共謀罪

「……田舎の県警なら昭和の任侠映画さながらにやくざと警察の泥仕合みたいな捕り物やってるじゃん、でも、東京のど真ん中じゃあもうそんな刃傷沙汰は廃れちまった。都下じゃ町田辺りでまだやってるがね。ほとんどは水面下の情報戦。僕らが「マルサの女」や「名探偵コナン」なんか見て喜んでるうちに、日本の反社会勢力は外国勢力と混血しつつ進化した。犯罪統計みてりゃ一目瞭然さ。殺人などの凶悪犯罪は激減した。しかし知能犯罪は増え続け、国際化し、ステルス化した。

で、佐々井は、我々がその名も知らぬシンジケートから、我々の知らないルートをたどって、報酬を得てるんだろうって推測できるわけ。」

「でも、それがほんとだとしたら、佐々井が得ている利益は国税局では把握できない。」

「そうなんだよ。みんなでわーっと踏み込んで、マルサ手帳と捜査令状見せて、でかいハサミでドアのチェーン切って、あちこちで一斉に家宅捜査して裏帳簿を押さえ、段ボール箱に詰めてトラックで押収とか、そんな時代がかったやり方は通用しないんだ、今の時代。テレビ局はいまだに国税局の強制捜査っていうと、そんな絵を撮りたがるがね。

これは『マリナ』に書いたことなのだが、共謀罪に反対しているのは、かつて全共闘とか中核派とかで暴れていた連中だと思うのだが、そういう連中の頭の中は昔の学生運動の時代から何も変わっていないのだろう。そして週刊誌で広域暴力団のドンパチの話なんかを読み、飲み屋のテレビ見ながら政治談義しておもしろがっているのだ。

推理小説、探偵小説、ミステリー、サスペンスなんかも多くはそういう古典的時代設定にとどまっている。まったくいつまでも大岡裁きじゃあるまいし。

『マリナ』は推理小説という形をとった推理小説批判でもあるのだ。というか、最初に死体が出てこないこの小説を推理小説だと思う人はあるまい。死体は最後にちょっとだけ出るのだが、最後まで死人が出ない小説を世間では「推理小説」とは思わないだろう。

現代のマイナンバー時代、共謀罪時代に即して推理小説を書こうというのであれば、推理小説というもの自体がまるきり変わってくる。ステルス化した名も無い国際シンジケートと闘わなきゃならないんだから警察もたいへんだよ。

電子出版無料販売

kwl (kobo writing life) も bwi (book walker) も無料販売はじまった。年末年始はさんだせいで時間かかった。bwi では『妻が僕を選んだ理由』のジャンルが「画集」になっていたため(つまりジャンル指定を忘れたため)、出版できなかった。ジャンル変更して再出版となったが、1週間延びてしまった。なんか変更すると基本1週間延ばしになる。kdp (kindle direct publishing) はジャンルが結構いい加減であとから直してもらったりするのだが、bwi は出版拒否の理由になるとか、なんかなあ。

kdp だと修正して 12時間ぐらいで新しい版を出版できて、年末年始も特に変わりない。アップし損ねたり設定間違っててもすぐリカバーできる。kdp がいかに便利か痛感した。まあ、kwl も bwi も頑張ってるんだろうが。サポート態勢が全然違う。どうも怖くて kwl と bwi は修正できないよ。当面、kdp だけ常に最新版にしとく。

これで kdp でプライスマッチして無料になってくれれば、とりあえずOK。もう無料はとうぶんこの2冊だけでいい。

そんでまあ、『西京極家の秘仏』の続編を書こうかと思っているんですよ。しかも同時に『潜入捜査官マリナ』の続編にもなっている。よくあるパターンだよね。キャラとストーリー使い回すやつ。続編だから読者を誘導しやすいというのがあるし、キャラを一から説明しなくて済むから楽。同じワールドでどんどん続編を量産する。そしてとにかくひたすら読みやすく読まれやすく書く。ストーリーはだいたい決まってる。秘仏は実は贋作でしかも密輸入されたものだった。万世警察署に配属されたマリナは神保町の榎本書舗に聞き込みに訪れる、というものだ。ベタだなあ。我ながらベタだとおもうよ。でもべたべたくらいがちょうど良いんじゃないかな。

その代わりといってはなんだが『エウメネス』シリーズはどんどん難しくしていこうとおもっている。
もともと難しいんだけどね。こっちはとにかくたくさん知識を詰め込むのが快感な人向けに書く。ハルパロスを動かすのがおもしろかったので、それを今度はアリストテレスかディオゲネスでやってみようと思う。オリュンピアスとアルトニスもぐりぐりいじる。しかしそれには準備が必要だ。

