日本人が知らない村上春樹

何が言いたいのかさっぱりわからない本だ。
ましかし、少しだけ面白い箇所もあるから引用してみる。
日本在住のスイス人の作家が書いた文章。

> 複雑だったり、抽象的だったりする。新たな文体の冒険も随所に見られる。しかし本質的にはやはりなじみやすいし、感情移入しやすいし。全編でないにせよ、また錯覚と分かっても、誰にでもある程度まねできる日本語だという感覚を抱かせる。

> アメリカ文学の影響をうけた村上の文体を翻訳調と見る人もいるらしい。しかし、25年ほど日本の小説を読みあさってきた僕はそう感じない。

> 彼の日本語が僕にとって理解しやすいのは決して翻訳調だからではない。翻訳調なら、文体の不自然さのためきっとかすかな混乱と違和感を覚えるだろう。・・・あくまで彼の日本語は、僕が昔から慣れ親しんできた芳しい日本文学の中にあり、唯一無二の旋律を奏でている。例えば今回の作品で言えば、こんな表現だ。

> 「吹く風の感触や、流れる水音や、雲間から差す光の気配や、季節の花の色合いも、以前とは違ったものとして感じられる」

> 平明な文体は決して平板な文体ではない。綿密に言葉を選び、その並べ方に工夫を凝らす村上は、平淡な文章から極めて洗練された言い回しまで、実に色彩豊かな日本語の世界を僕らに提示してくれる。

> 彼の小説世界は、誰にとっても分かりやすいものでは決してない。しかし心地よい音声の中を旅する読者は、それを読み解きたいとさらにページをめくる。

そうなのよね。
わかりにくいのだが、なじみやすい、自分にも真似できると錯覚させる文体。
もっといえば、何か難解な文学を理解したような気分にさせてくれる文体。
それは錯覚に過ぎないのだけど、そう読者に思わせることは著者にとって大きなメリットになる。
翻訳調というのは確かに一つの風味付けにすぎない。
上に引用された言い回しもまた、ごく普通の少女漫画にでてきてもおかしくない。
そこがまあ、グリム童話の、魔女が建てたお菓子の家のようなものだと言えなくもない。

次は別の人の文章

> ニューヨーク・タイムズの書評家であるジャネット・マズリンが、「1Q84」を「あきれた作品」と酷評した。自ら提示した問題への答えを示しておらず、登場人物の乳房のことばかり書くなどおかしな部分がある

そう。私にもそんなふうに思えるし、逆に、そんなふうなおかしな文章が好きな人が村上春樹を読むのだろう、としか言いようがない。

へんなたとえかもしれないが、PPAP は実にくだらないどうでも良い動画だが、
世界中の多くの人が視聴した。
村上春樹もそんなものなのではないか?

村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ

[村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ(Ⅰ)](http://elder.tea-nifty.com/blog/2006/05/post_0e40.html)

> 少女漫画のように読みやすいということ、食べ物・音楽・ファッションなど衣食住に関する描写が心地よく感じられること、それからさらに何か得体の知れない薄気味の悪さがある

少女漫画のように読みやすい、というのは、そうかもしれないなと思う。
何も難しいことは書いてなく、
書いてあってもそれは表面をなぞるだけで中に入っていくわけではない。ただのBGM。
たとえば、村上春樹には、第一次大戦と第二次大戦に挟まれたチェコスロバキアの人民が幸せであったかどうかなんてことを深く追求するつもりはないのだ。
村上春樹にとってハプスブルク家は中世以来の圧政的・絶対王政的な封建領主であり、ヒトラーは独裁者なのだ。
だからその両者から自由であったチェコスロバキアは自由だったはずだ、と言っているだけのことであり、
実際に自由だったかどうかを考証するつもりもない。単に世界史的にはそのように教科書に記述されている、それで充分なのだ。
ヤナーチェクの音楽がどうだということを語るつもりもない。単にそれらは、読みもしないのに本棚に飾られている革張りの書籍と同じだ。

そして唐突に殺人や自殺やセックスが挿入されるのはまさに少女漫画的展開であり、テレビドラマ的でもある。
軽薄すぎる、とさえ言える(私は冒頭いきなり人が死ぬ話が好きになれない。多くのミステリーがそうだが。いきなり事件が起きて、謎解きするだけ。1Q84もある意味そうだ。殺意もとってつけたような場合が多い。殺意は単に、推理に必要とされるヒント、加害者と被害者の関係性としてだけ利用されている。そんなただのパズルみたいな話はいやだ)。

