heidi 1-3-2

»Willst mit auf die Weide?«, fragte der Großvater. Das war dem Heidi eben recht, es hüpfte hoch auf vor Freude.

「おまえも上の牧場まで行きたいか?」おじいさんは尋ねた。もちろんそれはハイディの望むところだった。その子は喜びのあまり飛び上がった。

»Aber erst waschen und sauber sein, sonst lacht einen die Sonne aus, wenn sie so schön glänzt da droben und sieht, dass du schwarz bist; sieh, dort ist’s für dich gerichtet.« Der Großvater zeigte auf einen großen Zuber voll Wasser, der vor der Tür in der Sonne stand. Heidi sprang hin und patschte und rieb, bis es ganz glänzend war. Unterdessen ging der Großvater in die Hütte hinein und rief dem Peter zu: »Komm hierher, Geißengeneral, und bring deinen Habersack mit.« Verwundert folgte Peter dem Ruf und streckte sein Säcklein hin, in dem er sein mageres Mittagessen bei sich trug.

「しかしその前に、体をきれいに洗いなさい。そうしないと、お日様は、とても美しく輝いているのに、おまえが真っ黒けなのをみて、笑うだろうよ。見なさい、そこにお前のために用意しておいた。」おじいさんは戸の前に置いてある水で満たされた桶を指さした。ハイディは飛び上がり、水をぱちゃぱちゃさせて体中きれいになるまでこすった。その間おじいさんは小屋に入ってペーターを呼んだ。「お前の袋をもって、こっちに来い、山羊の大将。」ペーターは呼ばれて驚き、自分の粗末な弁当を入れた袋を手に後に続いた。

»Mach auf«, befahl der Alte und steckte nun ein großes Stück Brot und ein ebenso großes Stück Käse hinein. Der Peter machte vor Erstaunen seine runden Augen so weit auf als nur möglich, denn die beiden Stücke waren wohl doppelt so groß wie die zwei, die er als eignes Mittagsmahl drinnen hatte.

「開けろ、」老人は命じて大きなパンの塊と、同じくらい大きなチーズの塊を袋に入れた。ペーターは驚いて目を開けるだけ見開いた。それは自分が昼に食べるよりどちらも二倍くらい大きかったからだ。

»So, nun kommt noch das Schüsselchen hinein«, fuhr der Öhi fort, »denn das Kind kann nicht trinken wie du, nur so von der Geiß weg, es kennt das nicht. Du melkst ihm zwei Schüsselchen voll zu Mittag, denn das Kind geht mit dir und bleibt bei dir, bis du wieder herunterkommst; gib Acht, dass es nicht über die Felsen hinunterfällt, hörst du?« –

「そうだな、お椀も入れておいてやろう、」おじさんはつけたした。「あの子はおまえみたいに飲むことはできないからな。あの子は山羊とはどういう生き物か知らんのだから、近づけないようにしろよ。あの子にはお椀に二杯のミルクを昼飯時に与えろ。あの子はおまえと一緒に行き、おまえが降りてくるまで一緒にいるから、岩からあの子が落ちないように、おまえが気を付けて見張っておくんだぞ。わかったな?」

Nun kam Heidi hereingelaufen. »Kann mich die Sonne jetzt nicht auslachen, Großvater?«, fragte es angelegentlich. Es hatte sich mit dem groben Tuch, das der Großvater neben dem Wasserzuber aufgehängt hatte, Gesicht, Hals und Arme in seinem Schrecken vor der Sonne so erstaunlich gerieben, dass es krebsrot vor dem Großvater stand. Er lachte ein wenig.

ハイディが中に走ってきた。「もうお日様は私を見て笑わないかしら、おじいさん?」その子は不安げに尋ねた。お日様が恐ろしくて、その子はおじいさんが桶の隣にかけておいた粗布で一生懸命顔や首や腕をこすったので、肌が真っ赤になっていた。おじいさんはちょっと笑った。

»Nein, nun hat sie nichts zu lachen«, bestätigte er. »Aber weißt was? Am Abend, wenn du heimkommst, da gehst du noch ganz hinein in den Zuber, wie ein Fisch; denn wenn man geht wie die Geißen, da bekommt man schwarze Füße. Jetzt könnt ihr ausziehen.«

「いや、もう笑うことはないだろうよ、」彼は請け負った。「しかし、夕方お前が家に帰ってきたら、今度は魚のように全身を桶に浸して洗わなきゃならんよ。なぜならおまえが山羊のように歩けば、お前の足はまっ黒になってしまうからな。さあ、もう行っていいよ。」


Willst mit auf die Weide? これは、略さずに書けば Willst du mit ihnen auf die Weide gehen? おまえはあいつらと一緒に上の牧場まで登るか、となるか。

einen großen Zuber この Zuber は「手桶」と訳されることもあるようだが、ハイディが魚のように全身入れるくらいの大きな桶なのだろう。

angelegentlich 熱心に、痛切に、或いは一大事であるかのように、とでも訳すか。

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Auf der Weide

牧場で

Heidi erwachte am frühen Morgen an einem lauten Pfiff, und als es die Augen aufschlug, kam ein goldener Schein durch das runde Loch hereingeflossen auf sein Lager und auf das Heu daneben, dass alles golden leuchtete ringsherum. Heidi schaute erstaunt um sich und wusste durchaus nicht, wo es war. Aber nun hörte es draußen des Großvaters tiefe Stimme, und jetzt kam ihm alles in den Sinn: Woher es gekommen war und dass es nun auf der Alm beim Großvater sei, nicht mehr bei der alten Ursel, die fast nichts mehr hörte und meistens fror, so dass sie immer am Küchenfenster oder am Stubenofen gesessen hatte, wo dann auch Heidi hatte verweilen müssen oder doch ganz in der Nähe, damit die Alte sehen konnte, wo es war, weil sie es nicht hören konnte. Da war es dem Heidi manchmal zu eng drinnen, und es wäre lieber hinausgelaufen. So war es sehr froh, als es in der neuen Behausung erwachte und sich erinnerte, wie viel Neues es gestern gesehen hatte und was es heute wieder alles sehen könnte, vor allem das Schwänli und das Bärli. Heidi sprang eilig aus seinem Bett und hatte in wenig Minuten alles wieder angelegt, was es gestern getragen hatte, denn es war sehr wenig. Nun stieg es die Leiter hinunter und sprang vor die Hütte hinaus. Da stand schon der Geißenpeter mit seiner Schar, und der Großvater brachte eben Schwänli und Bärli aus dem Stall herbei, dass sie sich der Gesellschaft anschlossen. Heidi lief ihm entgegen, um ihm und den Geißen guten Tag zu sagen.

ハイディは朝早く、大きな口笛の音に目を覚ました。目を開くと丸い明かり窓から黄金の光がベッドや傍らの干し草の上に差し込んで、すべてが黄金色に光っていた。ハイディは驚いてあたりを見回し、自分がいったいどこにいるのかわからなかった。だがおじいさんの太く低い声が外から聞こえてくると、ハイディはすべてを思い出した。自分がどこから来て、おじいさんと山の上の牧場に住んでいて、もうウルゼルばあさんのところに預けられてはいないということを。そのおばあさんはほとんど耳が聞こえず寒がりでいつも調理場の窓か居間の暖炉のそばにいて、耳が聞こえないから、ハイディがどこにいるか目でみてわかるようにその子をいつも自分の目の届く範囲にいさせた。ハイディにとってそこはあまりにも狭苦しすぎて、しばしば外に飛び出してしまいたくなった。なので、その子は新しい家で目を覚まし、昨日どれほどたくさんの新しいことを経験し、今日もまた見ることができるということが、特にシュヴェンリとベルリに会えることがとてもうれしかった。ハイディは急いでベッドから飛び起きて、昨日着ていた服に着替えたが、大して着込むわけではないので数分で済んだ。それからその子はハシゴを急いで駆け下りて、小屋の前へ飛び出した。そこにはペーターが山羊の群れを連れてきていて、ちょうどおじいさんがシュヴェンリとベルリを家畜小屋から連れ出してペーターに預けるところだった。ハイディはペーターと彼の山羊たちのところへ行き、挨拶した。

シャイニング

『鬼平』全巻を読み終えたので今度は『シャイニング』を読み始めた。思うに私が読む小説というのはたいてい映画かドラマの原作になったものだ。それを映画なんかと見比べながら読む。『ソラリス』『ハイディ』なんかもそうだ。それはつまり、私自身に、鑑賞したり消費したりするだけではなく、自分も創作したいという願望があるからだと思う。映画やアニメ、ドラマ、ゲームなんかは一人では絶対作れない。お金を集めてくる人、監督する人、編集する人、素材を作る人なんかが要る。小説なら自分一人の一存で作ることが出来る。だから私はもっぱら小説を書いている。他の作品を参考にしたり、それらの作品がどのように脚色され、原作としてどういう扱いを受けているのかってことに興味があるのだ。

デーテ 15. 姪の出戻り

 ある日いきなり朝早くゼーゼマンさんから呼び出しがあって、これはハイディが何事かしでかしたかと、お叱りがあるのかと思い、あわてて訪ねて行ったら、「ハイディが山が恋しくてホームシックのあまり夢遊病になってしまった」と言われたのよ。ハイディも姉のアーデルハイトと同じ夢遊病の気があったということなのかしら。

