ヒストリエとか

KDP をやり始めて、おぼろげではあるが、読者がいて、他にどういう傾向の本を読んでいて、
どんな感想を持っているのかが、わかるようになった。
パブーの頃はPVとダウンロード数とコメントしかないのだが、
コメントはほとんどもらえなかった。
第三者の意見というのがほとんどまったくわからなかった。

でまあ、今は『川越素描』の無料キャンペーンをやっているのだけど、
いっそのこと『エウメネス』を無料キャンペーンにしようと思ったが、
せっかく有料で買ってくれた人がいるのにすぐに無料にしては失礼な気がするので後回しにするが、
他に広報手段もない私としては、定期的にすべての本を無料キャンペーンしようと思っている。

『川越素描』はもともと、現代のストーリーと過去のストーリーが並行する話にしたくて、
現代の話から歴史の話に誘導した方が読者がその世界に入っていきやすいだろうと思ってそうしたわけだが、
こういうのは普通タイムスリップというSF仕掛けになっているのだが、私はそういう手垢の付いた手法はいやだったのと、
『千夜一夜物語』的な入れ子になった劇中劇が書いてみたかったので、
実験的にあんなぐあいになったのである。

今から読んでみるとあまり読みやすくない。
というか無駄にストーリーを複雑にしてしまっている感もある。
しろうと向けでは決して無い。普通の小説を読み飽きた人なら面白いと感じるかもしれない、という程度。
最初にプロットだけ決めて書き始めたら膨大な量になってしまった。
考えながら書いていったという意味ではまさに『素描』かもしれない。
『素描』というよりは『実験作品』、かな。

またジャンルを間違えてしまったが自分では変更できない。
「世界史」ではない。
「日本史」だ。
KDPの中の人にお願いしなきゃいけないのだろうか。

山崎菜摘というキャラにしても無理があると思う。
所詮こんな女性はいないと思うのだ。
文学少女といっても扇毬恵くらいにしておくべきだと思う。
仁科世津子の方がまだ現実的かなと思う。

今なら歴史初心者向けに書くなら全然違う書き方をすると思う。
多少構想はある。
たとえば歴史好きな男とパワースポット好きな女がどうしたこうしたとか。
歴史蘊蓄が大嫌いな京都の舞妓さんとか。
歌物語的百人一首とか。
ようはまあ、初心者は知識が限られていてその外の広がりを知らない。
まずは誰もが知っている知識でもって興味を持たせて、どんどんその外まで連れ出さなくてはならない。
知識が増えて世界が広がるほど歴史は面白くなる。
そのおもしろさを体験させたいわけである。
そうすると入り口は正門がよい。
いきなり勝手口から入れようとしてはダメ。

『アルプスの少女デーテ』『司書夢譚』なども入れ子構造、多重構造の話になっている。
『セルジューク戦記』なんかも、時系列だが西欧、東欧、中近東、中東の話が並列しててややこしい。
そういう複雑な構造をした話を書くのに凝ったこともあったが、
ここらへんで新規読者を獲得するのはたぶん無理だろうと今では思ってる。
もっとシンプルな話の方が良い。

『エウメネス』はたまたま実在する『ヒストリエ』という漫画とネタがかぶったのだけど、
キャッチーな主人公を使った小説というのも、やはり読者を誘導するには必要な気がしてきた。
坂本龍馬とか土方歳三なんかの話は絶対書かんけどな。

『ヒストリエ』の主人公がなぜエウメネスなのか、ということを考えてみるに、
たぶん、アレクサンドロスをそのまんま主人公にしてはあまりに破天荒でなんでもありのキャラになってしまうし、
特にファンタジー仕立てにするとコントロール不能になりかねん。
キャラとしても手垢が付きすぎている。
自由にいじれるキャラがほしい。
そこでアレクサンドロスの後継者の将軍たちの誰かを主人公にしようとした。
エウメネスは前半生が不明なのでキャラを造りやすいから、
アレクサンドロスと出会うまでのいろんな話をこしらえて、
ペルシャ征服の話も書いて、
そのあとの継承者戦争も書こう、ということだろう。
そうすると10年くらいの連載になってもおかしくない。
むしろ、長期連載するためにエウメネスを主人公にしたのだろうと思う。

