一部趣味に走り過ぎてこてこての歴史小説のようになってしまったことは反省している。
しかし、未だに私の書いた小説の中では一番一般受けするのではないかと思っている。
冊子にして少しまいてみようかと思う。効果があるかしらんが。
話はでかい方が良い
というわけで、
相変わらず[デーテ](http://p.booklog.jp/book/27196)をいじっているのだが、
アルムおじさんのご先祖様は、ナポレオン軍のアルプス越えの行軍中に、その傭兵隊長となって、道先案内をやった、
という話にしておいた。
またアルムおじさん自身も、ソルフェリーノの戦いという激戦に参加したことにした。
となると、フランス外人部隊に居たということにした方が、つじつまは合う。
ところで、傭兵が後方支援で工兵だったりしたことがあるのだろうか。
傭兵というのは、常に前線で危険な軍務につくものだろうか。
工兵というのは、どちらかと言えば、危険はすくなさそうにも思えるが。
専門性や能力次第だろうか。
スイス傭兵というのは個人ではなくて、州(カントン)単位で派遣した軍団であったはずだから、
その中には工兵隊や輜重隊などのバックヤード専門の部隊があってもおかしくないのではないか。
それから、ついでに、作中作の入れ子を二重にした。つまり入れ子をさらに深くしてみた。
デーテの語りの中にトビアスの語りを入れてみたわけである。
入れ子は深い方が面白いよね(笑)。
『千夜一夜物語』は深いところは七重になっているという。未確認だが。
一番浅いところは三人称の普通の物語の叙述だが、その中にシエラザードの語りがあって、その語りの中の登場人物がまた語り出して、
その語りの中の人物がまた物語を始めて、という具合にどんどん物語の中に物語が埋め込まれていく。
そこが面白い。
さらに、トビアスの語りの中に、アルムおじさんの語りを埋め込んで、入れ子を三重にしてみた。
うはは。
unten と oben
福音館書店の矢川澄子著『ハイジ』を読んでいると、どうにもわからないことがある。
バルベルは「下のプレッティガウに住んでいた」と書かれているが、川の上流下流で言えば、プレッティガウはマイエンフェルトの上流に当たり、方位で言うと、南もしくは南東に当たる。
(アルムおじさんの)おかみさんは「下のビュンデンの人」と言っているのだが、マイエンフェルトはグラウビュンデン州の中では一番ライン川の下流に当たり、
方位で言えば北のはずれである。
マイエンフェルトの北、ライン川の下流はもう別の州、ザンクトガレンであり、そこにはバード・ラガーツやメールスなどがある。
「こども(ハイジ)は上のプフェファース村のウルゼルばあさんにお金で預かってもらい」とあるが、プフェファース村は、
デルフリ村もしくはマイエンフェルトから見れば、ライン川をはさんで対岸にあって、どちらが標高が上とか下でもなく、上流でも下流でもなく、
方位で言えば西にあたる。
上とか下とかが良くわからん。
[ドイツ語原文](http://www.gutenberg.org/cache/epub/7500/pg7500.html)を読むと、
上というのは oben、下というのは unten、となっている。
oben は上流とか標高の高いところ、unten は下流とか標高の低いところ、という意味もあるが、oben が北、unten が南を意味することもあるらしい。
> unten im Prättigau gewohnt
> der alten Ursel oben im Pfäfferserdorf
などなど。
思うに、『ハイジ』の著者のシュピリはずっとチューリッヒに住んでいて、子供の頃にマイエンフェルトに過ごしたことがあるという。
チューリッヒとマイエンフェルトはごく近い。100km弱しか離れてない(東京から前橋、宇都宮、水戸、小田原くらい。しかも1858年には鉄道が開通しているからすぐだ)から、たびたび訪れたのに違いないが、さほど地理を詳細に把握していたわけではないのかもしれない。
だから、上とか下というのも、単に印象で書いただけなのかもしれん。