 最初は、フランクフルトで白パンを買って一日で山に帰るなんて駄々をこねていたけど、案外ハイディもクララと一緒に町の暮らしに慣れて楽しんでいるとばかり思っていたわ。そりゃあ、よそ様のおうちで、ロッテンマイヤー女史に監督されて、厳しくしつけられたりして、多少は窮屈だったかもしれないけど、まさかそんなくよくよと思い悩んで、ほんとうの病気にまでなってしまうなんて。なんて手間のかかる子なのでしょう。

 ゼーゼマンさんは、ものすごい剣幕で、「今日すぐにも引き取って山に返して欲しい」というのだけど、あまりに急な話で私はどうしていいのかわからなかったわ。だって私は毎日シュミットさんの事務所でニューギニア植民地に最近開設した出張所と連絡をとりあって、東アジアや太平洋の島々の物産を仕入れるのに忙しくって、一日たりとも職場を離れることはできなかったし。それに、いったんハイディをアルムおじさんに押しつけて、それを無理矢理連れ出しておいて、親戚づきあいもこれきりだからもう二度とくるなと言われて、もののはずみとはいえど、おじさんに散々あることないこと悪態ついてけんか別れしておきながら、またしてもこの子をおじさんのところに連れて行くなんて、私の面目も丸つぶれで、どうにもつらくてやりきれないと思いました。

 ああ、こんなことなら親切心をおこしてハイディを世話してあげなければ良かったと思ったわ。ハイディのためを思えばこそ、やってあげたことなのに。

 そこで仕事が忙しくて今は離れられないなどと、とやかく言い訳をしたの、実際私も仕事に何日も穴を空けてハイディを山に返しにいくなんて時間の余裕もなかったのだけど。

 ゼーゼマンさんは、「これはハイディが悪いのではなく、自分の家の不始末でハイディが病気になったから山に返して療養させたいのだ。シュミットさんには私から事情を説明するから、君はともかくも早くハイディを連れていってくれ」と言うのだけど、私の立場にしてみれば、せっかく紹介した姪が、ご奉公先をしくじって、里に出戻りになるのを連れ帰るようじゃないの。

 私のアパートは、狭くて人の出入りの多い騒々しいところだから、私がいったんハイディを身請けして、フランクフルトで一緒に暮らすことは、とうてい無理。ハイディは山に帰りたがっていて、一刻も早く返さないと病気がおもくなるというし。

 ともかく途方にくれてしまったわ。

 それで私が姪を引き取りたくなくてごねているようにみえたのかしら、それともなんとなく私の気持ちを察したのか、ゼーゼマンさんは私をそのまま帰してしまわれたの。だけど、そのあと召使いのセバスチャンという人にハイディをアルムおじさんのところへ送り返させたそうよ。それからハイディが山でどうなかったかなんて恥ずかしくて誰にも聞けないし。うまくやっていればいいけど。

 みんなは私を、紹介料ほしさにゼーゼマンさんにハイディを売り渡したとか、ハイディをやっかいもの扱いしてアルムおじさんに押しつけたとか、まるで私ばかりが悪いように言うけど。私のことを理解したうえでみんな非難しているのかしら。親も兄弟もみんな死んでしまって、身寄りと言えば七十過ぎの変人のじいさんと四才の子供だけ。

 子供の育て方だって誰かに教わったわけでなく、毎日悪戦苦闘しながら覚えていったの。ほんとに、人には言えないようなつらいことがたくさんあったのよ。私は針仕事ができるから一人でならいくらでも生きていけるし、良い人がいれば結婚だってしたいのに、姪っ子のハイディのためにどれだけ自分の人生を犠牲にしてきたかわからないわ。私には、ハイディの保護者としての責任があるのよ。文句があるならハイディを養子にもらってから言ってもらいたいわ。

 ああ、なれるものなら、私がハイディのようなお気楽な身分になりたいものよ。三食昼寝付きの文化的な都会暮らし、高級料理に豪華なお屋敷、一家の主と同じ待遇で召使いにはかしづかれて、その上勉強までさせてもらい、何不自由なく暮らせるけっこうなご身分なのに、わざわざトイレもお風呂もない山小屋の不便な暮らしがしたいなんて、酔狂が過ぎるというものだわ。

 

 

 ずいぶん長い女の問わず語りを聞かされたものだ。俺も仕方なく、夜が明けるまで話に付き合ってしまった。彼女が語って聞かせた、いろんな身内話を、俺は半分も理解できなかったが、普段胸につっかえていたことを洗いざらい吐き出して、彼女も満足だろう。

 朝が来てバーテンダーに店を締めますと言われたときには、彼女も、俺もすっかり酔いが醒めてしまっていた。

 あらもうこんな時間、私の話どう、面白かった、続きはまた今度あったときに話してあげるわ、などと言う。勘定を済ませて、二人連れ立って店を出ようと、地上に出る階段に足をかけると、彼女はさすがに足元をふらつかせ、俺はとっさに彼女の腕を取って助けてやる。二日酔いでつらそうだ。

 外はもう通勤客たちが忙しそうに歩いている。俺たちもこのまま仕事に向かわないと。彼女は一度も振り向かず、まぶしい朝の街路の中に紛れて、どこかへいなくなってしまった。なるほど、お互いフランクフルト住まいだし、デーテという名前も、勤務先も教えてもらったのだから、彼女にはまたいつでも会えるだろう。しかし、次に会ったとき、彼女は俺のことを覚えてくれているだろうか。


後書き

この作品はヨハンナ・シュピリ著『ハイディ』と『フローニの墓に一言』2作を参考に再構成したものです。

デーテ 14. 姪をドイツのお金持ちに紹介

 ゼーゼマンさんとこの娘、クララという子が、子供の頃から病弱で、片足が悪く、いつも車いすに乗って暮らしていたの。ゼーゼマンさんの奥さんは、クララを産んですぐに亡くなってしまい、ゼーゼマンさんはいつも仕事でお屋敷には不在がちで、クララはフランクフルト一というくらい大きくて立派なお屋敷で、たった一人で家庭教師に勉強を習っていたけど、一緒に住み込みで遊び相手ともなり、勉強仲間にもなれる友達を、ロッテンマイヤーさんというゼーゼマン家をきりもりしている女性の執事の方が、探していたのね。

 ロッテンマイヤー女史は、「かわいらしくて古風な趣のある、」「気高く純粋で、」「地面に触れもしない澄んだ山上の空気のような」「スイスの娘」をご所望だった。それで、スイス出身の私に、ご主人様のシュミットさんを通じて打診があったのよ、親戚や知り合いに、そんな娘の心当たりはあるまいかと。

 どうも彼女は、なにやらスイスの娘というものを勘違いしているようね。本物のスイスの娘というものは、山羊や牛や羊たちと一緒に、野山を駆け回る、獣と土と藁の混ざったような匂いのする、黒々と日に焼けた山女のようなものなのにね。でもまあ、私の脳裏にそのとき浮かんだのは、あの山の炭焼き小屋におじいさんと二人きりで置いてきた、姪のハイディのこと。あのあわれな境遇にいるハイディを、もしかしたら救い出すことができるかもしれないってことでした。

 私はさっそくゼーゼマンさんのお屋敷に伺って、ロッテンマイヤー女史に面会させていただいたの。私がハイディのことを色々と、あることないこと良い具合に紹介すると、ロッテンマイヤーさんも、まったく望み通りのすばらしい子のようだから、是非会ってみたいとおっしゃってくれて。それで私は早速シュミットさんにおいとまをいただいて、ハイディを山から連れてくることにしたのよ。

 ハイディは八才になって、とっくに小学校に行かなきゃいけない年になっていたのに、アルムおじさんはハイディを学校にもいかせず、毎日雌山羊の世話ばかりさせていたの。雌山羊というのは、牛や雄山羊と違って、小柄で非力な獣なので、子供や女が世話をするものなのよ。

 それでハイディをゼーゼマンさんに紹介しようとしたのだけど、アルムおじさんはなんだかんだとわけのわからないことを言って怒るし。それで私、カッとなって、おじさんには「祖父のあなたと、叔母の私と、どちらが正当なハイディの養育権があるか、出るとこに出て争ってもかまわないのよ。裁判でおじさんの味方をする人が、一人でもいると思う。裁判になって、ドムレシュクで財産失ってやくざ者とつきあってたことやら、ナポリで傭兵やってたことや、どこの誰とも知れないおかみさんやその息子のことや、あれこれ昔のことを蒸し返されると、困るのはおじさんの方じゃないの。」なんてことまで言って、おじさんをかんかんに怒らせてしまったわ。

