たがよべばとて 春は来るらむ

水戸に出張したときに作った詩。今更題を考えるのが面倒なのでとりあえず無題。

> 関東水戸城 一夕偶来泊 饗宴雖招吾 憂心欲独酌

水戸にたまたま一泊した。みんなで呑もうと誘われたが、そのあと独りで飲みに行った、という話。

> いそぢこえてなほいきめやもそのことと望みも無きにはるさめの降る

今年50歳になるわけだが、
割とやりたいことはやってしまって、
今更工夫がしたいということもない。
いや、違うな、このくらい努力したらこのくらいの結果が出るというのが見えてしまっているので、
やるまえから萎えるというべきか。
仕事への情熱などなくはやく辞めたいのだがまた春が来るなあという話。

> ひさかたの 月日のすぐる かひもなし 誰がよべばとて 春は来るらむ

最終稿を提出して少しひまになった。
こういうものは期限を決めないと全然終わらない。
私の場合書いているうちにどんどん詳しくなって新しい発見があってそれを旧原稿に盛り込もうとすると、
構成全体が変わってしまって校正のスパイラルから抜け出せなくなってしまう。
だから期限決めてそこまでで一旦終わりにするしかない。
これはもうしょうがないこと。

で、もっと書きたければまた書けば良いし、書き直したければ第2版で修正。

もうたぶんダメだしとかなしにこのまま3月くらいにゲラの校正があり4月くらいにでるだろう。
普通のハードカバーで値段もそれなりなやつになる。
若干反応があればいいがないともうどうしようもないなあ。
キンドルだとまた売れなかったな(笑)で済むが。

著者名は田中久三ではなく久三のところが雅号みたいなのになる。
今のところ新人として書くことになっているので、しばらくその名前は出さないが、
だいたいタイトルと内容ですぐわかると思う。

思いついた順にだんだん書き足していくのだが、
重複したのをまとめたり順番を入れ替えたり。

サハラの民

民主主義とか報道の自由というものは、
ヨーロッパやアメリカの秩序で世界が実際に治まっていたころには正しかったかもしれん。
というより、結果論としてうまく行っているから社会主義よりか資本主義が「正しい」、
全体主義よりか自由主義が「正しい」と言われているにすぎない。
世界が治まらなくなったとき、
世界に適応していないやり方がただ正しいという理屈だけで正しくありつづけられるかどうか。

私には、昔フランスがアラブをぶん殴った仕返しに、いまアラブにぶん殴られているだけにしか見えない。
アラブは昔ぶん殴り返そうと思ってもできなかった。我慢していた。
今は少しできる。
国家間の戦争という形ではできないが、テロでならできる。
ヨーロッパとアメリカが世界中を植民地にした反動が、
第二次世界大戦後、植民地の独立という形で一旦おさまったかに見えた。
ヨーロッパは植民地を放棄すればそれでチャラだと思ったかもしれない。
独立国は内戦を始めた。
ほらみたことか、植民地なんか自治ができるわけないと思っただろう。
しかし自治とか国家とかそんなレベルでなくて、
旧植民地は今やヨーロッパに仕返ししようとし始めている。
手段を選ばずに。

サンテグジュペリの小説にも不帰順部族というのが出てくる。
かれらは当時微力で、サハラの沙漠から出てくることができなかったから、
パリの市民は安心して眠れたのだ。
だが、フランスは旧植民地から大量に移民を受け入れてしまった。
フランスは免罪のつもりだったかもしれないが、サハラの沙漠の民は、許したつもりはないかもしれん。

古き良き時代

古きよき時代なんてものがあったのかしらないが、とりあえずあったことにしておく。
戦後昭和の高度経済成長期とかバブルの頃を一応そうしておく。

で、組織を良くしようとか変えようという人はだいたい憎まれるか怖がられる。
そういう人に面と向かって反論する人もやはりいやがられる。
怖い人か嫌な人かなんて関係なくて、とにかくちょっと新しいことやろうとして強引になにかしようとすると、
人はいやがられる。
少なくとも、一部にすねに傷持つ人がいるから、そこが強硬に反対する。
わーっとみんながてんでに騒ぎ出す。
そうするとその他大勢の人たちは、よく考えずに同調して怖がってしまい、
結局、物腰の柔らかい調整役みたいな人をトップに選んじゃう。