ハイジのこどもたち

シャルル・トリッテン著「ハイジのこどもたち」を読んでいるのだが、

アルムおじさんの名はトビアス・ハイムというらしい。
なるほど、アルムおじさんの息子の名前はトビアスだから、その父の名もトビアスである可能性は高い。

トビアス・ハイムはオーストリアで傭兵をしていた。
そのときにマルタ・クルーゼという女性と知り合い、二人の男子を産んだ。
トビアス・ハイムとマルタ・クルーゼは二人して財産を使い果たして、離婚した。
そのときトビアス・ハイム、つまりアルムおじさんは長男のトビアスを、マルタは次男を引き取った。
このマルタが引き取ったほうの子はオーストリアの陸軍大佐となり、クルーゼ大佐と呼ばれる。
クルーゼ大佐の妻はマリーという名で、クルーゼ大佐はパリ駐在武官となってパリに住んでいる。
もしかするとマリーはフランス人かもしれない。
クルーゼ大佐とマリーの間には、ジャミー(ジャンヌ-マリー)、マルタという二人の娘がいる。
ジャンヌ-マリー(Jeanne-Marie)は明らかにフランス女性の名である。

一方で、ハイジはペーターと結婚して、トビアス、マルタリという男女の双子を産む。
トビアスの洗礼名はトビアス・ペーター・ナエゲリ、マルタリの洗礼名はマルタ・ブリギダ・ナエゲリ。
これによってペーターの名前は、ペーター・ナエゲリというのであろう、ということがわかる。

ちなみに名前に「リ」をつけるのは「ちゃん」づけするみたいなものらしい。
初期作品集にも出て来たが、マイエリ、ヨハネスリ、マルグリトリ、などなど。
男の子にも女の子にも付ける。
ベルリ、スヴェンリなど羊の名にも付ける。

「ハイジのこどもたち」の前編「それからのハイジ」によれば、
ハイジはローザンヌの北にあるロージアヌというところの学校でジャミーと知り合い、
ハイジはデルフリで学校の教師になるが、
ハイジがペーターと結婚するにあたって教師を辞め、
後任にジャミーを呼び寄せる、ということになっている。
その学友にして大親友のハイジとジャミーが、実はいとこどうしだった、
というのがこの物語のオチになっている。

一番気になるのは、アルムおじさんがオーストリアで傭兵になった、としていることである。
スイス傭兵がオーストリアで傭兵になることは皆無ではなかったらしい。

[Schweizer Truppen in fremden Diensten](https://de.wikipedia.org/wiki/Schweizer_Truppen_in_fremden_Diensten)

しかしこの時期、オーストリアで傭兵になった記録はない。
そもそもスイスはオーストリアから独立してできた国なので、オーストリアやハプスブルク家の傭兵になるというのは、あまり考えにくい。
本文中 p.176 に

> 当時、ナポリはフランス領だったでしょう

というのがあるが、これはおそらく誤訳だろう。
ナポリは当時ナポリ王国とシチリア王国の同君王国で両シチリア王国と言い、スペインのブルボン家の分家だった。
ブルボン家だからフランス領だと言うのならば、今のスペインもフランス領ということになってしまう。
シャルル・トリッテンが書いたフランス語の原文を読む気にはまったくなれないが、もしトリッテンがナポリをフランス領だと書いたとしたらとんでもない間違いだ(ただしナポリがフランス革命軍に占領され、ナポレオンの兄や妹婿がナポリ王になったことがあった。しかし当時まだアルムおじさんは幼すぎる。それにフランス人が国王になろうとナポリ王はナポリ王であって、必ずしもフランス領になるわけではない。同じ理屈で言えば、今のウィンザー朝のイギリスはドイツ領になってしまう)。

ともかく、スイス傭兵といえば、普通はフランスのブルボン家、ナポリのブルボン家、ヴァティカン、
この三つがメジャーであり、いずれも衛兵として常時雇われていた。
アルムおじさんの時代だと、衛兵としてのスイス傭兵は(上記の記事が完全ならば)ナポリかヴァティカンしかない。
さもなくば戦時に一時的に動員された。
第二次イタリア統一戦争(1859年)ではフランスとピエモンテの連合軍に雇われた。