 どういうわけか、そんなやっかい者のおじさんにハイディはなついてしまって、山の暮らしにすっかりなじんでしまい、山を離れそうもないので、ハイディをうまくだまくらかして、山から連れ出した。途中、ハイディが仲良くしていた山羊飼いのベーターや、ペーターのお母さんのブリギッテ、それにペーターの目の見えないおばあさんまでが、ハイディを連れて行くのをものすごく泣いて嫌がったのだけど、ハイディの幸せを考えてあげてちょうだい、こんな山の中より、都会の方が絶対に良い暮らしが出来るのよ、と説得し、ハイディには、ペーターのおばあさんのためにフランクフルトで白パンを買って帰ってくるのだと思わせて、急いで山道を降りた。デルフリ村では誰も私とハイディを引き留める者もなく素通りして、マイエンフェルト駅で汽車に乗せました。何もかもハイディのためを思って無理を承知でやったことだったわ。

 何度も何度も乗り換えてはるばるフランクフルトまでハイディを連れてきたけど、そのままゼーゼマン家に連れていくわけにもいかないから、まず私がハイディのぼさぼさのくせっ毛にブラシを入れて、毛先を切りそろえてあげると、女の子らしいウェーブのかかったセミロングの髪型になった。それからつぎはぎだらけの古着を新調した服に着替えさせ、顔もキレイに拭いてあげると、姉のアーデルハイトにそっくりな、見違えるように愛らしい女の子になった。

 「ねえ、あなたもこれからは、毎日女の子らしく、髪の毛や身だしなみに気をつけるのよ、あんたはほんとうに母親譲りの器量良しだね、」

と褒めてやると、姪っ子は、鏡に映った自分の姿を見て、髪を手ぐしでかきなでながら、

 「あたしがいくらおめかししても、山羊飼いのペーターを喜ばせるだけだわ。」

と八歳の女の子にしては、おませな口をきいた。ちなみに、ペーターというのは、夏の間ハイディと一緒にアルムの牧場まで山羊を連れていく、ブリギッテの息子のことね。

 いよいよゼーゼマン家を訪れて、私とハイディの二人でロッテンマイヤーさんと面会すると、ハイディがクララより四才も年下なので、あやうく断られそうになったのだけど、むりやりハイディをゼーゼマンさんのところに預けておいてきたの。

 あの通りあのころのハイディときたら、山育ちの野生児そのもので、自分の名前もろくにいえないし、本も読んだことがないばかりか、字も読み書きできないし、テーブルマナーも人付き合いもまるでなってなくて、どうなることかとひやひやしたけど、風変わりでひょうきんなところが、遊び相手に面白くて退屈しないと、クララお嬢様ご本人に気に入られたらしく、旦那様のゼーゼマンさんや、老ゼーゼマン夫人にもかわいがられて、しばらくはうまくやっているようだったの。

 私は私で、フランクフルトの都会生活にすっかり浮かれはしゃいでいたわ。ドイツがプロイセン王国によって統一されて、帝政ドイツとなった矢先の好景気に当たってね。それまでは、ドイツ語を話す諸侯国があって、ドイツという国も、ドイツという国の国民もなかったの。彼ら新しい「ドイツ人」たちはみな毎日がお祭り騒ぎのようなものだったわ。私はスイス人だけど同じドイツ語圏の人間で、そんな中で、遅れて来た青春を思いっきり楽しもうと、限られたお給金から奮発して貴婦人のような服を買い、着飾って毎日おもしろおかしく過ごしていたの。

 ドイツはそれまでは小さな王国や自治体の集合体だったから、産業革命が発達しても、ドイツ民族としての国力が弱くて、植民地政策には出遅れていたのよね。それをプロイセン王国の鉄血宰相ビスマルクの力で、ドイツを統一して、一つの巨大な国内商圏というものが成立して、また中央集権と強力な軍事力を背景に、いよいよ世界征服と貿易に乗り出したというわけよね。ビスマルクは、髪の毛はちょっと薄いみたいだけど、ドイツにとってなかなか頼りがいのある人だわ。いずれ世界はイギリスとドイツの最終戦争に発展し、その暁にはドイツが世界の覇者になると思うわ。

 

 

 こいつは驚いた。スイス女のくせに、ドイツのいっぱしの愛国者のようなことを言いやがる。確かに今のドイツは旭日昇天の勢いだ。ナポレオン三世の第二帝政は、内政・外交ともずっと綱渡りの連続で、プロイセンの宰相ビスマルクによって画策された普仏戦争とそれに続くドイツの統一で、ボナパルティズムの化けの皮が剥がれてしまった。以後、共和主義者や復古主義者、ボナパルティストやオルレアニストなどの小党派に分裂して政治的には大混乱だ。もはや昔のブルボン王朝や帝政時代のような挙国一致の勢いはない。

 また、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ一世も、それからプロイセンのゴリ押しで始まった戦争で負けて、ヴェネツィアを取られたり、ドイツの同盟国や覇権を失ったりと弱り目に祟り目だ。ドイツの盟主の椅子から転がり落ちたオーストリアは、帝国経営に懲りることも無く、ハンガリーをますます弾圧し、やはり落ち目のトルコから、イギリスやロシアと同様にバルカン半島の領土を奪い取ろうとしている。フロンティアをヨーロッパの東や南に求めているんだろうが、苦肉の策といおうか、危ない火遊びだね。

 俺が生まれ育ったフランクフルト・アム・マインは、やはり普墺戦争の巻き添えを食って、それまではドイツ同盟の中で完全な自治権を持った、独立した自由都市だったのに、オーストリア側で参戦して敗戦国となったために、プロイセン王国の州の一つに併合されてしまったのだ。俺が十七歳の時だったが、当時は結構ショックだったなあ。

 イタリアも念願の統一国家建設を果たしたが、勤勉実直な北イタリア人に、因循姑息で狡猾なローマ人、退廃的享楽的な南イタリア人が、一つの国にまとまるのは容易じゃあない。古代ローマの再現などまず無理だ。

 昔日の世界帝国、インドはすでにイギリスの手に落ちた。残るトルコと中国の解体によって欧州の世界征服は完了する。トルコにしろ中国にしろ、インド同様余命いくばくもないのは一目瞭然。トルコはロシア、オーストリア、イギリス、フランスに蚕食されていくだろう。ドイツの活路は南太平洋と中国しか残されていないが、その中国沿岸部にもすでにイギリスやロシア、アメリカ、フランスの覇権が及んでいる。我が国は中国とアジアの新興国日本との戦争に干渉して、中国沿岸部のどこかを租借し、そこを橋頭堡として内陸へ鉄道を延ばし、事実上の植民地とするだろう。イギリスが中東やインドでやっている手口だ。朝鮮と遼東半島にはロシアが進出し、イギリスはもっとも肥沃な南支那、上海から長江流域と、香港から広州一帯を押さえるから、わがドイツはおそらく山東半島に進出することになるはずだ。後進とはいえドイツはいかなる国の追随も許さぬ、世界一の先進工業国だ。その科学力・技術力・工業力と、勤勉な国民性をもってして、必要十分な植民地を獲得すれば、欧州のど真ん中を占めるドイツが、欧州全土を統べるだろう。欧州がドイツによって統一されたあかつきには、彼女の言う通りに、日の沈むことのない世界帝国・イギリスとの最終戦争に至るだろう。それだけは間違いない。

 

 

 まあ、それはともかくとして、私が働いている商社は、北海からフランクフルトの本社にいろんな物産を一旦集積し、それからドイツが誇る鉄道網でもって、全国各地や、オーストリアや、遠くはスイスやイタリアまで配送するのよ。

 ゼーゼマンさんやシュミットさんは、昔からの貴族階級の人たちではなくて、そういう新しいドイツという国で急速に力を付けてきた新興階級のようなものだから、古いことにはこだわりなく、新しいことが好きで、鷹揚でさっぱりとしたご性格で、ハイディのようにやんちゃでなんでも思った通り口にする子供がお好みらしいのね。でも、ロッテンマイヤー女史は、もともとヴェッティン家ザクセン・アルテンブルク公の家宰の娘だったそうよ。プロイセンによるドイツ帝国統一の過程で、実家がヴェッティン家ごと没落したので修道女になったのだけど、院長の紹介でゼーゼマン家の家庭教師になり、執事の仕事も任されるようになったそうよ。だから何事もお固くて、自由気ままなハイディのやることなすこと気に食わなくて、ハイディにつらくあたってしまうのよねえ。

 

 

 俺はそこでふと疑問を感じて、口を挟んだ、おや君はさっきシュミットさんのところで家政婦として働いている、と言っていたようだけど、今は、シュミット・ゼーゼマン・ニューギニア商会の社員になったってことかい。

 

 ええ、そうよ。

 いえ、私もね、最初の一、二年は、シュミットさんのお屋敷で家の中のこまごまとした雑用に携わっていたのだけど、ご主人の貿易の仕事が猫の手も借りたいくらいに忙しくなってきてね。私も商社の事務所にヘルプで出るようになって。そしたら、私も文字の読み書きやお金の勘定くらいはマイエンフェルトの国民学校で習って一通りできるものだから、何かと会社の事務の仕事を手伝うようになったのよ。そうしたらご主人様から、その働きぶりを認められて、お給金もずっと上げてもらい、今ではすっかり事務所の専属職員として勤務しているというわけよ。毎日死ぬほど忙しくなったけど、充実していてやりがいのある仕事だわ。ずいぶん暮らし向きも楽になって、最初は住み込みの家政婦さんだったけど、今では一人できままに下宿しているのよ。仕事のストレスも増えた代わりに、遊びも人付き合いも派手になって、新しく出来たお店を仲間たちとあちこち食べ歩いて、お酒の味も覚えて、毎日飲むお酒の量もどんどん増えてしまったけど。

