鳥居耀蔵

永井荷風は、『濹東綺譚』の後に「作後贅言」として、長い長い後書きを書いている。そのほぼ冒頭

> 濹の字は林述斎が墨田川を言い現すために濫りに作ったもので、その詩集には濹上漁謡と題せられたものがある。文化年代のことである。
幕府瓦解の際、成島柳北が下谷和泉橋通の賜邸を引払い、向島須崎村の別荘を家となしてから其詩文には多く濹の字が用い出された。それから濹字が再び汎く文人墨客の間に用いられるようになったが、柳北の死後に至って、いつともなく見馴れぬ字となった。

林述斎というのは大学頭・林羅山から八代目の林家当主。その著書を調べてみると、
嫡男で林家を継いだ林檉宇(ていう)と、三男の鳥居耀蔵と共著となっているものが多い。上述『濹上漁謡』がそうで、他に『家園漫吟』がある。
著者名に「溝東老圃」とあるのはそのうち誰だかわからんが、この三名のうちの誰かだろう。

で、鳥居耀蔵という人が Wikipedia では大人気であって、「蝮の耀蔵」だの「讒言」だの「妖怪」だの、さんざんな言われようである。
Wikipedia でここまで一方的に悪人として記述してあるのは珍しい。
数多くの小説にも取り上げられていて、一番著名なのは、童門冬二『妖怪といわれた男 鳥居耀蔵』というものらしい。

この鳥居耀蔵というのは、実父は林述斎だが、鳥居家に養子に行って、ここが2500石の旗本、というからかなり立派な家柄だ。
南町奉行になっている。確かに、2500石ももらっていれば町奉行くらいにはなる。

ときに天保の改革で老中は水野忠邦。
鳥居耀蔵は、この江戸末期の商品経済が高度に発達した江戸の町というのが大嫌いで、徳川家康の時代の武家の都に戻したいと考えていたという。
言いたいことはわかる。大塩平八郎の乱も、旗本がぐずぐずに腐敗していたので、それをただそうとしたのだ。
事実、幕府は、鳥居耀蔵やら大塩平八郎などの改革者の努力むなしく瓦解してしまう。
大塩平八郎だってその第一に言っていることは、家康公の遺訓を旗本らが守っておらずけしからん、もっとしゃんとしろということだ。
ほんとうは、洋学を取り入れ、商品経済を積極的に容認し、経済も政治ももっと自由化していかなきゃ、という方向にもっていくべきだったのだろうが、
そんなことを思いつくやつが、天保年間にどれくらい居ただろうか。
結果論だよな。
江戸後期の貨幣経済と商業都市の発達は、アジアの中では日本だけで起こった、驚くべき奇跡的現象である。これなくして維新も西洋化も成功しなかった。
しかし、その価値をきちんと理解し理論化できる人は当時ほとんど居なかっただろう。

ときに北町奉行はあの遠山金四郎。遠山という奉行は実際には大したことはやってないはず。ただ講談などでやたらと庶民の味方の良いやつに仕立て上げられているだけだろう。
天保の改革で水野忠邦のもと厳しく庶民を取り調べた鳥居が悪役にさせられ、大したことはやらなかった遠山が正義の味方になった、ということではないか。
Wikipedia でこんだけ人気なのは明治に入ってからも、よっぽど講談などで遠山金四郎の敵役として有名だったのに違いない。

また、大塩平八郎の乱では、大塩をおとしめるために、鳥居が有りもせぬ罪状をでっちあげたのだそうだ。
しかしそれも幕府の役人であれば仕方のない仕事ではないか。

他にも高島秋帆をいじめたとか、蛮社の獄の中心人物で蘭学者を弾圧したとか。
失脚して丸亀藩に明治維新で恩赦に逢うまで二十年間も預けられっぱなしになった。
その間、耀蔵は医学の心得もあって何千人もの庶民を治療したそうだ。