特にドムレシュクのことを「下のビュンデン」などというから、ライン川下流の方の、もっと開けたところかと勘違いしていた。
実際にはマイエンフェルトよりさらに山奥の狭苦しい渓谷地帯だというわけである。
やれやれ。
ラガーツ温泉2
まだ、しつこく調べている。
源泉の温度が36.5℃。
ラガーツからプフェファースまで、約2km。
源泉の渓谷までは、まだもう少しあるはず。
今はどうか知らないが、ラガーツ温泉がひらかれたときには、
木の樋でお湯を引いていたというから、まあ、そのパイプがどのくらい太かったか、
どのくらい保温できたかは知らないが、冬場などはそうとう冷えただろう。
せいぜい30℃とか25℃くらいではなかろうか。
ネットでラガーツ温泉に実際にはいったという人の話など読むと、やはりぬるいらしい。
ぬるくてかつ水着ではいると。
ふーむ。
てかね、ラガーツ温泉は源泉掛け流しなのか、源泉だけど沸かしているのかとか、
沸かして濾過して消毒して循環させているのかとか、
効用はとか、成分はとか、
そんなことが書きたくなるじゃないですか。
でも、源泉掛け流しなのに沸かしとか書いたら怒られるじゃないですか。
だから一応ちゃんと調べようかと思って。
それから、ハイジがプフェファース村で預けられたウルゼルばあさんという人は、
耳が遠くて、ハイジを部屋に閉じ込めておく意地悪ばあさんのように描写されている。
アニメの中の描写もなんかそんな感じ。
だが、プフェファースには修道院があって、ラガーツには子持ちの女性もたくさんいただろうから、
想像するに、修道院には組織的な保育所のようなものが作られていたのではなかろうか、と思うのだ。
その方が自然な感じなんで、そんな記述にして見た、どうよ。
それから、デーテの一人語りをバーで隣り合わせてた男が聞く、という形にしてみた。
ちょっとアダルトな雰囲気。
私の書く他の小説にだいぶ似てきた。
ていうか、『[デーテ](http://p.booklog.jp/book/27196/)』を読むと私の書く小説がどんなものか、さらっと読めてわかりやすいと思う。
たぶん初心者向けに、一番読みやすいと思う。
『デーテ』を通して面白く読めた人は、私の他の小説も、面白く読める可能性がある。リトマス試験紙みたいなものだと思う。
『デーテ』もかなり屈折しているけど(笑)、他よりは読みやすいだろう。
いわば、ファンタジーというか童話の物語を、どろどろの人情話にしてしまっているのだから。
そういう他人の著作の裏設定を暴露するような小説を書くというのは、趣味悪いよな。ファンの神経を逆なでするというか。
逆に喜ぶファンもいるかもしれんが。
そういう私自身が『ハイジ』の大ファンだからこれを書いたってことは、これを読んだ人なら疑う人はいるまい。
私の作品はというと、作中作、劇中劇というややこしい入れ子構造を使っていることが多い。
作中作は『濹東綺譚』や『千夜一夜物語』などに使われている手法。
私の場合は特に、現代小説の中に歴史小説を埋め込むために使うことが多い。
つまり、なんでそんなことをするかというと、読者を歴史の世界にいきなり連れ込むのは難しいと思ったから、全体を普通の学園モノや恋愛モノを偽装してみたのだが、
意図は伝わってたかな。
あとは歴史や地理や政治の蘊蓄がちりばめられている。
最初に地理や歴史の説明から入るのは常套手段。
なんでそんなことするかと言われても困る。それが私の趣味だからだ。
『スース』まで書いてみて、戻って『デーテ』をはじめて自分なりにアレンジできたというか、
アレンジしすぎて似通ってしまったというべきか。
いくつも書いてみてだんだん自分のスタイルがわかったというか。
ラガーツ温泉
相変わらず、『[アルプスの少女デーテ](http://p.booklog.jp/book/27196/page/358837)』を手直ししているのだが、
ラガーツ温泉について調べていると、面白いことがわかった。
スイスに鉄道が出来たのが 1845年で、おそらくラガーツ温泉というのは、鉄道がマイエンフェルトまで通ってから開発されたのじゃないかと思ったら、
やはりその通りで、もともとは山奥の秘湯だったのを、1840年に初めて里までパイプラインで引いてきて、