私の場合もやはりアレクサンドロス大王ものを書きたかった。
一番興味があったのは王妃ラオクスナカ(ロクサナ)がペルシャの王女だったということと、
アレクサンドロスがスーサで合同結婚式をやったということ。
なぜ王は自分がペルシャ人と結婚するだけでなく将軍たちにもペルシャ人と結婚させたのか。
もひとつはゲドロシアの話が面白いと思ったからで、
それらを組み合わせて短く簡潔にまとめようと思った。
つまり最初からコンセプトも尺もヤマもオチもまえふりも、全部決めてから書き始めて、そのとおりに書いたたわけで、
『川越素描』の頃からするとだいぶ進歩している、と自分では思っている。
内容が、というより、執筆の仕方が、という意味だけど。

私は一人称で書くことが好きなのだが、それはあきらかに FPS の影響であり、
日本の私小説の影響ではあり得ない。
つまり「自分」とか「実体験」を描きたいのではない。
「自分」の見たモノをありのまま読者に追体験させたいからではない(ただし『安藤レイ』は途中までは実体験なのだが、これは個人的な入院日記のように見せかけて、だんだんSFミステリーのようにしていくという実験。『紫峰軒』はモノローグ、一人語りだといわれても仕方ないかもしれないがもちろんフィクションである)。
自分が作り出すフィクションの世界の中に読者を完全に埋め込みたいから、
immersive な感じ(※没入感。バーチャルリアリティ用語です)を出したいから一人称にしているに過ぎない。
さらに『アルプスの少女デーテ』『巨鐘を撞く者』では一人称視点が次々に切り替わっていく。
プレイヤー変更あるいはジョブチェンジとも言えるし、ルポルタージュ形式とも言える。
実際、『巨鐘を撞く者』は子母沢寛『新選組始末記』を真似たものである。

エウメネスはアレクサンドロスを描くための三人称視点として選んだ。
つまり TPS 的な手法でアレクサンドロスを描きたかった。
一番王に近い視点に読者をおいて、王の実像を描きたかった。
歴史上伝説上の王、超人的な英雄、現人神的なもの、ではなく、
目の前に実在し、今まさに生きていて、会話できる、等身大で生身の王、というものを。
これはつまり NPC (Non playable character) 的な表現だと思っている。
アレクサンドロスを観察しているエウメネス、という構図。二人称視点、とも言えるかもしれない。

だいたい私は学者か詩人か芸術家、技術者を主人公にすることが多い。
さらに彼らを視点として王とか将軍を描く。
アレクサンドロスに対するエウメネス、
北条時行に対する宗良親王、
明治天皇に対する高崎正風、
ナポレオン三世に対するアルムおじさん、
サンジャルに対するオマル・ハイヤーム、などなど。
まったくそうではない小説を書くこともあるが、自身が学者であり詩人であると思っているので、
その方が自分を歴史の中に投映しやすいし、
従って小説を書きやすい。
というより、そっちの方向にプロットが流れやすい。
読者もまたそうであるとは思わないがそうしないとそもそも小説が書けない。

『ヒストリエ』もまたエウメネスに感情移入させたいのだろう。
あれはしかし古代ギリシャを舞台としたファンタジーものだから、
そういうものが好きな著者がそういうものが好きな読者をひっぱっていけばそれでいい。

ちなみに『ヒストリエ』を直接読んだわけでなく、
いろいろ調べてそんなんだろうなと思っただけである。
私の話というのは、古代ギリシャ史と言うより、
古代アジア史とかペルシャ史とかヘレニズムとでもいうもので、
テイストは全然違うと思う。
少なくとも西欧視点ではない。

歌学

今の時代にも、西洋古典音楽の作曲家というのはいるわけで、
ピタゴラスがとかバロックとか楽典がとか和声とか対位法がとか学んだ上で、
それらを克服して、現代音楽、前衛音楽を作曲したりするわけだが、

