岩波文庫が五月雨的に品切れや重版を繰り替えすのはほんとに困る。
そういうやり方でもかまわないが、RSS配信するくらいのことはしてほしい。
そしたらフィードリーダーで必ずチェックするのに。
ああもうっ、て感じ。
なるほど、毎月15日に更新される
[岩波文庫のページ](http://www.iwanami.co.jp/hensyu/bun/)
を嫁ということだな。嫁ばいいんだろ嫁ば。
岩波文庫が五月雨的に品切れや重版を繰り替えすのはほんとに困る。
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を嫁ということだな。嫁ばいいんだろ嫁ば。
Wikipedia のマリア・ルイーズを読んでたら、なんかすごい、見てきたような作り話が書かれてて笑った。
> マリア・ルドヴィカはフランツ2世の長女として生まれた。彼女はナポレオンの侵略によってシェーンブルン宮殿を2度に渡って追い出され、ナポレオンは恐ろしい憎むべき男だと教えられ、「ナポレオン」と名を付けた人形をいじめながら育ってきた。彼女は、ナポレオンのジョゼフィーヌとの離婚を知った時に「次に妃として迎えられる人に心から同情すると共に、それが自分でないように願っている」と親しい友人に宛てて手紙を書き送ったくらいであった。そのため、自分とナポレオンが結婚しなくてはならなくなったと聞かされた時には泣き続けたという。
英語版を読んでもこんなことは書かれてない。
誰か日本人の作家か学者の創作物の引用だろう。
誰が書いたんだろう。
面白いなあ。
もしかしたらベルサイユのバラあたりかな。
マリア・ルイーズは、メッテルニヒがフランツ二世とナポレオンの仲人となってナポレオンの皇后となり、
ローマ王ナポレオン二世を産むのだよね。
だがナポレオン没落後はパルマ公となると。
面白いなあ。
思うに、一般市民が「バール」を所持している可能性は非常に低い。
しかし、金属製の細長い凶器を一様に「バールのようなもの」とマスコミが表現するのは、
バールがスケープゴートとして使われているからに過ぎない、と言える。
一般市民が持っていそうなものといえば、まず考えられるのは金属バット。
つぎにゴルフクラブ、くらいしか思いつかない。
しかし、凶器が特定されれぱともかく、
「金属バットのようなもの」とか「ゴルフクラブのようなもの」と報道されれば、
当然スポーツ用品メイカーから苦情がくるだろう。
それでいつも「バールのようなもの」なのだろう。
[確かに維持運営費には最高だろうけど](http://bonnoh.jugem.jp/?eid=1228252)
など読んでいて思ったのだが、
なるほど、江戸時代の家系などはお寺にしか残ってないからお寺に調べに行くとか、うちのじいさんも言っていたが、
要するに江戸時代で戸籍を管理するのは国や地方自治体ではなく寺だったのだ。
寺は民政のための一種の役所のようなものであり、つまり、町奉行ではなくて寺社奉行の管轄だった。
住職は寺社奉行の役人のようなものだったのだなあ。
それはそうだな、出生や死亡、戸籍や家系などの情報を収集管理するには檀家というものが一番便利だ。
従って町中に人口が密集してくるとある程度の寺が必要となるわけだ。
ま、合理的ではあるが、本来の仏教というものとは何の関係もないわな。
無宿人や渡世人などのアウトローはそこから外れていると。
浪人はまだ檀家に属していたのだろう。
町奉行というのは確かに必要だが、なぜ寺社奉行なんて要るのかと思っていたが、
結局どちらも民政の一部であり、所管が分かれているだけのことなのだ。
今と同じだ。
1450年の江戸(太田道灌江戸城築城時)
とか
1590年の江戸(家康入府時)
などを見るに、
まあ、これも完全な復元ではないにしろ、
昔、上野と浅草の間は広大な沼沢地であり、とうぜん町屋も田畑もなかったわけである。
不忍池から流れ出た川はいったん姫ヶ池という池に入って、それから北上して洗足池へ入り、さらに入間川(今の荒川)に入っていた。