古き良き時代はそれでよかったかもしれん。
しかしトップはただの調整役じゃ困る。
身内にはそれで良いかもしれんが対外交渉とかどうするんだよと。
あと、経営とか法務とかはできるんだが、技術のまったくわからん人になられても困る(笑)。
経営法務技術は畑違いだから一人でわかるのが無理だとすれば、
うまくフォーメーション組めば良いわけだが、
えいやっと決めるとだいたいうまくいかないし、
うまく決めようとしてもだいたいうまくいかない。
最適解はあるらしいが安定解ではない、とでも言おうか。

でまあおそらく今までも古き良き時代なんてものはなかったのかもしれん。
同じぐだぐだを永遠に繰り返しているだけだ。
組織を変えようと頑張る人がつぶされるたびに(それは時には自分だったかもしれない)
私はもうどうでもいいやめんどくせーなと思う。
私は周りに押しの強い人がいたら、めんどくさいから引くタイプだと思う。
同じ組織に長くいればいるほどその組織が嫌いになるタイプだと思う。

だが客観的に考えれば今の組織だって今の社会だって別にめちゃくちゃ悪いわけではない。
そして動いた方が確実に損をする。
ただ自分が一箇所にいるのが苦手なだけかもしれない。

今の私の仕事というのは、
なんかぶつかるとすげー痛くて大けがしそうな隕石が飛んでくるのを、
できるだけのらりくらりとよけるようなものだ。
ぼーっとしているといつの間にか近づいてきてあせるが、
多少気をつけていればなんてことはない仕事である。
そうやって毎日ミスをおかさないように、迷惑がかからないように、
無駄に他人を助けないように(笑)、
人から恨まれないように、
収入に対する労力が最小限になるように最適化しながら生きているわけだ。
まーしかし私の年になれば誰でも似たようなものかもしれんね。

異物混入

食品に異物が混入するってことが急に起きるようになったわけでないことは確かだ。
ツイッターが流行して、ツイッターの利用者が増えて、
ある人が写真でいきなりアップする。
ツイッター界で話題になる。
そこでほっとけばいいのに、わざわざマスコミが報道するので、
まさに火に油を注いで嫌な拡散の仕方をする。
じゃあツイッターのせいであり、マスコミのせいかというと、
実はそういう報道にすぐ食いつく一般人が結局悪い。

私はいろいろと食べ歩いて個人営業の飲食店の人たちなどの話を聞くこともあるんだが、
厨房が客席から見えてないようなところは中で何してるかなんてのはわからんわけだ。
厨房が丸見えだとしても必ずしも衛生的とは言えないような店にも私は入る。

普通の飲食店にゴキブリがいるのは当たり前だ。
ネズミもたぶんいるのだが、滅多に人前に出てこないだけだ。

縁日の屋台の惨状についても聞かされることがあり、
それ以来縁日じゃいっさい食べない。
というのはつい最近『生命倫理研究会』にも書いたとおりなのだ。
私はもともと屋台が好きだった。
屋台のラーメンとか。
しかし最近はやめてる。
屋台自体が少なくなった。
要は、衛生的でないから地方自治体が新規に許可を出さないわけだ。
事実衛生的とは言いがたい。
あんまり書くと営業妨害になるかもしれんからこのくらいにしておく。

マスコミというのは淡々と役に立つ情報だけを提供する番組は少ない。
5秒で説明できることを何十分もひっぱる。
或いはクイズ形式にする。
タレントをかませる。
私には意味不明だが、一般の視聴者はその方がうれしいからそうなっているだけなのだ。
一般人は度しがたい。どうにもしようがない。
私としてはただただそういう世界と関わらないようにするだけだ。

仕切り直し

小説を書き始めたのが2009年の夏頃で、
そのころはまず新人賞に応募して、ダメだったやつを(ダメでないやつはないのですべてだが)
順次 puboo に載せるようにしていた。

kindle で出すようになったのが 2013年から。
このころはもう、新人賞に出すこともなく、いきなり kindle に出していたように思う。

2年間ばかり kindle で悪戦苦闘してきたのだが、
だいたい状況はわかってきたように思う。
自分という書き手の問題もあれば kindle でいきなり個人出版をやる問題もある。

