連作

フローニはなんとか mykindle でアップデートを利用可能にしてもらった。
まあ、三年後くらいには全部一度アップデートしたい。
あまり焦っても仕方ない。徐々に。

川越素描みたいな長編に最初から最後まで付き合ってくれる人はあまりいないと思うが、
個人的には非常に重要な、というか、愛着のある作品なんで、
なんか無限に時間がかかりそうな気がしてきたけど、きちんと仕上げるつもり。

長くなった理由は、太田道灌の話と現代の話をわざと同時並行的に描いたからだが、
これも三島由紀夫が『豊饒の海』を三部作で書いたりしたように、
連作として分けて書いたほうが、読みやすかっただろうなと思う。

安藤レイも長いが、これも病中手記とアンドロイドもののSFを混ぜて書いたからだ。

読者にしてみれば、読みにくい嫌な作品だろうなぁ。
思うに、読者を獲得するまでは、エウメネスとかエウドキアみたいな単発の短編か比較的短い中編、あるいは連作の一部を書いていけばいいんだと思う。
手直しもしやすいしね。

エウドキアの無料キャンペーンは思ったよりは出た。
勢いはないがだらだら出てる感じ。
しかしいまだにリアクションは不明。
まあ、マイナーだからな。
十字軍がなぜ起きたかってことがわかる良書だとおもうが(笑)。
普通の人は、戦争に至った理由よりか、
イェルサレムのソロモン神殿では足首まで血に浸かって歩いた、とか、
そんな即物的な話のほうが好きなんだろうとおもうよ。

あれ、十字軍の時代にソロモン神殿なんてあったっけ。
ないない。
しかし、ウィキペディアにもそう書いてある。

定家私撰集

すでに定家の私撰集と百人一首の異同を調べている人がいて驚く。
[秀歌体大略](http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/100i/tairyaku.html)、
[近代秀歌](http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/100i/kindai_s.html)、
[秀歌大体](http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/100i/daitai.html)、
[八代集秀逸](http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/100i/hatidai_s.html)。

これらを見比べてみると、定家の趣味がよくわかる。天智天皇の

> 秋の田のかりほの廬のとまをあらみ我が衣手は露にぬれつつ

は四つすべてに採られている。定家はよほどこの歌が好きらしい。
うーん。まあ、良くはないけど悪くもない歌。
明月記にも「天智天皇から」と書くくらいだからそうとう好き。
これはもう定家の趣味だから仕方ないとしか言いようがないと思う。
持統天皇の

