内藤大助だと思うが、ボクシングの世界チャンピオンがテレビに出ていて子供のおやつに煮干しと大豆を食べさせていて、あーやはり、炭水化物を採らずできるだけタンパク質を取るには(しかもできるだけ安く)、煮干しと大豆がいいんだなと思い、食べる煮干しと素煎り大豆をスーパーに買いに行った。

私の場合、痩せることというよりは、コレステロール値を下げることが目的でダイエットしているのだが、 医者には卵や牛乳などコレステロール値が高い食べ物は避けた方が良いと言われてその通りにしていたのだが、 一向にコレステロール値は減らない。 体験的には私の血中コレステロール値はほぼ体重に相関しており、 体重を減らすためには筋肉を落とさないようにせねばならず、 ならば良質な動物性タンパク質を含む卵はむしろ毎日食べなくてはならないのではないかと思い、 その代わり炭水化物を採らないようにしていたら自然と痩せてきて、 コレステロール値も下がってきた。

タンパク質は採りすぎても意味が無いとか、運動して筋肉をつけなきゃ意味が無いなどというが、 私の場合は、多少採りすぎるくらいにタンパク質を取って、筋肉を落とさないよう、基礎代謝を減らさないようにすることが、 体重を減らすのに必要だったようだ。

どうすれば体重を減らせるかというのは人それぞれで、 毎日炭水化物ばかり食べていても痩せている人はやせているわけで、 こうすれば痩せるこれを食べれば痩せるというのはどれもこれも嘘っぱちなわけで、 どうすれば痩せるのかということは、人それぞれ試してみるしかないのだと思う。 私の場合は高タンパク質、少炭水化物な食餌を採るのが結果的には効果的だった、と言えると思う。 この方法はしかし今では割と一般的なダイエット方法と言えるのではなかろうか。

米や麺を食べないのは確かにつらいのだが、 日本人として米や麺を食うのは当たり前だという生活習慣自体がどうもあやしいと思えてきた。 子供や若者が米を食うのは良い。彼らがスリムなうちは。 しかし今時、ぽっちゃりした子供が多いのはやはり炭水化物を取り過ぎなせいだろう。

晩酌で大人は米を食わないものだとされてきた。 米を食わずおかずだけ食べるとは不思議だなと思ったのだが、 今から思えば理に適っている。 大人になったら米なぞ食わねばいいのだ。せいぜい代わりに酒を飲めばいい。 昔からみんなそうしてきたのにはわけがあったのだ。

もっと早く気付いていればよかった。

最近の主食は豆腐か豆乳。ソイジョイ。野菜と肉。 炭水化物を取りたくなったらたまにオートミールを食べる。 とにかく何もなくて腹が減って頭もふらふらしてきたらフルーツグラノーラを食う。 あとドライフルーツをつまみ代わりに常備。

食べ物の中では炭水化物が一番安い。 その炭水化物をとらなきゃ金はかかる。 金がかかるが仕方ない。 豆腐や豆乳はさほど高くないから安くすませたきゃともかく大豆を食うに限る。

スーツを着る機会が多ければずっとスーツを着ていたほうが楽だ。 スーツを着たり着なかったりするのが一番めんどくさい。 ともかくスーツを着なくてはならないことが増えたので、 いきなりスーツを着ても似合わないので、ふだんからどういうスーツを着ればいいかってあれこれ試行錯誤している。

007シリーズを見てると、昔はみんなあたりまえにスーツを着ていた。 M はもちろん Q も着てる。 Q のスーツ姿もまあまあだ。 ショーン・コネリー、ロジャー・ムーアは基本的にスーツ。

しかし、ダニエル・クレイグはほとんどスーツを着ない。 少なくとも一作目は着ていない。 カジノで蝶ネクタイ締めてるくらい。 あー。ラストで少し出るのか。 どちらかと言えばあまりスーツが似合わない人だわな。 彼は、暖色系のほうが似合うと思うのだが。

007でも、ゴッドファーザーと同じで、マフィアは黒か茶のシャツを着ている。 ネクタイ、スーツ、シャツを茶色から黒の色で揃えている。 日本のヤクザはこういうコーディネートをしないから(派手なストライプ柄とか原色の組み合わせということが多いかもしれない)、ピンとこないが、茶系統で揃えたスーツというのはヤバイメッセージを含んでいるから、一般人は着ないほうがよい、ということになる。

ロジャー・ムーアの初登場は、グレイの上着、こまかいストライプのシャツに、割と派手な赤いネクタイ。 まあ、上着とシャツを地味に押さえてネクタイだけ派手にしたパターンで、私も割と好きだが、 赤いネクタイはなかなか難しいよね。勇気がいる。

