将軍放浪記

パブーに公開した[将軍放浪記](http://p.booklog.jp/book/33168)だが、これは、最初無料にしようかと思ったが、
途中で気が変わり、有料にする。例によって七割方は試し読みできる。
つまり、この小説の場合、話の山場は「いざ鎌倉」まで。
残りは和歌についての蘊蓄であって、読んでも読まなくてもあらすじにはあまり影響がない。
だから、「いざ鎌倉」までを試し読み可能にしておき、あとはお金払ってまで読みたいという人のためのおまけにする。
しかし私としては「新葉和歌集」についての蘊蓄はできるだけたくさんの人に読んでもらいたい。
読んでもらうには無料にした方が良いに決まっている。
しかし私としては、特に理由が無い限り、できるだけ自分の小説は有料にしたい。
無料ならば読まれて当たり前。有料にしても読んでくれる人がいる、という実績は欲しい。

これはちょうど一年くらい前に書き始めたもの。私の小説の中では一番古い。これより古いのは、
「アルプスの少女デーテ」しかない。しかし「デーテ」は小説を書こうというつもりで書いたものではない。
将軍放浪記は、作家デビューを狙って、つまり新人賞に応募するつもりで、商業的な小説のつもりで初めて書いたもの。
今から読み直すとかなり荒い。それと、いろんなネタをけっこう贅沢に盛り込んでいる。
今の私ならこれだけのネタは二つか三つの小説に分けて書くと思う。

私の小説というのはたかだかこの一年間にわーっと書き上げたものだ。全部で二十くらいはあるかな。
「スース」とか「超ヒモ理論」なども入れると。

ともかく最初に書きたいことを書きたいように書いたものであった。
原型は留めているが、だいぶ手直ししたところもある。
「源氏の長者」「治天の君」「三種の神器」などについては、比較的最近の考察も盛り込んだりした。

もしこの小説が認められれば、小説に書いたのと同じルートで現地取材し直して、もっとふくらませて書きたいものだ。
ほとんどは、現地を見ず空想で書いたことばかりだ。
たとえば、駿河湾の田子の浦あたりから富士川添いに山梨県に入ってそれから長野の諏訪湖まで到るルートとか。
実際に歩いてみるといろんな面白いネタがあるに違いない。
現地を見ればきっともっと書きたいことが出てくるに違いなく、そうすると、すごい長編小説になるだろう。
ふつう、小説というのは出版したあと書き足したりしないものだが、それは版権などが絡むから、作者といえど、
簡単に直せないからではないか。
私の場合、パブーに公開しているだけだから、いくらでも書き直してかまわない、と思っている。

将軍放浪記といっても水戸黄門の漫遊記のようなのとは、ちと違う、などということは、読めばわかることなのだが。
タイトルのネーミングは西原理恵子の「まあじゃん放浪記」に影響されている、と言える。

外飲み

久しぶりに外飲みハシゴなどしてみるが、アルコールは無し。
医療関係の仕事をして居る人に、総合病院で薬を出してもらう場合と、
町医者に処方箋書いてもらって薬局で売ってもらう場合で、
どのくらい費用が違うか、どういう病院、医者、薬局が良いか、などという話を聞く。
やはり知り合いにそういうことを知ってる人がいるということは重要。
こういうことは中年になると知っておかねばならぬ知識である。

思えば酒も飲まずにカラオケを歌ったことはなかったのだが試しに歌ってみる。
全然声が出なくなっており、すぐに声が枯れてしまった。
やはり日々の鍛錬が重要。

1.5リットル

いろいろピッチャーや水差しなどを試してみたのだが、結局一番使い勝手が良いのは耐熱ガラス製のコーヒーサーバー。
注ぎ分けるときにたれたりしにくい。
測ってみると1.5リットル分ある。
これに、口にぴったりはまる茶こし、漏斗(じょうご)などあるとよい。
ティーバックか茶葉かコーヒー豆を買ってきて、淹れたらなんでもかんでもペットボトルに移して冷蔵庫で保存する。
ちょうど1.5リットルのペットボトルは果汁などのものがある。
コーラやジンジャエールなどの炭酸飲料にも1.5リットルのものがあるが、やや形状がかさばる。
あるいは、500mlのやつ3本に小分けなどする。

