだった)。高校までに習う日本史というのはほとんどすべてでたらめであり、それを一つ一つ直していく作業がなかなか面白いと思い始めたのである。日本史ほどつまらぬ学問はないというのは小林秀雄も言っている通りだ。もともとつまらないのではない。誰のせいかはしらないが、あれほど面白い学問をあれほどつまらなくした何者かがいるのである。私も小林秀雄にまったく同感だ。

今の日本史は救いようがない。今のネトウヨの99%は救いようがない。だからあそこまで左翼が力を持ち得たのだ。しかし左翼の理論も今や古色蒼然としてきた。いかなる学問も日進月歩である。時代とともに理論は新しくなる。過去の理論は新しい理論によって淘汰される。自然科学だけではない。人文科学も長い目でみるとそうだ (論文誌は伝統的に紙メディアでなきゃいけないとかいうやつがいる。学問と紙媒体に何の関係がある?)。かれらもそろそろ過去の栄光にあぐらをかき、その進歩に取り残されつつある。彼らは西欧の洗練された理論を輸入して日本史を小馬鹿にした。馬鹿にされて当然でもあったが、しかし、日本史そのものは、ちゃんと調べれば、研究するに十分足る学問である。それを立証するのが、私が死ぬまでにやっておかなきゃならない仕事の一つだ。

いまの神社の神主はろくに説教もできない。ただ神話の解釈をテープレコーダのように話し、祝詞をぺらぺらっとしゃべるだけ。Wikipedia未満。それでいいと誰が決めたのだろう。神道に現代的で洗練された理論や思想が要らないと誰が決めたのだろう。また、神道理論が平田篤胤のような空理空論になってしまうのはなぜなのだ。もう少しなんとかしようよ。

未来に希望をもとう。

このブログを検索してみると、
2013年1月に kindle paperwhite を買ったなどと書いていて、
一番最初にkdpで出したのは2月頃「川越素描」だったらしい。

最近のKDPだが、
といってもKDPが日本で始まって一年半しか経ってないわけだが、
次々に新人作家が出てきて、
その中には割とまともな人もいるなと思う。
このままどんどん若手が育ってきて、
古顔も(笑)そこそこ頑張ってれば活気がでるだろうし、
わざわざ本屋行くより新しい本や新しい作家探すのに便利だということになれば、
読者はさらに増えるはずだ。
ビジネス本や英会話やエロや啓発本も相変わらず多いが、
普通の小説もだいぶ増えてきて、
メインはラノベ風な純文学か純文学風のラノベあたりが多いのが私としてはじゃっかんアレだが、
キンドル作家や読者の裾野が広がるというのは要するにそういうことだろうし、
その中でも時代物や歴史物をせっせと書く人も、徐々にだが含まれるようになってきている。

たった二年でここまで変わったのだからすごい。

連歌

白河院の院宣により源俊頼が「金葉集」を編み、院の気にいらなかったために、
三たび奏覧した。
俊頼は「散木奇歌集」に連歌を収録したが、
「金葉集」の巻十にも連歌が採られているというので見てみたのだが。

> あづまうどの 声こそ北に 聞こゆなれ みちのくにより こしにやあるらむ

> 日の入るは くれなゐにこそ 似たりけれ あかねさすとも 思ひけるかな

これは酷いだじゃれである。
勅撰集に採るようなものではない。
ただ、古今集にはこんな具合なただの語呂合わせだけの歌も中にはあるが。

> 取る手には はかなくうつる 花なれど 引くには強き すまひ草かな

> 雨よりは 風や吹くなと 思ふらむ 梅の花笠 着たる蓑虫

面白いが、明らかに和歌の題材ではない。
俗謡のたぐいであろう。
同じ時代に梁塵秘抄があるが、それと同類だろう。

ところが莵玖波集になると、形式はいわゆる連歌であるが、
内容は和歌そのもの(というより和歌の劣化版)である。

つまり、平安後期には連歌とは俗な内容の、形式的には和歌であったものが、
南北朝になると、形式的には連歌だが、内容的には和歌になった、
ということではないのか。
誰もそういう指摘をしてないのだが。

後拾遺集で藤原通俊は和泉式部や赤染右衛門などの現代女流歌人を発掘してみせた。
金葉集で源俊頼は、より過激に、俗謡を和歌に取り入れようとしたのではなかったか。
金葉集については[金葉集](/?p=13325)、[金葉集三奏本と詞花集](/?p=13338)などにも書いたが、ぱっと見退屈な歌集である。
ところが連歌のところだけが異様に斬新である。
退屈だけど駄洒落は大好きな人というのは確かにいる。
狂歌人の大田南畝などがまさにそうだ。
巻頭歌が紀貫之だとか藤原顕季だとか源重之だとか、
そんなことはどうでも良いんだよ。
どうしてそんな些末なことにこだわるのかな。

後拾遺集序に

> 麗しき花の集といひ、足引の山伏がしわざなど名づけうゑ樹の下の集といひ、集めて言の葉いやしく姿だみたるものあり。これらの類は誰れが志わざとも志らず。また歌のいでどころも詳ならず、たとへば山河の流を見てみなかみ床しく、霧のうちの梢を望みていづれのうゑ木と知らざるが如し。

これが当時のいわゆる連歌なのではないか。
「麗しき花の集」とは「麗花集」(ほとんど残らない)、
「足引の山伏がしわざなど名づけうゑ樹の下の集」はよくわからんのだが、
これが「散木奇歌集」の元なのではないのか。
藤原通俊はそれら俗謡を捨て、源俊頼はこれを拾ったのではなかったか。

良く読んでみると後拾遺集も金葉集も実に面白く興味ぶかい。
その理由の一つは従来の学説というものがまったく当てにならないからでもある。
当てにならないという意味では古今集もそうだ。
そういう意味では新古今が一番きちんと理解されていて、
また難しく見えてもあれほど勉強さえすれば簡単なものもなくて、
現代人にもわかりやすいとはいえる。

あつまうとの-こゑこそきたに-きこゆなれ/みちのくにより-こしにやあるらむ

ももそのの-もものはなこそ-さきにけれ/うめつのうめは-ちりやしぬらむ

しめのうちに-きねのおとこそ-きこゆなれ/いかなるかみの-つくにかあるらむ

はるのたに-すきいりぬへき-おきなかな/かのみなくちに-みつをいれはや

ひのいるは-くれなゐにこそ-にたりけれ/あかねさすとも-おもひけるかな

たにはむこまは-くろにそありける/なはしろの-みつにはかけと-みえつれと

かはらやの-いたふきにても-みゆるかな/つちくれしてや-つくりそめけむ

つれなくたてる-しかのしまかな/ゆみはりの-つきのいるにも-おとろかて

かもかはを-つるはきにても-わたるかな/かりはかまをは-をしとおもふか

なににあゆるを-あゆといふらむ/うふねには-とりいりしものを-おほつかな

ちはやふる-かみをはあしに-まくものか/これをそしもの-やしろとはいふ

たてかるふねの-すくるなりけり/あさまたき-からろのおとの-きこゆるは

ひくにはつよき-すまひくさかな/とるてには-はかなくうつる-はななれと

あめふれは-きしもしととに-なりにけり/かささきならは-かからましやは

うめのはなかさ-きたるみのむし/あめよりは-かせふくなとや-おもふらむ

よるおとすなり-たきのしらいと/くりかへし-ひるもわくとは-みゆれとも

おくなるをもや-はしらとはいふ/みわたせは-うちにもとをは-たててけり