> 春過ぎて夏きにけらししろたへの衣ほすてふあまのかぐ山

は二つに採られている。
光孝天皇の

> きみがため春の野にいでてわかなつむ我が衣手に雪は降りつつ

も二つ採られている。
これらは天皇が詠んだ古歌として、定家のお気に入りだった、ということがわかる。

柿本人麻呂

> 足引の山鳥のをのしだり尾のながながし夜を独りかもねむ

四つ全部に入っている。
なぜか知らんがこれが相当好きらしい。

紀友則

> ひさかたのひかりのどけきはるの日にしづ心なく花のちるらん

小野小町

> 花の色はうつりにけりな徒に我身世にふるながめせしまに

坂上是則

> 朝ぼらけ有明の月とみるまでに吉野のさとに降れる白雪

在原行平

> 立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今かへり来ん

これらはそれぞれ三つ。やはり好きなのだと思う。

百人一首の中で一度も出てきてない歌というのが、興味ぶかい。

陽成院

> つくばねの峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりける

源融

> 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに

藤原定方

> 名にしおはば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな

藤原兼輔

> みかの原わきて流るる泉河いつ見きとてか恋しかるらむ

源宗干

> 山里は冬ぞ寂しさまさりける人めも草もかれぬと思へば

藤原興風

> 誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに

平兼盛

> 忍ぶれど色に出にけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで

壬生忠見

> 恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひ初めしか

藤原敦忠

> あひ見ての後の心にくらぶれば昔は物も思はざりけり

藤原朝忠

> 逢ふ事の絶えてしなくは中々に人をも身をも恨みざらまし

藤原義孝

> 君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひぬるかな

藤原実方

> かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを

藤原道綱母

> 嘆きつつひとりぬる夜の明くるまはいかに久しきものとかはしる

藤原公任

> 滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ

紫式部

> めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月影

大弐三位

> 有馬山いなのささ原風吹けばいでそよ人を忘れやはする

赤染衛門

> やすらはでねなまし物をさよ更けてかたぶくまでの月を見しかな

清少納言

> 夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ

藤原定頼

> 朝ぼらけ宇治の川ぎり絶えだえにあらはれわたる瀬々の網代木

周防内侍

> 春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなくたたむ名こそ惜しけれ

三条院

> 心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな

能因

> 嵐吹く三室の山の紅葉ばは龍田の川の錦なりけり

大江匡房‎

> 高砂の尾上の桜咲きにけりとやまの霞たたずもあらなむ

藤原忠通

> 和田の原漕ぎ出てみればひさかたの雲ゐにまがふ沖つ白波

藤原顕輔

> 秋風にたなびく雲の絶え間よりもれいづる月のかげのさやけさ

待賢門院堀河

> 長からむ心も知らず黒髪の乱れてけさは物をこそ思へ

徳大寺実定

> ほととぎす鳴きつるかたをながむればただ有明の月ぞ残れる

道因

> 思ひわびさても命はある物をうきにたへぬは涙なりけり

俊恵

> よもすがら物思ふころは明けやらぬ閨のひまさへつれなかりけり

皇嘉門院別当

> 難波江の葦のかりねのひとよゆゑ身をつくしてや恋わたるべき

式子内親王

> 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする

殷富門院大輔

> 見せばやな雄島のあまの袖だにもぬれにぞぬれし色はかはらず

源実朝

> 世の中は常にもがもななぎさ漕ぐあまのをぶねの綱手かなしも

慈円

> おほけなくうき世の民におほふかな我が立つ杣に墨染めの袖

飛鳥井雅経

> み吉野の山の秋風さよ更けて故郷寒く衣うつなり

西園寺公経

> 花さそふ嵐の庭の雪ならでふり行くものは我が身なりけり

藤原定家

> こぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くやもしほの身もこがれつつ

藤原家隆

> 風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける

後鳥羽院

> 人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は

順徳院

> 百敷や古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり

まず、疑惑の源融は定家私撰集には一つも採られていない。
たぶん定家は源融には全然興味がない。

陽成天皇の歌が採られてないことには素直に喝采したい。

驚いたことに公任や能因を定家はあまり高く評価してなかったようだ。
赤染衛門もあんまり評価してない。
藤原興風もなぜかない。

明月記に出てくる飛鳥井雅経は定家の私撰集には全然出てこない。
これはどうしたことか。
式子内親王や慈円もあまり評価してない。つまらないと思ったか、それとも余りに身近すぎるからか。
さらに実朝はまったく出てこない。
定家は実朝を新勅撰集には採ったが秀歌に挙げるつもりはなかったのではないか。
実朝が歌人として有名になったのはもう少しあとだったのではないか。
飛鳥井雅経が出ないのも似たような理由か。

待賢門院堀河も定家と同時代の人だと思うが、あまり評価してない。

紫式部、清少納言も私撰集には出てくるが百人一首の歌とは違う。
百人一首に大弐三位や紫式部や清少納言や小式部などがわざわざ入っているのも後世の人の趣味な感じがする。

あの有名な、平兼盛と壬生忠見の歌合の歌も抜けている。
私撰集にも歌は出てこない。
やはり定家の趣味ではないのだろう。

定家自身は私撰集には出てこないが、私家集ではないから自分らの歌は採らなかった、
と解釈できなくもない。
父俊成は出てくる。

定家の趣味は明らかに反映されている。
だが、定家が選んだとしても誰か他の人の好みを取り入れているだろう。
やはり最初は、百首という整った形ではなかったのではないか。
他の私撰集ではそんなことはやってない。

もし私が小倉百人一首を偽造するなら、定家の私撰集の中に出てくる歌を百首選んだと思うが、
そういう傾向はまったくみられない。
かなり自由に、自分の趣味で(笑)選んでいるように思える。
後鳥羽院と順徳院を入れたということは、藤原為家が作ったというのはあり得ることだ。
それがいつの間にか定家自身で選んだことになったのかもしれない。
で、為家が選んだことにしても全然悪くないのに、おかしなことをしたものである。

なぜすでにこれだけ多くの私撰集があるのに、そこへさらに、定家選とは言いがたいような、
小倉百人一首が現れねばならなかったのか。
そしてなぜ小倉百人一首だけがこれほどまでに有名になったのか。
要は、百人一首という分かりよい形態が、伝授好きな後世の歌人たちに好まれたのだろう。
そしてそれは定家が選んだということにしなくてはならなかった。
定家が選んだという箔付けが必要だったのだ。

百人一首への招待

この本には私が疑問に思ったことについてほぼすべてが書いてある。
つまり百人一首の成立過程で、
現在分かっている事実のほぼすべてが網羅されていると言えると思う。

それで読んでみて、結局確かなことは、

1. 定家の日記『明月記』には、天智天皇から飛鳥井雅経・藤原家隆までの歌を障子色紙に書いた、としか書いてない。それが百首あったかとか、その歌がどんなだったかは不明。
1. 最も古い『百首秀歌』の写本は冷泉家に伝わるもので、鎌倉末期までさかのぼることができるらしい。
1. 小倉色紙は東常縁が伝授したと言っているのだが、東常縁の古今伝授というものがそもそも虚偽である以上は、小倉色紙もまた贋作である可能性が極めて高い。

ということだ。
東常縁を含めて、
定家の子孫や一派は『明月記』を読んでいたはずであり、
定家が選んだ小倉色紙というものが、もし現存していなかったとしたら、
その復元もしくは贋作を試みたであろう。
それを百首とまとまりの良い形にしたのは、おそらく、
鎌倉末期の二条派と京極派が正統をあらそい、不毛な歌学論争を行い、
故に棒にもはしにもかからない歌論を大量生産していた頃であろう。

つまりやはり小倉百人一首は定家の選ではないということを疑ってみなくてはならないということだ。

定家が選んだかどうかということは、
定家が選んだ私選集と、
定家一人で選んだ勅撰集である新勅撰集の選び方と比較してみないとわからんだろうと思う。
そうすればかなりの精度で小倉百人一首が定家によるのか、
或いは定家の選の原型をある程度とどめているのか、
それとも全くの贋作かがわかるはずだ。
ものすごく大変な作業だが。