姫ヶ池は現在の蔵前だ。そこにかつては不忍池よりも大きな池があり、周りは湿地帯だった。南に鳥越神社の建つ高台があるのみ。
浅草は細長い砂州の上にあった。
(古)利根川が運んでくる膨大な土砂が堆積したものであり、鹿島灘の大洗海岸や浜名湖やサロマ湖のような構造になっていて、
砂州が内海を塞いでいたわけだ。
浅草寺の由来の真偽はともかくとして、古くからここに寺があったのは間違いなく、
ということはここも鳥越神社と同じく利根川の洪水や高潮でも水没しない程度の高台にあったことを意味する。
家康以来、これらの洗足池や姫ヶ池は急速に埋め立てられていく。
神田川を東へ流すために駿河台を開削して出た土砂などが埋め立てに使われたのだろう。
吉原が1657年明暦の大火後に浅草裏に移転するが、そのときにはもう洗足池があらかた埋め立てられていた、或いは、
埋め立てる真っ最中だったのであろう。
上野と浅草の間というのは便利な土地であるから、急速に町が作られていったはずだ。
実際にはここには何百という寺ができ、墓ができた。寺と墓の密集地となった。
[江戸末期の古地図](http://onjweb.com/netbakumaz/edomap/edomap.html)でみると、
現在の浅草通り沿いはびっしりと寺である。
とにもかくにも見渡す限り墓と寺だったのであろう。
喜世が住んでいた唯念寺は浅草通り沿い南にあり、
新井白石が一時期住んでいたと思われる報恩寺は浅草通りをはさんで北側すぐにある。
唯念寺は今も同じ場所にあるようで、そこから報恩寺は直線距離で100mくらいしかない。
これらの墓や寺は維新や震災、戦争などを経て、だんだんに郊外に移っていき、その後にみっしりと町屋ができたのであろう。
今の浅草からは想像できない。
お玉が池というものが今の秋葉原の神田川の反対側内神田にあったというのだが、比較的初期の
[元禄時代の地図](http://www.library-noda.jp/homepage/digilib/bunkazai/ezu/08sub.html)
を見ても痕跡もない。
このお玉が池とか桜が池というのはつまりは姫ヶ池のことではなかろうか。
しかし神田川開削と同時に急速に埋め立てられて元禄の頃にはとっくに消失していたのだろう。
お玉が池跡として玉姫稲荷という小さなほこらが岩本町2丁目5番にある。
地形的にここに池があってもおかしくはないが、こういう祠は移転することも往々にしてあるわけで、
ほんとにここに池があったか、それもいつまであったのか、大きさはどれくらいだったか、まるでわからない。
北辰一刀流の道場があったかしれんが、
千葉周作は江戸後期の人だから、その時代にお玉が池があった可能姓はゼロだろう。
野田総理見てて思うのはなんだ民主党でも自民党みたいな(実務的な)政治ができるんじゃん、ということだ。
小泉首相以来久しぶりのまともな首相という印象だ。
しかし彼も一年で使い捨てにされるのかと思うと惜しい。
麻生さんやら安倍さんやらもあまりにも短すぎた。
で、なんだ、民主党でも自民党みたいなことできるじゃん、じゃあもう自民党要らないね、
という人もいるかもしれんが、逆に、
民主党も自民党みたいな与党になってしまった、これでは民主党の存在意義がない、
と心配する人もいる。
どっちにしろ、民主党も自民党も似たり寄ったりで存在意義はないということであり、
いっそのこと平成の保守大連立でもやりゃあいいんじゃないのかと思う。
そんでついでにアレとかアレとかアレとかと縁を切ればいい。
しかしなかなかそんな当たり前のことが実現しない。
4月くらいからpubooで公開している小説のPVを観測していたのだが、
なんと一番多いのは[超ヒモ理論](http://p.booklog.jp/book/24099)で、
まあ、そんなに多いとも言えないのだが、一日平均10PVある。
[大塩平八郎](http://p.booklog.jp/book/50924)は最近公開したのでおくとして、
次に多いのは
