人斬り鉤月斎

「人斬り鉤月斎」というものを書いているのだが、またどこかの新人賞に応募すると思う。百枚ぎりぎりくらい。

タイトルどおり普通の剣豪小説、時代小説のたぐいなのだが、自分的に剣豪小説書くのはすごく珍しい。たぶん初めて。書いてみるとわかるが、普通の陳腐な剣豪小説と差別化するのが難しいってのと、膨大な過去の蓄積があるから、やっぱどうしてもそれと比較されるのでやはり書くのがむずかしい。同じことか。これ普通の剣豪小説とどこが違うのとか言われそうで怖い。

自分なりに分析すると、戦前の菊池寛あたりの剣豪小説というのは古き良き体制的な剣豪小説であるが、戦後はそれを否定した反体制的、つまり、幕府とか主君というものに反抗するとか、庶民の目線でとか、個人主義的なとか、そんな剣豪小説が流行った。

しかし今の自分にとってはそういう反体制的な匂いのする剣豪小説というものがすでに、
鼻もちならん説教臭のする陳腐な話なのであって、その否定、つまり、反反体制的、みたいな。しかし、反反体制的だからといって体制的でも戦前的でもないみたいな。あれ、なんかポストモダンってもしかしてこんな話なのかな。ポストポストモダン、みたいなもんかな。まあともかく、既存の戦後民主主義的テレビドラマ的時代小説を破壊したくて書いてみました(笑)これまで、時代小説というか歴史小説みたいなの書いて、チャンバラが出てこないのはそういうのに反発感じてたからだと思う。

三月末までにもう一本くらい書けそうな気がしてきた。

日本橋と大名行列

以前江戸の街道に書いたことの繰り返しになるが、1600年関ヶ原、1601年から「五街道」整備、1603年に日本橋が架かり、1604年から日本橋を五街道の起点にした、などとあるが、その根拠はいったいなんなのか。

日本橋よりも神田橋の方が先に架かっていて、門も見付もある。中山道と奥州街道の起点はこの神田橋門(神田口門)であり、東海道は虎の門、甲州街道は半蔵門を起点とすると考えたほうがずっと自然ですっきりする。また、日光街道が徳川家にとって重要になったのは家康が葬られて家光が東照宮を祖先崇拝してからだと思われるし、1604年ころから日光街道を奥州街道と区別し五街道と呼んでいたとは信じられない。また甲州街道が五街道に入るほどに重要だろうか。完成したのも他の街道より百年ほど遅い。甲府街道が重視されたのは、吉宗以後幕府直轄領になってからではないのか。

道中奉行というものがあったそうだが、たぶん日本橋は道中奉行の支配ではなく、町奉行支配であろう(と思うが橋奉行とかいたかも知れんね)。神田橋に至っては江戸城の一部だから奉行とかそういうものはなかっただろう(普請奉行か?「江戸城代」という役職は家康が入府する以前のもの)。日本橋を宿場と考えることにも疑問があるが、商人らは日本橋や小伝馬町、馬喰町などの繁華街に投宿しただろうから、商人や町人にとって日本橋は宿場町のようなものだったとはいえる。日本橋付近に武家屋敷がなかったわけでもなかろうが、このあたりを大名行列が頻繁に往来したとは考えにくい。

安藤広重『東海道五十三次』日本橋には、日本橋を大名行列が通る朝の情景が描かれている、というのだが、これがいわゆる大名行列かどうかも疑問だ。大名行列だとして、どこの大名がどこからどこへ行こうとしているのだろうか。大名が日本橋を通る必然性がない。ただの公務中の旗本かもしれない。

さらに、大山街道、中原街道の方が、東海道より利便性が高いように思われる。現在でもそうだし、江戸時代より前でもそうだった。江戸時代だけ東海道の地位が高かったのも、よくわからん話だ。この三つの街道は、少なくとも庶民レベルでは対等だったのではないか。

宮将軍擁立説

徳川四代将軍家綱が嗣子なくして死去したときに、後継者としては、弟の綱吉、家綱より早く死んだ綱吉の兄で家綱の弟の綱重の子の綱豊、その他に、有栖川宮幸仁親王を宮将軍として迎えようという案もあったという。徳川実記に書かれているという。