とにかく、お茶やコーヒーを作るときは、コーヒーサーバー。それを保管するにはペットボトル。これ最強。

atok

やはり atok は必要で、特に、漢字入力で最後の便りは手書き入力。
IME ごときけちけちしても仕方ないから、ばんばん買うことにする。

ていうか、MS-IME にも手書き入力あるんだ。知らんかった。

川越素描

一年ほど、新人賞に応募したりしたのだが、全然かすらなかったので、これからはどんどんパブーの方に公開していこうと思う。
まずは[川越素描](http://p.booklog.jp/book/32888)。
これは400枚くらいのけっこうな長編で、今までちまちま公開してきたスースとか超ヒモ理論なんかに比べれば、全然長い。
今日のところはいったんその半分くらいを公開する。
最終的には8割くらいを試し読みにして、残り結末2割程度を残して、100円の値段で販売するつもり。
他にもいくつか並行して公開していこうと思う。

処方箋の期限

相変わらず大量に薬を処方され飲んでいるのだが、
近頃は、病院から直接出してもらうのではなくて、薬局に処方箋を出して売ってもらっている。
一部をいわゆるジェネリックに変更したのだが、二週間分で210円しか安くならない。
レニベースをレニベーゼに、
ラシックスをフロセミドに、
アルダクトンをアポラスノンに変更。
プラザキサは新薬なんでまたこないだも死人が出たので気をつけてくださいと言われたのだが、
どう気をつけろというのだろうか、血が止まりにくくなるらしいのだが、
私の場合、多少どこかにぶつけて血が出てもすぐに止まるがな。
採血のときも血が止まらず困るということはない。

おお、どうやらこれのようだ。
[血液凝固阻止剤「プラザキサカプセル」服用患者での重篤な出血に関する注意喚起について](http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000001m1w3.html)。
平成23年8月12日厚生労働省。

> ○ 「プラザキサカプセル」(別添1参照)は、心房細動を起こした患者で血栓ができ、脳卒中や全身性塞栓症が発症しないよう、血液を固まりにくくするための薬剤。出血があった場合、血が止まりにくくなる副作用が知られている。

> ○ 6月13日までに本剤投与患者で、関連性の否定できない重篤な出血性副作用による死亡例が1例(腎不全患者)報告され、厚生労働省から製造販売業者に医療機関に対して直ちに情報提供を行うように指示してきたところ。その後、8月11日までに、関連性の否定できない出血性副作用による死亡例が厚生労働省に4例報告された。

> ○ これら合計5例の死亡例の年齢は、70歳代1名、80歳以上4名、性別は、男性1名、女性4名であった。

> ○ 患者の安全確保のため、今回、
1 本剤の投与前及び投与中に腎機能検査を行うこと。
2 出血や貧血等の徴候を十分観察し、出血が見られた場合には適切な処置を行うこと。
3 患者に対し、出血等の徴候が現れた場合に直ちに医師に連絡するよう指導すること。
が重要であり、別添2のとおり、「使用上の注意」の改訂を行うとともに、医薬関係者に対して速やかに情報提供するよう、製造販売業者に対して指示した。

> ○ 「プラザキサカプセル」の服用患者にあっては、鼻出血、歯肉出血、皮下出血、血尿、血便等に注意し、出血があった場合には直ちに医師に連絡することが重要である。

> 本剤は主に腎臓を介して排泄されるため、腎障害のある患者では、本剤の血中濃度が上昇し、出血の危険性が増大するおそれがある。本剤を投与する前に、必ず腎機能を確認すること。また、本剤投与中は適宜、腎機能検査を行い、腎機能の悪化が認められた場合には、投与の中止や減量を考慮すること。

まあ、私の場合、腎機能障害はないと思う。おしっこビュンビュン出るし。

処方箋を書いてもらって5日目に行ったのだが、処方箋というのは、薬の期限がかかれてない場合、
4日までしか出せないと言われ、わざわざ病院に電話して確認してもらった。