交市通商競イテ狂ウガ如ク
誰カ知ラン故虜ニ深望アルヲ
後ノ五十年須ラク見ルヲ得ベケレバ
神州恐ラクハ是レ夷郷ト作ラン

Wikipedia にある彼の漢詩を見るに、
「狂」「望」「郷」が押韻しているようだ。
彼が洋学を弾圧したかどうかはともかくとして、攘夷論者、国粋主義者であったことは間違いないようだ。
ここに書いてあることは事実だ。江戸が東京となって五十年も経つとまったく異国のようになってしまったのだから。

幕府が倒れて旗本はみな駿府藩に転封になったのは事実であって、それを予期できたのなら、当然、
旗本八万騎の中からなにかしらの改革が、それもかなり痛みをともなう改革が行われねばならなかった。
多くの旗本たちは知ってて自堕落な暮らしをしていたのだろう。
危機感を共有できてなかったのだ。

Wikipedia に

> 明治元年(1868年)10月に幽閉を解かれた。しかし鳥居は、「自分は将軍家によって配流されたのであるから上様からの赦免の文書が来なければ自分の幽閉は解かれない」と言って容易に動かず、新政府、丸亀藩を困らせた。

などと書かれているが、まともな幕臣というのはそうしたものである。ちっともおかしくない。
永井荷風も幕臣の末裔だから、同じようなことを言うだろう。
小野田少尉だって似たようなことを言っていたではないか。

素人考えだが

高山病と鬱血性心不全は症状がほとんど同じだそうである。
高山病の場合はまず血中酸素濃度が下がる。そうすると、血流を増やさなくてはならないので、24時間365日、心臓をよけいに稼働させなくてはならず、
つまり運動やスポーツといった一時的な負荷ではなくて、常時心臓に負担をかけるために、次第に心臓が弱ってきて、
静脈が水を心臓に返すことができなくなって、むくみや腹水、肺水腫という症状がでてくる。
このうち肺水腫が一番自覚症状としてわかりやすく、また末期なので、
肺に水がたまり始めるとやばい。即、入院。

アルコール性心筋症の場合、血中アルコールが直接心筋を弱めるとか負担をかけるとは考えにくい。
それで私はふと考えたのだが、アルコールを大量に、毎日、何年間も続けて飲むと、
肝臓は常にフル稼働でアルコールを代謝しなくてはならない。
肝臓をフル稼働させるにはそれなりの血流が必要であろう。
というより、ただ単に、血液を肝臓に通してアルコールを強制分解するためだけでも、肝臓を通す血流量を増やす必要があろう。
というより、肝臓のフル稼働が常態化していることが、心臓にメッセージとして送られて、なら心臓もフル稼働せねばならぬ、
という体質になってしまい、心臓もまた常時フル稼働させられる。
そうして常時心臓に負担をかけるために、次第に心臓が弱ってきて、
高山病と同様に、やがて、
静脈が体から水を抜くことができなくなって、むくみや腹水、肺水腫という症状がでてくる。
とまあこういう具合ではなかろうか。

この仮説が正しいとすれば、高山病とアルコール性心筋症はどちらも急性心筋症とでも言うべきものだ。
心臓を休ませる。血液量を減らすために塩分を控える。水の摂取も控える。

高山病の場合山を下りれば血中酸素濃度が増えて心臓が休まり治るわけだが、
アルコール性心筋症を治すには、別に、アルコールやカフェインなど、肝臓で代謝される物質の摂取を控える。
というより、毎日大量に摂取するのをやめる。
そうすると、肝臓の稼働率が下がる。
肝臓の稼働率が下がると、どういう仕組みかは知らぬが、
これまで肝臓にばんばん血液を回してくださいよ、とか言ってたホルモンの分泌が減る。
心臓への指令が減って稼働率も下がり、次第に心臓が回復していく。
とまあ、こんな具合ではなかろうか。
この理論によれば、肝臓が丈夫で、肝機能障害がおきていなくても、肝臓の稼働率が高いだけで、心臓に負担をかける理由が説明できるのだ。
アルコール性心筋症について書かれた論文をネットで検索して読んだことがあるが、
現時点では、アルコールによって肝臓に何らかの障害がおきて、それがどういう理由でかわからんが、心筋を弱らせる、
と考えられているらしいのである。実に曖昧模糊とした仮説ではないか。