自分で自分の書いたものを読みなおしてみて

将軍放浪記。
かなり書き直すか追記する必要がある。
たぶんこれを読んで分かる人は南北朝の専門家だけで、
普通の人にわかるようにするにはもっと詳しく丁寧に書かなくてはならないのだが、
南北朝を丁寧に書き始めると何十倍にも膨らんでしまうので不可能。
とりあえず多少手直しして放置か。

墨西綺譚。
指摘されていたように、あと三倍くらいに膨らませないと、
ふつうの小説にはならない。
出版停止して完全にリライトする。

特務内親王遼子2。
悪くない。ていうか続編かかなきゃ。

紫峰軒。
悪くないが誰に読ませるために書いたのか。
割と最近書いたものなので安心して読める感じ。

安藤レイ。
悪くない。しかし長い。
淡々とした病中手記として読むなら悪くないのかなあ、というくらい長い。

エウメネス。
やっぱりこれが一番安心して人に読んでもらえるかな。
さらっとも読めるし、ある程度深読みもできる。

超ヒモ理論。
紫峰軒に近い。
もしかしたらタイトルで損してるかも。

将軍家の仲人。
西行秘伝くらい難易度高い。
ある意味西行秘伝より難易度高い。
退屈だがやはりある程度新井白石の伝記みたいなものは必要。
いじりようがない。
多少語尾をいじったりしたくなるが、基本これで良いと思う。

> ところが、ここからが陰謀めいている。良仁の兄・後光明天皇は英邁だが奇矯な人だった。天皇であるのに剣術を好み、朱子学に傾倒した。大酒飲みで酒乱でもあった。仏教を嫌い、仏舎利を庭に投げ捨て、天皇家の火葬を廃した。父後水尾院にも似た、極めて異様な天皇だ。京都市民には敬愛されたが、突然、跡継ぎを残すまもなく病死した。享年わずかに満二十一才。そのため急遽良仁が即位して後西院となる。結果的に、徳川和子が後水尾天皇の后となったときと同じように、徳川の娘が入内した形になった。

> 明子には皇子・八条宮長仁親王があった。長仁は紛れもなく家康の血を引いた親王であって、かつ後西天皇の第一皇子であったから、天皇に即位することもあり得た。長仁は成人してまもなく死去したが、一時的にも、家康の血を引く天皇が即位する可能性は十分にあった。というより、家綱が長仁より先に死んでいら、征夷大将軍でかつ天皇になっていた可能性もある。

[天皇家と武家の関係](/?p=13365)。
長仁親王が征夷大将軍と天皇を兼ねることは十分にあり得た、
というあたりがこの小説の肝なのだが、たぶんここまでついてきてくれるひとはあまりいないと思う。

スース。
なんとも言いようがない。
ダメではないが、良いとも言えない。

巨鐘を撞く者。
前半部分の蘊蓄が長いよな。

その他。

司書夢譚と川越素描。
長いんだよね。
すんごく長い日常茶飯事みたいな話の中に歴史小説が埋め込まれているパターンなので、
まあ読みにくいわな。
司書夢譚は為永春水辺りでみんな飽きる。
護良親王の話も長いしたぶんみんな興味ない。
しかし承久の乱とか三種の神器とか護良親王とかの話はほんとはもっと読んでもらいたいんだよね。
川越素描の中に埋もれている赤塚姫の話だけ抜き出して読みたいという人はたぶんいると思う。
太田道灌の話だから。
室町時代後期、戦国時代初期の関東の話は面白いんだよね。
でもこれは個人的な思い入れからやはり今の川越の話とか音楽の話もしたいわけで、
たぶんこのまま放置することになると思う。

デーテ。
うーんこれどうしよう。

古今集。
これはこれでもういいかなと思う。

現在公開してないけどそのうち公開したいもの。

オマルハイヤームの話とか、ゴットフリードとかバルドヴィンの話とか、両シチリア王ロジェールの話とか。
調べ直して完全にリライトしなきゃいけない。

歌詠みに与ふる物語。明治天皇と高崎正風の話。
どう書き直せば公開できるようになるか見当もつかない状態。
書きたいことは書きたいんだが。

昔と今とじゃ文体がかなり変わってきている。
昔書いたやつを今に合わせるの大変。
ストーリー自体を改変したくもなって大変。
そのうち最近書いたやつも過去の作品になっていき、
そのすべてがリライトしたくなるとしたらもう作業量的に爆発するから、
やはり昔のはそのまま放置するしかなくなる。
だからできるだけリライトしなくて良いような書き方をするしかない。
できるかしらんが。
つか何年か書いてみないと自分の文体ってフィックスしないよな。

いろんな雑多なものを書いたのは、私の書いたもののうちどのあたりが読者受けするかテストしているからだ。
どれかが受けるということが分かればしばらくはその辺だけ書くと思う。

人虎伝

「山月記」はなぜ国民教材となったのかというのを書いたせいで気になって調べてみた。山月記の中で、中島敦は虎に

人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い

などと言わせているのだが、私はこの台詞がすごく好きなんだが、これが原作の人虎伝にすでにある文句なのか、それとも、中島敦が独自に挿入したものなのか。

人虎伝の原文現代語訳も、今では簡単にネットでみることができる。当該箇所を読んでみると、それらしきことは書いてなくて、

於南陽郊外、嘗私一孀婦。其家竊知之、常有害我心。孀婦由是不得再合。吾因乘風縱火、一家數人盡焚殺之而去此。爲恨爾。

つまり、女の家に放火して、一家数人をことごとく焼き殺した、などということが書いてある。それでさらに検索してみると、なんと中島敦の本家本元筑摩書房でその箇所について解説しているではないか。

