処方箋の期限

相変わらず大量に薬を処方され飲んでいるのだが、
近頃は、病院から直接出してもらうのではなくて、薬局に処方箋を出して売ってもらっている。
一部をいわゆるジェネリックに変更したのだが、二週間分で210円しか安くならない。
レニベースをレニベーゼに、
ラシックスをフロセミドに、
アルダクトンをアポラスノンに変更。
プラザキサは新薬なんでまたこないだも死人が出たので気をつけてくださいと言われたのだが、
どう気をつけろというのだろうか、血が止まりにくくなるらしいのだが、
私の場合、多少どこかにぶつけて血が出てもすぐに止まるがな。
採血のときも血が止まらず困るということはない。

おお、どうやらこれのようだ。
[血液凝固阻止剤「プラザキサカプセル」服用患者での重篤な出血に関する注意喚起について](http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000001m1w3.html)。
平成23年8月12日厚生労働省。

> ○ 「プラザキサカプセル」(別添1参照)は、心房細動を起こした患者で血栓ができ、脳卒中や全身性塞栓症が発症しないよう、血液を固まりにくくするための薬剤。出血があった場合、血が止まりにくくなる副作用が知られている。

> ○ 6月13日までに本剤投与患者で、関連性の否定できない重篤な出血性副作用による死亡例が1例(腎不全患者)報告され、厚生労働省から製造販売業者に医療機関に対して直ちに情報提供を行うように指示してきたところ。その後、8月11日までに、関連性の否定できない出血性副作用による死亡例が厚生労働省に4例報告された。

> ○ これら合計5例の死亡例の年齢は、70歳代1名、80歳以上4名、性別は、男性1名、女性4名であった。

> ○ 患者の安全確保のため、今回、
1 本剤の投与前及び投与中に腎機能検査を行うこと。
2 出血や貧血等の徴候を十分観察し、出血が見られた場合には適切な処置を行うこと。
3 患者に対し、出血等の徴候が現れた場合に直ちに医師に連絡するよう指導すること。
が重要であり、別添2のとおり、「使用上の注意」の改訂を行うとともに、医薬関係者に対して速やかに情報提供するよう、製造販売業者に対して指示した。

> ○ 「プラザキサカプセル」の服用患者にあっては、鼻出血、歯肉出血、皮下出血、血尿、血便等に注意し、出血があった場合には直ちに医師に連絡することが重要である。

> 本剤は主に腎臓を介して排泄されるため、腎障害のある患者では、本剤の血中濃度が上昇し、出血の危険性が増大するおそれがある。本剤を投与する前に、必ず腎機能を確認すること。また、本剤投与中は適宜、腎機能検査を行い、腎機能の悪化が認められた場合には、投与の中止や減量を考慮すること。

まあ、私の場合、腎機能障害はないと思う。おしっこビュンビュン出るし。

処方箋を書いてもらって5日目に行ったのだが、処方箋というのは、薬の期限がかかれてない場合、
4日までしか出せないと言われ、わざわざ病院に電話して確認してもらった。

ジェネリックに変えたにもかからわず、病院から出してもらう投薬料と、薬屋でかかる薬剤料を比べると、薬剤料のほうが微妙に高く、
その他基本料や指導料などがかかるのでかなり高くつく。
また、病院で処方箋を出してもらうだけでもそれなりの金を取られる。
プラザキサが新薬のせいで二週間に一度処方してもらわなくてはならんので、
たぶん病院で直接薬を出してもらうほうがかなり安いのだろうなあと思うのだ。
だが通院にかかる時間や電車代などを考えるに、今のように近所の病院に通うのにも意味はあるかもしれん。

勝海舟の和歌

> 八田に歌を見てもらふと、少しも直さなかったよ。アナタ方のは別だからと言ふた。然し、一字二字の所を、これではかういふ意味になります、と言はれると、実に一言もないネ。それから高崎正風に見せると、じきに、コレがいけぬ、アレがいけぬと言ふて、直すから、馬鹿にしてやった。お前の師匠の八田さんは少しも直さないよつてネ。それから大分遠慮しだしたよ。
松平上総介が始終来て、歌をおよみなさい、およみなさいと言つて、せめかけたものだから、その頃はよんだのサ。
千陰は、目明かしの御用達で、あのせはしい中で、あの筆と歌だ。実に驚いたものサ。