旧作に関してはもうこのまま kindle で売り続けることにする。
ほぼ250円で、「川越素描」などの長編は500円にする。
短編でも99円とかはもうつけない。
安くしようが高くしようが売れないものは売れないってことがわかったからでもある。
自分としては「川越素描」「司書夢譚」「安藤レイ」「アルプスの少女デーテ」などは長編なので、
他よりは高い値を付けたい気持ちがあった。
また「将軍家の仲人」は別格にしたい気持ちもあった。
今回実質値上げしたわけだが、値段の差は私の中での格付けだと思っていただきたい。

恥ずかしながら昔のつてを頼って別のやり方で出版しようと模索している。

自分には面白くても人には面白くないということは当初からだいたいわかっていた。
私に才能があるとすれば、今まで見つかってなかったパズルのピースを見つける能力だと思う。
人が気づかない、理論と理論の間のショートカットを見つける能力だと思う。
私の中ではそのショートカットを見つけただけでうれしいし面白い。
しかしそのショートカット自体は他人には何にも面白くない。
例えばそのショートカットとは泰時であったり栄西であったり西行であったりする。
或いは西園寺公経とか平頼盛であったりする。
しかし世の中の人は清盛とか頼朝しか面白いとは感じない。
つまりだ、栄西とか公経とか頼盛という自分にとっては面白い発見を利用して、
そこで得られた新しい切り口で、清盛とか頼朝の話を書かなくてはならないのだが、
これが難しい。

イェルサレム司教アルヌルフとか、ローマ教皇パスカリス二世ではなく、
神聖ローマ皇帝ハインリヒ五世とか東ローマ皇帝アレクスィオスで物語を書かなくてはならぬ。
普通の人は歴史上の有名人を主人公にしたほうが話が書きやすいのかもしれないが、私には苦痛だ。
最初書いた「将軍放浪記」でも将軍というのは源でも足利でも徳川でもない。
後醍醐天皇の皇子、宗良親王だ。
そういうマイナーな人を書くのが私の快感なのだが、
この気持ちを読者と共有することはほとんど不可能だ。
おそらく私は自分が見つけたパズルのピースを主人公にしてあげたいという気持ちがあるのだ。
彼を発見したのはまさに自分だからだ。
他の英雄たちは誰でも知っている。私以外の人たちがたびたび描いている。
だから私にはちっとも親しみが感じられない。

私が思いついたことにはまだ他人が書いてないことがあるはずだが、
それを活かした本を書くことは私一人では無理かも知れない。
私一人でこの作業をやるのはつらすぎる。
身近な人に読んでもらってもいいのだが、彼らは出版のプロではない。

ともかくそろそろ仕切り直す時が来たんだと思う。

それはそうと今年で五十歳なのだが、定年まであと十五年も働かなくてはならないかと思うと、
ほんとに嫌でたまらない。
「紫峰軒」では定年後の老人の話を書いたのだが、その主人公の身分になるにはまだだいぶ働かなくてはならぬ。
私はほんとうに働くのが嫌いな人間だなと思う。
まあみんなそうかもしれないが。
だが私の知り合いの多くは定年後も再就職して働きたいと思っている人たちばかりである。
私も別に本を書くとかそういう仕事ならしても良いが、
人に雇われて働くのはもうこりごりだ。

カニバリズム

神経痛はだいぶ治ってきたがまだ痛む。年齢と同じくらいの日数かかるというから、順調に治ってきているのだとは思うが、ずいぶんとしつこい病気ではある。

「キリスト教とカニバリズム」というそのものずばりのタイトルを付けた本もあるようだが、実際にイエスが食われたかはともかく、初期のキリスト教が、なんらかの形でカニバリズムと関係していた可能性は高い。

後世、予言と見えるようなことはたいていは後付けの解釈である。日本書紀の地名説話にしても、大化の改新にしても、寺や温泉の由来にしても、韓国起源説にしても、後世になってわからなくなったことを後から適当に理由付けしたものである。福音書にしてもイエスの死後五十年以上して成立したもので、それは平家物語の成立とも似ているが、一時資料としての歴史的な信用性はない。