なるほど。「山月記」は国語教科書の定番なので、「人虎伝」までさかのぼって深読みし、指導の助けにしようという教師は少なからずいて、筑摩書房もその要望に応えたというわけだ。

「人虎伝」を読めば明らかなように、人が虎となったのは、密通放火殺人の罪による。中島敦はここをすべて捨て、代わりに、己の詩業に熱中するあまり、妻子を顧みなかったから虎になった、そう読み変えたのだ(家庭をないがしろにする男などいくらでもいる。そういう男がみんな虎になったらたいへんだ。中島敦もだから虎になった理由は明記してない。そんな説得力のある理由じゃない。だから思わせぶりな記述になった)。自分なりにストーリーを書き換えてみたい、あるいは多少のオリジナリティをもたせたいと考えるのは自然で、芥川龍之介もやっていることだ。

この筑摩書房のサイトの解説がなかなかおもしろいのだが、

李徴の詩は、微妙な点において欠けているものがあるから一流になれなかったということなのですが、

李徴の詩が、微妙な点において欠けている、と感じたのは中島敦本人なのである。そう感じたからストーリーを改変した。中島敦はおそらく李徴に自分自身を投影したのだ。しかし中島敦自身は、李徴のような鬼畜な人間ではない。作者は感情移入できない。「妻子とか、生業などに煩わされながら、物書きをしている自分」というものを主人公にしないとそもそも話を物語ることができない。李徴に遭遇した袁傪はただの脇役なのでやはり感情移入しにくいわな。

この微妙な点を生徒の多くは「愛」に求めます。妻子への愛がなかったからいい詩が書けなかったというわけです。私が「では、愛があればいい詩が書けるの?」と問えば、躊躇なく「はい。」と答えてきます。本気で「愛があればなんでもできる。」と信じ込んでいるわけではないのですが、生徒たちは小説・物語はそう読むということに慣れ親しんでいるのだと思います。テレビ・アニメ恐るべしです。

ここで「私」と言っている人が誰なのかと探してみてもよくわからない。署名記事ではなさそうなのだが、いかにも高校国語教師の感想という感じでほほえましい。

妻子への愛があれば良い詩が書けるとは中島敦も考えてなかっただろう。そんな雑な結論を導かれちゃ困るだろう。読者は自分の好き勝手に誤解したがるものだ(そしてそれが当然の権利で正しい行為だと思っている。自分が作者よりもよい解釈をしてやったとすら考えている)。作者の意志などどうでもいいのだ。作者は(と言いながら自分のことを書くが)、そんなありきたりの、誰でも思いつく、誰が書いても同じな、毎日テレビで垂れ流されていてわざわざ自分で書く必要すらない、つまらないストーリーなんか書きたくない。普通の恋愛、普通の推理、普通の歴史小説なんて書きたくない。二重三重に意味を持たせた、トリッキーなストーリーを書きたい。はぐらかしたりだましたりしながら、ちゃんと読めばちゃんとわかるように書いてあるのだ。しかし最初のトリックにつまづいてそこで読了した気持ちになっている読者を見るとがっかりする。

思うに、山月記が説教臭い教材になってしまった理由は、普通の高校生とその教師と親がそういう解釈を好んだためだとしか言いようがないと思う。中島敦が山月記を書いた理由?おそらくは自分の著作活動における自問自答、葛藤のようなものをそのまま書いたのだろう。教科書会社は売れるから載せているだけだ。文科省の役人は特に現状を変更する理由がないから放置しているだけ。「なぜ国民教材となったか」と言われればそれこそ「国民が望んだから」としか言いようがない。文科省の官僚や教科書出版社や指導要領の作成者のせいにするのはよろしくない。

おそらく「人虎伝」で種明かしをされてしまうと怒り出す高校生や国語教師がたくさんいるのではないか。そんなの俺の「山月記」じゃねえ、とか言い出して。アニメとかラノベのファンなんてみんなそうだ。

追記。やや嫌らしいが、教育指導要領の方もみておこう。

李徴が虎になった原因が三点も記されていることについて考える。

それは、中島敦が、本来の理由を削除して、自分なりの解釈に改変したが、その解釈を読者に押し付ける自信がなかったからだわな。

李徴が詩に執着した理由を考える。

詩人が詩に執着して何がいけないのか。

現代小説に特徴的な主題を読み取り、現代小説に親しむ。

ていうか現代小説を書いているつもりの私にも「現代小説の特徴」なんかわからんよ。主題を読み取るというが、この小説に何か明確な主題なんてあるのか。元の伝記小説にはあったかもしれんが。つか小説なんてのは、特に近代や現代の小説てのは(漫画とかアニメとか娯楽物でない限り)、何か具体的な主題に沿って書かれるものじゃないだろ。無理に高校生に主題を読み取らせようとするから筑摩書房のサイトに書かれているような頓珍漢な答えが出てくるんじゃないの(それとも自己流に解釈すればそれはそれで、自分で頭を使ったからよいということか)。

さらに、「山月記」なんか読んで現代小説に親しめるか?