マイエンフェルト駅が出来たのは1858年である。
鉄道が通ったことによって、それまでのプフェファース修道院に附属していた原始的な湯治場が開発されて、鉄道の近くの、ライン川の川岸まで源泉を引いてきて、ラガーツ温泉が出来たのはそんなに古いことではない (どうも 1868年以降のこと らしい)。
ヨハンナ・シュピリがラガーツ温泉に静養に来たのは1878年以降のはずだ。
で、仮に、最初にハイディが出版された1880年にハイディが5歳だとするとアルムおじさんは70歳。
アルムおじさんの生まれ年は1810年ということになる。
傭兵に行くとして1826年(16歳)から1845年(35歳)くらいまでだろう。
この時期ヨーロッパはウィーン体制で比較的平和だった。
だからバティカンかナポリで平時の衛兵として雇われた、と考えるのが一番無難だし、原作にも言及されているようにナポリであった可能性が極めて高い。そしてオーストリアであった可能性はほぼゼロだ(私はアルムおじさんが第二次イタリア戦争に参戦したとして「アルプスの少女デーテ」を書いた。当時50歳だったことになる。かなり無理がある。時代設定をあと20年ほど後ろにずらして、ヨハンナ・シュピリが未来小説を書いたことにしないといけない。逆に10年ほど前倒しにすることは、不可能ではないが、ナポレオン戦争当時、アルムおじさんは傭兵になるには若すぎる。ちなみに1848年にはウィーン体制が崩壊する欧州革命が起きている。多少時代設定を未来にずらせば、この戦争に動員されたと考えてみることもできる)。

マリア・テレジアの時代にオーストリアがスイス傭兵をウィーンで衛兵として雇ったことがあり、Schweizerhof(スイス広場)、Sweizertor (スイス門) などという地名が今も残るそうだ。
その後再びスイス傭兵を雇ったということは、絶対無いとは言い切れないが、かなり弱い。
或いは、この地名に引っ張られて、トリッテンはアルムおじさんがウィーンで傭兵になった、と考えたのではなかろうか。

ウィーンで子供が二人できて一人だけ連れてスイスに帰るというのも、ずいぶん無理がある設定ではなかろうか?

どうでも良い話かもしれないが、アルムおじさんをトビアス1世、アルムおじさんの子でハイディの父をトビアス2世、ハイディの子をトビアス3世、などと呼ぶのはおかしい。
というのは、アルムおじさんの家系をさかのぼって一人もトビアスという人がいないってことが明らかでなくてはならないからだ。
王侯貴族ならば一応家系が残っているから可能だろう。
或いは領主や国王となって以降、王朝成立後、1世、2世と数えるというのも良い。
ローマ教皇は世襲ではないが、まあ1世、2世と数えるのは自然だ。
しかし家系が定かでない民間人をそういうふうに呼ぶのはおかしい。

ところが歴史の浅いアメリカでは民間人でも平気で1世、2世などという。
彼らの祖先の誰かが、ヨーロッパかどこかで、同じ名前だったかもしれない、なんてことはどうでも良いのだろう。
たとえばマイクロソフト創業者のビル・ゲイツはビル・ゲイツ3世(William Henry Gates III)というらしい。
祖父の William Henry Gates I は 1891年から 1969年まで生きたらしい。
では彼の祖先はどこから来たのか?
彼のGates 家の祖先に William Henry という人はいないのか。
どうせ誰も知らないのだ。

堅信礼の贈り物

ヨハンナ・シュピリ処女作出版の経緯についてはこちらの記事に詳しく記されている。

> Johanna Spyri und Bremen: ein Beitrag zu den schweizerisch-hansestädtischen
Literaturbeziehungen und zu den schriftstellerischen Anfängen der “Heidi”-
Autorin

後書きに書いた通り。
ほんとはもっとたくさん書きたかったが、あまりに「後書き」が長すぎてもかっこわるいので、
必要最小限しか書かなかった。
中途半端に書いておくとあとで自分も忘れてしまって困るので整理しておく。
> Autor(en): Richter, Dieter

Dieter Richter はドイツ語学者。

> Zeitschrift: Librarium : Zeitschrift der Schweizerischen Bibliophilen-
Gesellschaft = revue de la Société Suisse des Bibliophiles
Band (Jahr): 31 (1988)
Heft 2

「Liberarium」という、スイス愛書学会(?)から出ている論文誌に載っているらしい。

> Die kleine Schrift kostete in Bremen sechs Grote (30 Pfennig) und wurde im Kolportagevertrieb auch von Pastor Vietor selber verkauft.

その小さな著作は、ブレーメンで6グローテ(30ペニヒ)で売られた。
また、フィエトル牧師は自ら販売した。
Kolportage は行商、Vertrieb は販売。

出典は

Titelblatt-Faksimile bei J.Winkler, a.a.O., 123. Ein Exemplar dieser Auflage befindet sich in der ZB Zürich.