 まあそんな具合でね、私の人生、おおむね順風満帆で、フランクフルトの水にも慣れて、友達もたくさんできて、年が年だけに浮いた話は多くもないけど、都会暮らしを私なりに堪能し、姪のハイディのことは、すっかり忘れかけていた、その矢先のことだったわ。

デーテ 13. 都会の仕事

 母が亡くなった夏、 フランクフルトから、今お勤めしているシュミットさんのご一家が、はるばる汽車を乗り継いでラガーツに保養に来られたのよ。ご当主のシュミットさんと奥様とご子息。また、シュミットさんの伯母で、ゼーゼマン家に嫁いだゼーゼマン夫人。

 あなた、新聞記者だから、シュミットさんやゼーゼマンさんたちの御一家のをことを詳しく知りたいでしょ。私がしゃべったって言わなきゃ教えてあげるわ。

 昔、シュミットさんのお父さんやその兄弟たちは、まだこれからという若さで、癌を患ったり結核に侵されたりして亡くなってしまった。残された子供たちはまだ若い。

 ゼーゼマン夫人の旦那様もやはり貿易先のニューギニアでマラリアに罹って亡くなってしまった。ゼーゼマン夫人にはたった一人の息子、ゼーゼマンさんがいらっしゃったけど、この子もまだ若い。

 それでシュミット家とゼーゼマン家の長となったゼーゼマン夫人は、残された就学中の子供らを養育して、大学を卒業するまで面倒をみて、シュミット家とゼーゼマン家の合弁会社を作り、それを今日の規模まで大きくした。つまり、シュミット・ゼーゼマン・ニューギニア商会はゼーゼマン夫人お一人で作り上げたようなものなの。ほんとうにゼーゼマン夫人は、男まさりの活動家で、商才のある方だと思う。そのかわり、いつもドイツ中、鉄道でせわしなく移動していらっしゃるのだけどね。

 実際、今のドイツというところは、いろんな新しい産業が興ってきて、どんな仕事を始めても面白いように儲けが出て、おばあさまのような人にとって、一代で財を成す絶好の機会に恵まれた国だと思うわ。

 ゼーゼマンさんも、シュミットさんも、統一ドイツの恩恵をうけて、ここ十年か十五年くらいの間に急に富裕になられたのよ。もともとフランクフルトはドイツ同盟経済圏の商品流通の拠点で、ここで商社を営んでらしたのだけど、ドイツが統一されてから、にわかに植民地経営が盛んになって、ハノーファー王国のハンブルクやブレーメンなどの、北海に外港を持つ町に支社を構えて、アフリカやニューギニアなどにドイツが新たに獲得した植民地や、さらにアジアの中国やインド、日本などとも船便で交易するようになった。

 今ではシュミットさんもゼーゼマンさんも立派に成長なさってそれぞれ仕事を継いでおられるので、ゼーゼマン夫人は、自分は自分で、好きな仕事をしたり旅行をしたりして、あまりフランクフルトの屋敷には居着かないで、悠々自適に暮らしていらっしゃる。

たまたまラガーツに保養所が開設したというのを聞き及んで、こちらまで甥のシュミットさん家族を連れて遊びにいらしたの。

 私がそのシュミット家の人たちの担当になってお世話してあげたらゼーゼマン夫人に気に入られちゃって、「あなたのようによく気がついて働き者の女性を是非うちで雇いたい、フランクフルトの屋敷で家政婦として働いてくれ」と言われたの。フランクフルトと言えばドイツ一の、いや世界一の大商業都市よ。私も山育ちで噂だけはいろいろ聞いていたけど、自分がそんなところに行くことになるとは、考えたことさえなかったわ。

 去年、ゼーゼマン夫人にお誘いを受けたときは、ラガーツの旅館に住み込みで働き始めたばかりで、ご奉公の支度金をだいぶ前借りしていたものだから、急には辞められなかったのだけど、その翌年の夏にもゼーゼマン夫人がまた温泉にきて、今度こそは一緒に来てくれっておっしゃるの。お給金も何倍にも増えるし、そもそもこんな田舎の湯治場で仲居の仕事なんかしてるよりは、ずっと楽しい暮らしができるよって。そのころには私も、こちらで借りていたお金をすっかり精算できるめどがたっていたの。やっと運が巡ってきたと思ったわ。

 でも、気がかりなのはハイディのことだった。私はゼーゼマン夫人に言ったの、「私にはハイディという姪がいて、その子を養わなくてはならないから、その子も一緒にフランクフルトに連れてきてもよろしいでしょうか、」って。

 そしたら、「一人子供が付いてくるくらいわけのないことだが、その子には他に身よりはないのかい、」と。

 私はお答えしましたわ。「祖父が一人おります、私の義理の叔父にあたります、」と。

 「そんならその子はそのおじいさんに育ててもらえばよい、あなたもいつまでもコブ付きだと、婚期を逃してしまうよ、おじいさんなんてのは、老い先短いのだから、孫娘の相手でもしているのがちょうどよい。あなた自身のためにも、その娘さんのためにも、そうした方がよい。その方があなたもばりばり仕事ができ、楽しく遊べて絶対良いから、」と。

 でまあ、私も生まれてずっと地味な山里暮らしをしていたから考え方もちぢこまってひっこみ思案になってしまっていたのだと思うけど、まあアルムおじさんに今更子育てなんてできるのかしらと不安もあったけど、ゼーゼマン夫人のおっしゃることはまったくもっともだと思った。ハイディは五才になってだいぶ世の中の物事も理解できるようになっていることだし。ハイディの実の祖父で、トビアスの父の、アルムおじさんがハイディの一番近い身寄りなのだから、もともとおじさんが養うべきだったのよ。これ以上私ばかりが苦労を背負い込むのは不公平というものだわ。おじさんも親族としての責任を自覚すべきよ。そんなふうに思えるようになった。

 デルフリの親戚や友達には大反対された。身内を捨て故郷を捨てて都会暮らしするってことが、田舎娘たちには理解できないのよね。特に、こちらの村に嫁入りしたばかりで、まだなんにも知らないバルベルという人には。あんないたいけな子を偏屈爺のところに置き去りにするなんて、あまりにもひどい仕打ちだなんて言われたけど。いったい何がわかるというのよ。人のうちの事情なんて、所詮他人様にはわからないものよ。

 アルムおじさんにも、もう顔を見せるなとまで言われたけど、姪のハイディのことを忘れたわけじゃなかったわ。だって私がもっと稼いでお金持ちになった方がハイディに良い思いをさせてあげられるし、落ち着いたらアルムおじさんのところから引き取ってまた面倒をみてあげようと思っていたの。

 そうして、ハイディを預けて、もとから少ない財産はすべて処分して、単身フランクフルトに移り住んだのよ。

デーテ 12. 姪と二人の暮らし

 話は戻るけど、遺された姉夫婦の子、姪のハイディを母と私が引き取ったのだけど、私はそのときまだ22才だったわ。いろいろ遊びたい盛りだったけど、贅沢なんて言えない状況だったの。姉夫婦が健在だったら、私も今頃はどこかの家に嫁いでいたに違いないわ。縁談の話もいくつかあったのだけど、うちにハイディという小さな子がいて、母は老い先短く、家にはたいした資産もなく、私と結婚するともれなくハイディもついてくる、という状況では、普通の殿方ならどうしても躊躇してしまうわよね。

 私の青春は、身内に引き続いた不幸のために台無しになってしまった。特にハイディという幼子のために。老いた母と自分を養うだけでもたいへんなのに、まだお乳を飲み、おしめもとれない子供の世話するのだから、ほんとうに毎日働いて食べていくだけで精一杯だったわ。

 そして、ハイディが4才のときとうとう母もいろんな苦労がたたって死んでしまった。

 母は、亡くなる間際まで私にハイディをくれぐれも頼むと言い残していた。ハイディの祖父のおじさんは山に引き籠もったきりになってしまい、みんなからは「アルムおじさん」と呼ばれるようになった。つまり、人里離れた山の牧草地に住んでる変人のおじさんという意味ね。もともと、ナポリ帰りの元傭兵で、凶状持ちだっていう噂だし、山に篭ってからは、村人たちはおじさんを完全に野蛮人か修験者扱い、私とハイディはその唯一の身寄りなものだから、私まで肩身が狭くて仕方がなかったわ。おじさんはおじさんで、人付き合いすると、悪いことばかり覚えて、何一つ良いことはないと、もう極力、下界との接触を避け、「神でも人でもないもの(自然の獣たち)」とだけつきあうようになってしまった。

 それで、おじさんはまったく当てにならないし。どうにも仕方がないので当時25才だった私が姪のハイディを一人で育てることになった。私がおじさんと違って村で信用があるのは、私がハイディを女手一つで立派に育てて、村のしきたりにしろ寄り合いにしても手を抜かず、きちんと真面目に暮らしてきたからよ。