現代小説独特の表現に親しみ、その特性を理解する。

同上。

表現とそのリズムに親しむとともに、表現された心情を考えながら音読・朗読する。

音読、朗読か。なぜわざわざそんなことをさせたいのかよくわからない。それって必要なのか。てか、朗読させたければ詩にすればいいんじゃないか。

運命に対して無抵抗であり、理由の分からないものをただ受け入れざるを得ないという不条理、人間という存在に対する嘆きがあります。人間がこの世界に投げ出された状況とは、まさにこういうことでしょう。理由などないのです。それを人間は、自分たちの物語に理由づけようとして悪戦苦闘しているのです。

いろんな理由を考えさせて、高校生を悩ませておいて、結論はこれなのだろうか。答えは「理由はない」。世の中は不条理だ。人間は苦しんでいる。それが現代小説の特徴なのだろうか。はて。うーん。ニーチェとかサルトルみたいなもん?(笑)

なんか、もっともらしい理由づけではあるが、高校生に読ませる教材なんだよね?もっとほかにふさわしいのがありそうなものだが。いやいくらでもある。やはり、いろいろ生徒に悩ませておいて、最後にこうですと、手の内をあかして、けむに巻いてみせたいだけなんじゃないかと勘繰りたくなる。

ネット時代の今、そんな手口はもはや高校生には通用しないんじゃないのかなあ。一時期「ポストモダン」な人たちが風靡してたころはそんなわかったようなわからないような禅問答的解釈でよかったかしれんが、今はググればごまかしはすぐばれるよ。

追記あり〼

百人一首3

やはりフローニで脚注使おうとするとフリーズ。
なんなんだこのバグ。
フローニの表紙絵がアマゾンで差し替わったのを確認してからエウドキアの無料キャンペーンやります。
今話題のキエフやクリミア半島もバシレイオス二世ネタとかで出てくるよ。
だから読んでください。

エウドキアも誰かに挿絵描いてもらいたい。
だけど難しすぎて無理だ罠。
東ローマ皇帝とかセルジューク朝のスルターンとか、コンスタンティノープルとか。
設定資料揃えるだけでたいへんだし描くのはさらに大変。
字だけ書くのは楽でいいんだが。
映像化するとほんとはすごいんだよ、誰か映画化してくれ(他力本願)。
つかもともとセルジューク朝の詩人オマル・ハイヤームが主人公で、
イェルサレム王国のバルドヴィンとか出てきて、
アレクシオスとかエウドキアはほんの脇役の話だったんだが、
書き切れないからそのうち連作みたいな形に分けて書くと思う、気がむいたら。
もし万一エウドキアの続編書いてくれって言う人がいたら。
塩野七生の『十字軍物語』と比べ読みしてほしい。
ダメなら遠慮無く★一つでいいから。

定家の日記『明月記』文暦二年(1235)5月27日に

> 予本自不知書文字事。嵯峨中院障子色紙形、故予可書由彼入道懇切。雖極見苦事憖染筆送之。古来人歌各一首、自天智天皇以来及家隆雅経。

とある以上は、定家による百人一首の原型があって、
その始まりは天智天皇の歌で、終わりが家隆と雅経であったのは、間違いないのだろう。

だがしかし、この時点で後鳥羽院や順徳院の歌が入っている可能性はまずない。
依頼した宇都宮頼綱は鎌倉幕府の御家人であるし、定家がいかに後鳥羽院や順徳院と親しかろうと、
承久の乱で流された廃帝の歌を、
しかも流された後に詠んだと思われる恨み節のような歌を入れるはずもないのである。
定家はそんな義侠心のあるような性格ではない。
また、いろんな人が指摘しているようだが、後鳥羽院、順徳院などの追号が確定したのは定家の死後。
後世の人がおもしろがって入れたのに間違いあるまい。

それでまあ、98首目が藤原家隆で、99と100が後鳥羽院、順徳院なので、
原型は98首しかなかったんじゃないかというのが通説らしいのだが、
おそらくほんとはもっと少なかったんじゃなかろうか。
だがまあ定家という人は天智天皇の「秋の田の」みたいな凡作を敢えて入れるような人であったかもしれず
(別のも少しまともな歌と差し替わっている可能性は低い)、
そのほかの歌も定家が選んだ可能性はなくもない。

しょうがないがやっぱり小倉百人一首は、定家の趣味で選ばれたと考えるしかないのだろう。
ただし、依頼主の宇都宮頼綱の趣味がかなり反映されてはいるだろう。
後から追加や入れ替えはある程度あっただろう。

西行

小林秀雄「西行」を読んでいて思うのだが、小林秀雄は、知ってか知らずか、西行の歌の真作、偽作かまわず、西行の歌と言われている歌すべてを対象にして、西行という人を鑑賞しようとしている。その態度はある意味潔いが、当然のことながら西行の実像を濁らせてもいる。小林秀雄ですらそうなのだからそれ以外の人たちは、ほぼ皆、西行の伝説に惑わされている。あまりにも古びて改変されてしまっていて、江戸時代の古い写真や、中世のはげかかったフレスコ画を見ているようなものだ。それは生きている西行からはほど遠い。ごく一部の疑い深い学者しか西行の歌の真偽については考慮してない。

西行の歌はいくつか分類して考えねばならない。出家前に詠んだ歌(もしあれば)、出家直後に詠んだ歌、晩年の歌、そして後世の偽作。

西行は多作だったので、確実に真作であろうと思われる歌を集めるのはそんな難しくない。

詞花和歌集に初出の歌は33歳までに詠んだわけである。

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

小林秀雄はこの歌を「作者の自意識の偽らぬ形」「こういうパラドックスを歌の唯一の源泉と恃み」などと言っている。つまり禅問答的な形をとった過剰な自意識の発露だといいたい。詞花集には読み人知らずとして載ったわけだが、もしかするとそのころはまだ俗名で、しかも勅撰集に名を出すにはおそろしく身分の低い武士だったのだろう。