和歌を詠むにも、
そういう古典から順々に積み重ねていき、
その精華として現代的前衛的な和歌を詠むということはあってしかるべきだが、
そういう歌人は現代には一人もいないように思われる。
そういう教育手法もなければ研究者もいない。
研究と実作ということを少なくとも宣長の時代までは普通にやっていた。
今はただ昔はこんな和歌がありましたという学者がいて、
歌人は歌人で好き勝手に詠んでいる。

後村上天皇の歌が京極派の影響を受けているのは間違いないと思うが、
南朝は京極派ではなく二条派だということになっている。
後村上天皇の周囲、というか、南朝の歌集には、京極派的な歌を詠む人は、
後村上天皇以外にいない。
彼がたまたま突然変異なのか、京極派を独学したかと思ったのだが、
何かミッシングリンクのようなものがあるんじゃないかと思う。

仁和寺

久しぶりに仁和寺を訪れたのだが、
明治の初めころにほとんど焼失してしまい、
明治42年頃に再建された建物がほとんどであるという。
明治42年というのは日露戦争の後だから、国力にもずいぶん余裕が出来た。

仁和寺というのは、
むろん大昔から続いているわけだが、
実質的には明治の建造物であって、明治維新と日露戦争を記念するモニュメントであって、
そういう意味では明治神宮や、戦前の明治宮殿に類するものだろう。
平安神宮や京都御所もそうだろう。
そう思ってみないとわけわからん。
仁和寺を、京都にあるあまたの寺の中の一つだと思って眺めても何も見えてはこない。
寺院なのに仏教色が非常に少ないのも明治という時代だからだ。
ただ歴代門跡の位牌が置いてある場所だけが仏教的聖域。
いわば、普通の住宅の中に一部屋だけある仏間のようなもの。
それ以外の場所は、たぶん皇族が京都に滞在するときに実際に利用した住居だったのではないか。

京都という町自体が、その多くが、日露戦争による国力伸長後に、
国家権力の象徴として整備されたのだと思う。
そういう意味では極めて人工的な都市だ。
天然自然に平安朝から続いたものではない。
もし明治という時代がなければ、京都は多くの地方都市の中の一つに過ぎなかったのではなかろうか。

これに対して知恩院などは完全に日本仏教の総本山的な存在なのよね。

二条城は、江戸城が失われた今、一般人も見学できるという意味で非常に貴重な建物だと思った。

愛国百人一首

[愛国百人一首](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%9B%BD%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96)
というものがあって、
斎藤茂吉が
[愛國百人一首評釋](http://www.aozora.gr.jp/cards/001059/files/46880_40531.html)
というものを書いているのだが、
どう見ても、愛国の歌とは思えないものまで混ざっている。
たとえば香川景樹

> ひとかたに靡きそろひて花すすき風吹く時ぞみだれざりける

これは単に自然の情景を詠んだ写生の歌であり、どこが愛国なのかと。

> 作者は、かういふ光景に目を留めて、感動したことは一首の歌調によつてうかがふことが出來る。

ススキが風に一方に靡いた光景に、景樹は感動したんだろうな、と言っている。
たぶん、感動したから詠んだというより、目の前の光景をありのまま描写したかったのではなかろうか。

> 作者は專門歌人だから、あらはに寓意を出すといふやうなことはせぬが、この一首は、大事に當つて心みだれず、動搖せず、同心一體となるべき自然の道理を暗示し象徴するものとして、このたび百首の一つ選ばれたのであつた。

この解釈があまりにもおかしい。
なわけないだろうと思う。
別に国の機関がこれを愛国だと決めたからといって民間の歌人までそう解釈しなくて良いのではなかろうか。
ていうか、斎藤茂吉が国に頼まれて選んだとしたら、なんというアホだろうかと思う。
時代が時代だけに、彼個人の責任にするのは酷かもしれんが。

> 香川景樹は、すなはち桂園派の元祖で、天保十四年七十六歳で歿した有名な歌人である。生涯古今集を手本とし、貫之を目標として勉強した。多くの門下を養成し、著書に桂園一枝、同拾遺、古今集正義、新學異見、土佐日記創見等がある。この歌は、桂園一枝、秋歌に、「薄隨風」といふ題で載つてゐる。