ジェネリックに変えたにもかからわず、病院から出してもらう投薬料と、薬屋でかかる薬剤料を比べると、薬剤料のほうが微妙に高く、
その他基本料や指導料などがかかるのでかなり高くつく。
また、病院で処方箋を出してもらうだけでもそれなりの金を取られる。
プラザキサが新薬のせいで二週間に一度処方してもらわなくてはならんので、
たぶん病院で直接薬を出してもらうほうがかなり安いのだろうなあと思うのだ。
だが通院にかかる時間や電車代などを考えるに、今のように近所の病院に通うのにも意味はあるかもしれん。

勝海舟の和歌

> 八田に歌を見てもらふと、少しも直さなかったよ。アナタ方のは別だからと言ふた。然し、一字二字の所を、これではかういふ意味になります、と言はれると、実に一言もないネ。それから高崎正風に見せると、じきに、コレがいけぬ、アレがいけぬと言ふて、直すから、馬鹿にしてやった。お前の師匠の八田さんは少しも直さないよつてネ。それから大分遠慮しだしたよ。
松平上総介が始終来て、歌をおよみなさい、およみなさいと言つて、せめかけたものだから、その頃はよんだのサ。
千陰は、目明かしの御用達で、あのせはしい中で、あの筆と歌だ。実に驚いたものサ。

などと言っているのだが、松平上総介とは松平忠敏 (主税助)のことらしい。維新後も宮内省に出仕して御歌所の歌道御用掛となり、御歌所所長の高崎正風の部下になっている。明治15年まで生きている。なので、勝海舟にいつ和歌を勧めたのかはよくわからん。ただ、勝海舟の和歌集を見ると、戊辰戦争より前のは皆無である。やはり和歌は明治になってからさかんに詠み始めたのではなかろうか。漢詩よりはだいぶ遅れたようだ。
松平上総介と高崎正風は職場でずいぶんぶつかったようである。

八田というのは、八田知紀で、この人は明治6年までは生きた。やはり宮中の御歌所に出仕していた人。八田は薩摩人であり、京都で香川景樹に学んだのだから、れっきとした桂園派である。古今調だ罠。
一方勝海舟は幕臣であって、加藤千陰や松平上総介らに影響を受けたのだから、江戸風の和歌、つまり、どちらかと言えば、万葉調の賀茂真淵、田安宗武らの影響を、最初は受けたのだろう。
八田知紀にしてみれば「アナタ方のは別だから」直しようがないということだろう。
しかし高崎正風はどんどん直したというのだから面白い。
薩閥の八田と幕臣の勝が出会うのは、明治維新以後としか思えないし、
高崎と出会うのは、西南戦争より前であることはあり得ないだろう。

目明かしの御用達というのは町奉行与力で、吟味役(取り調べ係)だったということ。

感を書す二首

『勝海舟全集20 海舟語録』を読んでいる。これには和歌集と漢詩集もついている。
勝海舟の全ての和歌と漢詩が収録されているとはとても思えないが、多少役には立つ。

勝海舟は、文久3(1864)年11月10日に軍艦奉行を罷免されてから、慶応4(1868)年1月17日、戊辰戦争の直前に海軍奉行並に戻される間、
閑職にあって、その時に和歌や漢詩を学んだという。
慶応2(1866)年には、徳川慶喜の命で第二次長州征伐の停戦交渉に赴いたりしているが、慶喜が勝手に停戦してしまったので、
怒って江戸に帰ったりしている。
わずか三年ほどの間であり、そんな短い間に和歌や漢詩ができるようになるはずもないから、前から多少の素養はあり、
明治になってからもいろいろ勉強したのに違いない。

安政6(1859)年、丙寅(1866)、丁卯(1867)、戊辰(1868)などが初期の漢詩ということになる。
こないだ、[なんでも鑑定団で勝海舟の書というのが200万円で出ていた](http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/database/20110816/02.html)のだが、
それは戊辰戦争の頃、江戸城の全権を任された時に作った詩だというので、
それらしいのが掲載されていた。