 ずいぶん苦労しただろうねって、そりゃあ、いくらおしゃべりの私だって、言葉で尽くせないほどの苦労があったのよ。

 ハイディはおじさんや父親のトビアスによく似て、髪の毛は真っ黒なちぢれっ毛のもじゃもじゃ。瞳も真っ黒。でも目鼻立ちは姉のアーデルハイトに似て整っていて、肌も赤みがかった白できれいだわ。頭は良くて自分一人でおとなしく遊んでいるから、手はかからないけど、コブ付きでは私が働ける仕事も限られる。

 私のうちには、父が残してくれたデルフリの土地や屋敷、家畜など、わずかながら先祖代々の資産があって、父が死んだあとはそれを人に貸したり母が内職したりなどして、なんとか食べていけたのだけど、その遺産もとっくに食いつぶしてしまって、毎年返す当てのない借金が増えるばかり。なんとか利子だけは返して、頭を下げまくって返済を待ってもらうの。ああ、貧乏ってほんとに嫌なものね。デルフリでは食べていけるような仕事もないので、デルフリ村の父の実家や土地などはすでに借金の担保に押さえられていたけど、それも一切合切処分して、わずかばかりのお金に替えて、 ラガーツ温泉の大きな旅館で、住み込み仲居兼お針子として働くことにしたの。

 ラガーツはもと、ライン川を挟んだ、マイエンフェルトの対岸の、普通の石ころだらけの河原に過ぎなかった。タミナ川が深い渓谷を作って、ここラガーツでライン川に合流する。このタミナ渓谷に温泉が発見されたのは、13世紀の頃。道なき道の奥の崖の下に湧き出る秘湯中の秘湯。当初は、狭い崖の底へロープをつたって下りたのだそうよ。それでもその頃から大勢の人が、難病を癒すために、この湯治場を訪れていた。

 タミナ渓谷は、古来、プフェファース修道院の所領で、18世紀頃までに、タミナ渓谷の出口に当たるプフェファース村に、修道院が簡易宿泊施設付きの療養所を用意する。

 今世紀になって、いわゆる蒸気機関車というものが実用化され、私が生まれた頃に、ちょうどスイスでも州政府が民間会社に鉄道の敷設を認可し始めたので、スイス国内でもバーゼルからチューリッヒ、クールからサンクトマルグレーテンまでつながって、ドイツからバーゼルまで鉄道が延びてきて、最後にチューリッヒとサルガンスの間にも鉄道が敷かれたから、とうとうドイツ各地からグラウビュンデンまで鉄道で旅できるようになってしまった。

 そうすると、鉄道経由でやってくるお客様目当てに、線路沿いのラガーツまで木製のパイプラインでもって温泉を引いてきて、保養所やホテルを建てようって計画が持ち上がったの。

 ドイツの大手資本がどんどん進出してきて、当時世界で初めての温水プールなども作られたりして。まあ、源泉は36.5℃しかないから、パイプラインで引いてくるうちに冷えてしまって、温泉というよりは鉱泉に近いんだけどね。

 で、たちまちいっぱしのリゾート地のようになって、山育ちのスイス娘たちにも、女中や仲居に大勢募集があって、ここら一帯では一番の観光産業の拠点となって、あっという間に一つの大きな町ができあがったというわけなのよ。

 今やマイエンフェルトからフランクフルトまでは、ライン川沿いの鉄道を、夜行列車に乗って一晩で着くことができるようになったわ。なんて便利な時代になったのかしらねえ。スイスにも毎年大勢の観光客が訪れて、観光業がスイスの一大産業に数えられるようになったのも、この頃からよ。

 プフェファース修道院には、私みたいに、ラガーツで働く子持ちの女から、その連れ子を何人も預かって育てていた。ハイディの担当はウルゼルばあさんという、少し耳の遠い人。ともかくこの修道院があるから、私は安心してハイディを預けて仕事することができたの。プフェファースはラガーツから険しくうねった山道を一時間は登らないといけない。私は毎日朝から晩まで忙しいから、ハイディと会えるのは週に一度、二人で教会に礼拝に行く日曜日だけ、あとはウルゼルばあさんに、ハイディのことは何もかも任せきりにするしかなかった。

 でも、仕方ないでしょう。他にどんな方法があったというのかしら。どうやって2人食べていくか、全部自分で考えて、自分できりもりして。これまで無我夢中で生きてきたわ。

 みんないつも、物心つくまえに両親に死なれて、1人残されたハイディが不憫でならない、かわいそう、って、そればっかり言うけど、ほんとにかわいそうなのは私の方よ。うら若い、これからっていう娘が、結婚もしてないのに子育てと雇われ仕事に追われるなんて。ほんとうに私って絵に描いたような不幸な星の下に生まれたのね。気づいたときにはもう30過ぎの独り身のおばさんになってしまったわ。

デーテ 11. 叔父の帰郷

 ドムレシュクの人たちは、父さんが、ナポリではガリバルディの赤シャツ隊の切り込み隊長だったとか、シチリアでは悪虐非道の限りを尽くしたとか、私的な喧嘩で人を殴り殺したりとか、そのために軍隊を脱走したりとか、さんざん噂したのだけど、話には尾ひれがつくもので、実際には、そんなむちゃくちゃな行状はなかったのじゃないかなあ。何しろ父さんは工兵だったから、もっぱら後方支援に当たっていたのだと思うし。

 僕の生まれた年は、イタリア統一がなって3年後くらいだから、父さんが軍役を解かれて、まだナポリに滞在していた頃に僕は生まれたはずだ。でも、僕にはナポリの記憶がない。

 ナポリで経営がうまくいかなくなってから、僕たち親子は、イタリアのいろんなところをさまよった。父さんは、傭兵時代に知り合った、ピエモンテやロンバルディアの仲間たちをあちこち頼ったらしい。広い畑の中の町だったり、海のそばだったりした。でもいつも、僕がその土地に慣れるより前に引っ越してしまう。最後に大きな町、ミラノだと思うんだが、そこに着いたとき、「母さんはどうしてもスイスには帰りたくないという。だから母さんを残して二人でスイスに帰ろう、」などと父さんは言い出した。僕は、母さんと別れたくないと泣いて頼んだ。「母さん、父さんと一緒にスイスに行こうよ」僕は母さんにお願いした。そしたら母さんは「私と一緒にナポリに帰りましょう、トビアス。父さんは、どうしてもスイスに帰りたいというのだけど、私はイタリアを離れたくないの。」という。

 「母さん、僕と母さん二人きりでどうやって食べていくの。」そう聞くと、「スイスに帰ったって事情は同じよ。食うや食わずの生活をしなきゃならないんなら、スイスにいるよりイタリアにいるほうがずっとましだわ。」

 父さんは、とてもいらいらし始めて、「俺と一緒にスイスに来るか、母さんとイタリアに残るか、どちらか選べ」と言う。僕にはどちらも選べなかった。「ねえ、僕もすぐに大きくなって父さんの仕事を手伝えるようになるよ。僕が働けるようになるまでしんぼうして、ずっと三人で暮らそうよ。」僕はそういった。でも、父さんも母さんも、とても困った顔をして、黙りこくってしまった。

 その夜、母さんは、眠っている僕を起こして、「さあトビアス、服を着なさい、そして私と一緒に逃げよう。そしたら、父さんは一人でスイスに帰るでしょう。あんたが来なきゃ、私一人ででも、ナポリに帰りますよ。」そう言って、僕を連れ出そうとした。母さんは僕と自分の分の荷作りをしてすぐにも夜逃げする気だったんだけど、僕が母さんを引き留めて、母さんもその晩は諦めてしまった。

 結局父さんは母さんを無理矢理説得して、母さんはいやいや、僕たち親子3人は、アルプスをよじ登って、サン・ベルナルディーノ峠を越えて、ドムレシュクに戻ってきた。父さんにとっては2度目の帰郷、最初に故郷を出てから15年も経っていた。

 僕はといえば、初めて見る山国の景色に、僕には毎日が驚きの連続だった。

 スイスでの暮らしはやっぱり全然うまくいかなかった。母さんは子供の頃ずっと父親に糸車で糸を紡ぐ仕事をやらされていたんだけど、スイスに戻ってくるとやっぱりおんなじ仕事を朝から晩まで、来る日も来る日もしなくちゃならなかった。母さんはいつもナポリに帰りたがった。父さんと母さんの関係はギクシャクしていて、母さんは時々家出までして、しばらく家に戻らなかった。父さんはそのたびに癇癪を起こして母さんを殴った。そうしているうちに母さんは重い病気にかかってしまい、長患いした後、回復せず死んでしまったんだ。母さんにはまったく身寄りがなかった。親戚はみんな母さんより先に死んでしまっていたし、幼馴染みの友だちともまったく連絡を取っていなかったし、隣人に頼ったり助け合おうともしない人だった。なぜ母さんがそんな人だったのか、僕には良くわからない。ちょっと変わった性格の人だったことは確かだ。

 父さんはすっかり母さんに愛想を尽かしてしまっていて、母さんが勝手に病気にかかって死んでしまったと腹を立てて、お葬式もせず、お墓に墓標を立てることさえしなかった。まるで無縁仏みたいな扱いをされたんだ。