有栖川宮幸仁親王は家康の血を引いているというので、調べてみると、家康の次男・秀康は結城家に養子に出たが後に松平家に復帰、その息子・忠直は越前松平家(福井藩松平家)当主でかつその妻は二代将軍秀忠の娘・勝姫。忠直と勝姫の娘で秀忠の養女となった亀姫(寧子)は高松宮好仁親王の妃。好仁親王と亀姫の子・明子は後西天皇の妃で、有栖川宮幸仁親王はその皇子である。たしかに、男系・男系・女系・女系・男系と来て家康の五代後の子孫なのである。

ここで一番問題になると思われるのは徳川宗主である家綱の遺志なのだが、これがまったくはっきりしない。血筋で言えば家光に一番近い綱吉であると徳川光圀や堀田正俊が主張したという。長子相続の原則にのっとれば綱豊(後の家宣)であるが、綱豊の父綱重(家綱の弟、綱吉の兄)はすでに死去していた。有栖川宮幸仁親王を推したのは大老酒井忠清。酒井家は三河時代からの譜代であるが、その主張に根拠なしとは言えない。

鎌倉幕府が宮将軍を迎えたのは、頼朝の子孫が皆絶えてしまったからであるが、家康の子孫は、親王・内親王を含めてけっこういたようである。ただし家康の血を引いた天皇はいまだいなかったはずで、いたらもっと大問題になっていただろう。いずれにせよ、頼家の子や実朝の兄弟らが死んだときほど必然性はなかったと思う。だって御三家だっているわけだし。血統が絶える心配がまるでないのに、わざわざ宮家から将軍を呼ぶか。吉宗に決まるときにもそんな議論があったのだろうか。

ただ、天下国家のためには宮将軍の方が都合が良いという考え方もあり得る。戦国の世であればともかく、血の近い遠いよりも、いっそのこと皇族を将軍に迎えた方が良い、外様大名や浪人者などから文句の出ようも無い、一気に天下は静謐になる。たぶん遅かれ早かれ公武合体は成るのだから、今一気にやってしまえ、という考えはあったかもしれない。豊臣秀吉だってわざわざ摂家になったのだから、ゆくゆくはそうしたかったのに違いない。

堀田正俊が稲葉正休に刺殺されたのは、稲葉の個人的遺恨という説が有力だが、堀田と対立した綱吉(もしくはその側近の柳沢など)の陰謀であるという説もある。また、綱吉を擁立した堀田を恨んだ有栖川宮幸仁親王派か綱豊派、大老の酒井らなどということもあり得よう。事件の現場に居合わせた大久保忠朝・戸田忠昌・阿部正武などの老中らが、口封じのために稲葉と堀田を一度に始末したと考えられなくも無い。よくわからんねえ。

しかし puboo が重くて困る。最近はときどきつながらないし。

御家人の給料

折り焚く柴の記を読んでいると、御家人に支払う給料の話が出てきて、御家人は料地をもたないから扶持米をもらうわけだが、実物をもらうのではなくて、その年の上米・中米・下米のうち上米を基準としてその値を金で支払う習慣だったようだ。上米が1俵(3.5斗 = 35升)で37両なので、1俵の米の代わりに38両を支給せよ、などと書いてある。実に興味深い。

wikipedia によれば御家人は30俵から80俵をもらっていたそうだ。30俵だと年収が約千両ということになる。別にそこから所得税や住民税や社会保障費を引かれるわけではなかろうから、手取りが千両、ということであってるだろうか。ただしそれをまるまる自分のために使えるのではない。収入に応じて家来を抱えなくてはならないから、その家来と家族も養わなくてはならない。となると千両は多いのか少ないのか。よくわからん。

