ナポリ傭兵

wikipedia で両シチリア王国最後の君主「フランチェスコ二世」を読んでいると、ガリバルディがシチリアに上陸する前に、

軍備面では長年にわたって国王の親衛隊を務めてきたスイス人傭兵隊の大規模な暴動が発生している。フランチェスコ2世は傭兵隊に待遇の改善を約束して彼らをなだめた後、軍に命じてスイス兵を皆殺しにした。暴動を鎮圧するとフランチェスコ2世はスイス傭兵隊の廃止を宣言した。

と書かれている。つまり、スイス傭兵は長らく両シチリア王国の親衛隊として雇われていたが、フランチェスコ二世はその待遇改善を拒んで皆殺しにし、スイス傭兵を廃止した、となる。

ということは、アルムおじさんはそれ以前にやはり直接ナポリで傭兵になった可能性が高い、ということか。あるいはフランチェスコ二世の虐殺の生き残りなのかもしれない。うーむ。そういう話にした方が面白かったかなあ。

ナポリのブルボン家はイタリア語でボルボーネ家というらしい。

英語版 wikipedia だと、

On 7 June (1859) a part of the Swiss Guard mutinied, and while the king mollified them by promising to redress their grievances, General Alessandro Nunziante gathered his troops, who surrounded the mutineers and shot them down. The incident resulted in the disbanding of the whole Swiss Guard, at the time the strongest bulwark of the Bourbon dynasty.

ということは、6月4日のマジェンタの戦いと、24日のソルフェリーノの戦いの間くらいに、反乱を起こしたスイス親衛隊の一部が撃ち殺され、それが傭兵隊全部の解隊という結果となった、ということになる。また、当時、スイス傭兵がブルボン家最大の防波堤になっていた、とも書いてある。

スイス傭兵はローマ教皇やフランス王の近衛兵にもなっているから、どちらかといえば小規模な常備軍として雇用されることが多く、戦争のような大規模な臨時徴収には、そもそも向かないし、雇用もされなかったのかもしれん。ともかくガリバルディがシチリアに来た頃にはスイス傭兵はナポリにはいなかったということよね。

Swiss Guard など見ると、ナポレオンがスペインやロシア遠征にスイス傭兵を雇ったとある。1830年に再びチュイルリー宮殿が襲撃されたとき、スイスの近衛兵は、二度目の虐殺(一度目はルイ十六世の時)を恐れて姿をくらましたため、以後近衛兵として雇われることはなかった、とある。

また、フランス外人部隊(French Foreign Legion, Légion Etrangère) など読むと、

The Foreign Legion acquitted itself particularly well against the Austrians at the battle of Magenta (4 June 1859) and at the Battle of Solferino (24 June).

などと書いてあって、ソルフェリーノの戦いに外人部隊が投入され善戦したらしいことがわかるし、アンリ・デュナンが見聞しているから、その中にスイス傭兵がいなかったとはいえない。

しかし、やはり、ナポリで直接傭兵になった、という話の方がすんなりくるし、なんか面白そうでもあるんだよなあ。

リソルジメント

イタリア統一戦争はイタリア語では il Risorgimento と言い、英語で The Resurgence (再起、復活) と言う意味であり、
Italian unification と訳されることもあるようだ。
英語版 wikipedia を良く読むと、ガリバルディ軍は、イギリスによるサポートを受けていた。

イギリスはなぜスペイン・ブルボン家が治める両シチリア王国ではなくて、ガリバルディを助けたのか。
これも英語版には書いてある。
まず、シチリアのブルボン家は地中海に進出してこようとしていたロシア帝国とつながろうとした。
ロシアが黒海から地中海へ出てシチリアを拠点とすると、イギリスは困る。
スエズ運河の権益は絶対手放せない。
シチリア島は、地中海の戦略的拠点であるから、イギリスはガリバルディに恩を売ろうとした、ブルボン家を懲らしめた、ということらしい。
もしかするとロマノフ家とブルボン家の間に縁組でもあったのかもしれんが、よくわからん。