> 居心地がいいけれど、厨房の奥に底知れない闇があるような、そんな喫茶店

> グリムの「ヘンゼルとグレーテル」に出てくるお菓子の家

> 人さらいのいるサーカス小屋

> 着飾った女性たちのいる遊郭

そう、村上春樹は読者に魔法をかけてやろうと待ち構えている。
そんな「薄気味の悪さ」は確かに村上春樹の作品の特徴だろうと思う。
そうして、そこにやらせを感じて、読むのをやめてしまう人もいるはずだ。私はどちらかと言えばそっちだ。
魔法をかけてもらおうとよろこんで身を委ねる人もいるだろう。彼の読者はおそらくこちらのタイプだ。

> この小説は本当に恋愛小説といえるのだろうか? 本当に恋愛小説として読まれているのだろうか? 精神病者の観察記録やポルノグラフィーとして読まれている可能性はないのだろうか?

何をもって恋愛小説というかだが、たとえば、氷室冴子の小説が恋愛小説だとすると村上春樹は全然違うと思う。志賀直哉や吉行淳之介や安岡章太郎なんかとは全然違う。谷崎潤一郎とか田山花袋とも違う。どちらかといえば、三島由紀夫や川端康成のそらぞらしさに近いものがあるかもしれない(ちなみに私が書くものは比較的志賀直哉や吉行淳之介に近い、と本人は考えている)。
ちなみに宮崎駿の作品には恋愛ものはない。若い男女の非日常があるだけだ。

> 作者とワタナベ君のみ息が合っていて、女性ばかりが蚊帳の外という感じなのだ。恋愛小説で、作中人物が如何に鈍感であろうとも、作者が鈍感であることは許されない。そのような滑稽さ、苛立たしさを感じるのはわたしだけだろうか。

そう。村上春樹は実はほんとは恋愛なんかしたことないんじゃないかと思いさえする。

[村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ(Ⅱ)](http://elder.tea-nifty.com/blog/2006/05/post_d7c3.html)

> 村上春樹という男は、触ったもの全てに自分の臭いをこすりつける性癖がある。作品の中で、ある世界観を物語るためだけに一面的に引用されたこれらは、食い散らされて、本来の持ち味を、意味合いを、香りを、輝きを失わざるをえない。何という惨憺たる光景であることか!

そう。1Q84のヤナーチェクもまさにそう。別に何の必然性もない。

陸奥宗光とその時代

岡崎久彦『陸奥宗光とその時代』を読んでいるのだが、
昔読んだときは、ただそのまま感心して読んだのだが、今読んでみるとアラの多いのに気付く。

陸奥宗光の父・伊達宗広は和歌を良く詠んだのだが、
今あらためてみてみると、岡崎久彦が「絶賛」するほどすごいわけでもない。
当時の紀州藩は和歌山から南紀、伊勢、松坂までぐるりと、内陸の大和地方を取り巻いて、紀伊半島の東、南、西を知行地としていた。
本居宣長は従って松坂紀州藩支配の学者であるから、紀州徳川家に召し抱えられて、
のちには養子の本居大平が宣長の代わりに紀州藩に仕え、大平が宗広に和歌を教えたのである。
この本居宣長から出た歌道はそのまま明治の桂園派の一支流となった。
桂園派はもちろん香川景樹を祖とするが、これが宮中御歌所で本居派の歌道や後水尾院以来の堂上和歌と混淆して、明治の桂園派をなしたのである。
そうした流れで見てみると、宗広の和歌はごくふつうの桂園派の範疇にあるといわねばならず、
また典型的な江戸後期の地下の和歌であり、上田秋成もそうであったように、当時の民間歌謡である都々逸や常磐津などの影響を濃く受けている。
ということを歌人でもなく、また江戸・明治期の桂園派に詳しくない岡崎久彦が考察できるはずもなかろうと思う。