同じ記述の箇所に「右筆集」というのが出てくる。これはやはり下級書記官らのことをいうのだろう。

中ノ口、というのは江戸城本丸の事務方の執務室が並ぶところだが、そこに「お給米の張り紙」というのが貼られて、勘定書から草稿が出てそれを右筆が清書して張り紙にする。

上米の値で支給すれば、御家人たちはその金で中下米を買ってしのぐので都合がよかろう、などと書かれている。面白いなあ。中下米はもっとずっと安かったようだ。

社員教育

日本はおそらくずっと昔から年よりが若者を搾取する社会だった。私も上司から搾取されたと感じたが、その上司を見ていると、彼らもまた自分より上の世代から搾取されたのだろうと言う気がする。彼らも搾取はいかんといいながら自分も搾取していることにまったく気付いてない。それくらいに彼らにとって若者に無理難題をいいいびりいじめることは空気のように当たり前なのだと思う。全共闘世代だと、英米帝国主義は世界中の植民地を搾取したから悪だという。なら、まず自分が搾取するのをやめるべきだろう。定年間近の上司を支えて何のメリットがあるのか。見返りがあったためしがない。逆にさんざんやり散らかされて負の遺産が残されているだけだ。もう何度かそういう経験をした。彼らが辞めたあとをみこして自分の利益になることをやっておくべきだ。

こういう搾取の連鎖はどこかの世代で止めなくてはならない。搾取されたから俺も搾取するというのではいつまでたってもその負の連鎖が終わらない。少なくとも徐々に減らしていかなくてはならないものだ。

昔は、公的年金とか社会保障のようなものが未発達だったから、年よりが若者を搾取するというのはある程度は必然だったのかもしれない。だがやはりそれは、親子ならばともかくとして、他人に対して個人的に行うべきことではない。会社の上司と部下の関係とか派閥とか学閥とかそういうものを利用して若者にたかるのはよろしくない。

前ある人と話をしていていらいらしたのだが、会社で部下に社員研修とか教育ということをやり、自分はその教育者として適性があるなどとうぬぼれているのだが、プロの教師というのは生徒もしくはその保護者から金をもらう側の人間であって、自分はただ組織に雇われているだけなのだが、そういう弱い立場で預かった生徒を厳しく教育ししつけなくてはならず、そこが一番デリケートで難しいのである。

会社の教育というのはつまりは業務命令と変わりないし、生徒は金を払うのではなくてもらう立場だし、教師は上司であるから、生徒の立場は極めて弱い。そういうシチュエーションで教育効果が上がるのは当たり前だが、そんなものはアカデミズムでもなんでもない。まして「プロの教育」というものではない。多くの場合は教育しているのではなくて逆に伸びる芽をごりごりすりつぶしているだけなのだ。

いばりちらしていじめても伸びしろがある人間は勝手に伸びるのであり、それは教育者が偉いせいでもなんでもない。たんに反面教師にされているだけのことだ。

日本は結局は、社員教育というものを過信していて、新卒の学生に求めるのはそういう社員教育に耐えられるようなメンタリティなのだ。日本でスキルで求人しているのは派遣か中途採用しかない。大学生がいくらスキルを身につけても下手するとそれは邪魔無駄扱いされかねない。だから新卒もそれに対抗するために不本意ながらできないこともできると言い、できることをあまり自慢してはならない。会社の言いなりになれますよと言わないと採用されない。スキルを生かせるのは一度新卒で入社してどこか別の会社に中途採用で転職するときくらいなのだ。

そんなばかげたことをするくらいなら最初から企業がピンポイントで求人を出してピンポイントで採用すればいいのにと思う。そして自分に適した会社を見つけるまでどんどん転職できるようにすればいいのだ。

ともかく新卒は未熟なのに限る。青田刈りしておいて自分たちで育ててやったと言いたいのだ。昔、藤原氏が幼い天皇を即位させて恩着せがましく大臣のポストを要求したり自分の娘を押しつけたりするのと何も違わない。ほとんどすべての産業と職種が未だにそんな状態にある。将来有望そうな若いやつをみつけて目をかけてやる。そのためには世の中が村社会の方が都合が良い。自分の縄張りで部下を出世させる。部下も縄張りの中でしか出世できなくなる。そしていつまでも閉鎖社会、閉じたコミュニティが世代を超えて温存されるのだ。その縄張り自体が、社会の変化とともに縮退してなくなるまでその連鎖は終わらない。