[アルプスの少女デーテ](http://p.booklog.jp/book/27196)。これは山崎菜摘の冒頭だからかもしれんが、
[セルジューク戦記](http://p.booklog.jp/book/32947)が多いのは意外だ。
超ヒモは検索にひっかかりやすく、また誰でも読めて、それなりに面白いと思われるので人気が出てもおかしくない、と思う。
周りにいる普通の知り合いに読ませて「普通に面白い」と言われたので、ごく普通に読めるものだと思う。
じゃあこういうのをどんどん書けるかといわれれば、実はかなり難しい。
このネタは、昔から暖めていたネタに最近仕入れたネタを足してできたものであり、わりと手の込んだものなのである。
良く読んでもらえばわかると思うがただ思いつきの空想では書けない。
しかし、実話でもない。
いろいろひねってある。
私の場合ネタさえあれば小説は書けるので、歴史小説は調べればいくらでもネタがあるからある程度量産はきく。
しかし現代小説は、そうはいかない。すぐねたが枯渇する。
セルジューク戦記というのは超ヒモ理論の対極にあるというか、まるでジャンルは違う。
何しろイタリアとギリシャとイランで同時進行する話であるから難しく書こうとすればいくらでも書けるがそれでは誰も読めない。
で、できるだけ編年体にした。時系列に並ぶようにすれば少しは簡単になるかもしれんと思って。
最初はアラビアンナイトみたいに、物語の中に物語りが埋め込まれたような、枠小説にしようかとも思った。
デーテでやったように。
でももともと複雑なのにさらに複雑になるのでやめた。
で、最初おもしろければ最後まで読んでもらえるかと思い(笑)、最初の部分はエウドキアの玉の輿話にしたのである。
エウドキアの物語として短編小説にすることもできる。
そういう仕掛けになっているが、実は主人公はオマル・ハイヤームである。
こういうのが好まれるのであれば、つまりこの手の本格的世界史小説のニーズがあるというのであれば、
また書いてみようかとも思う。デーテもそれに近いしな。
高校生の頃は世界史が大好きで日本史嫌いだったから地が出るのかもしれん。
やはり素で書いたものにはかなわんのかな。
いろんな人に聞いてみたが、みんなオスマントルコは知っててもセルジュークトルコは知らん。
十字軍は知ってても、東ローマはしらん。
ましてマラズギルトの戦いなど知りもしない。
ナポレオンは知っててもナポレオン三世はしらん。
だが手垢のついてないネタだから触手が動く。
オスマントルコや十字軍やナポレオンならみんな知ってるから書けばよいといわれても、そう簡単にはいかない。
私の小説は、いちおう小説仕立てにしてあるがそれはたくさんのいろんな読者に読んでもらいたいがためであり、
実際は論文のようなものだ。今公開してるのでいえば、帝都春暦とか司書夢談みたいなもの。
論文をそのまま書けば誰も読まない。だから無理に小説を偽装してある。
主人公に学者が多いのもそのためだ。だいたい歴史を学者の視点で書いてある。
純粋な小説を書こうとすれば超ヒモとか墨西綺談のようになる。だが、そういうのは試しに書くことはできてもたくさんはかけない。
[柴折り焚く](/?p=2912)で書いたことの続きだが、
後鳥羽院の「折り焚く柴」の歌は新古今集哀傷に出てくるもので、
十月ばかり水無瀬に侍りしころ、前大僧正慈円のもとへ「ぬれてしぐれの」など申し遣はして、
次の年の神無月に無常の歌あまたよみて遣はし侍りける中に
> 思ひ出づる折りたく柴の夕煙むせぶもうれし忘れ形見に
と詠み、慈円が返して
> 思ひ出づる折りたく柴と聞くからにたぐひまれなる夕煙かな
さて、これは哀傷歌であるから、誰か死んだ人のことを詠んだのに違いなく、
誰かいないかなと探してみたところ、正治初度百首(1200年)藤原隆信の歌に
> 雪埋む山路のそこの夕煙柴折りくぶるたれがすまひぞ
などとある。また、慈円が同じ正治初度百首に詠んだ歌に
> 雪のうちに柴折りくぶる夕煙寂しき色の空に見えぬる
とある。慈円はよく他人の本歌取りをする人だから、おそらくは、隆信の歌の返しとして詠んだものであろう。