紙とネット

アルプスの少女デーテだが、ワープロで縦書きにしてみると、ひどいできで気に入らない。ワープロうちしたものをネットで公開することはできても、ネットで書いたものを紙で読んでみると納得いかないものだなと、改めて思った。
スースも一度全部まとめてワープロうちにして推敲してみようと思う。

ブルボン家とハプスブルク家

今のスペインの君主もスペイン・ブルボン家。
フランス革命でブルボン家は滅んだのではなかった。
では、ハプスブルク家はどうなかったかというと、現在のオーストリア・ハプスブルク家の当主は、
カール・ハプスブルク=ロートリンゲンという人で、1961年生まれ、50歳、
「元オーストリア皇太子の長男」「オーストリア皇帝、ハンガリー国王などの君主位の請求者」「欧州議会議員」「金羊毛騎士団長」「オーストリア国民党所属」「ザルツブルク在住」だそうだ。
ふーん。

イタリア統一戦争

調べれば調べるほど、ナポレオン戦争からイタリア統一戦争までのイタリアの歴史は面白いのだが、
なぜ塩野七生は小説に書かないのか。十字軍書くよりずっと良いと思うが。
いや、つまり、古代ローマの話はイタリア視点で書いてもいいかもしれん、
ヴェネツィアとオスマントルコの戦いも。
しかし、十字軍は、それよりずっとでかい話で、
イタリア史観に無理やり押し込めて書くことは不可能だと思うのよね。

それはそうと、ガリバルディはなぜあんな短期間に両シチリア王国を滅ぼせたのか。
英語版の wikipedia を読むと、
シチリア島の首府パレルモに進軍するときに、イギリス軍が休戦を調停したとある。
また、シチリア島からメッシーナ海峡をイタリア本土に渡るときに、イギリス海軍が助けた、
とも書いてある。
つまり、ガリバルディは、たった千人のイタリア人の義勇軍で両シチリア王国を倒したのではなく、
当時の超大国であるイギリスの支援を受けたから成功したのである。
なんだ普通のパワーポリティクスじゃんか。
日本語版を読んでいるだけではその辺の事情がよくわからない。

ところで英語版では、イタリア統一戦争を Italian War of Independence
と表記している。
イタリア独立戦争。
いったい何が何から独立するというのだろうか。
どうもアメリカ人は、ひとつの国家ができる戦争を独立戦争と呼びたがるようだ。
実に funny だ。
そんなら、プロイセンが主導したドイツ統一はなんというかと調べると今度は
Unification of Germany
とある。意味わからん。

ふむ。イタリアはオーストリアから独立したことになっているのか。
違うだろ、それは。
それは北イタリアの一部の話であり、全体としてみるとイタリア統一戦争と言うしかないだろ。
そんなこと言うのならドイツ統一だってオーストリアからの独立戦争じゃんか。

両シチリア王国

『アルプスの少女デーテ』を手直ししているのだが、『ハイジ』は1880年に書かれていて、この年にハイジが10歳くらいだとすると、トビアスが生まれたのは1850年くらいとなる。
アルムじいさんはナポリで傭兵になったというが、このときナポリは両シチリア王国の首都。君主はブルボン家。このブルボン家はスペイン・ブルボン家だが、もとはフランスのブルボン家の分家。フランスとスイスは深い関係があり、スイスから直接ナポリに傭兵になりに行ってもおかしくはない。

しかし、両シチリア王国ではこの時期何も戦争が起きてない。近いのは1816年、ナポレオンの没落とウィーン体制確立のとき。次は1860年、ナポリがガリバルディ軍によって陥落してイタリア統一がなった時。

ナポリはそんな大きな国ではない。平時からうじゃうじゃ常備軍や傭兵が居たとは思えない。ガリバルディが攻めてきたときの負けっぷりからして、よほど油断していたか、そもそも軍備らしきものがなかった、とさえ思える。

それで、仮にボナパルト失脚時にアルムじいさんが従軍したとすると、ハイジがフランクフルトに行って帰ってきたのは1850年くらいのことになる。ちと時代設定が古すぎる。また、1860年に従軍したとすると、ハイジのフランクフルト行きは1890年くらいのことになり、時期的に遅すぎる。