1870年くらいに世界初の温水プールなど作ったりしたのである。
だから、デーテがラガーツ温泉に仲居として働き始めたとき、ラガーツは保養地としてできたばっかりだった、ということなのである。
いやあ、ちゃんと調べてみないと知らないことって多いよなあ。
たまたまなのかもしれないが、
シュプリは、ナポリで傭兵とかラガーツ温泉とか、割と当時の流行りの、キャッチーな話題を盛り込んでいた可能性があるよね。
アルプスの少女デーテ加筆
[アルプスの少女デーテ](http://p.booklog.jp/book/27196)を全面的に書き替えた。
スイスの傭兵について調べてたら面白くて。
スイス傭兵は1874年に禁止されるのだが、アルプスの少女ハイジが書かれたのは1880年。
アルム叔父さんがナポリで傭兵になったというのは、おそらく、イタリア統一戦争前の、両シチリア王国時代の頃の話だと思われるが、
両シチリア王国は赤シャツ隊のガリバルディに滅ぼされる。
アルム叔父さんはどこの国の傭兵だったのか。
シチリア王国か。ローマ教皇か、オーストリアか。それともサルディーニャ、或いはガリバルディに雇われていたのか。
答えは無い。ヨハンナ・シュプリは裏設定として知っていただろうけど、今日それを知る機会はない。
勝手に色々と作り話が作れるのだけど、とりあえず無難にローマ教皇軍に雇われたことにしておいた。
ハイジが書かれた年は1880年、物語の中で、ハイジは10才くらいまでなるから、仮にハイジの生まれた年を1870年としよう。
するとデーテの生まれた年はそれより21年前で1850年くらい。
アルム叔父さんはデーテよりも25才くらいは年上だろう。すると、生まれた年は1825年くらい。
シチリア王国が滅亡したのは1860年。アルム叔父さんは35才。トビアスは15才くらい、デーテは10才ということになる。
ちょっと年を食ってる感じだが、この年にデルフリに流れ着いたとして、そんなに設定としてはおかしくないけど、
できればみんなもう少し若いくらいが、設定としてはちょうど良い。
アルム叔父さんは、大工の仕事もやるのだが、それは傭兵時代に工兵だったから、という設定にしてみた。どうよ。
スイスに鉄道ができたのも、1845年から。フランクフルトからマイエンフェルトまで鉄道路線が敷設されたのも、
デーテが生まれてすぐくらいではなかったか。
ドイツ帝国が統一されたのは、1871年。そういうあわただしい感じを付加してみた。
ともかく原作とはだいぶ雰囲気変わったと思う。
肝臓と蛋白質
なんかしらんところで肝臓に負担かけてたらやだなと思い調べてみるのだが、
プロテインは消化に手間がかかるから肝臓に負担をかける、
などと書いてあるかと思うと、
シジミには良質の蛋白質が含まれているから良いなどとかかれていて、
結局蛋白質は摂ったほうがいいのか摂らない方が良いのか、
摂るとしたらどのようにとりゃいいのか、ってことがさっぱりわからない。
普通に考えれば、蛋白質は肝臓を含めて体自体を作るものだから、摂った方が良いに決まってる。
問題はどのくらい積極的に取るのか。
それとも取り過ぎると毒なのか、
体を作る材料としてふんだんに取るべきか、
それとも体調を整える程度に適度にとるべきか、
その辺の加減が問題なのだろう。
まともな説明をあまり見たことがないが、結局病院食のような偏らない当たり障りない食事が良いということか。
Chronographia Book 7
エウドキアの話は[クロノグラフィア第七巻](http://www.fordham.edu/halsall/basis/psellus-chrono07.asp)に出てくる。
> On this occasion he entrusted all his duties to his wife, Eudocia. In his opinion, she was the wisest woman of her time and he thought that no one was better qualified to educate his sons and daughters.