髪の毛も七三分けにしようかと考えている。 いまさらかという気もしなくはないが、年を取るとそういうのが逆に似合うように思える。

ヒゲをはやすかどうか思案中。 生やしたとしてもバリカンで3ミリにそろえるつもり。

クレイトス殺害

アレクサンドロスがクレイトスを殺害する場面、簡単に描けるかと思っていたが、なかなか難しい。 一番の難所かもしれない。

アレクサンドロスのザグロス山脈越えは、まあわりとどうでも良い。 森谷公俊著『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』を読んだのだが、 結構高齢になってから、科研費もらってザグロス山脈の現地調査したというのはすごいが、 実際どのルートを通ったかというのは大した問題とは思えない。 別にどのルートでも結果に大差ないように思える。 アリオバルザネスというペルシャの将軍との戦い、いわゆるパールサ門の戦いだが、これも大したものだったとは思えない。

だが、アレクサンドロスがクレイトスを殺す。 簡単なようでこれがなかなか書けない。 ただ酒に酔って勢いで殺したのではない。 アレクサンドロスという人がどんな人だったのかを正確に把握してないと書きようがない。

森谷公俊氏はアレクサンドロス研究に関しては日本の第一人者と言える人だろう。 だが私は彼といくつかの点で見解が異なる。 アレクサンドロスのバビュロン入城や、パールサプラ略奪に関しては、私はギリシャ人がペルシャ人に報復したのではなく、 バビュロニア人がペルシャ人に報復したのであり、アレクサンドロスはバビュロニア人に加担、あるいは譲歩したのだ。 パールサ侵攻はバビュロン入城の交換条件のようなものであったろうと思う。 バビュロニア人だけでなく、アッシリア人も、スーサのエラム人も、ペルシャに恨みを抱いていた。 パールサを焼かねばならぬと考えたのはマケドニア人というよりは、それらの諸民族であったはずだ。 パールサ侵攻はそれゆえにアレクサンドロスが自ら望んで行ったものではないと思う。 パールサはアレクサンドロスにとって寄り道にすぎない。 パールサに長居したのも、ペルシャ高原を冬に移動するのは困難だったというだけのことだろう。

マケドニアやトラキアやオレスティス、エペイロスには山が多く、山羊や羊を飼う遊牧民が多く住んでいたはずだ。 ディオドロスの逸話は面白い。ザグロス山脈を越えたときに現地の羊飼いに道案内を頼んだ。 身軽な羊飼いにしか通れない山道を通ったというのは、つまり、マケドニア兵はもともとそういう山岳地帯に慣れていたということだろう。 だからイリュリアやゲタイなどトラキアの奥地に住む原住民とも互角に戦えたのだ。 アレクサンドロスにとって、ペルシャ王と戦うよりも、ザグロス山脈に住む山賊と戦うほうが面白かったかもしれない。

スーサも書こうと思ってなかなか書けない。スーサはいかなる町であったのか。 スーサについてはドイツ語のウィキペディアの記述がやや詳しい。スーサには城壁がなかった。 ダレイオス大王の王宮があり、城下町(Künstlerviertel)があっただけだ。 ペルシャに征服される前には当然スーサにも城壁はあったのだろう。

あと書かなきゃならないことは、 パールサ侵攻、ダレイオス三世の死、ベッソス捕獲、バクトリア征服。 このあたりでクレイトスは殺害される。 バクトリアでラオクシュナ、アマストリー、アパマなどのペルシャ王女らを確保する。 それから第一巻に書いたガンダーラ、インダス川、ゲドロシアへ続き、スーサに帰ってきて、ハルパロスらと一悶着あって、結婚式を挙げる。 スーサの合同結婚式より後のことを書く気は今のところない。

アレクサンドロスはなぜバビュロンを王都に定めたのだろう? 当たり前のようだが全然当たり前じゃない。 別にバビュロンにいたかったわけではあるまい。 たまたまバビュロンでアレクサンドロスが死んだので、バビュロンが王都であることになったのではないのか。

ともかく、第五巻までで書くのをやめてしまっても別に大して支障はない。 とはいえ、完結させた方が読者にとっては便利かもしれない。

アンティオキア湖。イッソスからタプサコスまで。

アンティオキアはセレウコスの父アンティオコスにちなんでセレウコスが建設した都市だが、 もともとここには[アララハ](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%A9%E3%83%8F)という古代都市があったが、セレウコスの時代には廃墟になっていたと思われる。