それで、ハイジの作者は、執筆時の20年くらい前に起きた、比較的記憶に新しいイタリア統一戦争を漠然とイメージして書いたのではないか、時期的に合わないけど、という仮説が成り立ち得ると思う。そうすると、アルムおじさんの祖先がナポレオンのアルプス越え(1799年)に参加して傭兵で成り上がった、という話につながりやすい。先祖が1848年のウィーン体制崩壊のとき、ルイ・ナポレオンに従ったとすると、アルムじいさんのお父さんの時代になってしまう。まあ、それでも話は作れるのだが、ちとせわしすぎる。

アルムおじさんが1860年に両シチリア王国の傭兵だったとすると、ガリバルディによって征服される敗軍の中にいたことになる。それも話としてはおもしろい。今は、最初フランス・サルディーニャ連合軍に居て、それからサルディーニャ軍に編成された、という設定になっているのだが。さて、どうしたものか。

そもそも、アルムおじさんとハイジは1830年に書かれた別の話から借用したものであり、おじさんが傭兵にいこうがいくまいが、時代が合わないのは当たり前であるといえる。

私は『ハイジ』の中でデーテだけが実在のモデルに基づいて書かれている、と思っている。つまり、『ハイジ』は1880年当時のデーテ系のソースと1830年当時のアルムおじさん系のソースをミックスして作ったものなのだ。そうすると、1860年代にナポリで生まれた傭兵の子供というのが実はハイジなのではないか。傭兵に行ったのはトビアスなのではないか。デーテは何かの理由で、トビアスからハイジを預かることになり(トビアスが死んだので遠縁ということで引き取ることになったのかもしれない)、10歳くらいのその子をフランクフルトに連れていったけど、都会生活にうまくなじめなかった、その話を聞いたのがだいたい1875年頃、とすればうまく辻褄があう。

ファーティマ公開

まだ執筆中だが、[ファーティマ](http://p.booklog.jp/book/24023)を公開した。
これは、[トゥエンティ・トゥエンティ](http://p.booklog.jp/book/23991)の続編として書きかけたものをほったらかしていたのだが、
橋下市長の当選を祝って、前倒しで公開する。
ついでにトゥエンティ・トゥエンティも、すべて試し読みできるようにしておいた。

ファーティマはトゥエンティ・トゥエンティの裏設定のネタばらしを含む。
主人公は武央市市長の島谷、ヒロイン役は、ヤスミーンの姉のファーティマ。

もともとトゥエンティ・トゥエンティは、
[セルジューク戦記](http://p.booklog.jp/book/32947)に出てくるアリー、ヤスミーン親娘を切り出して、短編近未来小説にしたてたもの。
おひまなかたは読み比べてみてください。

京極派

引き続き、丸谷才一『新々百人一首』。

> 庭の虫はなきとまりぬる雨の夜の壁に音するきりぎりすかな (京極為兼)

為兼を選ぶのはよい。なぜこの歌なのか。
他にいくらでも為兼には良い歌があるのに。
しかも、「庭の虫は」が字余りで、しかも字余りの例外まで丁寧に解説している。
だが、それ以外の説明がまるでない。

京極派の歌には字余りが多い。というより、字余りということを始めたのは京極派なのだ。
なぜそのことを言わぬ。
丸谷才一は定家が好きで、二条派が好きなのである。
京極派は嫌い。だからわざと沈黙しているように思える。

「なきとまりぬる」もおかしい。連体形になっている。
「なきとまりぬる雨」か「なきとまりぬる雨の夜」か。
そうかもしれぬ。
そうとも解釈できなくはない。
だとするとそうとう変な歌だ。
普通に考えて終止形にしないとおかしい。
普通なら、素直に「なきやみにけり」「なきとまりけり」などとするだろう。
「なきとまりぬる」という言い方は、異様だ。「なきとまる」などという言い方は普通和歌ではしない。
現代語でも「なきやむ」としか言わない。もしかすると当時の口語的な表現かもしれん。
それもまた京極派の特徴だが、それもなぜか指摘しない。