会社も経営者にしても、景気の良いときは気前よくふるまい、悪くなると緊縮する。要するに何の経営判断もしていない。そんなものは判断ではない。そんな経営なら誰にだってできる。景気の良いときに予算を引き締めて無駄を省き、将来のための投資に回すとか、景気が悪ければできる範囲で重点的に資金を配分するとか。根本的に組織を再編成するとか、良い部署と悪い部署、良い人材と悪い人材を選別して、良いところにさらに金をかけ悪いところには金を減らす。それを率先してやるのが経営者というものではないのか。何のために経営権を持っているか自覚があるのか。日本の経営者は結局何をやっているのかさっぱりわからないことがある。たまたま戦後景気が良かったから何事もうまくいっただけじゃないのかとさえ思う。

加後号

いわゆる加後号というものは、後一条天皇から始まっている。これは系譜を見ると明らかなように、村上天皇の皇子に冷泉天皇と円融天皇があって、ここで皇統が二つに分かれてしまっている。円融天皇を冷泉天皇の皇子の花山天皇がつぎ、花山天皇を円融天皇の皇子の一条天皇が継ぎ、一条天皇を冷泉天皇の皇子の三条天皇が継ぐ、といった両統並立状態だ。これはまずいというので、三条天皇を継いだ一条天皇の皇子には後一条天皇という追号がおくられた、後一条天皇が一条天皇の正統な後継者だ、という意味合いが込められているのだろう。それはわかる。

しかしその後がもうわけわからない。後朱雀天皇は朱雀天皇の直系子孫ではないし、五親等も離れている。後冷泉天皇も後三条天皇も円融天皇の系統であって、冷泉天皇の子孫ではない。どうもこの道長・頼通の時代に朝廷の原理原則というものが乱れきっているように思われる。

新井白石は後三条天皇がお気に入りである。蝦夷征伐を行い、記録所を置いて荘園を整理した。しかしその後の鳥羽天皇や白河天皇はもうだめだ。

荘園ばかり増えて国司は任地に赴きもしない。国の直接財源は百分の一ほどとなり、勝手な地方自治状態になっている。鳥羽天皇や白河天皇も自分で荘園を持っていたから富裕だっただけであって、きちんと国の経営をしたわけではなく、そのツケが後白河天皇の時代に保元の乱やら平治の乱やら源平合戦となって噴出した、新井白石はそう考える。

結局古代律令制というのは後三条天皇のときにすでに死んでいた、というわけだ。

中国では趙匡胤が統一国家宋を作り、歴史上世界的に中国が最も先進的な時代を迎えていた。中国が工業も政治も軍事力もすべてにおいて世界に優越してのは宋のときしかない(宮崎市定の受け売りである)。宋学という当時世界最先端の中央集権的な政治思想が当然後三条天皇の時代に日本に流れ込んできただろう。道長タイプの政治家とは違う実務的で有能な官吏が、日本も宋のようになればよいと考えたに違いない。そういう高級官僚は後白河法皇の時代にも、何人も現れている。要するに私営地を減らして国営地を殖やし、国の財源を確保して、健全な国家経営をしようという、ごくまっとうな、つまり現代的な発想をする人たちだ。だがそういうまともな官僚たちは、はじめに藤原氏に、次には平氏につぶされてしまい、結局源氏を経て北条氏に政治の実権がうつってしまった。

新井白石は高級官僚だから一民間人の頼山陽とはやはり発想が違ってくる。天皇と朝廷が国を経営しなくなったのがまず悪い。後三条天皇以後はもうむちゃくちゃで「政道を行はるることことごとく絶えはてて」「日本国の人民いかがなりなまし」という状態に至った。
だから頼朝が出て北条氏が出て賤臣の分際で国の政治を執り行った、ということになるのであり、白石自身が感じていた為政者側の責任感というものから、そういう考え方に至ったのであり、至極自然だと思う。