「捨てぬ人」とはまだ出家してない西行自身のことであって、自分は在俗のまますでに身を捨てたようなものだが、出家して世を捨てたと言っている坊さんたちは、ちっとも世の中など捨ててないように見える(権力や名誉に執着している)、ということか。「身を捨つる人はまことに捨つるかは」という強い言い方、おまえら、ほんとに身を捨てたのかよ、そんなんじゃ身を捨てて救われようとは思えんね、みたいな軽蔑の感情を感じるのは私だけだろうか。あなた方は行い澄まして世の中を捨てたなぞとうそぶくが、私のほうこそ、俗世の中にいて、深い絶望を抱いているのだ、と。

あるいは、出家することを身を捨てるというのは間違いで、身を捨てない人の方が、後生に障るから実は身を捨てているのだ、と解釈する人もいる。「身を捨ててこそ 身をもたすけめ」が西行の真作ならば、その解釈であっているかもしれない。「身を捨つる人はまことに捨つるかは」はその場合お坊さんが檀家の人に説教をしている口調、身を捨てるというのは、ほんとうに身を捨てたことになりますか、いえ、ちがうんです、みたいにも思えてくる。西行がただの坊さんならばこの解釈であっていると思うのだが。西行は、坊さん臭い、説教臭い和歌は詠まなかった人だと、私は考えている。

勅撰集に「詠み人知らず」としか載らない身分の低い私でも出家すれば名前がのこるようになる、と解釈する人もいる。なるほどいろんな解釈があるものだ。

西行の他の歌も参考にしつつ考えると、西行は出家はしたものの普通の人と同じような生き方をした。花をめで、歌を詠み、京都市内に住んだりした。出家した後も悟りは得られず、一生悩み苦しんだ。そのことと関係あるんだろうが、よくはわからん。

まともかく西行は普通の坊さんと違うので、解釈が難しい。「パラドックスを源泉」と言えばそうなのかもしれない。

追記: 以前に似たようなことを書いていた。西行の歌。そうだな。この歌は変に説教臭いし、同時代の人がこれを西行の歌と認めたのならともかく、どうも「西行物語」に詠み人知らずの歌が西行の歌として載ったから、西行の歌ってことになった、と解釈した方が話は簡単だ。少なくとも確実に真作とは言えないだろうな。ま、これ以上この歌だけに関わっても仕方ない気はする。

彼ほどに真に悟りを必要とした人は、その当時にも滅多にはいなかっただろう。それほど深い苦しみを抱いてた。早く楽になりたかったが、なれなかった。そこへいくと慈円なんかは何の悩みも迷いもなく僧侶となり、のほほんと一生を送ったのに違いない。

世の中に未練のあるような歌は他にもある。

はらはらと 落つる涙ぞ あはれなる たまらずものの 悲しかるべし

物思へど かからぬ人も あるものを あはれなりける 身の契かな

捨てたれど かくれてすまぬ 人になれば 猶よにあるに 似たるなりけり

数ならぬ 身をも心の もち顔に うかれてはまた 帰り来にけり

捨てしをりの 心をさらに あらためて みるよの人に 別れはてなん

まどひきて 悟りうべくも なかりつる 心をしるは 心なりけり

など。こういう歌を、小林秀雄は「西行が、こういう馬鹿正直な拙い歌から歩き出したという事は、余程大事なことだと思う」などとからかっている。しかし果たして、「馬鹿正直な拙い歌」なのだろうか。

世の中を 捨てて捨て得ぬ ここちして みやこはなれぬ 我が身なりけり

などは、確かに誰にでも詠めそうな、しかし西行にしか詠めなさそうな歌ではある。普通の僧侶はこんな歌は詠まない。同時代の慈円なんかは絶対詠まない。

心なき 身にも哀は しられけり 鴫たつ沢の 秋の夕ぐれ

世をいとふ 名をだにもさは とどめおきて 数ならぬ身の 思ひ出でにせむ

うらうらと 死なむずるなと 思ひとけば 心のやがて さぞとこたふる

そらになる 心は春の かすみにて よにあらじとも おもひたつかな

世のなかを そむきはてぬと いひおかん おもひしるべき 人はなくとも

山里に うき世いとはむ 友もがな 悔しく過ぎし 昔かたらむ

古畑の そはの立つ木に ゐる鳩の 友よぶ声の すごき夕暮

ここらも、未練を断ち切った、というより、未練たらたら、という感じの歌。まあ先の歌と同じ心境を詠んだもの。意味もさほど難しくない。西行には大胆な字余りの歌があって驚く。