> 江戸時代の日本には古学派というものができた。これは江戸時代という、学問が高度に進んだ社会における独特な現象である。何世紀もの間、朱子学が正統学として確立し、他の学説などは邪説としてほとんど存在しなくなっていた東洋社会に新説が生まれたのである。二百年間の徳川は平和で社会が安定していたので、正統派以外の説が出ても政治体制がビクともしない余裕があり、それだけの言論の自由があったということができよう。

> 新説と言っても奇抜なアイデアということでなく、孔子、孟子の思想を原典に遡って日本人特有の徹底した真面目さで学んでいるうちに自然と出て来たのである。

などと書いている。
まるで、江戸時代の日本でいきなり古学が生まれて、それを荻生徂徠が発明したような書き方をしている。明らかに嘘である。

江戸時代の日本の儒学者は当然のことながら、明末清初の学者の影響をうけた。
朱子学以外の儒学がなかったはずがない。当時の黄宗羲や顧炎武は考証学を先駆し、朱子学の理念に囚われない史学的、考証学的考察を行った。
また朱子学に対して陽明学があった。
陽明学を直接輸入したのは中江藤樹で、これを展開したのが熊沢蕃山だった。
江戸時代の日本に陽明学が深く浸透していたことは大塩平八郎の名をあげるまでもなかろう。
朱子学を正統とする林羅山らの官学に対して、在野では古学、考証学、陽明学が流行して、
これが、もっぱら論語と孟子を読めという伊藤仁斎の古義学となり、荻生徂徠の古文辞学となり、それが堀景山を経て本居宣長に伝わり、大平に伝わり、伊達宗広に伝わったのだ。
そう書かなくてはおかしい。
もちろん「日本人特有の徹底した真面目さ」というものを伊藤仁斎がもっていたのは確かだろうが、彼がいきなり古典を直接読めなどと提唱したはずがない。

> 咲けば花 散れば塵とぞ はらひける あはれ桜も 人の世の中

この、いかにも江戸期の花柳界で口ずさまれたような句をつづっててできた歌は、直接的には香川景樹の影響によるものに違いない。

岡崎久彦がいきなり、古学は日本独自に荻生徂徠が発明した、なんて珍説を唱えるはずがないから、岡崎は誰かの説を生かじりしたのだろう。
江戸時代の雰囲気を紹介したつもりで全然できてない。
岡崎という人は面白い文章を書くけど講談めいている、
彼の祖父の岡崎邦輔は、陸奥宗光の従弟だというのだから、
どうもそこらあたりの内輪褒めの話が中心になっているようだ。
用心して読まなくてはならないと思う。

妻が僕を選んだ理由(再)

今もちょっとずつダウンロードが続いており、
一番最初の頃有料で買ってもらったのとプライスマッチで0円で落としてもらったのを合わせて
671。
多いようなそうでもないような。
でも、1000ダウンロードまでいったら少しは祝ってもよいかもしれない。

たぶん「ロマンス」のジャンルで目立っているので、
ダウンロードが減りにくいのだと思う。
そうすると「SF」でも浮上するから、どれ落としてみるかという人が出る。
そう思ったから表紙も「ロマンス」風に変えて、
内容も「ロマンス」風に書き足してみたりした(笑)。
具体的には、メアリーとの会話などの描写を細かくし、
サブキャラのナターシャとの逸話を増やした。
気付いてみるとナターシャはなかなか面白いキャラだ。
ただこれ以上話を膨らませるには私には知識も経験も不足している。

知り合いに結局メアリーはどうなったのかと聞かれたのだが、
彼女は she has vanished であって、
作者としても彼女の結末は undefined なのである。
ディープラーニングの研究者にディープラーニングの仕組みがわからないように、
電脳の海に沈んだメアリーがどうなったか、私にもわかるはずがない。
その他いろんな裏設定があるが、書かずに済ませていることが多い。

読む人が読めばばればれなのだがこの作品は直接的には
fallout: new vegas の影響でできたものだ。
もともとは「ジオコミューン」というタイトルで、
メアリーの正体を推理させつつ読み進ませるというものだった。
しかしどんどん加筆したのは、あまりにも fallout に寄りすぎてると感じたので、
それ以外の要素を増やしたのである。
またあとから「ロマンス」の要素をどんどん足していった。
「ロマンス」だと思って落とした人にもそれなりに満足してもらえるように。