などと言っているのだが、松平上総介とは松平忠敏 (主税助)のことらしい。維新後も宮内省に出仕して御歌所の歌道御用掛となり、御歌所所長の高崎正風の部下になっている。明治15年まで生きている。なので、勝海舟にいつ和歌を勧めたのかはよくわからん。ただ、勝海舟の和歌集を見ると、戊辰戦争より前のは皆無である。やはり和歌は明治になってからさかんに詠み始めたのではなかろうか。漢詩よりはだいぶ遅れたようだ。
松平上総介と高崎正風は職場でずいぶんぶつかったようである。

八田というのは、八田知紀で、この人は明治6年までは生きた。やはり宮中の御歌所に出仕していた人。八田は薩摩人であり、京都で香川景樹に学んだのだから、れっきとした桂園派である。古今調だ罠。
一方勝海舟は幕臣であって、加藤千陰や松平上総介らに影響を受けたのだから、江戸風の和歌、つまり、どちらかと言えば、万葉調の賀茂真淵、田安宗武らの影響を、最初は受けたのだろう。
八田知紀にしてみれば「アナタ方のは別だから」直しようがないということだろう。
しかし高崎正風はどんどん直したというのだから面白い。
薩閥の八田と幕臣の勝が出会うのは、明治維新以後としか思えないし、
高崎と出会うのは、西南戦争より前であることはあり得ないだろう。

目明かしの御用達というのは町奉行与力で、吟味役(取り調べ係)だったということ。

感を書す二首

『勝海舟全集20 海舟語録』を読んでいる。これには和歌集と漢詩集もついている。
勝海舟の全ての和歌と漢詩が収録されているとはとても思えないが、多少役には立つ。

勝海舟は、文久3(1864)年11月10日に軍艦奉行を罷免されてから、慶応4(1868)年1月17日、戊辰戦争の直前に海軍奉行並に戻される間、
閑職にあって、その時に和歌や漢詩を学んだという。
慶応2(1866)年には、徳川慶喜の命で第二次長州征伐の停戦交渉に赴いたりしているが、慶喜が勝手に停戦してしまったので、
怒って江戸に帰ったりしている。
わずか三年ほどの間であり、そんな短い間に和歌や漢詩ができるようになるはずもないから、前から多少の素養はあり、
明治になってからもいろいろ勉強したのに違いない。

安政6(1859)年、丙寅(1866)、丁卯(1867)、戊辰(1868)などが初期の漢詩ということになる。
こないだ、[なんでも鑑定団で勝海舟の書というのが200万円で出ていた](http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/database/20110816/02.html)のだが、
それは戊辰戦争の頃、江戸城の全権を任された時に作った詩だというので、
それらしいのが掲載されていた。

誰教大鼎弄群児 誰か大鼎をして群児に弄ばしむる
只見蒼生苦荊岐 ただ見る蒼生の荊岐に苦しむを
嗚呼吾主高義家 嗚呼、吾が主は高義の家
如何憤怨及我私 如何ぞ、憤怨の我私に及ぶを
古往今来已如此 古往今来、已にかくのごとし
上下千年任天知 上下千年、天知に任す

※大鼎 天下の大権
※荊岐 悪臣

壮士決戦不顧死 壮士戦を決すれば死を顧みず
此際豈亦容毀誓 この際、豈に亦毀誓(きし)を容れんや
錦旗飜風函嶺巓 錦旗風に飜(ひるがへ)る、函嶺の巓(いただき)
湯城殺気紊綱紀 湯城の殺気、綱紀を紊(みだ)す
丈夫報恩他有需 丈夫、恩に報ゆるに、他に需(もと)むる有り
救此蒼生答天子 此の蒼生を救ひて天子に答へん