結構長いな。冊子印刷してじっくりと読むか。
英語版 wikipedia のソースに相当するのだろうが、今更 wikipedia の記述とそんなに差がないことを祈る。
エウドキアの叔父
久しぶりのエウドキア・マクレンボリティサのネタ。
紛らわしいがエウドキアにはミカエルという叔父が一人いて、それと別に、叔父のように親しかったミカエルという歴史家がいる。
本当の叔父は総司教ミカエル一世ケールラリオス。ケールラリオスはエウドキアの母方の家系。
エウドキアの母の弟もしくは兄だったろうと思われる。
歴史家のミカエルは、エウドキアから、叔父と親しまれていた、ミカエル・プセロス。Michael Psellos。
プセロスというのは、口ごもるという意味らしい。そのあだ名はなんとなく控えめで人付き合いが苦手そうな印象だ。
皇帝コーンスタンティノス九世モノマコスのとき宮廷に出仕する。
政治を嫌って1054年にオリンポス修道院に入る。
モノマコスが死去すると女帝テオドラに呼び戻される。
この女帝テオドラというのは、エウドキアなんかよりずっと話題性のある人らしい。
で、皇帝が1年か2年くらいでおおぜいめまぐるしく交代し、マケドニア朝からドゥカス朝に代わると、
コーンスタンティノス10世ドゥカス(エウドキアの夫)にそのまま政治顧問として仕え、
さらにローマノス4世やミカエル7世にも個人教師のような立場で仕える。
プセロスは当時もっとも学識のある人と見なされていたらしい、プラトンくらいに。
クロノグラフィアという書を残した。
直訳すれば、年代記ってとこか。
彼が史料を残さなければ、エウドキアというマイナーな女帝の話はほとんど後世に残らなかっただろう。
それどころかバスィレイオス二世や女帝テオドラ、ドゥカス朝やローマノスやマラズギルト戦役の話も残らなかったのに違いない。
『セルジューク戦記』に出てくるエウドキアの叔父のルカスはこの二人のミカエルが合わさったような人物として出てくる。
『セルジューク戦記』では、エウドキアは、父母が離婚し、孤児となって修道院に入れられて、叔父ルカスの養子になって、
貧しく育てられる、という話になっているがこれはまったくのフィクションである。
もし叔父の養子になっていたら、彼女の名前は、エウドキア・ケールラリオサとなっていただろう。
たぶん彼女はマクレンボリティサ家の貴族の娘であり、コーンスタンティノスとの結婚が初婚だとすれば、
貴族故に晩婚だったのだろうと考えるしかない。
きっとプセロスの書を読めばもっと詳しいことが書いてあるのだろうけど、
と思ったら[クロノグラフィアのオンライン版](http://www.fordham.edu/halsall/basis/psellus-chronographia.asp)があった。
うーむ。これ読むのかぁ。
セバストポリスの戦い
またまた wikipedia を読んでいてメモ。
[セバストポリスの戦い](http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Sebastopolis)
というものが、ユスティニアヌス二世の時代の東ローマとウマイヤ朝の間であったらしいが、
このセバストポリスというのは今のクリミア半島のセバストーポリではなくて、アナトリアのキリキア辺りにあった都市らしい。
[ユスティニアヌス二世](http://en.wikipedia.org/wiki/Justinian_II)は鼻をそがれて
[ケルソネソス](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%8D%E3%82%BD%E3%82%B9)
に流刑になったそうだが、このケルソネソスというのが今のセバストーポリに当たるようだ。
ケルソネソスは古代ギリシャの頃からのギリシャ人の植民都市で、
長らく直接民主制の地方自治都市として残った、らしいのだが、
いつの間にか東ローマ領になっているのはつまり、アテネやスパルタなどがローマ帝国に飲み込まれていってそのまんまということか。
ケルソネソスは僻遠の地なので、流刑地としてよく使われたとか。
追放するとき鼻をそいだのは、
ローマ皇帝に即位するときに五体満足であるというのが不文律になっており、
ユスティニアヌス二世が再び皇帝に復位しないように、という意味らしい。
目をつぶしたり、耳輪をつけるのも似たような意味なのかもしれない。