後三条天皇は皇太子時代が長く藤原氏を外戚とせず、三十代半ばの壮年期に天皇に即位した。これだけのことからでも、その志は察しえよう。

後三条天皇の号は母親が三条天皇の皇女(道長の孫娘)であるからおくられたものであろうか。つまり藤原氏の血縁関係の方が皇統よりも重視されたということか。

お玉が池

1450年の江戸(太田道灌江戸城築城時)
とか
1590年の江戸(家康入府時)
などを見るに、
まあ、これも完全な復元ではないにしろ、
昔、上野と浅草の間は広大な沼沢地であり、とうぜん町屋も田畑もなかったわけである。

不忍池から流れ出た川はいったん姫ヶ池という池に入って、それから北上して洗足池へ入り、さらに入間川(今の荒川)に入っていた。
姫ヶ池は現在の蔵前だ。そこにかつては不忍池よりも大きな池があり、周りは湿地帯だった。南に鳥越神社の建つ高台があるのみ。

浅草は細長い砂州の上にあった。
(古)利根川が運んでくる膨大な土砂が堆積したものであり、鹿島灘の大洗海岸や浜名湖やサロマ湖のような構造になっていて、
砂州が内海を塞いでいたわけだ。
浅草寺の由来の真偽はともかくとして、古くからここに寺があったのは間違いなく、
ということはここも鳥越神社と同じく利根川の洪水や高潮でも水没しない程度の高台にあったことを意味する。

家康以来、これらの洗足池や姫ヶ池は急速に埋め立てられていく。
神田川を東へ流すために駿河台を開削して出た土砂などが埋め立てに使われたのだろう。
吉原が1657年明暦の大火後に浅草裏に移転するが、そのときにはもう洗足池があらかた埋め立てられていた、或いは、
埋め立てる真っ最中だったのであろう。

上野と浅草の間というのは便利な土地であるから、急速に町が作られていったはずだ。
実際にはここには何百という寺ができ、墓ができた。寺と墓の密集地となった。
[江戸末期の古地図](http://onjweb.com/netbakumaz/edomap/edomap.html)でみると、
現在の浅草通り沿いはびっしりと寺である。
とにもかくにも見渡す限り墓と寺だったのであろう。
喜世が住んでいた唯念寺は浅草通り沿い南にあり、
新井白石が一時期住んでいたと思われる報恩寺は浅草通りをはさんで北側すぐにある。
唯念寺は今も同じ場所にあるようで、そこから報恩寺は直線距離で100mくらいしかない。

これらの墓や寺は維新や震災、戦争などを経て、だんだんに郊外に移っていき、その後にみっしりと町屋ができたのであろう。
今の浅草からは想像できない。

お玉が池というものが今の秋葉原の神田川の反対側内神田にあったというのだが、比較的初期の
[元禄時代の地図](http://www.library-noda.jp/homepage/digilib/bunkazai/ezu/08sub.html)
を見ても痕跡もない。
このお玉が池とか桜が池というのはつまりは姫ヶ池のことではなかろうか。
しかし神田川開削と同時に急速に埋め立てられて元禄の頃にはとっくに消失していたのだろう。

お玉が池跡として玉姫稲荷という小さなほこらが岩本町2丁目5番にある。
地形的にここに池があってもおかしくはないが、こういう祠は移転することも往々にしてあるわけで、
ほんとにここに池があったか、それもいつまであったのか、大きさはどれくらいだったか、まるでわからない。
北辰一刀流の道場があったかしれんが、
千葉周作は江戸後期の人だから、その時代にお玉が池があった可能姓はゼロだろう。

古来風体抄

中世歌論集でも少し書いたことだが。

wikipedia などによれば、古来風体抄は式子内親王が俊成に依頼して書かせたものであるという。しかし俊成の息子の定家が書いた歌論書ですら、断片的で短いものばかりであるのに、俊成がこれほどまとまった著書を残したとはとても思えないのである。また、俊成の歌を見るに、どれも軽妙で、感覚的で、芸術家肌の歌ばかりであり、学者的な人では決してなかっただろう。

式子内親王の依頼というのもどうにも腑に落ちない。これは、定家の後の人たちが、二条派歌論を権威付けるために俊成の名で書いたものではなかろうか。そう考えればこのめんどくさくもややこしい歌論の意味がわかる。