アンティオキアはオロンテス川が流れ込み、流れ出す、アンティオキア湖のほとりにあった。 今は灌漑されて小さくなったが、かつてはもっと大きな湖であったはずで、したがって、イッソスからハルペへ行く途中はこの湖を迂回せねばならなかったはずだ。

google maps で地形を表示すると真っ平らなので、かつてこの平原が湖であったことは明白である。

イッソスからアンティオキア湖まではかなり急峻な山道を通らねばならない。

オロンテス川は大地溝帯の北端に当たっていて、このアンティオキア湖はその地溝帯の谷間にあったのである。 地形的にはイスラエルの死海やガリラヤ湖と同じ。

タプサコスの渡し場のあたりは、地形図で見ると平地ではなくて山地になっている。 エウフラテスの川幅が狭まっている箇所ということだろうと思う。 川の中に中州というか島がある。 ここに舟を並べて舟橋にして渡ったのであろうと思う。

クセノフォンの『アナバシス』に、 [ミュリアンドス Myriandros](https://en.wikipedia.org/wiki/Myriandus) という地名が出てくる。フェニキア人が住むシリアの海辺の町。ここはイッソスのアレクサンドリア、今のイスケンデルンである。 商業の中心地とある。

ミュリアンドスを出て行程4日、20パラサンゲス(1パラサンゲスは30スタディア、5.4km)でカロス川についた、とある。 このカロス川というのは、今のアレッポの町の中を流れる[クウェイク(Queiq) 川](https://en.wikipedia.org/wiki/Queiq)であるという。 従ってこのカロス川が流れる町はアレッポ、古代の呼び名で Khalpe となる。 ハルペの住人は魚と鳩を食べないとある。 これはおそらく魚はダゴンの使いであり、鳩はイシュタルの使いであるからだ。 ダゴンはもともとはフェニキア人の神であり、それもハルペ南西55kmにあった[エブラ](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%96%E3%83%A9)という町の主神であったろうと考えられる。 ハルペ住人がダゴンを信仰していて魚を食べなかったのはほぼ間違いないように思われる。 日本語のウィキペディアには、ダゴンはヘブライ語由来だと書かれているのだが、そんなことはない。 ダゴンはクトゥルフ神話で有名だが、これはラヴクラフトが適当に考えた世界観である。

鳩を食べないというのは、おそらくイシュタル信仰のためだ。イシュタルは鳩が好きで、自らも鳩の姿をしている。 それゆえイシュタルの羽根と足は鳩のものなのだ。

クセノフォンの『アナバシス』はヘロドトスの『歴史』に比べると描写がずっと具体的である。

カロス川から行程5日、30パラサンゲスでダルダス川に着くとあるが、 これは al-Bab という町を流れる[Dhahab 川](https://en.wikipedia.org/wiki/Dhahab_River) であろう。

shutter island

シャッター・アイランドをみたのだが、実に後味の悪い映画だった。 ディカプリオ主演なら、レヴェナントのほうがずっと好きかな。

ミステリー、謎解き、最後のどんでん返しで、高く評価する人が多いようだが、どうなんだろうかこれは。 冒頭のシャッターアイランドの描写やダッハウ収容所のシーンなどはあまりにもどぎつく、煽りすぎているように思える。

除夜の鐘

[除夜の鐘はなかった?~江戸町人の研究](http://door2summer.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-298e.html)

除夜の鐘というのは、そんなに古いものじゃないと思うし、 無理に残すほどのものではないと思うなあ。

入相の鐘とか暮れ六つの鐘というものはあっただろう。

除夜の鐘というものができた当初から108回も叩いてたわけはないと思う。 108回なんてただのこじつけに過ぎない。叩きすぎ、うるさすぎなんだよな。

除夜の鐘にしろ年越し蕎麦にしろ、むやみやたらと日本の伝統というものをありがたがるのは決してコンサバティブでも保守でもない。 ほんとうに古くて良いものだけをありがたがるのが正しいコンサバティブというものであり、 そのためには、必ず、それはほんとに古いものなのかどうか疑ってみる理性が必要なのだ。

除夜の鐘はフェイクコンサバティブだと思うね。 あんなものはね、冷静に考えればただの迷惑だったことがわかるよ。

歌詠みの死滅

和歌を詠み始めの頃は、やまとことばだけで、五七五七七に詠むのがとても難しいと感じる。 だけどその習慣を10年、20年と続けていくうちに、自然に歌が詠めるようになる。