Titleblatt は製本された本の中に挟まれる標題紙。
当時販売された書籍から採られたコピーということ。
ZB Zürich == Zentralbibliothek Zürich はチューリヒ市とチューリヒ大学共同の図書館。
おそらく記事に掲載されているこの画像のことだ。

vietor



> Das Büchlein ist für 6 Grote zu haben in Bremen bei C. Hilgerloh, am Brill No. 19, und bei Pastor C. R. Vietor, Domshof 27. Bestellungen von auswärts werden durch C.Hilgerloh ausgeführt.

「この小さな本はブレーメンのAm Brill 19番地の C. Hilgerloh で、また、Domshof 27番地の C. R. Vietor牧師から、6グローテで手に入る。国外販売は C. Hilgerloh が行う」と書かれている。
つまり、フィエトルは自ら売り歩いたわけではなく、セールスして回ったわけでもなく、出版社の C. Hilgerloh から分けてもらった本を、自分の教会に置いて頒布していた、ということであろう。
Domshof(教会広場) 27番地はまさにその教会(Die Kirche Unser Lieben Frauen)やらブレーメン市庁舎が建ち並ぶ、市の中心地である。
Am Brill 19 というのはその北西へ1kmほど行ったところ。
ブレーメン中心部はかつて川を挟んで[星形要塞](https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bremen_Old_Map.jpg)
の中にあったようだ。

1280px-Bremen-1641-Merian



> Das «Bremer Kirchenblatt» empfiehlt das Büchlein als Konfirmationsgeschenk: «Manche Eltern werden gern in dieser Zeit mit ihren Kindern etwas Geeignetes lesen’.»

Konfirmation 堅信礼 Geschenk プレゼント。

Konfirmation はルター派の用語らしく、英語では Confirmation。
英訳すると、affirmation of baptism、すなわち、
生まれたばかりのときに受けた洗礼を、成年に達してから自らの意志で肯定する儀式。
「堅信礼」より「洗礼肯定」のほうがいくらかはわかりやすいのではなかろうか。
この儀式は通常16歳に行われた。
それまでにゲマインデにおける初等教育は終了する。
上流階級の子らはその後で海外に留学したり、さらなる高等教育を受ける。
そうでない普通の子らは社会に出て働き始める。

「ブレーメン教会新聞」は、この小冊子を堅信礼の贈り物として推薦した。この当時の相当の父母たちが、子供たちと読むのに適したこの本を読むのを好んだ。

出典は

Meta Heusser-Schweizer, Hauschronik, hg. von K. Fehr, Kilchberg 1980, 58.

メタ・ホイッサー・シュヴァイツァー(ヨハンナ・シュピリの母で詩人)の家の歴史、という本らしい。

フローニの墓

訳者は著者ではないので作品をずけずけと批評できる立場にいる一人であるはずだが、私の場合「フローニ」を「ハイディ」の謎解きのために無理やり訳し、それでもまだ謎が解けきれないから続く数編も訳して読んでみたので、純粋に「フローニ」という作品を読んだとは言えないかもしれない。

「ハイディ」をある程度知ってはいるが深くは知らない普通の人に「フローニ」を読んでもらうと、だいたい同じような印象を持つようだ。
つまり、ストーリーは別に面白くはない、しかし、文章にある独特の雰囲気があって、なぜか最後まで読んでしまう、と(ストーリーは面白くなく独特の雰囲気はあるが最後まで読む気にならないものは、ありがちだが、単につまらないということよね)。

その独特の雰囲気というのは明らかに訳者である私の文体のせいではない。
逆に私がそのヨハンナの独特の言い回しの影響をうけた、のは確かだ。
もちろん私もそれに気付いてはいたが、うまく表現できない。
しかし周りの人も同じようなことに気付いているとすれば、やはりそこが「フローニ」のおもしろさであって、もしかすると私は宝石の原石を見つけたのじゃないか、という気にもなる。
その雰囲気というのは当然「ハイディ」にもあるんだが、アニメにも表れてはいるが、残念ながら十分に表現されているとは言えないと思う。
その雰囲気というのはアルムおじさんやデーテのあたりに濃厚にただよっていて、つまりそれらのキャラクターに何らかの実在のモデルがいることを暗示しているのだ。
そしてそのモデルを作中に描写するときにヨハンナは奇妙な、達者というよりはぎくしゃくした表現をして、そこが何かしらの味になっている、と思う。

> man ihr das Äußerste in dieser Richtung hätte zutrauen können, wenn nicht die schelmischen Mundwinkel von unten herauf sich wie darüber moquirt hätten.