人を殺して神に捧げ、時にはその肉を食い、血を飲むというような宗教儀式は、古代には広くみられたはずだ。犠牲は人から牛や羊などとなり、後に血は酒で代用されるようになる。人よりは家畜、家畜よりは酒のほうがコストがかからないからだ。つまり食人の習慣が廃れた主たる理由は、人を使うのが「もったいない」からだ。中国では犠牲の血で青銅器を血塗り、その血を飲んで盟約を結んだ。今日ではマオタイ酒がその代わりをする。キリスト教でも、本来は血を飲んだかもしれないがそれがワインに変わったのかもしれない。ユダヤ教では血は飲まないので、明らかにユダヤ教以外の異種の宗教が混入したのである。おそらくはヒンドゥー教のカーリー信仰のようなものだった。アーリア人の宗教はインドからペルシャまで広く分布していて、当然ユダヤにも影響を与えた。というよりか、ユダヤ人はペルシャ人によって捕囚されたのだから、ペルシャ人の宗教の影響を受けないはずがない。

イエスの処刑というものは、ほとんどめだたない出来事だったはずだ。しかしイエスにごく近い異端の宗教指導者が、イエスを教祖に祭り上げる。初期は家畜の肉や血が聖餐に使われていたかもしれない。それは今のヒンドゥー教の儀式のようなものだったかもしれない。明らかにユダヤ教の正統の儀式ではない。

やがて肉と血はパンとワインで代用されるようになった。パンはキリストの肉、ワインはキリストの血であるとはわかりにくい比喩である。そこをうまく説明づけるために、最初期の福音書は書かれたのではなかろうか。ただそれだけのことではないのか。

「アンデスの聖餐」などと呼ばれる事件があったが、要するに、他に生き残る手段がないときに、死者の肉を食べるのは、聖餐と同じであって許される、という解釈だ。

中国に食人の習慣があったのは有名だが、
小室直樹の『資本主義中国の挑戦』に詳しく書かれている。

日本には食人の習慣はあまりみられなかったようだが、殉死や人柱などの人身御供はかなり一般的だったのではないか。
ヨナ記にも海の神を鎮めるためにヨナが海に投げ込まれるなどいう話がある。
兵馬俑や日本の埴輪は生きた馬や人の代用だともいう。

神経痛2

なかなか治らない。

たぶん、神経が壊れることによって、触ったとか冷たいという感覚がすべて、痛みとして知覚されるのだと思う。すべての皮膚感覚が暖かさとか冷たさとか触覚に間違われるよりは安全というか、フェールセイフにできているのだろうが、ただものに触れただけで痛いのは困る。治るのに年齢と同じくらいの日数がかかるとか書かれていたりするのだが、
一か月半近くも治らないのだろうか。まだ十日くらいしか経ってない。別に普段の生活に困るわけではないが、不快だ。

健康第一。年寄り臭い。

神経痛

急にやることがなくなった。じたばたしてもしかたない。

ウィルスはすでに免疫系によって退治されたようだが、破壊された神経がひりひり痛む。何もしないとどうということはないが、皮膚をさすると痛い。体の芯のほうでは腰痛のような痛みになる。これが神経痛というものなのだな。で、神経が回復するまで三週間くらいかかると。慢性化して残ることもあるらしい。こわいこわい。

もう年寄り臭い病気ばかりで困る。実際年よりなんだが。

こういう神経痛とかリューマチとかヘルペスとか皮膚病とか痛風とかにかかった老人が、米持ち込みで自分で炊いて何日も逗留するような湯治場を利用するんだなあと思うと、なんかしみじみとしてくるわな。そんなじじばばの中に混ざって、自分もじじいなわけだが、米をといで塩昆布かなんかで食べてるところを想像したりする。確実にあと20年で、はやければ5年か10年でそうなる。

和歌の本

和歌の本にはある一つの定型がある。
歌人の評伝と歌の解釈からなるのが普通。
ところが今回私が書こうとしたのは、
禅と、和歌と、武士というおよそ三つのテーマがあって、
それらが渾然と絡まりながら発展していく、
その中心には定家があり、承久の乱がある。

こういう本は、普通、和歌を学びたいと思っている人が読んでも、
関係ないことばかり書かれていて読めない、ということになる。
承久の乱について読みたい人には関係のない禅や和歌の話が多すぎるということになる。
禅についてもそうで、読者はすでに禅についてのある種の先入観を持って禅の本を手にとるのであり、
それが栄西とか定家とか泰時のことばかり書いてあるとなんじゃこりゃと思うだろう。
禅の本が読みたい人はふつう道元にしか関心がない。
そこを敢えてはずすのが私の本の書き方というか、
普通の書き方なら私以外の人が書けばいいわけで、わざわざ私が書く必要がないと思える。