進化論についても調べていくうちにいろいろ追記しなくてはいけなくなった。

結果的には、何度も塗り重ねた厚塗りの油彩画のようになった。
自分でもなんと形容してよいかわからない代物になった。

私は子供の頃油絵もやっていたのだが、一日で一気に描くことが多いが、
気に入って何度も塗り重ねることもある。
今回は後者になった。

読む人が読めばすぐわかるから書くけど、
メアリーの会社はロサンゼルスにある。
砂漠というのはモハビ砂漠のことで、ばかでかいダムというのはフーバーダムのことだ。
軍用機が飛んでいるのはネリス空軍基地があるから。
メアリーの生まれ故郷はラスベガス、だということになる。

でまあ、fallout のファンが私のこの作品に巡りあうことってあるのかね?

和歌の道は花鳥風月から入るべし

根岸に住む人に歌を見てくれと言われて見た。

> 春の朝うぐひすの声は聞かねども根岸の里はのどかなりけり

人の歌を添削するというのは難しいものだ。
私なら、

> うぐひすのはつねはいまだ聞かねども根岸の里に春はきにけり

とでも詠むだろうか。
特段良くなったわけではないが、古語を使い、古典の言い回しを使えばこうなると思う。

「根岸の里」というのが、和歌というよりは俳句であまりに有名なフレーズで、
逆に扱いに困るのだが、
実際根岸に住んでいるというのだからしかたない。

> 上野山鳥はなけどもうぐひすの声はいまだにとどかざりけり

わかる。でも私なら「とり」はたとえばだが「ももちどり」、
「鳴く」は「すだく」として、

> ももちどりうへのの山にすだけども いまだまじらぬうぐひすのこゑ

とでもするだろうか。まあ、そもそもこういう歌をいまさら私は詠まないと思うのだが。

花鳥風月から和歌の道に入ろうというのは今時の人には珍しい。
今はいきなり口語で短歌を詠むでしょう。
いきなり時事問題を扱ったり。
恋人と逢った別れたと。
あれは私は好きではない。
俵万智だっていきなり口語で詠んだとは思えないのよね。
でも彼女の追随者たちはみな、古典をすっとばしていきなり短歌を詠んだ。

でまあ、私が根岸に住んでいたら、写生の歌を詠むと思う。
使い古された単語ではなく、言い回しではなく、
写生によって古いことばに新しい命を吹き込もうと思うだろう。
目の前の光景をそのまま切り取って。

それはでも一通り、花鳥風月で練習したあとのことだと思う。
まわりくどくふるくさいやりかただとは思わないでほしい。

私はもう『妻が僕を選んだ理由』を書き終えたつもりだったが、私の頭の中ではいまだに主人公たちが動きまわっていて、
私は仕方なく彼らの行動を追記しなくてはならない。
彼らが動かなくなったり、別の話で頭の中が置き換わるまでは、彼らによって僕の頭の中は支配されている。
彼らの過激な言動が私自身に影響を与えることがあり、少し困る。特に酔っ払ったときなど。
作者は自分自身を狂わせないと作品を作れないのかと思うこともある。

今年は精神的肉体的限界を感じた年だった。
たぶん外飲みはほとんどしなくなると思う。
私の精神はもう飲酒に耐えられない。きっぱりとやめられるといいんだが。

砧から渋谷へ

1Q84を頭から読み始めて、とりあえず第1章を読んでみた。

ヤナーチェクのシンフォニエッタから第一次大戦後のチェコスロバキアの話がでる。
ハプスブルク家の支配とヒトラーの侵攻のはざまでつかの間の平和を楽しんでいる。
この歴史認識からして私にはステレオタイプに見える。
わざとなのか?それともほんとうにそう思っているのか。
ハプスブルク家がいようといまいと、ヒトラーがいようといまいと、
中欧の小国はパワーポリティクスにふりまわされて、ひとときも安らぎなどなかったはずだ。
さらに日本で大正が終わり昭和になって「日本でも暗い嫌な時代がそろそろ始まろうとしていた。モダニズムとデモクラシーの短い間奏曲が終わり、ファシズムが幅をきかせるようになる。」
などと書いている。
わざとなのか。わざとこんな陳腐なことを書いてみせているのか。
青豆という人がそういう考え方をする人だといいたいのか。
それとも作者が本気でそう思っているのか。
大正を美化しすぎているし、昭和を、戦後民主主義史観でしかみようとしてないようにみえる。