γ-gtpが今年は150くらいまで上がったから、アルコール性肝機能障害であったことは間違いない。
そうすると、やはり、肝臓はアルコールを分解するために余計に血流を必要とし、
などというフィードバックがかかってた可能性があるよなあ。
誰かこの理論の正しさ(或いは間違い)を証明してくれ。

ましかし、アルコール性心筋症などというマイナーな病気を研究する人などほとんどいないか。

濹西綺譚

パブーで[濹西綺譚](http://p.booklog.jp/book/33490)公開。
久しぶりに読んだ。忘れかけた頃に読むと我ながら面白い(笑)。

今いろいろ公開しているのだが、主人公が女の話の方がアクセスが多い傾向があるのだよね。
それで、濹西綺譚も案外受けるかもしれないと思って出してみる。
それから、たくさん出すと相乗効果もあるようだ。他のやつのアクセス数もやや増えるようだ。

タイトルは『濹東綺譚』のもじりなのだが、
『濹西綺譚』を書いてから精読してみた。それから『濹東綺譚』の後半部分に出てくる成島柳北とか、『柳橋新誌』とか読み始めた。
なので、『濹西綺譚』を書いていたころは永井荷風についてはそんなに詳しくはなかった。今は少しだけ勉強した。
柳橋の話は『歌詠みに与ふる物語』に少しだけ出てくるが、まだがっつりとは書いてない。

アナトリア

古くはギリシャ語で Asia、後に Mikra Asia (小アジア)。これから、Asia Minor というラテン語ができた。
Anatolia はギリシャ語で「日の出」という意味らしいが、
本来はイオニア地方のことを言い、のちにアナトリアの中の一つのテマ(軍管区) Anatolikon を指し、
さらにそれが半島全体を意味するようになったようだ。
トルコ語ではアナドルと言うらしい。

阿野実為

メモ。
後醍醐天皇の寵姫・新待賢門院・阿野廉子の兄は阿野実廉。
実廉の子は前大納言・季継。
季継の子は前大納言・実為。
いずれも新葉集に採られた歌人。

南朝第四代後亀山天皇の生母・嘉喜門院は実為の娘か。つまり、阿野実為は後亀山天皇の外祖父か。

将軍放浪記

[将軍放浪記](http://p.booklog.jp/book/33168)だが、未だに加筆している。
最初の頃はもっとシンプルな話だったのだが、だんだん細かな蘊蓄が増えてくる。
小説的にはうざいかもしれん。
しかし、私としては、宗良親王については、どんな細かなことでもこれに盛り込みたいのだ。
完全版を目指す。

臨場

ふと思ったのだが、知り合いが最近小説を書き始めたので、冒頭を少し読ませてもらったのだけど、いきなり「臨場」とか単語出てきて、
なんだろうと焦った。
私などは、オーディオ少年だったから、「臨場感」などという単語でしか知らないのだけど、
ググって見ると最近のテレ朝のドラマに「臨場」というのがあり、なるほどははぁとわかってきた。
その人は、特撮とか警察とか、その辺のテレビドラマが大好きなのだった。
それでそういうふうな小説も書き始めたのだろう。
警察ドラマや警察小説というのは、すごくテーマが絞り込まれた世界で、専門用語などバリバリ出てくる。
それらが理解できることが読者たる前提条件なのだ。
モノを読む前にそのコミュニティに属さなくてはならない。
特撮にしてもそうだ。なんだあの「着ぐるみVFX戦隊もの」としか外の人間は思うだけだが、
中の人たちにとっては、こよなく面白く楽しいものなのだ。
wikipedia の編集競争など見てて、なんでこんなに書き込みがあるかと思うが、それは一定の需要があるからああいう現象が必然的に起きているのだ。