まあ、通りいっぺんの紹介だわな。
ていうか、香川景樹ほど「愛国」な歌を詠まない人はないと思う。単に有名人だから挙げただけなんじゃあるまいか。

> 山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも

この実朝の歌にしても、後鳥羽院に対して幕府と朝廷に二股かけてるわけじゃありません、誓っているだけであり、
実朝と後鳥羽院は親戚関係でもあるのだから、
これくらいのことは言うだろうし、
愛国というには少し違うのではないか。

> 大宮の内まで聞ゆ網引すと網子ととのふる海人の呼び聲

これを

> まことに盛んでおめでたいことでございます、といふ意が言外にこもつてゐる

と解釈するのは、不可能ではないが、かなり強引だ。
江戸後期以降の愛国の歌ばかりではバランスが悪いからと愛国的な古歌などを見繕った、
それも万葉時代の武人が詠んだ露骨な歌というよりやや雅な歌を意図的に選んだのだろう、と思うが、
おかしすぎる。
まあ、戦時中の斎藤茂吉がおかしくてもなんの不思議もないのだが。

> 男山今日の行幸の畏きも命あればぞをろがみにける

これは江戸末期の大隈言道の歌。
孝明天皇が石清水八幡宮に行幸したときの歌だろう。明らかに北畠親房の

> 男山昔のみゆき思ふにもかざしし春の花ぞ忘れぬ

の本歌取りなわけだが、元の歌はまあまあとして、大隈言道の歌は、どうみても佳作とは言いがたい。
なんとかならなかったのか。
大隈言道最晩年七十歳くらいの歌だから「命あればぞ」となるのだろうが、
それはわかるが、だがそこまでの歌だと思うんだよなあ。

私ならもっと違う歌を百選ぶと思うがなあ。
幕末より前のでも、いくらでもあるのに、と思う。
たとえば上の北畠親房の歌は入れてもいい。
宗良親王の

> 君のため世のため何か惜しからむ捨てて甲斐ある命なりせば

は当然入れるべき。

なんかね、戦争で和歌が亡びたのではないと思うな。
こういう戦時中のお抱え歌人たちの歌の目利きがひどすぎた。
あと、民間人もそれに踊らされて盛んに愛国的な和歌を詠んだが、逆にそれがいけなかった。
民間人が世の中の流行に流され、熱病に罹ったように、わけもわからずそんな歌を詠んではいけない。

戦後、和歌は軍国主義といっしょくたにされ、プロパガンダとみなされ、
オーストリア人やドイツ人が作詞作曲した軍歌と同様な運命をたどった。
本来ならばドイツ音楽というのはそれなりに価値のあるものだと思うし、
今聞いてもそんな悪くない。
だが戦後封印されてしまった。

戦後の日本酒の運命にも似ているな。
まがい物が氾濫した結果、古き良きものまでいっしょくたに嫌われてしまう。

甲府勝手小普請

甲府藩藩主は家綱・綱吉時代には松平綱重と、その息子の綱豊であったが、
綱豊が綱吉の跡継ぎ家宣となったために甲府は没収されて綱吉の寵臣柳沢に与えられた。
家宣が将軍になり、柳沢吉保は失脚したが、そのまんま甲府藩主だったが、
吉宗の代、というより、吉保の子供の代に転封され、甲府藩十五万石は幕府直轄に戻された。
長男吉里は大和国郡山藩十五万石に移され、その弟らにも一万石が与えられたというから、
懲罰的な転封ではなく実質加増だった、とも言える。

いずれにしても江戸周辺は幕府直轄か旗本の料地になって、たいていは代官が治めていた。
司馬遼太郎『燃えよ剣』では、農民が武装して剣法の修業も勝手し放題だったために、
近藤勇や土方歳三のような農民上がりの武士が出てきた、と言っているが、
ともかく関東近辺は、国定忠治みたいな、武士階級ではないが長脇差しを指した、
農民なんだか無宿人なんだか渡世人なんだかのような連中の温床になっていた。
江戸後期の旗本というのは根っからの怠け者で、無為無能で事なかれ主義なので、ろくに取り締まりもしなかった、と思われる。