今私はシラフのときにはほとんど歌を詠まないが、なぜか酒に酔って知性や理性というブレーキが利かなくなると歌を詠む人になってしまった。 そして詠んだ歌を忘れて翌朝、ツイッターか何かに書き込んだのをみて、 こんな歌自分で詠んだんだなと驚く。

私たちは考えてしゃべるのではない。 歌もそうだと思う。 自然に詠めるまで訓練することが大事なのだ。 そこまでいけば歌など勝手に詠めるのだ。 昔のうまい歌詠みたちもみんなそうだった。 うまい歌を詠もうと思って詠むのではない。 歌というものはほとんど無意識に詠まなくては良い歌にはならない。 良い歌を詠もうと巧んではならない。 そんな歌はたいてい出来損ないだ。

もちろん酔っ払って下手な歌を詠むこともある。 あとからみて陳腐だなあと思うことも多い。 しかしシラフのときには決して詠めない、詠まないような歌を詠んでいて我ながら驚くこともある。

そして、いろんな人たちのブログやSNSなど見てて、 やまとことばだけで、五七五七七に、きちんとした和歌を詠んでいる人が、 私以外にはもはや一人もいないのではないかという気がしてならない。 まだきちんと平仄あわせした七言絶句などの漢詩を作る人のほうが多いように思う。

きちんと和歌を詠む人、桂園派の生き残りは柳田国男くらいまでだった。 今の人たちは昔の人たちのように和歌を詠むことなんてできないとはなから諦めている。 佐佐木信綱あたりがそう決めてしまった。 佐佐木信綱ですら詠めないのだから私たちも詠めるはずがないと思い込んでしまった。 諦めるから詠めないのだ。 一つの伝統が尽きようとしている。死に絶えようしている。 このままではほんとうに日本人は和歌を詠めなくなってしまう。 実に恐ろしい。

ユネスコ改革

【社説】米のユネスコ脱退は正しい第一歩。

非常に興味深い記事だ。 原文は英語で有料会員制ですでに読めないのだが、現時点でまだ公開されている和訳を読めばほぼ十分だろう。

イリナ・ボコヴァはブルガリア共産党員(ブルガリア共産党は1990年にすでに解散)で、 モスクワ国際関係大学の卒業生で、 2009年からユネスコ事務局長であり、 2016年の国連事務局長選挙にはプーチンの支持で立候補している。 国連本部はニューヨークにあるが、 ユネスコはパリにあってアメリカのコントロールが効かない。 ボコヴァが2011年にパレスチナ自治政府のユネスコ加盟を認めたことから、 米国はパレスチナを国家として受け入れる国連組織への資金拠出を禁じる法律を発動。 別に金がもったいないから拠出しないことにしたわけではないのだ。

また、ユネスコはシリアのアサド政権を支持しているとも言っている。

要するにユネスコはパレスチナにしろシリアにしろ、ことごとくアメリカに楯突いており、 ユネスコはロシアに操られているといってもよい状態なのである。

ユネスコがパレスチナの洞窟を世界遺産に登録したことでもはやアメリカはユネスコを容認できなくなった。 まったく同じことが日本でも起きている。 日本も世界遺産なんてものに依存して商売するのはやめたほうがいい。

日本は勇気を持って行動すべきだ。 ユネスコを脱退する必要もない。 拠出金も払ってよい。 世界遺産をすべて辞退するだけでよい。 それが今のユネスコに対する抗議となる。

日本はただ、観光客目当てで世界遺産登録に躍起になっているだけだ。 ただのさもしい根性にすぎない。 「教育」「科学」「文化」の名のもとに金もうけがしたいだけにすぎないのだ。 だからこの際、世界遺産登録は返上してしまえ。

それでも観光客があとからあとから日本に押し寄せてくるだろう。 それだけの魅力が日本にはあるからだ。 そうしたら多くの国がユネスコを見限り、 ユネスコには利権が集まらなくなる。 そうしてやっと汚らしい政治家たちは去り、まっとうな「教育」「科学」「文化」の場に戻る。 日本がユネスコを改革するとはそういうことを言うのではないのかな?