誰教大鼎弄群児 誰か大鼎をして群児に弄ばしむる
只見蒼生苦荊岐 ただ見る蒼生の荊岐に苦しむを
嗚呼吾主高義家 嗚呼、吾が主は高義の家
如何憤怨及我私 如何ぞ、憤怨の我私に及ぶを
古往今来已如此 古往今来、已にかくのごとし
上下千年任天知 上下千年、天知に任す

※大鼎 天下の大権
※荊岐 悪臣

壮士決戦不顧死 壮士戦を決すれば死を顧みず
此際豈亦容毀誓 この際、豈に亦毀誓(きし)を容れんや
錦旗飜風函嶺巓 錦旗風に飜(ひるがへ)る、函嶺の巓(いただき)
湯城殺気紊綱紀 湯城の殺気、綱紀を紊(みだ)す
丈夫報恩他有需 丈夫、恩に報ゆるに、他に需(もと)むる有り
救此蒼生答天子 此の蒼生を救ひて天子に答へん

※毀誓 悪口
※函嶺 箱根の山

湯城というのは、ちと意味がわかりにくいが、ここでは天子の討伐の対象となっている江戸城のことであろうか。
血気にはやって官軍と一戦交えるのでなく、江戸の街と人民の秩序と安全を保つのが天皇への報恩だと歌っていると解釈されるのだが。

寂室元光

寂室元光という人の漢詩がけっこうしびれる。
もっと他にはないのだろうか。

不求名利不憂貧 名利を求めず、貧を憂へず
隠処山深遠俗塵 隠処は山深く、俗塵に遠し
歳晩天寒誰是友 歳晩天寒く、誰か是れ友なる
梅花帯月一枝新 梅花月を帯び、一枝新たなり

風撹飛泉送冷声 風は飛泉を撹(みだ)し、冷声を送る
前峰月上竹窓明 前峰に月上(のぼ)り、竹窓明かなり
老来殊覚山中好 老い来たりて殊に覚ゆ、山中の好(よ)きを
死在巌根骨也清 死、巌根に在りて、骨也(また)清し

借此間房恰一年 この間房を借りて恰も一年
嶺雲渓月伴枯禅 嶺雲渓月、枯禅に伴ふ
明朝欲下巌前路 明朝巌前の路を下らんと欲す
又向何山石上眠 又何れの山に向ひて、石上に眠らん

鉤月

道元の山居という漢詩は日本の文芸史の中では割と有名な詩らしく、少なくとも決して珍しい詩のたぐいではなくて、北川博邦『墨場必携日本漢詩選』、猪口篤志『日本漢詩鑑賞辞典』などに掲載されている。「墨場」というのは初めて知ったが、文人たちが集まる場所、という意味だという。で、長いこと、「釣月耕雲慕古風」というフレーズで、僧侶である道元が、魚釣りをしたりするのだろうか、と疑問に思っていたのだが、原文は「鉤月」であって、「鉤」は「釣り針」の他にも一般に「鉄製のかぎ爪」という意味であり、「農作業に使う鎌」の意味もある。それで『墨場』では「鉤月」を月明かりの下で刈り取りをする、と解釈している。「鉤月耕雲」は従って、空には月がかかり、雲海を見下ろしながら、山の中の畑で、作物を刈り取ったり、耕したりしている、という情景を詠んだものとなる。真夜中というよりは、夕暮れか早朝が似つかわしいのではないか。季節は同じ詩の中で冬と記されている。いかにも修験者、禅僧の日常生活らしい。

道元であるから、居場所は永平寺であろう。福井県の山の中である。禅宗と共に渡来した食べ物といえば、蕎麦か豆腐であろうから、山畑で刈り取っていた作物は蕎麦か大豆などである可能性が高いのではなかろうか。或いは茶かもしれぬ。「鉤月耕雲慕古風」をそのように解釈すると、ちょうど我々の気分にしっくりくる。

ただまあ、「鉤月」とは実に曖昧な表現であるから、ほんとにその解釈で必ずあっていると言うのは難しいと思う。或いは、「鉤」や「鈎」とは『日本外史』などでは「鉄製の熊手」のことで、弁慶など山伏などが武器の一種として携帯していたという。となると、「鉤」は、落ち葉を集めるのに使ったのかもしれんし、畑を耕すのに使ったのかもしれない。