それをしないでおいて、王朝和歌では、秋の虫の鳴き声というのは、恋が成就しなかった悲しみの声だ、
などということを延々と主張している。
京極派は、そういう定型や通念を無視し、感情のままに、印象派のように、歌を詠むものだ。
京極派の歌は、新古今や二条派の歌論では説明できないはずなのだ。
それをむりやり宮廷文学の尺度にあわせて解釈しようとしている。
これでは、京極派とは何か、ということが、読者にはまったくわからないはずだ。

> 咲きそむる梅ひとえだの匂ひより心によもの春ぞみちぬる (伏見院)

説明わずか四行。「まさしく国王の歌である。おっとりとしていて、しかも美しい。」などと言っているが、なぜこれを選んだのか、理解に苦しむ。
なるほど、そういうものか、とただわけもわからず読まされる読者が気の毒だ。
ちなみに伏見院は、為兼に勅撰集を編纂させた京極派の歌人。

> うれしとも一かたにやはながめらるる待つ夜にむかふ夕ぐれの空 (永福門院)

この歌は、確かに優れている。「ながめらるる」は字余り。明らかに京極派特有の、破調の妙をねらったものであろう。
しかし、丸谷才一は、これが新古今集より時代が下ったために規則が崩れてきた、と解釈している。それは違う。
京極派以外で字余りするのは少なくとも江戸時代までは、ただのへたくそだけだ。
「当代随一の女流歌人」が「歌道の約束事を乱したことはすこぶる興味深い」などと言っているのは、
ほんとうに京極派というものを、丸谷才一が知らなかったのか、と怪しまれる。
宣長ですら京極派が異様で異端であることは知っていたのになぜ丸谷才一がそれを知らないのか。
仕方なく余ったのではなく、わざと余らせたのだ。それを勅撰集に採ることで、為兼はオーソライズしようとした。
永福門院は、京極派で一番有名な女流歌人であり、伏見院の中宮。歌の師は為兼その人だ。

意味は、従って、古今集や新古今集などの通念から離れて、印象派的に解釈しなくてはダメだ。
ざっくり意訳すると、今日は来るとあらかじめ知らせがあって、うれしいとは思うが、ほんとうに来るのかどうか、
いつごろ来るかと待ちながら、夕暮れの空に向かってながめている気持ちは、ただうれしいというばかりではない、となる。
丸谷才一の解釈でだいたいあっているのだが、
彼は、当時の通い婚における女性の立場、歌に現れるその形態など、懇切に、王朝の女流和歌とはこういうものだ、
こうあるべきだ、という理論で押し通そうとする。
それでは、京極派の歌はわからない。パターンに当てはめようとしては楽しめない、それが、京極派の歌なのに。
京極派だからこそ、「うれしとも一かたにやはながめらるる」などという屈折した心理を詠めたのだし、
「(私が)待つ夜に(私が)むかふ」などというトリッキーな言い回しをしているのだ。

朦朧趣味

煮詰まるのでまた丸谷才一の『新々百人一首』など読んでいるのだが、

藤原家良

> 朝ぼらけ浜名の橋はとだえして霞をわたる春の旅人

飛鳥井雅経

> 初雁の声のゆくへもしらなみの浜名の橋の霧のあけぼの

慈円

> かへる雁の霞にかけるたまづさを浜名の橋にながめつるかな

などを取り上げているのだが、こういうのを幽玄の美的などと言っている。
慈円のはいかにも屏風絵風だし、他のも良くできているが、
単に貴族趣味という以上のものではない気がする。
さらに、

藤原為氏

> 人とはば見ずとやいはむ玉津島かすむ入り江の春のあけぼの

玉津島はわざわざ観光に訪れるくらいの風景の名所で、
それが春霞がかかってぼんやりと見えなかったから、
土産話には、見えなかったと言おうかな、というような意味。
これは良い歌というので、為氏の父で定家の子の為家の歌

> ふるさとによく見ていかむ玉津島まちとふ人のありもこそすれ

はダサい、凡庸だ、などと言っている。さらに

藤原定家

> 見渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

をさらに高度な達成、とほめている。
しかし、定家のは単なる若者の前衛主義というかニヒリズム(虚無主義)に過ぎないのではないか。
単に虚無や否定が面白いという趣向だろう、これは。
その後の貴族等の幽玄の美意識と同一視するのはどうかと思う。
為家の歌は、ある意味ひねりのないわかりやすい歌で、そんなに悪くないと思うし、
為氏のはトリッキーで悪くはないが、幽玄というほどでもなく、
どちらかと言えば古今調の機知に近い。
新古今後の、南画調の朦朧とした歌が良いなどというのは、必ずしも和歌全般にいえる価値観とは言い難い、
と思う。