※毀誓 悪口
※函嶺 箱根の山

湯城というのは、ちと意味がわかりにくいが、ここでは天子の討伐の対象となっている江戸城のことであろうか。
血気にはやって官軍と一戦交えるのでなく、江戸の街と人民の秩序と安全を保つのが天皇への報恩だと歌っていると解釈されるのだが。

寂室元光

寂室元光という人の漢詩がけっこうしびれる。
もっと他にはないのだろうか。

不求名利不憂貧 名利を求めず、貧を憂へず
隠処山深遠俗塵 隠処は山深く、俗塵に遠し
歳晩天寒誰是友 歳晩天寒く、誰か是れ友なる
梅花帯月一枝新 梅花月を帯び、一枝新たなり

風撹飛泉送冷声 風は飛泉を撹(みだ)し、冷声を送る
前峰月上竹窓明 前峰に月上(のぼ)り、竹窓明かなり
老来殊覚山中好 老い来たりて殊に覚ゆ、山中の好(よ)きを
死在巌根骨也清 死、巌根に在りて、骨也(また)清し

借此間房恰一年 この間房を借りて恰も一年
嶺雲渓月伴枯禅 嶺雲渓月、枯禅に伴ふ
明朝欲下巌前路 明朝巌前の路を下らんと欲す
又向何山石上眠 又何れの山に向ひて、石上に眠らん

鉤月

道元の山居という漢詩は日本の文芸史の中では割と有名な詩らしく、少なくとも決して珍しい詩のたぐいではなくて、北川博邦『墨場必携日本漢詩選』、猪口篤志『日本漢詩鑑賞辞典』などに掲載されている。「墨場」というのは初めて知ったが、文人たちが集まる場所、という意味だという。で、長いこと、「釣月耕雲慕古風」というフレーズで、僧侶である道元が、魚釣りをしたりするのだろうか、と疑問に思っていたのだが、原文は「鉤月」であって、「鉤」は「釣り針」の他にも一般に「鉄製のかぎ爪」という意味であり、「農作業に使う鎌」の意味もある。それで『墨場』では「鉤月」を月明かりの下で刈り取りをする、と解釈している。「鉤月耕雲」は従って、空には月がかかり、雲海を見下ろしながら、山の中の畑で、作物を刈り取ったり、耕したりしている、という情景を詠んだものとなる。真夜中というよりは、夕暮れか早朝が似つかわしいのではないか。季節は同じ詩の中で冬と記されている。いかにも修験者、禅僧の日常生活らしい。

道元であるから、居場所は永平寺であろう。福井県の山の中である。禅宗と共に渡来した食べ物といえば、蕎麦か豆腐であろうから、山畑で刈り取っていた作物は蕎麦か大豆などである可能性が高いのではなかろうか。或いは茶かもしれぬ。「鉤月耕雲慕古風」をそのように解釈すると、ちょうど我々の気分にしっくりくる。

ただまあ、「鉤月」とは実に曖昧な表現であるから、ほんとにその解釈で必ずあっていると言うのは難しいと思う。或いは、「鉤」や「鈎」とは『日本外史』などでは「鉄製の熊手」のことで、弁慶など山伏などが武器の一種として携帯していたという。となると、「鉤」は、落ち葉を集めるのに使ったのかもしれんし、畑を耕すのに使ったのかもしれない。

時代はどんどん変わっていく。

この時期、麦茶やほうじ茶やウーロン茶をまとめて作って冷蔵庫で冷やしておいたりするのだが、
500mlくらいのペットボトルに移し替えておいた方がはけるのが早い。
むしろ最初からペットボトルに小分けにしておいた方が飲みやすく冷蔵庫にもしまっておきやすい。
ピッチャーのようなものは、最初お茶を作るとき以外要らないのではないかと思えてきた。

最近デジタル一眼レフのマニュアル撮影に凝っているのだが、
デジカメの場合、撮ってすぐに確認できるから、マニュアルでばんばん撮ってうまくいってなければ取り直せば良いんじゃないか、
と思うようになってきた。
絞りやシャッタースピードをいろいろ変えて撮ってみる。
感度やホワイトバランスはだいたい固定で。
そうすると photograph == 光画 という感覚がだんだんわかってくる。面白い。
ISO感度は100くらいにしといた方が、うまく撮れずにかえって面白い。