 母さんが死んで、みんなは父さんのせいで母さんが早死にしてしまったって父さんを責めた。そうなのかもしれない。でも僕には、父さんも母さんもどっちもどっちに見えた。母さんも父さんも意固地で聞き分けがなかった。父さんは人の忠告を聞かない人だけど、それは母さんも同じだ。実際、父さんは確かに癇癪持ちで厳しく、酔っ払うと暴れたけど、僕自身父さんから虐待を受けたとは思ってない。母さんは僕を嫌ってはいなかったが、僕をどう扱って良いかわからず、誰にも頼ることもできず、半ば育児放棄か、育児ノイローゼみたいになっていたと思う。僕は父さんも母さんも好きだ。二人がうまくやっていけなかったのはほんとうに不幸だったと思う。

 父さんもやはり1人で僕を育てることができず、途方に暮れて、ドムレシュクの親戚たちを頼った。ドムレシュクの人たちはみんな、父さんがいきなり目の前に現れて、まるで疫病神か亡霊を見るようで、若い人たちはもう父さんを知りもしない。年寄りばかりが知り合いだった。父さんは、浮浪者かと見紛うおちぶれようで、そのうえ、

 「この子が自分で働いて食っていけるようになるまで、しばらく預かってくれないか?今は俺も、このとおり落ちぶれて見る影もないが、そのうち何年かかろうと、金を稼いで、きっとお礼はする。」

と僕を親戚の誰かに預けて、自分はしばらく実入りの多い出稼ぎ仕事でもしようとしたのだけど、みんな父さんとこれ以上関わり合いになって面倒を被りたくなかったんだ。どこの家でも、ひどく冷たい仕打ちを受けたよ。父さんは

 「畜生、こんな田舎、もう二度と足を踏み入れてやるものか!」

とかんかんに腹を立てて、僕を連れて、さらに山を下って、グラウビュンデンのどんづまり、デルフリに住み着いたというわけだ。デルフリには僕や父さんの世話をしてくれる親戚もいなくはなかったし、父さんは、ヤギを飼ったり、ヤギの乳でチーズを作ったり、家具をこさえて売ったりしながら、村のはずれの掘立小屋で、自給自足に近い暮らしを始めて、僕を育ててくれた。父さんもデルフリを第二の生まれ故郷のように思って、それなりに気に入っているように見えた。

 それから何年かして、ようやく国民学校を卒業し、兵役にとられる年になると、僕はそのまんま傭兵にさせられてしまうところだった。父さんは、僕がただで手に職をつけるため、自分と同じように工兵にしたかったらしい。だけどスイスは連邦政府ができて、もう傭兵はやめようという流れになってきたし、僕はアーデルハイトとつきあいだしていたから臆病風に吹かれてしまい、彼女も父さんの話を聞くともう怖気をふるって、僕が戦争に行くのを嫌がったものだ。僕は結局、父さんや親戚、それからアーデルハイトの親に学費を前借りして、そのうち返すという約束で、メールスで徒弟になったんだ。

**

 とまあ、こんな具合に、トビアスは私に、おじさんが傭兵だった頃の話やヨーロッパの国際情勢のことやら、身の上話などを、たびたび話して聞かせたものだったわ。

 

 

 こいつは驚いた。身の上話から政治のことまで、よくまあ次から次へと、べらべら良くしゃべるスイス女だな、口から生まれたとはまさに彼女のことだと、俺はあきれたが、俺は、その話の腰を折ることもなく、辛抱強く、身内ネタばかりでわかりにくい彼女の物語りに耳を傾け、うんうんと頷きながら聞いてやった。

 なるほど、ソルフェリーノの戦いのことは俺も聞いたことがある。ちょうど俺が生まれて間もない、今から30年ほど前にイタリアであった戦争で、スイス傭兵という「血の輸出」禁止のきっかけともなり、またスイス人アンリ・デュナンによる赤十字運動の発端ともなった戦争だ。皇帝ナポレオンと諸大国の間で戦われたライプツィヒの戦いに次ぐ規模の、歴史的大会戦だ。

 トビアスという男、つまりこの女の義理の兄は、イタリア統一戦争の後に生まれたことになるから、今まだ生きていれば、やはり俺と同じくらい、30台半ばの年になっているはずだ。

デーテ 10. ガエータの戦い

 シチリア独立派たちは、王を擁立して、あくまでも北イタリア政府に抵抗するかまえを崩さない。彼らはシチリアやナポリの山岳地帯に竄匿(ざんとく)した。王フランチェスコと王妃マリア・ゾフィーが、ナポリを脱出して、ローマの南に位置するティレニア海に面した港町ガエータへ海路入ったと知ると、多くの戦士たちがガエータ要塞に集結した。

 王妃マリアの姉エリーザベトはフランツ・ヨーゼフの妻、つまりオーストリア皇后だった(エリーザベトとマリアは、いずれもバイエルン王家の傍系であるバイエルン公マクシミリアン・ヨーゼフと、バイエルン王女ルドヴィカの間の子)。マリアはしきりにオーストリアに救援を請うたが、フランツ・ヨーゼフは北イタリアの敗北に懲りて、動こうとはしない。マリアは要塞の中でみずから傷病兵を看護し、食料を分け与えて、ブルボン家を護る「戦う王妃」としてけなげに献身した。

 ガエータ要塞は海に突き出した地峡の先の岩山に作られた頑丈な砦で、当時欧州随一の難攻不落の城塞として名高かった。ティレニア海に洗われそそり立つ断崖に取り囲まれており、ピエモンテ艦隊の海からの砲撃では、ほとんど損傷を与えられない。チャルディーニ・ガリバルディ連合軍によって地峡側から激しい爆撃が加えられたが、四ヶ月間落とすことができなかった。爆裂弾の砲撃によって火薬庫が爆発するなどして、多くの死傷者が出た。何度も休戦や講和交渉が行われたが、しかし、籠城兵の戦意がゆるぐことはなかった。最終的に、フランス皇后ウージェニーから王妃マリア宛に送られた書簡によって、王と妃は王国退去を決意し、降伏することになった。

 こうして両シチリア王国はガリバルディがマルサラに密航してから十ヶ月、ナポリが落ちてから五ヶ月、とうとう滅亡した。王党派の残党が立て籠もったチヴィテッラ要塞も、王国滅亡の一ヶ月後には陥落した。

 サヴォイア公兼ピエモンテ公兼サルディーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世はイタリア王に即位。首都はピエモンテのトリノとした。ヴェネツィアやローマ教皇領などが漏れたが、ともかくもここにイタリアの統一がなった。これらの一連の戦役は現在では第二次イタリア統一戦争と呼ばれる。最大の功労者カヴールは、激務のため、戦役中からずっと不眠症に悩まされていたが、統一後わずか三ヶ月で、マラリアとおぼしき病に罹った。功成り名を遂げやっと五十歳になったばかりで急逝した。

 ガエータ攻略に功績があったチャルディーニ将軍はなんとガエータの領主、つまりガエータ公(Duca di Gaeta)に叙せられ、ナポリに進駐して、政情不安な南イタリアの治安維持にあたった。今や事実上、十万人にもふくれあがったイタリア国軍の主力はここナポリ駐屯軍なのである。

 ナポリやシチリアの山岳地帯にはギャングかマフィアまがいの残党がなおも立てこもっていた。俺はそれからもずっとチャルディーニ将軍のもとで傭兵を続けていくこともできたのかもしれんが、将軍による民衆の弾圧は凄惨を極めた。我々はかつて入れ替わり立ち替わり住民を搾取した両シチリア王国歴代君主と何ら違わない。南イタリアのナポリやブリンディシまで北から鉄道が延びても、産業革命やブルジョア革命の恩恵にナポリ人やシチリア人は無縁で、北イタリアの大資本が南イタリア人民を搾取する構図は変わらなかった。

 俺は、かつて両シチリア王国でブルボン家の王の親衛隊をしていたスイス人らと、今ガエータ公チャルディーニの下で傭兵として働いている自分の境遇がまったく同じものであることに、絶望した。我々は貧乏なスイスという国から金で雇われてこの貧乏な南イタリアに来て、俺たち同様貧乏な現地住民らを弾圧する手先になっているのだ。それが我々スイス人の宿業なのか。これからも未来永劫そんなことを繰り返すのか。なんともやりきれない。俺は、自らの意思で除隊することにした。

 その後の戦争は、俺には直接関係ないわけだが、ガリバルディはローマ、ヴェネツィアを回復する戦いをあきらめず、再びシチリアに私兵を募った。あの、テアーノの和解とはいったいなんだったんだろうね。ガリバルディは、王の前で、中世の騎士みたいな気分になってしまっただけなんじゃないかなあ。それで後で、ほんとうにやりたいことはこんなことじゃあなかったのに、と悔やんだのかもしれない。