で、「面白いか、続きが読みたいか」と感想を求められたが、私は「名探偵コナン」的な小説は一切読まないので、
そもそも読む気にならない、でも、今はこういうミステリー小説が一番儲かるんじゃないの、などという話をした。
ミステリーが流行るかどうかなど、ほんとうのところは知らないし、また自分が書くこともありえない。

パブーの小説などをざーっと流し読みしていて思うが、みんなそれぞれが、とてつもなく狭くて深いたこつぼに属している。
察するに、現代日本に一般的な意味での小説も作家も、ライターも編集もいない、流通も読者もないのだろう。

普通の小説だなと思うのは素人考えであり、その道のプロが見れば、これは何とか系の話、というのはたちまち分析できてしまう。
どんな人間も自分の生まれ育った空気というものを身にまとっているし、飲んできた水の味を覚えている。
そういう空気とか水とかを無視してそのコミュニティに入り込もうとしても無駄だ。
無駄ではないかもしれないが、新参者扱いされるだけだろう。

一般人をより多く巻き込んでいるというだけの違いで、研究者の世界と大差ないのではないか。
そう考えると、腑に落ちることがいろいろとある。
全然自分の専門でない世界に飛び込んで行き、いきなり独自理論の論文を書いても、その学会では決して受け入れられないだろう。
今の出版業界というのも似たようなものではあるまいか。
たぶん、まず、自分がどの蛸壺に属しているかを把握しないと、またより困難ではあるが、自ら自分の蛸壺を作り出すくらいでないと、
タコの親分にはなれないということだろう。

iphone 電子書籍

iphone 向けにも電子書籍を出版できるようだが、ていうか、パブーよりも iphone アプリの方が先に電子書籍出てたらしいが、
なんかめんどくさそうだなあ。
iphone ユーザーなら、ちと手を出そうかという気になったかもしれんが、アンチなんでなあ。
amazon kindle とか完全に日本語化してくれればすぐにでも出すのだが。
sony でもいいけど。

縦書きとルビくらい標準サポートして欲しいのだわさ。
で思うが、パブーで書籍を購入しようと思うと、まず会員登録して、代金をデポジットしなきゃならんわな。
これが面倒だと思う。
私ですら、会員にはなったが、まだお金を預けてはいない。
ところが、アマゾンや楽天なんかだど既にユーザーになってるから、あとはカートに入れて購入するだけ。
100円くらいの金額ならば、案外、何かの買い物に気楽にぽちっと押せるのかもしれん。
と思えば、電子書籍の販売などというのは、やはりでっかい流通とかと結びついた、今後の話なんじゃないかと思うのだ。
たとえばだけど、アマゾンのアカウント使ってパブーで決済できるとか、あるいは、アマゾンのサイトでパブーの本が買えるとか、
そんなわけにはいかないのだろうかねえ。

1.5リットルつづき

はっきりいってどうでもよいことだが、500mlのペットボトルというのは、実は500mlより多かったり少なかったりする。
多い場合が多い。
1.5リットルのお茶を作って500ml三つに分けようとすると、全然足りない。
また1.5リットルのビールサーバーは口が9cmくらいあるのだが、9cmの茶こしというのはちと大きすぎて手に入りにくい。
というわけで、2.5リットル(程度)の麦茶ポットも、やはり使い続けることにした。
あれは、蓋をつけるからこぼれやすくなる。
蓋なぞ最初から使わなければよい。

ま、しかし、夏が終わればこんなにがぶがぶ茶を飲むこともなくなるのだけど。

ついでに、コーヒー用の薬罐だが、あれは確かにコーヒーを淹れるのには実に便利だが、
ただお湯湧かしてお茶を煎れるのには、時間がかかりすぎいらいらするだけだなあ。