それから、砧から渋谷へ、タクシーで行く、しかも首都高に乗ってという話なのだが、
まああり得ないことだと思う。
よほど土地勘がないのか、タクシーに乗るのが好きならともかく。
砧は確かに不便なところだが、少し歩けば新玉川線か小田急線がある。
タクシーが渋滞に巻き込まれたのが3:45。待ち合わせが4:30。
何時にタクシーを拾ったのだろうか。3:30くらい?
首都高や一般道が渋滞することは当然予測できるはずだ。
待ち合わせの時刻まで1時間しかないなら、普通の人なら安全確実な電車に乗る。
新玉川線ならそのまま渋谷まで出れるし、
小田急線なら下北沢で井の頭線に乗り換えるだけのことだ。

文章はところどころ非常に凝っていて、それ自体は少しおもしろい。

女性の姓が「青豆」でそれについてくどくど説明しているのはまあよいとする。

第2章も読んだ。
芥川賞うんぬん。
新人賞の下読みうんぬん。
どうなんだろうこれは。

第3章も読んだ。
なるほど。
青豆は4:30に人と待ち合わせたわけではなかったのか。
では4:30でなくてもよかったわけだ。
つまり、もともと急ぐ必要はなかったのだが、急にタクシーを降りてみたくなったのかもしれない。
それと、人に自分の特徴のある表情を見せたくなかった。
警官が自動拳銃を持っていてそれが9mmで13発入る、なんてことを普通の女性が気にするはずがないのだが、
それも理由があることだったわけだ。

まあ、ここがつかみだわな。
いきなり殺人事件がおきる。
主人公青豆は必殺仕置き人みたいな暗殺者だった。

あざやかなイントロだとは思う。多くの人はここで引き込まれてどんどん読んでいくんだろうなあ。

未捕狸算用皮

kobo ではまだ1冊もダウンロードされてない。

なんか設定がマズイのかなと思って、ジャンルを3つに増やし、説明も書いてみた。
しかし、ジャンルが大分類と中分類しかなくて、小分類は著者には指定できない。

表紙も文章も一瞬でアップロードできて一瞬で反映される。
KDPの「はがゆさ」を知っている人にとっては意外な感じがするだろうと思う。

やはりアマゾンという外圧がなければ KDP のようなものは自然と日本で生まれるはずがないのだと思う。
Puboo にはお世話になったが今は使ってない。
カクヨムは、今後使わない予定だ。伊勢物語は気が向いたら書き足すと思うけど。
私は一太郎メインで書く人なので、一太郎とカクヨムで両方執筆するのは結局は手間だ。
発作的に何か書きたくなったとき、特に短篇の場合、カクヨムや小説家になろうは便利かもしれないが、
後できちんと書こうというときに邪魔になる。
なら最初から一太郎で書いてKDPで出すのがよい。

とにかくアマゾン様のおかげで、『妻が僕を選んだ理由』は無料本の中で今も良い位置につけている。
この状態はいつまで続いてくれるのかな?
あまり期待しないほうがいいかな。
もし1ヶ月あまりも、
アマゾンkindle無料本「SF・ホラー・ファンタジー の 売れ筋ランキング」の1位に居座り続けたら、
私は何か勘違いしてしまうかもしれない。
でも要するに、ジャンル別で1位と言っても大してダウンロードされてはなかったということよね。
夏目漱石『こころ』なんかもおそらくせいぜい1日100部くらいだろう。
年で4万部。大したことない。
だからほんとなら『こころ』を凌駕するような個人出版がぽんぽん出てこないと嘘だということになる。
紙の本で1万部なんてのはざらにあるわけだから。

コンスタントに平均1日20部ずつダウンロードされたとして年で7300部。
無名の作家にとってはバカにならない数だ。
1年くらいで1万部突破するかもしれない計算だ。捕らぬ狸のなんとやらだが。
無料で、しかもどこにも話題になってないので、中身を読んでダウンロードしているはずがない。
なんとなく気になるタイトルだからとりあえずダウンロードしているのだろう。
それでランキングがあがり目立っててそれでまた違う人の目に触れてダウンロードしている。
ランキングが持続しているということは、これまでより、読者の裾野がずっと広いってことだ。いろんな読者がいる。
やっと魚影が濃そうな漁場を見つけたのかもしれない。