で、要するに、
本は、和歌なら和歌のことだけ書かなくてはいけないらしい。
和歌と承久の乱に関係があるとしたら、和歌をメインに、
承久の乱は大根のツマくらいに添えないと本という形にならない。
マグロの刺身と大根が皿の上に並べてあっては料理にならないようなものだ。
普通はそれを調和とは言わない。
和歌の話をしながらいつの間にか話題は栄西に移り、栄西から頼朝、頼朝から泰時に移っていく。
私が好きなのはそんな本だ。
ありきたりの本など読んでいるくらいならWikipediaでも読んだほうがましだと思う。
或いは論文かなにか読んだほうがましだ。
たいていはWikipediaとかオープンアクセスの論文読んでれば足りる。
和歌はデータベースで読むほうがはるかに効率が良い。
あとは、『明月記』とか公家の日記なんかが直接読めればそれでよい。
それ以外の本など読むだけ時間の無駄だ。
いや、読む価値がある、書く価値がある本というのは、
私にとってはそれ以上の「新規な知見」があるものでなくてはならない。

道元の話をしてもいいんだが、
道元は村上源氏で久我氏の出でどうのこうの、だから和歌もうまいし漢詩もうまい、
それに比べて栄西は瀬戸内の豪族で材木商で日宋貿易とも関わりが深く、
平頼盛が檀那だったとか、
どうしてもそんな話になってしまう。
普通の人ならちゃんと道元の話しろよと怒ると思う。

自分が面白いと思うものを書くだけじゃだめ

ずいぶん長い間定家ばかりやってたが、とりあえずこっちは書き終えたということにして、
久しぶりに「海賊王ロジェール」とか「江の島合戦」などを読んでみた。
半年経つとかなりディテイルも忘れているし、
文体とか興味とかもずれてくるので自分が書いたものだがわりと新鮮に読める。

読んでみるとそれなりに面白い。
アブドゥル・ラーマンとかその娘のナディアなんて脇役は自分でもすでに忘れていたが、
こういうふうに登場させてこういうふうに描写する以外方法ないんじゃないかとおもう。
問題なのはアブドゥル・ラーマンというものすごくマイナーなシチリアの海賊を登場させることにあって、しかも彼は実在の人物であり、そこから大きく逸脱するような書き方は私はしたくないということにある。
私自身はアブドゥル・ラーマンはそのままで十分魅力的な人物に思えるが、
一般の日本人にはそうではあるまい。

「江の島合戦」にしてもこのネタで主人公を太田道灌に書くならこういう書き方をするしかない、
というか、
これより面白くはなかなかならんと思うのだが、
なにしろ「江の島合戦」という超マイナーな局地戦の話であり、
登場人物が小山氏とか宇都宮氏とか結城氏とか里見氏みたいなめちゃくちゃ関東ローカルで、
戦争自体地味で盛り上がりもなく、
そこがまた味なんだが、
一般受けするはずもない。

で、半年くらい前の私は、
ほかにも「人斬り鉤月齋」などいろんなものを書いてみて、
どこかで普通の人の興味をひかないかな、
当たりがあればそこは連載していこうってことを試行錯誤してたと思うんだが、
今や万策尽きた。
どこも当たらないのだ。
つまり、私の場合、四十年くらいの読書歴があり、
他人の本で読みたいものがなくなったので、自分が読むために小説を書き始めたようなところがあり、
自分が面白くて他人も面白ければ売れるんじゃないかという期待もあり、
少なくとも自分にとって面白い小説はかけるようになったと思うんだが、
自分に面白い小説と他人が面白いと思う小説にはほとんど接点がない、
もしくは、
潜在需要はあるかもしれんが、それを売る方法がない、
というところで行き詰まった。

自分が面白いと思うものを書くだけじゃだめなので、
やはり編集者とか出版社のような他者がなくてはならない、
少なくとも、私の場合は書いたものが直接読者に受け入れられることは考えにくい、
ということなわけだ。

で、書きたいものは今までどおりkindleで出したりブログに書いたりしていけば良いかもしれんが、
それ以外のところをどうしようかというのが問題だ。