 ガエータ公チャルディーニはガリバルディとカラーブリアのアスプロモンテで衝突し、ガリバルディは敗れ負傷する。ガリバルディは懲りないやつでその後何度もローマに進軍しようとした。ガリバルディを支持する愛国者もたくさんいたのだ。彼をイタリア民族主義の体現者であったと言うのはたやすいだろうがね。実体はマフィアの親分、秘密結社の棟梁みたいなやつだったんだろうよ。カヴール閣下亡き後イタリア王国の首相は頻繁に交代し、共和派や南イタリアの独立派の動きも活発だった。閣下の僚友でもあったナポレオン三世も大いにイタリアの先行きを危惧したのだったが、結局ローマもヴェネツィアもその後「自然と」イタリア王国に編入され、イタリア統一戦争は収束していった。

 アルプスの山の中で育った俺には、ナポリは日差しに溢れた南国、温暖で、傭兵の報酬としてもらった金がたっぷりあったから、当面暮らしに困らなかった。しかし俺は、失踪した弟のことを思い出した。俺はやはりドムレシュクに戻り、農園を再興しなきゃならん。そうしたら弟も戻ってきて、また元通り、昔のように仲良くやっていけるだろうと思った。

 それで俺は、サン・ベルナール峠を越えて生まれ故郷に戻った。そんなとき、町の盛り場で出会ったのがフローニ、そう、おまえの母さんだ。

 俺はフローニに、ナポリの話を面白おかしく聞かせた。もともと俺はお調子者で、その頃の俺は羽振りも良かったし、フローニはたちまち俺の話に夢中になった。フローニはスイスを嫌っていて、海外に憧れていて、俺と結婚すればスイスを離れてアメリカに行けると思い込んだ。

 フローニは俺にアメリカに連れて行ってくれとせがんだ。俺は、弟のことが気がかりでいったんは断ったものの、「そんな家を見捨てて飛び出した弟のことなんかほっときなさい、あなたはあなたでやりたいようにやれば良いのよ、」というフローニに説得され、だんだんと俺も新天地に渡るのは悪くないと思い始めた。

 それで俺は彼女の望みを叶えてやることにした。彼女と結婚し、ドムレシュクの地所などすべて処分し、ナポリに移り住んだ。俺は軍隊にいたとき工兵だったから、大工の技術はあった。俺は船大工になろうと考えた。この大航海時代、ここナポリで造船の仕事をすれば大儲けできると思ったからだ。それで店をかまえて、弟子や使用人も雇い、手持ちの金を元手に工場の経営を始めた。そうしていよいよ資金が十分に貯まったらアメリカに渡ろうと考えていたのだが、ナポリというところは、人間の気性が北イタリアやスイスとはずいぶん違っていてなあ。どうにも商売がうまく行かないし、使用人もいうことをきかない。いつの間にか借金だけが増えていき、お前や妻を養うこともできないくらいに落ちぶれてしまった。

***

デーテ 9. 両シチリア王国

 スペインのハプスブルク家は後嗣が無く途絶し、継承戦争によってフランスのブルボン家がスペインの君主となった。これがスペイン・ブルボン家。シチリア王国とナポリ王国もスペイン・ハプスブルク家の所領であったが、どうようにスペイン・ブルボン家の分家に領主が代わる。

 ピエモンテを含む欧州の多くの国は、憲法を持つ議会制民主主義の国家に移行しつつあった。大衆万能の時代が到来しつつあった。フランス革命によって生み出された人民軍の強さがそれを実証した。君主は主権者たる国民の上に君臨する存在としてのみ、存在を許されるようになってきた。

 ブルボン家の分家のまた分家、若きシチリア王フランチェスコは、バイエルン公の娘マリア・ゾフィーと結婚し、その直後に父フェルディナンドが崩御したために王位を継いで、まだ1年も経っていなかった。若干23歳。王妃マリアは5歳年下で、まだ18歳。

 フランチェスコは英邁な君主であった。彼にも自分の置かれた立場が、自分の国の命運が、見えていた。ブルボン家の本家がフランス革命で断絶したさまも、まざまざと目にしていた。しかし、歴史の渦中にいるものは皆、過去にあったことはよく見えても、未来はぼんやりとぼやけて見えないものである。その半透明のスクリーンに自分に都合の良い幻影を投映したがるものである。

 彼はまだ若く、治世の実績もなく、国難に対処するのは最初から不可能だった。正直な話、もうしばらく妻と新婚気分に浸っていたかったに違いない。彼に適確且つ果断な政治判断を期待するのは酷というものだ。国内には秘密結社がはびこり、反乱や暴動が頻発していた。町も村も治安は最悪。対外的にはイギリスとロシアの板挟みになり、北から南へ向かって、イタリアでは革命が進行しつつある。王は、破産寸前の会社を相続した世間知らずの若旦那のような立場に立たされていた。イタリアは今や、古い体制が自然崩壊し、フランスの影響を間近に受けて一足先に民主化と産業革命が進展したピエモンテを盟主として、新しい時代へ移行しようと急いでいるかのようだった。

 かたや両シチリア王国は、時代の流れに乗って国民国家となるにはあまりにも君臣の距離が隔絶していた。立憲君主制や議会制民主主義が成立するにはブルジョアジーが不可欠である。産業革命が生み出す新興勢力が必要である。富裕な市民を欠く革命は王政を根こそぎ倒してしまう。国民は躊躇無く王を捨て、自分たちの共和国を作ってしまうだろう。

 王フランチェスコにとってピエモンテとの同盟は、彼を、王国を救い得る最善にして最後の提案であったろう。しかし彼は、それに手を伸ばすことをためらった。フランチェスコにせよ、ヴィットーレ・エマヌエーレにせよ、君主らにとってカミッロ・ベンゾという男は苦い薬だった。

 ナポリやシチリアというところは、めまぐるしく領主が交替する。古代にはギリシャの植民都市があった。ナポリという町の名も、ギリシャ語のネアポリス(新しい町、という意味)が語源である。その後、一部がカルタゴ領になり、古代ローマ共和国の属州となり、ゲルマン民族移動によって東ゴート王国となり、アラブ領となり、東ローマ領となり、ノルマン人によって征服され、その後もハプスブルク家やブルボン家などの異邦の王族に支配されてきた。シチリア人やナポリ人といった現地住民による国が建てられることはなかった。ピエモンテやスイスとはまったく異なる国柄である、と言える。

 住民の気質はギリシャ人、コルシカ人、サルディーニャ人、或いはチュニジアのアラブ人らと近く、個人主義的、享楽的。その上土地は痩せ、大した産業もなく、人民は貧しく、地縁も血縁もない君主にとって、かわいげがなく、旨味も少ない領地である。勢い、専制的な搾取・収奪・そして弾圧が常態化していた。

 飼い犬や飼い猫を愛さない人がいないように、領民や領国を愛さない領主もいない。しかし、次第に馴れ、思い通りにならず、期待に応えてくれないと、愛情は憎しみに変わっていく。飼い犬に手を噛まれた飼い主が、自分に忠実な犬に折檻を与えてしまうように。

 自然とイタリア諸国の中でピエモンテは開明的なイギリス・フランスに接近し、両シチリア王国はスペインやオーストリア、ローマ教皇など、どちらかと言えば古臭い後進国に親近感を持ち、特に当時世界最大の専制君主国であるロシア帝国と接近しようとする。

 ロシアは、黒海からエーゲ海を経て地中海へ、ジブラルタル海峡を経て大西洋、或いはスエズ運河を経てインド・アジアへと進出しようとしていた。オスマン帝国の弱体化に伴ってロシアが地中海に進出し、シチリアがロシアの寄港地になるようなことは、ジブラルタルやスエズを押さえるイギリスにとって決して容認できない。そこで、ロシアの地中海進出を徹底的に阻止しようとしたイギリスとの間で、クリミア戦争が勃発したのである。

 イギリスからみても、両シチリア王国は、煮えきらない、むしろ危険な国に見えた。王フランチェスコを見限ったイギリスは、力尽くでシチリアに権益を確保しようとする。特に不満分子が多いシチリアの住民に加担し、イタリアの革命家ジュゼッペ・ガリバルディをシチリア島の最西端マルサラに密航させた。ガリバルディは自らピエモンテで募った義勇軍とともに、オーストリアと戦っていた。それら義勇軍を再編成して、ジェノヴァから二隻の船に乗ってマルサラに上陸したのが、かの有名な赤シャツ隊、あるいは千人隊と呼ばれる部隊だ。それ以前にガリバルディはイタリア統一のための戦いに何度も従軍し、アメリカやイギリスに亡命したこともあり、軍略家、活動家、憂国の士としてすでに世界的に名高く、イギリス高官たちにも高い人気があった。そこでイギリスがシチリアに干渉するためのエージェントとして、彼に白羽の矢が立ったのである。

 シチリアの首府パレルモを落としたガリバルディは、イギリス海軍の支援を受けつつ、イタリア本土を隔てるメッシーナ海峡を渡る。カヴールはガリバルディに海峡を渡らぬよう、強く制止した。彼にしてみればガリバルディの軍事行動はイギリスによるイタリアへの干渉、シチリアの独立派の扇動に他ならないし、そもそもカヴールは未だに両シチリア王国の元首・フランチェスコを救いたい、と考えていた。カヴールは王ヴィットーリオ・エマヌエーレのために南イタリアを征服すべきだとは、考えていなかった。イタリア人民のためにイタリア連邦を作る最良の方法を模索していただけだ。南伊征服の野心を持っていたのはむしろサヴォイア公にしてピエモンテの君主、そしてサルディーニャ王たるヴィットーリオ・エマヌエーレではなかったか。彼はガリバルディに同情的で、彼の行動を黙認した。