新古今集を編纂するため後鳥羽院は6人の選者と11人の寄人と事務方1人からなる和歌所を設置したが、
隆信は寄人の一人であり、1205年、新古今集の竟宴直前に死んだとされる(隆信の死を悼んでそろそろいじくり回すのをやめた、とも解釈できよう)。
おそらく後鳥羽院は隆信の死後、その歌を思い出して、上記の歌を詠んだのではなかろうか、
それをやはりかつて隆信の本歌取りをして詠んだ慈円に示したのではなかろうか、
と推測できるのである。
水無瀬とは後鳥羽院の離宮のこと。
「ぬれてしぐれの」はよくわからない。なんだろうこれは。
「折り焚く柴の記」は、白石が子孫のために残した一種の回顧録であるから、後鳥羽院の、
「思ひ出づる折り焚く芝」「忘れ形見」が一番しっくりくるわな。
広告が過剰だと疲れるのだが、たとえば香港の看板みたいにただ無秩序に羅列されているものはさほど疲れない。
むしろ心地よさすら感じる。
だが、今時のテレビにしろマンガにしろ何にしろ、疲れて仕方ない。
良いコンテンツを作って流す、というより、いかにしてよりデザインするかとか、より訴求するかとか、
より収益をあげるかとか、そんなことが露骨に見えて気持ち悪くなる。
都心だとさらに黒塗りの車などが走っていて気持ち悪さ倍増。
たぶんデザインアレルギーの一種だろうと思う。
普通の人がテレビを見ていても平気で、むしろもっとがんがんコンテンツを作り込んで欲しいと思っているからこそ、
制作側もエスカレートとするのだろう。
見ている方が気持ち悪いからもうめてくれといわないからこうなっているのに違いない。
まあ、アレルギーにかかった人間には周りの人間が不感症にみえるだけなのかもしれん。
あまりにもデザイン過剰な中にいたから、まったくデザインのない世界に行きたいと思うだけかも知れん。
それは AppleやMacのない世界に行きたいというのと、今日的にはほぼ同義であると思う。
ニュースもニュースだけ流してくれりゃいいのに、芸人にコメントさせたりするからとたんに気持ち悪い。
ドキュメンタリーもそう。
別に芸人が嫌いというわけではない。
談志の落語とかよくBGM代わりにかけている。
ああいう芸は全然うざくない。
コメントというより、いわゆるポジショントークってやつ?
いらいらして仕方ない。
マンガも、なんちゅうの、どれだけ連載を続けるか、読者の関心をもたせるかということが至上命題になっていて、
もう一切読まなくなった。
中世歌論集でも少し書いたことだが。
wikipedia などによれば、古来風体抄は式子内親王が俊成に依頼して書かせたものであるという。しかし俊成の息子の定家が書いた歌論書ですら、断片的で短いものばかりであるのに、俊成がこれほどまとまった著書を残したとはとても思えないのである。また、俊成の歌を見るに、どれも軽妙で、感覚的で、芸術家肌の歌ばかりであり、学者的な人では決してなかっただろう。
式子内親王の依頼というのもどうにも腑に落ちない。これは、定家の後の人たちが、二条派歌論を権威付けるために俊成の名で書いたものではなかろうか。そう考えればこのめんどくさくもややこしい歌論の意味がわかる。
俊成は91才まで生きたのだが、古来風体抄を書いたとしたら80代後半という、当時としてはとてつもない高齢であり、文章が書けるはずもない、と思うのだが、どうよ。
そうだな、冒頭の、「やまとうたのおこり、そのきたれることとをいかな。」というのが、歴史的仮名遣いが間違っているし、俊成なら「とをい」「をのづから」「かきをき」とは言わず「とほき」「おのづから」「かきおき」と言うと思う。ひょっとすると相当後世のものかもしれん、とも思われる。
それに、「六義」「天台止観」だのと、定家や後鳥羽院ですら言わぬような、漢学臭く仏教臭いことを論じるだろうか。極めて怪しい。京極為兼くらいの時代の論法ではなかろうか。下手すると為兼本人か、京極派の誰かが書いたのではなかろうかというくらい似ている。
追記:そうかもしれないしそうじゃないかもしれないとしか言いようがないな。