俊成は91才まで生きたのだが、古来風体抄を書いたとしたら80代後半という、当時としてはとてつもない高齢であり、文章が書けるはずもない、と思うのだが、どうよ。

そうだな、冒頭の、「やまとうたのおこり、そのきたれることとをいかな。」というのが、歴史的仮名遣いが間違っているし、俊成なら「とをい」「をのづから」「かきをき」とは言わず「とほき」「おのづから」「かきおき」と言うと思う。ひょっとすると相当後世のものかもしれん、とも思われる。

それに、「六義」「天台止観」だのと、定家や後鳥羽院ですら言わぬような、漢学臭く仏教臭いことを論じるだろうか。極めて怪しい。京極為兼くらいの時代の論法ではなかろうか。下手すると為兼本人か、京極派の誰かが書いたのではなかろうかというくらい似ている。

追記:そうかもしれないしそうじゃないかもしれないとしか言いようがないな。

イギリス王位継承順位

イギリス王位継承順位。男系でも女系でも良く、継承順位の下位のほうには、よその国の王とかも含まれてしまう。だから、継承戦争で、王様がブルボンからハプスブルクになったりハプスブルクからブルボンになったりするわけだ。

その王位継承(領地などの財産相続)の法律の解釈で戦争がおきてそれが継承戦争。やれやれ。

王の姓名

現在のスウェーデン王の名前は、カール16世グスタフであり、その前はグスタフ6世アドルフだった。明らかにグスタフもアドルフも姓ではない。ベルナドッテ朝とのことだが、ベルナドッテも姓というわけではなさそうだ。北欧の王の名はこのように即位前は名A・名B・名C・・だったのが、即位すると名A・X世・名Bとなる例が多いようだ。

わけわからん。もしかすると、いや、たぶん確実に、西欧の人名には姓という概念が無いか、希薄なのだろう。姓がないから、親と同じ名前を子につけたがる。名が姓を兼ねる、もしくは名がどの親の子かを表している。ある意味、極めて原始的な名前の付け方だ。で、それでは紛らわしいから、息子の名前が父や祖父やご先祖様までずーっとくっつけて組み合わせたような長い名前になってしまうのだ。東ローマには姓(というか王朝名)というものが一応あったような気がするが、もしかすると過去にさかのぼって学術的に王朝名を決めたのかもしれん。

ああもう、わけわからん。

アラブ人の名前が、子の名 ビン(イブン、ベン等とも) 父親の名、となっている方がまだ整然としているわな。そういや、中国人には姓があるがそれは中国が典型的なエクソガミー(外婚)社会だからだ。というか、エクソガミーがないところには姓もないか、希薄なのかもしれんな。

そうかそうか、昔、中国には、姓だけがあり、姓は女系で、氏は官位だったと。姓をもってたのは貴族だけだったと。なるほど。しかし、トーテムとかエクソガミーは、その由来は宗教が発達する以前の禁忌(タブー)であり、未開社会に固有なものであるから、貴族か庶民かというのは関係ないはずだ。だから、最初、中国にトーテム(母系で継承され、同じトーテムに属する者どうしは性的に交われない byフロイト)の部族があって、それがなにかの理由で支配階級(貴族)となって、それがだんだんと一般化していったのかもしれんな。

日本のウジ・カバネも一種の官位だわな。官位が世襲されてウジとなり、ウジの下の階層がカバネ。後の世では、土地の領主となってその土地の名を姓にしたりとか。

たぶん、こういうことだ、最初のグスタフとかアドルフとかが王朝の中で何番目だったがで番号を付ける。しかし、たまには二番目の名前まで一致していることがある。たとえば、フランツ・ヨーゼフとかヴィットーリオ・エマヌエーレとか。そうすると、フランツ1世ヨーゼフとはせずにフランツ・ヨーゼフ1世となり、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世となる。カール16世グスタフというのも、もし仮に、昔、カール・グスタフという王がいたら、カール・グスタフ2世とかになったのじゃないかと思うが、カール・グスタフ16世になるやもしれん。

あああ、わけわからん。