若い作家はラノベやファンタジーを書く傾向がある。
作家どうしで著者となり読者となるのなら、つまり同人的な著作活動ならそれで良いと思うが、
そうすると似たような小説ばかりになる。
同じような作品ばかりになると世の中の読書量の総和には限りがあるから、
作品一つ当たりの読まれる機会は減ってしまう。
『妻が僕を選んだ理由』というタイトルは今までありそうでなかったのだろう。
他に似たような名前の作品がないから私の作品を読むしかないという状態ではなかろうか。

婚活物語みたいな感じで読まれているのかもしれない。
何かの鉱脈に触れている手応えはある。

初出・初版一覧

私が最初に本を出したのは実は1990年で、出版社は工学社だった。共著だった。
それから新紀元社とかオーム社から出したが、これらも皆共著だった。
出版社からわかるように、当時は技術書しか書かなかった。しかも、いつも私の名前は共著者の中で最後だった。

そんなこともあって私は死ぬまでに単著の一本くらいは書きたいとずっと思っていた。

1. 『アルプスの少女デーテ』初出2004年9月、某Wiki(匿名)
2. 『超ヒモ理論: もし俺がヒモになったら』初出2011年4月Puboo(「山崎菜摘」名義、原題『超ヒモ理論』)
3. 『スース』初出2011年6月Puboo(「山崎菜摘」名義)
4. 『将軍放浪記』初出2011年8月Puboo
5. 『西行秘伝』初出2011年8月Puboo(原題『山家物語』)
6. 『川越素描』初出2011年8月Puboo
7. 『司書夢譚』初出2011年9月Puboo
8. 『安藤レイ』初出2011年11月Puboo
9. 『将軍家の仲人』初出2012年8月Puboo(原題『新井白石』)
10. 『紫峰軒』初出2013年1月Puboo
11. 『エウメネス1 ― ゲドロシア紀行 ―』初出2013年3月KDP(原題『エウメネス』)
12. 『巨鐘を撞く者』初出2013年4月KDP
13. 『特務内親王遼子』初出2013年7月ブログPDF版
14. 『古今和歌集の真相』初出2013年9月KDP
15. 『フローニの墓に一言』初出2014年1月KDP(現在非公開。『ヨハンナ・シュピリ初期作品集』に再収録)
16. 『エウドキア: ローマの女王』初出2014年2月KDP
17. 『江の島合戦』初出2014年4月KDP
18. 『生命倫理研究会』初出2014年12月KDP
19. 『虚構の歌人 藤原定家』2015年6月初版(田中紀峰名義、夏目書房新社)
20. 『ヨハンナ・シュピリ初期作品集』2016年3月初版(田中紀峰名義、夏目書房新社)
21. 『エウメネス2 ― グラニコス川の戦い ―』初出2016年7月KDP
22. 『エウメネス3 ― イッソスの戦い ―』初出2016年7月KDP
23. 『斎藤さん ― アラカルト ―: 田中久三短編集』初出2016年8月KDP(『小説家になろう』に公開していた短篇などを集めたもの)
24. 『潜入捜査官マリナ』初出2016年9月KDP
25. 『妻が僕を選んだ理由』初出2016年11月カクヨム

『アルプスの少女デーテ』を最初に書いたのは2004年で、39歳。小説らしきものを書いたのはこれが初めてということになるが、
高校生くらいに書き殴って今はどうなったかわからないようなものとか、
そういえば小学生のころ書かされたものもあった気がするので、昔からその気はあった。
しかし私は自分で書いたものを読み返してみてやっぱり自分には才能がないと諦めていた。

で、最初に書いたまともな小説は『将軍放浪記』で、これは2009年ころに新人賞に応募したのを2011年にパブーで公開し、
その後も加筆や修正をしてある。
最初の頃は、新人賞に応募する作品は田中久三で、そのままPubooに載せるやつは山崎菜摘名義で書いていたような気がする。
或いは歴史小説は田中、現代小説は山崎、という書き分けだったかもしれない。
2011年頃Pubooにたくさん出てるのはもともと書きためていたものを(紙の本で出版される見込みはないと見切って)ウェブに公開したのだ。
この頃の作品には今では公開してないものがいくつかある。