江戸時代の文人は、和歌や漢詩を学ぶ際必ず自分でも和歌を詠み、漢詩を作った。
現代人は、自分で作らず、批評だけする。
和歌を詠む人は割といるが漢詩を自分で作ってブログに載せているひとはまずいない。
だから勢い、漢詩というのは、杜甫だ李白だ陶淵明だという話になり、
江戸時代の漢詩は和臭だからダメだ、というので思考停止となる。
和歌でもだいたい同じ。
もし自分で和歌を詠むなら、本居宣長の歌などは、大いに役立つ。
彼の歌論を具現化したものが彼の実作であり、特に彼の場合は理論と作品にまったく乖離がないからだ。
多くの歌人は歌論を持たないか、抽象的で意味不明なことが多い。
だから、自分で歌を詠もうかというときに、どうすれば良いかまるでわからない。さっぱり参考にならない。
「日曜美術館」で、さすがに俵万智の言っていることは割とわかるが、多くのアーティストの言っていることは
「個人の感想ですね」以上まるでわからない、ようなものだ。
アーティストのコメントはわからなくて良いことになっている。
自分で苦労して詠んでみて結局宣長未満の歌しか詠めないことがわかったとき、
初めて宣長の歌の価値に気付くのだと思うのだけど。
それに、新古今の価値観に照らして、別の時代の歌を凡庸だというのは当たらない。
価値観が違うのは当たり前だ。
しかし、丸谷才一は、新古今集の時代が和歌の絶頂であり、そこで完結完成したのであり、
定家と後鳥羽院が最高であり、
現代日本の美意識も結局室町前期のその頃に完成し、それが至上なのだ、
と主張する。
しかし、それは丸谷才一の個人的な説に過ぎない。
それはつまり、漢詩というのは盛唐が一番で、他の時代やまして日本の漢詩などはダメだ、
という論法と同じだ。

現代では、また、歌人や詩人は小説を書かないし、小説家は歌も詠まない、詩も作らない。
しかし、江戸時代までは、文人は文章も書き、その上で歌や詩も作った。
まあ、たまたま、私が江戸時代的な詩や歌や小説を書きたがるジャンルの人間であり、
それは小説だけ書く人、ラノベだけ書く人、和歌だけ詠む人、など同様に、
現代の細分化され蛸壺化した趣味の領域の中の一つの形態に過ぎないのかもしれないが。

さらに言えば、春霞というものは、フィクションである。霞というのは、いつでも発生して、特に春に多いとは言えない。
むろん、冬は空気が乾燥して澄んでいるから、霞は一年で一番立ちにくいだろう。
また、秋は霞と言わず、霧というかもしれん。
ともかく、春から秋までかすみとかきりとかもやというものは発生する。

春霞が実景であると断言できる歌はほとんどない。だいたいは、イメージで、屏風絵風に歌っているだけだ。
だから私は春霞が嫌いだ。

思うに、南宋が滅びるのは元寇に前後するから、朦朧とした南宋画の影響が日本に入ってきたのは、
早くても鎌倉時代後期からだろう。
南宋画が元になって日本の南画になったのは江戸時代に入ってから。
定家の時代にはそのような影響はなく、屏風絵をもやでぼかしたような絵はなかっただろう。
最初期で、家定の弟子の家良くらいか。
家定の虚無的な歌論に託して、自分たちの南画趣味を肯定しようとしたのは、かなり後世の文人たちではなかったか。
少なくともそういう、幽玄と朦朧と虚無の解釈が混同されるようになったのは江戸時代に入ってからだろうと思う。

SF

ちと最近のSFというやつをいくつか読んでみたが、
やはり、SFという分野で張り合おうというのは間違っていると思った。
仮想空間でアバターどうしがセックス、とか言っている時代に、まじめにSF書いても無駄、そんな気になる。