これが銀塩だと、できあがりまでどんなのになるかわからんから、マニュアルではなかなか撮影しにくい罠。
試し撮り気分でマニュアル撮影。
使って覚える的な。

セールス

うちは、携帯電話と固定電話とケーブルテレビが三つとも別会社になっていて、ひとつにまとめれば多少は安くなることも知ってはいるが、
同時に、大して安くはならないことも知っている。
また、うちはサーバーを立てて公開しているから、昔から使っているプロバイダとの相性というものもある。
固定IPアドレスはどうしてもほしい。
携帯電話会社にはしばりがある。
で、未だにばらばらなのだが、
しょっちゅう電話や訪問でセールスが来る。
実に鬱陶しい。
しかも、最初は「利用状況を調査に来ました」などと嘘をつく。
言いたいことは、「携帯と固定とテレビをまとめれば今より安くなる」ということなのだ。そんなことは百も承知だ。
今度来たら、「こっちはちゃんと利用料金払ってやっているのに、なんでそんな嫌がらせのように何度もセールスに来るのか。
二度と来るな。来たら他の会社に乗り換えるぞ。」と脅してやろうと思う。
いや、脅しではない。ほんとうに乗り換えることにしよう。

残暑

はっきり言ってどうでもよいことなのだが、立秋というのは、太陽の運行によって決まるから、旧暦でも新暦でも関係がない。
江戸時代でも現代日本でも、だいたい今の暑さの頃合いに立秋というものが来る。
なぜこうなるのか。
ということを調べてみると要するに、夏至と冬至、春分と秋分が先に決まって、それを春夏秋冬に切り分けていくと、
太陽暦で言う八月上旬が秋のはじめ、つまりは立秋になるというわけらしい。
つまり、夏至を夏の真ん中だと決めてしまうことに問題がある罠。夏至は六月下旬。
初夏ではあるが、真夏ではない、断じて。

それで、年賀というのは、昔は正月に人のうちを訪問することだったのに違いないが、
直接訪問できないので代わりに年賀状というものを出すようになり、
それが明治以来の郵便制度によってまるで国民全員の年中行事のようになってしまった。
日本人は盆と正月に家族で集まったり物を贈ったりするから、
おそらく暑中見舞いのルーツはお盆に親類縁者を訪問することだったのだろう。
で、年賀状との類比で暑中見舞いというものが始まった。
ところが、立秋を過ぎると秋だというのでなんか具合が悪いから、残暑見舞いというものを出すようになった、のではないか。
江戸や明治の頃から続く伝統であるはずがない。
も少し疑問に思ったほうが良いとおもうよ。

しかし、八月中旬以降が残暑だというのはおかしい。
この頃がまさに暑さの盛りであり、九月に入ったころにときどき夏の暑さが戻ったような日を残暑というべきではないか。

ていうか、江戸時代に完成した太陰太陽暦と明治以降の西洋暦、それから、いろいろな慣習や流行によって、
ぐちゃぐちゃになってしまった今日の日本の季節感というものを、一度きちんと直さなきゃならんのではないか、と思っているのは私だけではあるまい。

平八郎と山陽

見延典子『頼山陽』によれば、山陽が大塩平八郎に初めて会ったのは、
文政7(1824)年3月6日、平八郎の八幡町にある役宅を訪れる。同じ年、9月5日にも再び大阪へ行き、
先に平八郎に見せられた「霜渚蘆雁図」という掛け軸を所望して、もらっている。
1827年9月20日、大阪で菅茶山の杖を盗難にあった山陽は町奉行所に平八郎を尋ねる。
京都に帰って数日後、平八郎は杖を探しだして山陽に届ける。
1830年9月下旬、平八郎は与力を辞職。尾張へ向かう途上京都の山陽を訪ね、刀を贈る。
1832年4月、大阪で平八郎と会う。