『アルプスの少女デーテ』は最初はもっと短いものだったが、どんどん肉付けしていって今ではどちらかといえば長編になった。
『西行秘伝』も『巨鐘を撞く者』も、もとはもっと短かった。
この頃はいろいろ試行錯誤してた。

村上春樹が、ジャズのインプロビゼイションのように、同じリズムで同じ繰り返しで毎日欠かさず書くと言っていたが、
確かに村上春樹の作品はジャズの即興演奏に似てて、ただひたすら文章が積み上げられているだけのように私には思える。
私の執筆方法はそれとはまったくことなる。それは『デーテ』のころから同じで、
まずアイディアがあってその骨格を書いて、段々に肉付けしていく。
読書というのものが、ライブハウスでジャズを聴くようなものであれば、それは村上春樹の作品のようなものがふさわしいだろう。
私の作品はおそらくはコンピュータ言語で書かれたプログラムのようなものではなかろうか。
私の場合、こういうキャラクターを書こうというキャラクター設定がある。
それは NPC (non-player character) の AIプログラミングに似ている。
そのキャラクターをある環境(ゲームプログラミングでいうところの map)に置けばキャラクターは勝手に動き出す。
そこに別のキャラクターを置くとインタラクションが生まれて展開していく。
だからストーリーは細かく書けば書くほどに長くなる。
ゲームのプレイ動画の長さは、プレイ時間を長くすればいくらでも長くなる。それと同じ。まあ、あまり長くすると飽きるが。

小説を書く前からゲームプログラミングらしきことはやっていた。
modを作っていた。
その影響は確実にあると思う。
小説はそんなふうに書くものじゃありませんよと言われても困る。
私にはそういう書き方しかできないから。
私が表紙絵に3DCGのキャラを使うのも、もとはといえばmodをやってたからだ。
もともと文章を書こうと思っても、なんかもやっとした、納得いくものが書けなかった私が、
人に読ませるための文章を書き始めたのは、自分が比較的得意とするプログラミングのテクニックを導入したからかもしれない。
それでなんとかこうとか書けるようになった(気がした)。

ともかく私の作品の中ではキャラクターは勝手に喋って勝手に行動しているとしかいいようがない。
キャラクターがなぜ勝手に動くかといえば作者が実在の人物や歴史上の人物をモデルにしていて、
彼らがこういうシチュエーションに置かれたらきっとこう動くだろうと予測しているにすぎない。
少なくとも歴史小説に関して言えば、他の人はどういう書き方をしているかしらないが、
私はそういう書き方しかできない。
私の場合歴史小説の書き方を現代小説や未来小説、SFに応用している、とも言える。

『妻が僕を選んだ理由』は最初『ジオコミューン』という名前にするはずだった。
『ジオコミューン』は核シェルターみたいなものをイメージしていたが、
fallout の影響をうけているからだ。
表紙にゲッコーが描かれているのもそう。
これもサンプルのつもりで気軽に書き始めたのだが、結構な長編になってしまった。
fallout の他にもいろんなものがオマージュに使われている。
『キル・ビル』『バクダッド・カフェ』『僕の村は戦場だった』『ソラリス』『レヴェナント』『007スカイフォール』。
『Marooned with Ed Stafford』とか植村直己にもかなり影響受けてるよな。
わざといろんなものをこてこて付け足していったらこうなってしまった。

セレブな美女と一般男性の恋愛というのは、今までもずいぶん書いてきた。
源懿子と西行、遼子と稗島、アマストリーとエウメネス、喜世と新井白石など、みんな同じといえば同じだ。
全然違うことを書いているようで実は通して見ると、かなりネタがかぶっている。
『安藤レイ』はアンドロイドの話だが、『妻が僕を選んだ理由』はサイボーグと人工知能の話で、私の中では比較的近いテーマなのである。
なぜ私がそういうものを書きたがるのかということはもちろん自分でもわかっている。
村上春樹もまたいつも同じような作品を書くがそれは彼がそういうものをどうしても書いてしまう何か理由があるのだろう。
その根っこの原体験というものが彼と私は根本的に違うし、
村上春樹の作品が好まれるのは彼の原体験が多くの読者の原体験に近いからだろう。
私と同じ原体験を持つ人はたぶんそんなに多くはないと思うので、私の作品がどのくらい読まれるのか、かなり私は悲観している。