ウィキペディアの「甲府勤番」に「甲府勝手小普請」というのが出てくる。

> 老中松平定信が主導した寛政の改革においては不良幕臣対策として甲府勝手小普請が併設される。慶応2年(1868年)8月5日には甲府勤番支配の上位に甲府城代が設置され、同年12月15日には甲府町奉行が再び設置され、甲府勤番の機能は城代、小普請組、町奉行に分割された。

> 甲府勤番は元禄年間に増加し幕府財政を圧迫していた旗本・御家人対策として開始されているが、旗本日記などには不良旗本を懲罰的に左遷したとする「山流し」のイメージがあり、「勤番士日記」にも勤番士の不良旗本の処罰事件が散見されている。
勤番士の綱紀粛正のため半年に一度は武芸見分が実施されており、寛政8年(1796年)には勤番支配近藤政明(淡路守)、永見為貞(伊予守)により甲府学問所が創設され、享和3年(1803年)には林述斎から「徽典館」と命名され昌平坂学問所の分校となった。

でまあ、「山ながし」とか「勝手小普請」というのが「窓際族」とか「左遷」とかのイメージに結びついて、
一生懸命出世街道を目指して頑張ったのに田舎に左遷されたとか閑職に回されたとか、
そんな戦後日本のサラリーマン社会をそのまんま江戸時代の武家社会に投映したような時代小説(気持ち悪くてあまり好きなジャンルではない)に使われることが多いように思われるが、
事実はもっとやばいものだっただろう。
博打や借金踏み倒しでとうとう懲戒処分を受け、飼い殺しにされた不良浪人、という表現が当たっていよう。
江戸で手に負えない乱暴者を甲府なんてところに追いやったのだから、虎を野に放つ、という言い方の方が近かろう。
源為朝を九州に追放するようなもんだ。
甲府の治安はそうとう悪かったに違いない。
だからこそ「甲斐一国一揆(天保騒動)」のようなことが起きたのではないか。
関東の無宿人、渡世人らと、勝手小普請が主犯。
いわゆる百姓一揆とか、飢饉による打ち壊しというのとはかなり違ったんじゃないかと思う。

> 吟味では無宿人の頭取をはじめとする500人(130人あまりが無宿人)以上のが捕縛され、酒食や炊き出しを提供した有徳人や村々の騒動関与者も厳しく追及され、頭取ら9人が死罪、37人が遠島となり、関与者を出した村々には過料銭が科せられたほか、三分代官も処罰されている。

もし不良浪人が主犯であればそれは幕府の恥であるから、あまり表には出さず、無宿人のせいにする、
もしくは小普請であったがすでに処分されていたから無宿人か浪人だった、ということにしたのではなかろうか。

> 多摩地域では天保騒動を契機として、豪農層を中心に自衛手段としての農村剣術が活発化している。

これはねえ、順序が多少入れ違っているんじゃないのかなあ。
「勝手小普請」「無法地帯」「農村剣術」というものが流行していたので、
そいつらが臨界点に達して暴走し、
甲斐一国一揆が起き、甲斐一国一揆を参考にして大塩平八郎の乱が起きたんだよ。
幕府とか旗本が弛緩し腐敗してたのが根本的な原因だと思うな。

舞殿

『吾妻鏡』文治2年4月8日

> 二品並びに御台所鶴岡宮に御参り。次いでを以て静女を廻廊に召し出さる。
これ舞曲を施せしむべきに依ってなり。この事去る比仰せらるるの処、病痾の由を申し参らず。
身の不肖に於いては、左右に能わずと雖も、豫州の妾として、忽ち掲焉の砌に出るの條、
頗る恥辱の由、日来内々これを渋り申すと雖も、彼はすでに天下の名仁なり。
適々参向し、帰洛近くに在り。その芸を見ざれば無念の由、
御台所頻りに以て勧め申せしめ給うの間これを召さる。偏に大菩薩の冥感に備うべきの旨仰せらると。
近日ただ別緒の愁い有り。更に舞曲の業無きの由、座に臨み猶固辞す。
然れども貴命再三に及ぶの間、なまじいに白雪の袖を廻らし、黄竹の歌を発す。
左衛門の尉祐経鼓たり。これ数代勇士の家に生まれ、楯戟の基を継ぐと雖も、一臈上日の職を歴て、
自ら歌吹曲に携わるが故なり。この役に候すか。畠山の次郎重忠銅拍子たり。
静先ず歌を吟じ出して云く、