世の中を 思へばなべて 散る花の 我が身をさても いづちかもせむ

わきて見む 老木は花も あはれなり 今いくたびか 春に逢ふべき

吉野山 やがて出でじと 思ふ身を 花ちりなばと 人や待つらむ

花みれば そのいはれとは なけれども 心のうちぞ くるしかりける

春風の はなをちらすと 見るゆめは さめてもむねの さわぐなりけり

春と桜の歌。最後のやつは宣長の

待ちわぶる 桜の花は 思ひ寝の 夢路よりまず 咲きそめにけり

にも似るが、両者それぞれの個性が出てるわな。

いとほしや さらに心の をさなびて 魂ぎれらるる 恋もするかな

こころから 心に物を 思はせて 身をくるしむる 我が身なりけり

あはれあはれ このよはよしや さもあらばあれ 来む世もかくや くるしかるべき

わればかり 物おもふ人や 又もあると もろこしまでも 尋ねてしがな

はるかなる 岩のはざまに 独り居て 人目思はで 物思はばや

恋の歌。

おそらく偽作と思われるのは

何事の おわしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる

うき世をば あらればあるに まかせつつ 心よいたく ものな思ひそ

惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をもたすけめ

その他、聞書集に載る、

うなゐ子が すさみに鳴らす 麦笛の 声におどろく 夏のひるぶし

すさみすさみ 南無ととなへし ちぎりこそ 奈落が底の 苦にかはりけれ

たらちをの ゆくへを我も 知らぬかな 同じ焔に むせぶらめども

などはほぼ間違いなく後世の創作であろう。説教臭く、坊さん臭い。おそらく西行は「たらちを」とか「うなゐご」にはほとんど何の関心もなかったと思う。小林秀雄はそこに後の良寛を見るが、良寛と西行は坊さんで歌人という以外には何の共通点もない人たちだと思う。

脚注とか。

昨日はまた飲みすぎた。いまだにアルコールが体の中に残っている。こんな飲み方をしてはいけない。

フローニも脚注を使おうとしたらmobiでもepubでも書き出せずに一太郎フリーズ。脚注のせいかと思い、エウドキアでもやってみると普通にできる。わけわからんが何か謎のエラーらしい。

しょうがないのでフローニの脚注は今のままで一太郎の機能は使わないことにする。

脚注の設定ではページごとと巻末にまとめてが選べる。脚注専用の領域を指定できないのが痛い。mobi で出力すると結局一番最後にまとめて脚注が出力される。

フローニの表紙と挿絵がもうじき上がってくるので改版することにする。ええっとつまり更新に関してお客様に通知てのを初めて依頼してみようかと思う。

フローニの改版と同時にエウドキアの無料キャンペーンをやるつもりです。エウドキアを校正しながら、まだまだ文章はいじれるってことに気づいてしまう。こういう女一代記みたいなものは、75年間もあって長いから、すきますきまにいくらでも小話を挿入できてしまう。このままどんどん書き足して長編小説にもなるかもしれん。きりがない。カラオケでいうところのビブラートとかこぶしのようなディテイルを付け足したりとか。それやってると永久に終わらんし、誤植も入り込むし、ぎっとぎとな文体より、シンプルなほうがましという人もいるかもしれんし、この辺でやめないと。

藤原通俊という人は、歌があんまりない。もともとあまり詠んでないのか、失われたのか。後拾遺集をみてもそんな面白いのはないから、誰かが意図的に隠蔽した、というわけではなさそう。歌の目利きではあったが自分ではあまり詠めなかったということか。白河院も「大井川古き流れをたづねきて」くらいしか有名なのがない。この人も実はあまり自分では歌は詠まなかったのかもしれない。だが勅撰集編纂には普通でないこだわり方をした。すこし不思議だ。

自分の書いたものをいくつか読み返してみると、全然今書いている文章と違っていて我ながら驚く。「エウドキア」と「将軍家の仲人」は全然違う。なるほどなあと。書いてるときは作中の人物になりきって書いてるから書けるのであって、一度離れるともう書けない。漢詩も和歌もそうだが、その世界に入りきってないと詠めなくなる。なんかよくわからんがある集中力が持続している間しか作れないんだが、それに似たところはあるわな。絵を描くのもそうだわな。

これ、前半部分で新井白石の説明長すぎるよね。たぶんここで読者は飽きるだろうなあとか。

将軍放浪記は蘊蓄多すぎだよね。蘊蓄を物語に落とし込みきれてない感じ。調べたものを全部書いてるよなあ。

百人一首2

小倉百人一首が順徳院でぶつっと切れているのはかなり不自然であって、
心臓に悪い感じ。
やはり順徳院の時代の人が承久の乱に絶望して、作ったものか。
もし後世の偽作だとすると、とてつもなく順徳院に思い入れのある人の作になると思う。

[丸谷才一の新々百人一首](http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/100i/sinsin100.html)
だけど、
これはこれで非常に不満だ。
勅撰21代集あたりの作者を採ってるらしいが、
最後が正徹、心敬、宗祇、肖柏。
この二条派のお坊さん四連発があまりにも強烈で、
泣きたくなる。
かなり偏った選び方で、
人の好きずきと言ってしまえばそれまでなんだが、
少なくとも、
和歌の初学者のために選んだのではない。
お坊さんに和歌が死んだのでお弔いしてもらってる感じ。
王朝和歌へのレクイエム、といったところか。

初心者は幕末維新とか明治時代の歌人から入るとわかりやすいと思うのだが、
中には与謝野晶子みたいなとんでもないのが混じってたり、
すでに変な方向に曲がり始めてたり、
尊皇攘夷思想が強すぎてアレだったりするので、そういうのは除けた方がよい。
私は明治天皇から入ったのだが、
明治天皇の歌は、初心者にはそれなりに骨があるが、
慣れればなんということはない。
ただし明治天皇とか孝明天皇とか吉田松陰とか歌はうまいけどここらをまねるとやはり特有の風味があるので、
ほんとうは最初は除けた方がいいのかもしれない。