 ナポリ王は長年スイス傭兵を親衛隊として雇っていた。スイス人の中には将軍となり、爵位をもらってナポリに永住するものさえいた。一八四八年にスイス連邦が発足すると、連邦政府は州兵の輸出を制限したため、多くのスイス傭兵が帰国したが、ナポリにはなお多くのスイス傭兵が残っていた。ナポリでは実質的には、現地ナポリやシチリアの貴族や民衆ではなく、スイス人が王の股肱(ここう)と頼む家臣だったのである。

 勤勉なスイス傭兵と、自堕落な地元貴族らは常に対立した。スイス兵にしてみれば、何もしないで特権を享受しているナポリやシチリアの貴族と同等かそれ以上の待遇を王に求めたい。ところがよそ者のスイス兵が重用されることに地元貴族は我慢がならない。当主フランチェスコがスイス人の親衛隊らと待遇改善交渉をしている間に、スイス兵は地元兵に包囲され、銃撃されてしまう。

 この事件の結果、王は親衛隊の維持を諦め、スイス傭兵らを解散し、王国に残るも去るも自由にさせた。一部の傭兵は帰国し、一部は王とともに最後まで運命を共にすることを誓う。

 王の家臣たちは、保守的な独立派と、議会制への移行を望む開明派と、過激なイタリア統一派とに分かれ、激しく対立して、収拾がつかなくなっていた。穏健なリベラル派は、叛徒と歩み寄って、王国の民主化を求めたが、貴族や領主からなる王党派は、断固として、徹底的に戦うべきであると譲らなかった。

 

 ガリバルディ軍がイタリア本土に足を踏み入れると、ピエモンテ軍もポー川を越えて教皇領に侵攻し、両シチリア王国を目指すことになった。

「諸君。5万のフランス兵は母国に引き揚げていった。今我々は真の意味で、イタリア国軍を創設せねばならぬ。ピエモンテのみならず、ハプスブルク家のくびきにつながれていたトスカーナや、我が故郷モデナからもぞくぞくと志願兵が集まり、見よ今や、6万人の大軍団となった。俺がクリミア戦争で指揮を執ったときにはわずか1000人、いや500人しかいなかったのに、今や6万だよ、6万。その兵士らの身命、家族や同胞らの運命が俺の双肩にかかっているかと思うと、重責に押しつぶされそうだ。

 この俺も父は土木技師。子供の頃から土木を仕込まれたが、土木よりゃちょっとはましな仕事がしたいと医者の学校へ進学した。ところがここががちがちの宣教師どもがやってる学校で俺はとうとう寄宿舎を飛び出してしまったよ。」

 耳にたこができるくらいなんども聞かされたチャルディーニ将軍の身の上話だ。

「だがな諸君。それがゆえにピエモンテは、鉄道を敷いてはるばるフランスから援軍を連れて来れた。大河を自由自在に堰き止め決壊させてオーストリア軍を翻弄した。そしてミラノを取った。この俺がエンジニアだったからできた芸当だ。そうだろう?

 しかしこれから、イタリアが統一され、国軍を持つとなると話は違う。そう思っとるだろう?

 あの土木現場監督に過ぎぬチャルディーニに何ができるとみんな思っとる。思っとるだろう、諸君。ああその通りだ。だがな、イタリアは、オーストリアみたいに、歴代、領主の家に生まれたボンボンが将軍職を継ぐ、そんな国にしちゃあいけない。俺みたいな土木技師がおり、鉄道技師がおり、機械工がおり、なあ見ろ、あのカヴール閣下だって農学者、化学者だ。化学肥料で農業改革を促進した人だ。そういう技術者が身を立て、大臣になり、将軍になる。そういう国にしなきゃならん。そう思うだろ諸君。だから俺は自分の出自に誇りを持っとる。俺が現場のもっこ担ぎ、ドカチンふぜいから国軍の元帥にまで出世したことを誇りに思っとるのだ。

 クリミアで鉄道を海から山の上まで開通させた。この俺がだ。嘘じゃない。イギリスももちろん手伝ったが実働部隊はピエモンテだ。そのピエモンテの工兵を指揮したのが俺だ。それで山の上まで大砲と砲弾を運び、セバストポリ軍港めがけてどっかんどっかんと爆撃した。単線じゃないぞ単線じゃ。複線だぞ。単線じゃトロッコは一度に一台しか使えない。それを上げて下げるだけ。複線なら何台も一度にトロッコで砲弾を運び上げられる。同時に空のトロッコを下ろせる。輸送の速さが桁違いだ。おかげでイギリスはロシアに勝てた。ピエモンテのおかげでロシアに勝てた。俺のおかげでロシアに勝てたのだ。そしてピエモンテも俺のおかげでオーストリアに勝てたのだ。ただ自慢したいだけでこういう話をしておるのじゃないのだ。今の時代どうすれば戦に勝てるか、そのためにはどんな将軍に、どんな国についていけば得をするかって話をしているんだよ。」

 プロイセン王のように、上にピンと跳ね上げた髭を生やし、オールバックにコテコテに固めた、気苦労というものがそんなにありそうにも見えないチャルディーニ将軍は、おおげさな身振り手振りを交えて、全軍を前にそう言った。きっとカエサルの霊が彼に降りてきたのだろう。イタリアでは良くあることらしい。俺はあたりを見渡して、はて、6万人もいるだろうか、ちと盛りすぎではあるまいか、と思ったが、戦争の動員数というのは、そんな具合にいつも大げさなのであろう。

 我々は結局ミンチョ川を渡ることなく南下し、モデナに入り、教皇領のボローニャまで来た。チャルディーニはここで、フィレンツェ・ローマ方面に別働隊を割き、自らはそのままエミリア街道をナポリへと向かった。途中、サンマリノ共和国の手前で、なんの変哲もない小川に架かる橋を渡った。渡った後、一兵卒が、橋のたもとに立っている石像を指さしていった。「こいつはカエサルですよ。今渡った川が、かの有名なルビコン川ですよ、」と。

 全軍がざわついたので、チャルディーニもそれに気付いた。

 「しまった。せっかくイタリアの将軍になったのに、何か気の利いたことを言う絶好のチャンスを逃してしまった。もう一度渡り直すかい?」

 イタリア観光巡りではないのである。行軍中にそんな悠長なことをしてるヒマは無い。

 「ところでカエサルは、この川を渡るとき、何と言ったんだっけ。」

 「たしか、ここがルビコン川だ、踊ってみろ、だったと思います。」

 「いや確か、ダーツは投げられた、ではなかったでしょうか。」

 「ダーツじゃなくて、手袋では。」

などと兵卒らは口々に囁いたが、どれも正解とは思えなかった。

 ピエモンテとガリバルディが教皇領に南北から侵攻すると教皇は世界中のカトリック信者たちに呼びかける。イタリアを救え、と。主にフランス、それからベルギーから義勇兵が集まってきた。

 チャルディーニ軍がアドリア海沿岸の港町アンコーナを接収しようと、その近くの村カステルフィダルドに宿営しているときに、教皇の義勇軍による奇襲を受けた。我らにも少なからぬ犠牲が出たが、チャルディーニは、オーストリア兵にしたような、無慈悲な榴弾爆撃を、彼らの上に降らせるようなことはしなかった。イタリア人の誰一人として、教皇と武力対決しようというものなどいない。戦闘はわずか数時間で終わり、彼らはアンコーナに立て籠もった。我らはアンコーナを放置しナポリに向かうことにした。ローマ市はフランスが守備していたので、我々は敢えて手を出さなかった。他にも教皇領内の敵対する諸都市や砦は、あちらから打って出てこない限り、基本的に無視することにしたのである。教皇はサヴォイア公ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を破門することで対抗したが、王はもはや意に介さなかった。その後イタリア人のほとんど全員が「バチカンの囚人」ピウス9世によって破門された。どうにもしようがなかった。教皇領はフランク王国時代に寄進されて以来、1000年以上続いてきたわけだが、今の国民主権の時代にそぐわないのは明らかであった。実際、教皇の持つ世俗の封建領主としての財力や権力は「歴史的欺瞞であり、政治的詐欺であり、そして宗教的不道徳」と言われても仕方のない状況にあった。

 ガリバルディ軍とチャルディーニ軍はそれぞれナポリ近郊のヴォルトゥルノ、カプアで両シチリア軍を撃破し、とうとう直接対峙した。両軍は激突寸前かと思われた。が、サヴォイア公ビットーリオ・エマヌエーレ2世みずからがナポリの北テアーノという村に御幸して、ガリバルディとの交渉に臨むと、ガリバルディはカヴール軍に降って、南イタリアの占領地をサヴォイア公に献上した。それから、チャルディーニ軍はガリバルディ軍と共同で、両シチリア王国の掃討戦に向かった。