> よしの山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそ恋しき

> 次いで別物曲を歌うの後、また和歌を吟じて云く、

> しつやしつしつのをたまきくり返しむかしをいまになすよしもかな

> 誠にこれ社壇の壮観、梁塵殆ど動くべし。上下皆興感を催す。二品仰せて云く、
八幡宮の宝前に於いて芸を施すの時、尤も関東万歳を祝うべきの処、聞こし食す所を憚らず、
反逆の義経を慕い、別曲を歌うこと奇怪と。御台所報じ申されて云く、君流人として豆州に坐し給うの比、
吾に於いて芳契有りと雖も、北條殿時宣を怖れ、潜かにこれを引き籠めらる。
而るに猶君に和順し、暗夜に迷い深雨を凌ぎ君の所に到る。
また石橋の戦場に出で給うの時、独り伊豆山に残留す。君の存亡を知らず、日夜消魂す。
その愁いを論ずれば、今の静の心の如し、豫州多年の好を忘れ恋慕せざれば、貞女の姿に非ず。
形に外の風情を寄せ、動きに中の露膽を謝す。尤も幽玄と謂うべし。枉げて賞翫し給うべしと。
時に御憤りを休むと。小時御衣(卯花重)を簾外に押し出す。
これを纏頭せらると。

「静女を廻廊に召し出さる。これ舞曲を施せしむべきに依ってなり。」
とあるが、廊下で踊ったわけはない。廊下跡に舞殿が作られたというのも変。
しかも今、鶴岡八幡宮には回廊らしきものはないのだから、
当時と今ではかなり構造が違っていたと考えなくてはならない。

回廊というのは普通、拝殿と正門の間にぐるりと巡らし中庭を囲った廊下であるはずだ。
「八幡宮の宝前に於いて芸を施す」とあるから、これは、明治神宮で横綱が土俵入りするように、
静御前は回廊の真ん中の広場で踊ったはずである。
頼朝に見せるために踊ったのではない。少なくとも、形式的には、神前で舞を奉納したのである。

石清水八幡宮は、回廊の中心の広場に仮設舞台が設けられることがあるようだ。
屋根は無い。
おそらくこういうところで、雅楽のような形で伴奏付で舞ったのではなかろうか。

今の鶴岡八幡宮の石段を上がったところにある本宮では、そのような広い中庭を作るような場所はない。
であれば、やはり、石段を下りたところに拝殿、門、回廊があったと考えるべきではないか。
つまり、昔は上宮と若宮(下宮)が直列になっていて、
下宮というのはつまり拝殿のことであり、
拝殿から石段が伸びた上に本殿、正殿、つまり上宮が位置していたのではないかと思う。

でまあなんでそんなことをうだうだ言うかといえば、
『将軍放浪記』で、

> 段葛を進み朱塗りの鳥居を二つ三つくぐると、参道を遮るように舞殿が設けられている。白木造りの吹きさらし、檜皮葺の屋根はあるが壁はない。まるでこの、屋根と四本の柱と舞台で切り取られた空虚な空間が、鶴岡八幡宮の神聖なる中心、本殿であるかのようだ。

などと書いてしまったからだ。
小説はフィクションであるから、舞殿というものも、作者の心象風景でかまわないと思うのだが、
いろいろ調べてみると、今、舞殿とか下拝殿などというものは、おおよそ参道を塞ぐ形であることが多いが、いかにも邪魔である。
昔からこんな配置であったはずはないのではないかと思う。
昔は仮設だったのではないか。
それがだんだんめんどくさいので常設になり、
一番目立つところにあるから華美にもなり、
スポンサーの提灯なんかをぶら下げるようにもなった。

だいたい舞殿の柱は四本というのは少ない。六本、十二本、もっとたくさん、というのもある。
四隅に一本ずつ、四本というのは相撲の土俵とか、能舞台のイメージだと思う。
薪能などは仮設舞台の四隅に柱を立ててしめ縄を引き回すようだが、
だいたいこういうイメージ。
神の依り代となる空間、みたいな。