となってくると現代人にも理解しやすくてナチュラルな歌人というとやはり、
香川景樹、
小沢蘆庵、
上田秋成あたりが入門しやすいのじゃなかろうか。
堂上でなく、かといって野人でもなく、
江戸時代特有の粋と言うか艶というか優美さがあって、蜀山人のようにふざけてもいない。
江戸後期、幕末の人たちは自然とここらをエントリーにしたのだけど、
私がここにたどり着くにはものすごく時間がかかった。
ほぼ和歌を習得し終えた後だった。

真淵と宣長はあまりにも国学的なので、やはり最初はやらないほうがいい。

古今集から入ろうとか新古今からとか、まして万葉集からというのは論外だわな。

百人一首

小倉百人一首ネタでなんか書こうかとも思ったのだが、
まず、秀歌と言えるのは全体の三分の一ほどであって、
定家ともあろう人がこんな下手くそな歌の選び方をするだろうか。
また、定家は新勅撰集を一人で選んだのだが、
そこには順徳院の歌も後鳥羽院の歌も選ばれてない。
歌の内容も承久の乱の後のものであって、
定家がそのような歌を選ぶことは非常に考えにくい。

順徳院が勅撰集に採られたのは1251年の続後撰和歌集からだが、
藤原定家はその10年前に死んでいる。
順徳院や後鳥羽院が1251年にはすでに名誉回復されていたとしても。

> 人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は 後鳥羽院

> ももしきや ふるき軒ばの しのぶにも なほあまりある 昔なりけり 順徳院

この二首で締めくくられている小倉百人一首は、明らかに鎌倉幕府と北条氏に喧嘩を売っているのであるが、
こんなものがおおっぴらに定家の選として鎌倉時代に流通していたなどということは、考えにくい。

ほとんど同じ内容で定家が選んだとされる百人秀歌には後鳥羽院も順徳院も入ってない、
源融の歌が古今集のままになっている。
時代的にはこちらの方が自然だが、
あまりにも自然なところが不自然だ。
1951年に存在が確認されたとか、とてもじゃないが信用できない。
だれか、小倉百人一首が時代にあってないことを察して作り替えたものに違いない。

冒頭の天智天皇の

> 秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ

にしても、陽成天皇の

> つくばねの 峰よりおつる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる

にしても、あまりにも凡庸な駄作であり、かつ本人の作である可能性はほとんどない。
また、
蝉丸

> これやこの 行くも帰るも わかれては しるもしらぬも 逢坂の関

とか喜撰

> わが庵は 都の辰巳 しかぞ住む 世を宇治山と 人はいふなり

にしても、多少もののわかった人なら、わざわざ百人の中に入れるはずもない、
おもしろくもおかしくもない歌だ。
俊成の歌も

> 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる

などと言う抹香臭い歌が採られているのだが、
これもやはり後世の仏教思想の影響が感じられる。
紛れもない俊成の真作ではあるが、なぜわざわざこれなのかと。
そのほか坊さんの歌で良くないものが多い。
定家の

> こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ

なんでこんな変な歌を選ぶかなあ、って気がする。
ていうか定家の恋の歌はなんかどれも作り物っぽくて白々しくって。

> 駒とめて 袖うちはらふ 影もなし 佐野のわたりの 雪の夕暮

だと丸谷才一の受け売りになって悔しいから、

> 旅人の 袖ふきかへす 秋風に 夕日さびしき 山のかけはし

とかでどうよ。
あれっ。なんかほとんど同じっていうか、同工異曲というか。

小倉百人一首は順徳院までで終わっているから武士が栄え公家が衰えた時代の和歌が含まれない。
さらに江戸時代の庶民の歌も、国学者の歌もない。
このことが、どのくらい和歌の理解を妨げているかしれない。
非常にまずい教材だという気がする。

もし今、和歌を学ぶ人のために百人選ぶとしたら、
私なら、
江戸後期、香川景樹、上田秋成、小澤蘆庵でしめくくると思う。
宣長と真淵も入れていいけど田安宗武はどうかと思う。
ていうかこの辺りの人たちの歌はおもしろいんだが、あんまり膨らませるのもバランス崩すわな。
江戸前期は、後水尾院、細川幽斎、松永貞徳。
室町時代は、あまり思いつかないが、正徹と太田道灌を入れたい。
正徹は食わず嫌いだったが割と良い歌を詠む。
少なくとも頓阿よりはずっとましな気がする。
南北朝は、後醍醐天皇、後村上天皇、宗良親王、光厳院。
鎌倉後期は、京極為兼、伏見院、亀山院。
鎌倉前期には、宗尊親王あたりを押さえたい。
平安時代の歌人には、後拾遺集の選者の藤原通俊と白河院を入れてやりたいし、
二条天皇と二代后はぜひ入れたいし、
醍醐天皇や宇多天皇の歌が入ってないのはけしからんことである。
清少納言とか紫式部は別に入れんでいい。
万葉時代は、柿本人麻呂、山部赤人、山上憶良、額田王、くらいでいいんじゃないか。
額田王のついでに天武天皇を入れたい気もする。
家持あんまり好きじゃない。入れてもいいけど。
古歌にはやはり難波津の歌と浅香山の歌を入れておきたい。

そうするとなんとか和歌の通史というものが見えてくると思う。

香川景樹以降を入れるとわけわかんなくなるからこの辺で止めておくのがとりあえず和歌の理解という意味では無難だと思う。