エウメネス5

11月30日に出版開始してそれからさらに書き足してしまい、211枚まで増えてしまった。 私の場合どうしても出版した後にも修正したり書き足したりしてしまい、 しかもキンドルは改版するのが難しいから、出ました、とはなかなか宣伝できない。

でも読んでもらいたい気持ちはあるから、ツイッターなどで告知したい気もする。

一応完成はしているが未完成なのだ。

今あらためて『エウメネス1』を読み直すと幼稚だ。 『エウメネス』を最初に書いたのはもう4年前だ。 あの頃はアッリアノスの『アレクサンドロス大王東征記』だけ読んで、イッソスとガウガメラはある程度知っていたが、 その後のゲドロシアのところが面白かったので、そこを切り取って書いたのだった。 今『エウメネス5』を書いているが、これはアリアッノスだけでなく、ヘロドトス、トゥキュディデス、クセノフォンなどいろんな歴史書を少しずつつまみ食いして補完して書いているのである。 もちろんウィキペディアとかペルセウスとかその他の文献も見ているが。 当時と今では知識量がまるで違う。 私は4年前、ほとんど何も知らずに書いていた。 4年前の私に『エウメネス5』を読ませたらどんな気持ちで読むだろうか。 まったく予測がつかない。

『エウメネス1』の頃の私はわりと読者目線に近かったと思う。 ふつう読者はエウメネスを知らないからエウメネスを知ろうと思ってエウメネスの本を読むわけだ。 私もエウメネスを知らずにエウメネスを書いていた。

今の私は読者目線にはなれようがない。著者としてしかエウメネスを見れなくなってしまっている。 どちらが良いともいえない。 著者としては今の私のほうが優れているはずだが、読者にとっては、自分に近い目線の人が書いたもののほうが面白いはずだ。

『エウメネス1』を書いたとき私は傑作を書いたつもりでいたが、今見るとなんとも物足りない。 あの頃はあの80枚をものすごい努力で書いたのだった。 今は200枚くらい平気でかける。 いろんなエピソードを挟んだり、架空の人物を登場させることで、いくらでも分量を増やすことはできるようになった。

Blu-ray

[Kill Bill 1 & 2](https://www.amazon.co.jp/dp/B007JNWQZS/)。 Blu-Ray 2枚組で2000円切る。 安くなりましたなあ。 DVDは買ってあるんだが、画質がいまいちなので、買い換えようかと考えている。

[007 ブルーレイコレクション (24枚組)](https://www.amazon.co.jp/dp/B075M283T3/) 驚異的な価格だよなあ。

007はイギリス映画で、ハリウッドがぶつけてきたのがミッションインポッシブルじゃないですか。 私、ミッションインポッシブルが大嫌いなんだけど、それは毎回、いきなり主役のトム・クルーズのアクションから入るところなのよね。 主役メイン、キャッチーなら良い、売れりゃいいという戦略丸見えじゃないですか。 それで仕方なく007もダニエル・クレイグあたりからそのやり方でやるようになった。

007もドクター・ノオなんてのは、最初盲目の三人組が殺しをやるところから入るんで、 それでドクター・ノオの機密文書を入手するわけ。 じゃあドクター・ノオって誰だろう、みたいなじんわりと引き込む出だしなわけじゃないですか。 奥ゆかしいよねえ。

それにひきかえハリウッド映画の下品さときたらもう。

ダニエル・クレイグはトム・クルーズみたいな美男じゃないよね。 そこがやはりイギリス的奥ゆかしさというか、ひねりだよな。 いきなりアクションから入るけど、ハリウッドとは何かが違う。 トム・クルーズだったら拷問受けてちんこを鞭でひっぱたかれたりしないだろ。

[海がきこえる](https://www.amazon.co.jp/dp/B00WFNV9VO/)。 一応ブルーレイ。

年を取ったせいで怒りっぽくなっているのは間違いない。

酒を飲んだときに特に感情が振れすぎる気がする。 記憶の無いときに何をしでかすか怖くてしかたない。

それと関連してなのだが、どこに何があるか完全に把握してないと不安で仕方なくなって、 ささいなもの(折りたたみ傘や筆入れなど)でもなくすことが恐ろしい。 一つなくすときには他のものもなくしている可能性があるからだ。

それでまあ、 社会を変えようとか自分が所属している組織を変えようなんてことはこれからもう一切考えずに、 なにごともたにんごとで受け流して生きていこうと思う。 何か腹が立ったり反論したくなってもやらない。 正義感とか使命感などというものは怒りっぽくなった年寄りには害悪でしかないのだ。

最近、スーツを着てネクタイを締めていると精神的に楽なことに気付いた。 体を締め付け拘束していること、 また、世間一般から見て真面目なかっこうをしていることによって、 自制心が働きやすくなるからではないかと思う。

外へ出るとき、仕事へでるとき、スーツを着てネクタイを締め、何事にも心を動かさず、 後に残さず、内に溜めず。 そうやって何事も穏便に、無難に、無気力に生きていけば良いのではないか。 そしてネクタイピンや腕時計や靴に凝ろうと思う。 紳士のかっこうをして紳士になりきるのだ。