でまあ、1333年、北条高時が鎌倉で死んだときに舞殿があったかと言えば、
たぶんなかったのだけど、
何度も言うがこれは作者の心象風景ってことでひとつよしなに。

京都

なぜか二泊三日で京都旅行してきた。

京都は、歩行者が散歩しやすい、歩きやすい町だなと思った。
電柱や電線が無いのも良い。
歩行喫煙者も割と少ない。
日本全国、京都のようになれば良いと思う。
もちろん京都が完璧とは言いがたいけど、モデルケースにはなるだろう。

新宿なんかも歩行者が歩きやすいようにできているんだよな。

逆に田舎の狭苦しい道の歩きにくさは異常だわな。
車道しかないから、交通量多いところはもう歩行者は歩かない前提。

鎌倉も少し似てるかもしれん。
でも鎌倉の人の多さは異常。
京都も日によって場所によってはそうかもしれんが、
鎌倉はもう、どこもかしこも混んでてやばい。

なぜか東山のあたりに泊まった。
地下鉄東西線東山駅出たすぐに古川町商店街という狭苦しいアーケードがあって、割と和めた。
地元の人しか飲みに来なさそうな雰囲気を醸し出していたのだが、知恩院から東山駅への抜け道になってるので、
観光客のほうがたくさん来ると言っていた。

祇園とか先斗町とか歩き回ったが、入りたいと思える店がなかったのだが、
鴨川沿いに、日本酒バーとドミトリー(バックパッカーとかが泊まるような相部屋の宿)を兼ねた店があって、
そこのマスターが「モヒカン娘」を知っててびっくりした。
中野にマチダヤという酒屋があるのだが、そこと知り合いだと言う。
世間は狭いものだなあと思った。
「モヒカン娘」というのはつまり、青森の三浦酒造という、
「豊盃」という銘柄の酒をつくっているところに作ってもらった、
マチダヤのオリジナルブランド、ということらしい。
「豊盃」もあったので飲ませてもらったが、だいたい同じ味だと思う。

最近やっと本醸造と純米の味の違いがわかってきたような気がする。
一口飲んでまずいなと思った本醸造でも飲んでるうちにうまく感じてくる。それが困る。

足利氏

メモ。

治承五年二月一日『吾妻鏡』

> 足利の三郎義兼北條殿の息女を嫁す

足利義兼と北条政子の妹・時子が結婚した、ということを指すらしい。

ウィキペディアには、政子と時子は同母姉妹である、と書かれているのだが、
『日本外史』源氏後記北条氏によれば、
時政には女子が11名もいて、そのうち政子は長女、
次女は後妻の牧氏(牧の方)と書かれている。
だから異母姉妹なのではなかろうかと思うが、
『日本外史』が何に基づいて書いているか不明。

政子は美人で次女は不美人、などと書かれているがこの次女というのが時子なのだろうか。
時政の妻には他に伊東、足立が知られる。
北条と伊東はともに伊豆における平氏の家臣であったから婚姻してもおかしくない。
政子は伊東の血を引くということか。

義兼は義純、義助、義氏を産むが、時子の子は義氏のみ。
義純と義助はたぶん時子と義兼が結婚する前に生まれたのであろう。
時子が正室で義氏が嫡男、ということになっている。
義純は畠山氏となり義助は桃井氏となる。
義氏の妻は北条泰時の娘。
畠山義純の継室は時政の娘というから、政子や時子の姉妹なのだろう。
桃井義助には子がいたから妻がいるはずだが、誰かよくわからん。やはり北条氏か。

でまあ、足利氏が大きくなったのは承久の乱のときで、かつ北条氏の娘を娶ったからであろう。
本来北関東出の足利氏が三河に住むようになったのは、
承久の乱のあと義氏が三河国守護(地頭?)となったからで、
義氏は泰時の娘が産んだ泰氏を嫡子としたが、庶出の長氏を三河に住ませて、
ここから吉良氏や今川氏が分かれた。