およそ直接会ったのはこのくらいしかないようだ。

水西荘

頼山陽が香川景樹といつ知り合い、どのように交際をしていたか、いまいちわからない。
香川景樹は1768年生まれ、頼山陽は1781年生まれだから、景樹のほうが13歳も年上である。
しかも、景樹は山陽の母・梅颸の和歌の師匠であるから、山陽と景樹は、文人どうしの親友というよりも、
景樹のほうが山陽から敬われていたか、
あるいは、
山陽が景樹から可愛がられていた、と考えたほうがあたっているに違いない。
対等の付き合いというのではないと思う。

景樹は1830年に『桂園一枝』を出版したときにはすでに一門をなしており、
山陽が世間に認められたのは、『日本外史』が刊行された1829年以後のはず。
どちらも当時すでに京都文壇の有名人だった。

文政2(1819)年8月24日、梅颸は初めて京都に来て、山陽の手配により、山陽自宅で師・景樹と対面する。
広島に住む梅颸と京都に住む景樹とは、師弟の関係といえど、直接会うのはこのときが初めてである。
山陽が京都に住むのは、寛政12(1800)9月、脱藩上洛した一時期と、
文化8(1811)年以後である。
1811年から1819年までの間に、すでに山陽と景樹が出会っている可能性もなくはないのだが、
今のところ私はそのような記述を探しだすことができない。
母を師匠に会わせるため初めて景樹と接触を持ち、それから親しく交際するようになったというのも不自然ではない。

文政7年(1824) 8月16日、
「頼襄が三本木の水楼につどひて、かたらひ更かしてしてよめる」と詞書があって、景樹が詠んだ歌二首

すむ月に水のこころもかよふらし高くなりゆく波の音かな
白雲にわが山陰はうづもれぬかへるさ送れ秋のよの月

山陽が京都で初めて住んだ借家は新町通丸太町上ル春日町。
それから車屋町御池上ル西側、二条高倉東入ル北側(古香書院)、木屋町二条下ル(山紫水明処、柴屋長次郎方川座敷)、両替町押小路上ル東側春木町(薔薇園)。
ずいぶん頻繁に引越ししている。引越しが好きだったのだろう。
それから東三本木の水西荘。文政5(1822)年に転居。この最後の家は土地は借り物で家だけを購入、死ぬまで住んだ。
三本木というのは、今の京都御所の南隣でかつては山陽もよく通う歓楽街だったらしい。
しかし東三本木というのは、御所の東で、今の京都大学の鴨川挟んで対岸あたり。
ちなみに景樹の家は白河にあったという。よくわからんが、祇園の奥、東山、鹿ヶ谷あたりか。

水西荘に移り住んで、文政3年正月に作った「新居」と題する詩がある。

新居逢元日 新居元旦に逢ふ
推戸晴㬢明 戸を推せば晴㬢(せいぎ)明らかなり
階下浅水流 階下に浅水流れ
涓涓已春声 涓涓として已に春声
臨流洗我研 流れに臨んで我が研(すずり)を洗えば
研紫映山青 研の紫、山の青に映ゆ
地僻少賀客 地は僻にして、賀客少なく
自喜省送迎 自ら送迎を省くを喜ぶ
棲息有如此 棲息此の如き有り
足以愜素情 以て素情に愜(かな)ふに足る
所恨唯一母 恨む所は唯一母
迎養志未成 迎へ養ふ志、未だ成らず
安得共此酒 いずくんぞこの酒を共にし
慈顔一咲傾 慈顔一咲して傾くるを得ん
磨墨作郷書 墨を磨(けず)りて郷書を作れば
酔字易縦横 酔字、縦横なり易し

※晴㬢 「㬢」は太陽の色、日の光。
※酔字易縦横 酔っぱらっているので、字がふらつくの意。

頼山陽は新居で毎朝、鴨川から硯の水を取り、また、夕方には鴨川の流れで硯を洗い、弟子たちにもそれを勧めたそうだ。
土地は143坪。現代の普通の都会の宅地の5倍くらいはあるな。
ここに書生部屋などを増築したという。
「地僻少賀客」とあるが、当時は京都の町外れだったのかもしれん。