アルプスの少女デーテを有料にした。

[アルプスの少女デーテ](http://p.booklog.jp/book/27196)だが、もはや原作からどんどん離れて、オリジナルの作品になりつつあり、
またこれからかなり加筆する予定なので、今のうちに有料化することにした。

スタンダールの『赤と黒』は、『アルプスの少女ハイジ』の時代に非常に近い。
『赤と黒』はナポレオン第二帝政の始まりの頃にできた。1830年くらい。
『アルプスの少女ハイジ』が成立したのは1880年だが、アルムおじさんが若いころ放蕩息子だったのはちょうど1830年くらいだし、
また、『ハイジ』の原作であると言われるフォン・カンプによる『アルプスの少女アデレード』が成立したのは1830年だ。
ナポレオンとスイスは、アルプス越えやイタリア方面司令官などで非常に関係が深い。
また、フランス革命政府はスイスから領土を割譲したり、のちにナポレオンが調停役になったりしている。
1848年にウィーン体制が崩壊してスイスは連邦政府に移行しているのだが、その辺もなかなか面白い。
この時代のことをもっと詳しく調べると、長編とまではいかないが中編小説くらいに膨らますことは可能な気がする。
それはそれで面白いのではないかと思っている。

『赤と黒』は入院中に一通り読んだ。

ソルフェリーノの戦いは1859年で、おそらくアルムおじさんが参加したという戦争もこの一連の第2次イタリア統一戦争であるのは、
ナポリというキーワードもあるので、時期的に間違いないだろうと思う。
ところがソルフェリーノの戦いとスイス傭兵の関係が調べてもなかなかわからない。
ただあんまりこの部分をふくらませるともはやデーテの物語というよりアルムおじさんの物語になってしまう。
それともデーテの話をそれ以上にふくらませるか。そこが苦しい。

普墺戦争1866年。普仏戦争1870年、ドイツ統一、第二帝政崩壊、第三共和国成立、だよなあ。

なるほど、フランクフルトはドイツ同盟(オーストリアを含む)の中の自由都市だったが、普墺戦争のときにオーストリア側について、プロイセンに負けたときにプロイセンのヘッセン・ナッサウ州の一部として併合されたんだ。ふーん。

すいえんさーで見たが、高田理穂は確かに美少女だ。17歳。

おはよう日本の鈴木奈穂子も、なかなか良い。毎日見てると髪型が変わったりして面白い。こちらは29歳か。
ていうかね、入院してると朝が早くて。見るに耐えるのがおはよう日本くらいだったわけだが。

どちらもNHKの番組だってとこがアレだ。というより、NHKのどこを見てるんだという話だ罠。

未だに早朝に目が覚める。まだ退院三日目だからな。

入院一ヶ月経過して作った詩

臥病一月過無聊 臥病一月無聊に過ぐ

安穏起居似幽囚 安穏として起居す、幽囚に似たり

迎秋不覚秋風冷 秋を迎えて秋風の冷たきを覚えず

窓外只眺片雲流 窓外、只、片雲の流るるを眺む

「囚」はqiu/ であり、「流」は liu/ であって、現代の普通話でも韻を踏んでいるし、
また平水韻表ではどちらも平声の「尤」だから、間違いなく韻は踏んでいる。
ただ、平仄はでたらめだ、というか確かめてない。
平仄の規則は極めて難しく、普通話ではもはや崩れてしまっているし、現代の日本人がわざわざそこまで考えて漢詩を作るのは無理というか無意味なのではないか。
ちうわけで、二句と四句を押韻するくらいで許してもらえないか。

しかし、今時、漢詩をガチで自作している人はどのくらいいて、そのうちどのくらいがものになってるのか。

花神

長々と入院していた。
ヒマだったので、ボランティア室というところに置いてあった司馬遼太郎の『花神』という小説を読んだ。
例によっていろいろと問題の多い小説だと思う。

たとえば『燃えよ剣』には主人公の土方歳三のヒロイン役が出てくるが、これがフィクションであっても特に問題はない。
しかし、大村益次郎とシーボルトの娘、楠本イネとが恋愛関係にあった、とするのはかなり誤解を招く設定だろう。

また例によって司馬遼太郎は「大政奉還」は坂本龍馬の「独創」であるとしているのだが、
坂本龍馬がそんなだいそれたことを自分で思いつくはずがない。
これこそ今の日本人の多くがとらわれている司馬遼太郎の「虚構」、いわゆる「司馬史観」の第一だ。
司馬遼太郎のファンはとかく歴史をうがって見ることが好きなようだが、司馬史観を頭から信用しているように見えるのは滑稽だ。

大政奉還論の根拠となる「船中八策」だが、これは伝説に過ぎない。
史料的に言えば軍記物程度の信頼性しかなかろう。

坂本龍馬は、薩会同盟における薩摩側のエージェントが高崎正風であったのと同じ程度の意味で、
薩長同盟における薩摩側のエージェントに過ぎなかったと思う。
レオナルド・ダ・ビンチが、いろんな発明家や科学者たちのテクニカル・イラストレータに過ぎなかったように。

薩長同盟というのは、犬猿の仲であった薩摩と長州の間を、第三者の土佐の坂本龍馬が取り持った、と解釈されることが多いようだが、
状況証拠的には薩摩が幕府や会津をだまし、かつて痛撃を与えた長州を懐柔しつつ自分の側に巻き込んだ、薩摩が主導した同盟である。
その中心人物は西郷隆盛だっただろうし、公家の側では岩倉具視だっただろう。
大政奉還論とは薩摩が幕府の味方のふりをしながら幕府の力をそぎ、譲歩させるための虚構の空論だっただろう。
薩摩と長州は表向き大政奉還に反対だったようなふりをしていただけだ。

薩摩は会津と同盟を組んで長州を駆逐した後だったから、幕府も会津も、鳥羽伏見の戦いが始まる直前まで、
薩摩を信頼し、味方だと思っていた。
薩会同盟は表向きまだ有効であり、その同盟は公武合体論に基づいていた。薩摩は軍事力を会津や幕軍同様、おおっぴらに行使したし、
軍艦や武器を公然と調達していた。
その裏ではすでに薩長同盟が動いていた。
大阪の冬の陣で家康がまず大阪城の外堀を埋めたように、薩摩はまず徳川氏に大政奉還させただけであり、
当初から武力革命を目指していたのは明らかだろう。

つまり、坂本龍馬が独り大政奉還論を声高に叫んでいたのは事実であったかもしれないが、彼の独創というよりは、
彼をエージェントとして利用していた薩摩が、彼に宣伝させていたのだろう。
要するに彼は一種の薩摩の捨て駒であり、薩長や幕府の怒りを一身に受け、暗殺されてしまったのではないか。
龍馬が暗殺されたことによって無血革命の主導者を喪失し、薩長による武力革命に拍車をかけた、という考え方は、たぶん間違っている。

薩摩はかつて長州の敵だったがそれは長州が単独で突出しようとしたのを阻止したのに過ぎず、
薩摩はもともと長州と目指すところは同じだった。
たまたまそれで薩会同盟というものが成立したから、薩摩は佐幕派だと見なされたわけだが、
それもまたカモフラージュの一種にすぎなかったのだろう。
従ってそのエージェントであった高崎正風が、後々明治政府の要職に就けるはずもない。

しかしこの『花神』というのはよく調べて書いてある。
彰義隊についても高崎正風についても。
しかし、彼が正風に興味を示したのはたまたま正風が薩摩のエージェントとして動いたことや、
中川の宮とも親しかったということがあったからであり、
正風に対する私の関心の持ち方とは全然異質だ。