北条氏は足利氏以上の大族であったはずだが、足利氏と入れ替わりに、北条氏も名越氏もほとんど絶えてしまったのだろうか。
不思議だ。

坊門

坊門信清は後鳥羽院の外祖父。
息子忠信は後鳥羽院の寵臣。
実朝の妻は坊門信子、忠信の妹。
つまり、実朝は信清の婿、忠信の義理の弟。
後鳥羽天皇の女房・坊門局は後鳥羽院の女房。ともに隠岐に渡り、院の死後、京都に戻る。
坊門局は道助入道親王、頼仁親王、嘉陽門院礼子内親王を産む。
道助入道親王は後鳥羽院と礼子内親王の戒師。
礼子内親王は歴代最後の賀茂斎院。式子内親王の四代後。

実朝と後鳥羽院、つまり、実朝と朝廷の間にいたのが坊門ということだわな。
ふーむ。

親王宣下と元服

後醍醐天皇の諡号は生前に本人がつけたというが、
村上天皇は醍醐天皇の皇子なので、
後醍醐天皇の次は後村上天皇になったのだろうか。
朱雀天皇も醍醐天皇の皇子だが、後朱雀天皇は平安時代にすでにいたわけだ。

建武の新政というが、初代神武天皇まで戻ろうというよりは、
醍醐・村上帝の時代の延喜・天暦の治を目指したのかもしれん。

後村上天皇の経歴が実はよくわかってなかった。
1328年9月生まれらしい。年は間違いなさそうだが、月日が曖昧。
1333年建武の新政。
1334年5月、奥州多賀城において親王宣下、
1336年3月、比叡山において元服、三品陸奥太守に叙任、とあるのだが、
調べてみると親王宣下とは幼名を捨てて「憲良」という諱を付けることで、
元服は大人になったという儀式で、大人の髪型、服装に改め、幼名を捨てて大人の名前にする儀式。
だが、おそらく天皇家では、幼い時、元服前に皇太子になったり親王になったり天皇になったりしなきゃならないこともあるから、
元服と親王宣下が分かれたのだろうか。
異様にややこしい。

わざわざ奥州まで下向して親王宣下されておきながら、実際に三品という官位、陸奥太守という官職をもらったのは元服の時、というのもよくわかんない。
そういうもんですか、としか言いようがない。
ともかく、親王宣下というのは、大人になることでもなく官位官職をもらうことでもない、
幼い頃に、親王として生きるか、単なる皇子として生きていくのか、決めること、
つまり、天皇家の家庭の事情で決まることなのだろう。

そんな細かいことまでこだわるべきだろうか。

北畠顕家は1333年に従三位陸奥守になっているので、
憲良親王が陸奥太守になる3年も前だ。
まあそんだけ憲良親王が幼かった、そのためのタイムラグが生じただけで、
建武の新政当初から、憲良親王を陸奥太守、顕家が陸奥守とする予定だった、ということだ。

そこまでこだわるか。
大筋のストーリーにはあまり影響はないけどな。

憲良親王には同母兄の成良親王と恒良親王がある。
母はいずれも阿野廉子。阿野氏は頼朝の父源義朝の血筋に当たる。

成良親王は1326年生まれで1333年親王宣下。
1334年、関東に下向して四品上野太守。
憲良親王とほぼ同じ時期とみてよい。

1335年7月、中先代の乱。
成良親王は足利直義とともに鎌倉を逃れて上洛。
8月、征夷大将軍となるが、
翌1336年2月解任。
11月、北朝第2代光明天皇の皇太子となるが12月に廃される。
北朝第3代崇光天皇が立太子されるのが1348年。同年光明天皇から譲位される。
実質的には光厳院が院政を行ったらしい。
1336年から1348年まで、北朝には皇太子がいなかったということでよろしいか。

成良親王は南朝なのにずっと足利氏に捕らえられていた、ということらしいんだが、詳しいことがまるでわからん。

恒良親王は1324年生まれ。
1334年立太子。
いつ親王宣下されたかわからん。立太子と同時か。
1336年越前金ヶ崎の戦いに敗れ、京都に送られて 1338年に死去したことになっているが不明。

1339年に憲良親王が立太子してその直後に後醍醐天皇崩御。後村上天皇即位。
どうもこのあたり、あとからつじつま合わせをしたような感じがする。