たとえばフローニの容貌を描写しているこのとても訳しにくい部分。
特に moquiren という単語がわからんし(ラテン系の言葉をドイツ語の動詞化したものだが、調べてもわからん。しかたなく口がへの字に曲がってると訳した)、
das Äußerste in dieser Richtung
もよくわからん(目が賢そうなわりに鼻がとても純朴で、その印象がちぐはぐだ、ってことを言いたいらしいのはなんとなくわかる)。
あるいは

> Drüben standen die dunkeln Felsenspitzen des Pilatusberges auf dem lichten Abendhimmel, und die Hügel umher lagen so lockend grün im Abendschein.

「ピラトゥス山の薄暗い断崖絶壁が明るい夕空の上に浮かび、夕焼けの中、心があこがれるような緑色の丘があたりに横たわっていた」
などのような自然描写。
so lockend grün は「心があこがれるような緑色」とでも訳すしかないではないか。

しかしながらヨハンナの作品にはとても退屈なものも混じっていて、そういうものにはたぶんそういう何か屈折した、「魔法をかけるような」描写が盛られてないのだろうと思う。

e-rara Johanna Spyri 文献

初版の年ではなくて実際に出版された年の順

## Bremen : C. Ed. Müller’s Verlagsbuchhandlung

* [Ihrer Keines vergessen / von der Verfasserin von: «Ein Blatt auf Vrony’s Grab»](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-17066) 1873 彼らの誰も忘れない
* [Verirrt und gefunden / von der Verfasserin von “Ein Blatt auf Vrony’s Grab”](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16661) Zweite Auflage, 1882 迷い出て、そして見出されて
* [Ein Blatt auf Vrony’s Grab : Erzählung](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16597) Vierte Auflage, 1883 フローニの墓に一言

## Gotha: Friedrich Andreas Perthes

* [Heimathlos : Zwei Geschichten für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben / Von der Verfasserin von “Ein Blatt auf Vrony’s Grab”](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16705) 1878 故郷を失って
* [Verschollen, nicht vergessen : Ein Erlebniss meinen guten Freundinnen, den jungen Mädchen / erzählt von der Verfasserin von “Ein Blatt auf Vronys Grab” etc.](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16711) 1879 失踪したが忘れない
* [Aus Nah und Fern : Noch zwei Geschichten für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben / Von der Verfasserin von “Ein Blatt auf Vrony’s Grab](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16706) 1879 近く、そして遠くから
* [Aus unserem Lande : Noch zwei Geschichten für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16713) 1880
* [Im Rhonethal](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16645) 1880 私たちの国から
* [Heidi’s Lehr- und Wanderjahre : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben / Von der Verfasserin von “Ein Blatt auf Vrony’s Grab”](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16704) 1880 ハイディの学びと放浪時代
* [Ein Landaufenthalt von Onkel Titus : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16673) 1881 ティトゥス叔父さんの滞在
* [Heidi kann brauchen, was es gelernt hat : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16913) 1881 ハイディは学んだことを役立てられる
* [Kurze Geschichten für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16708) 1882 子供と、子供を愛する人のための短い話
* [Wo Gritlis Kinder hingekommen sind : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-17065) 1883 グリティスの子供たちはどこに帰ったか
* [Gritlis Kinder kommen weiter : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16674) 1884 グリティスの子供たちはまた来た
* [Was soll denn aus ihr werden? : Eine Erzählung für junge Mädchen](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16714) 1887 彼女はどうなるべきか
* [Arthur und Squirrel : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16712) 1888 アートゥアとシュクヴィレル
* [Was aus ihr geworden ist : Eine Erzählung für junge Mädchen / Zugleich Fortsetzung der Erzählung: Was soll denn aus ihr werden?] (http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16672) 1889 彼女は何になったか
* [Aus den Schweizer Bergen : Drei Geschichten für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-17007) 1889 スイスの山から
* [Keines zu klein Helfer zu sein : Geschichten für Kinder und auch für solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16658) 1890 誰も助けられない
* [Cornelli wird erzogen : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16850) 1890 コルネリは育てられる
* [Volksschriften](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16707) 1891 民話
* [Schloss Wildenstein : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16659) 1892 ヴィルデンシュタイン城
* [Einer vom Hause Lesa : ein Geschichte für Kinder und auch für solche, welche Kinder lieb haben.](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16657) 1894 レザ家の人

## Stuttgart: Carl Krabbe

* [Sina : eine Erzählung für junge Mädchen](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16671) 1884 ジーナ

## Barmen: Hugo Klein

* [Am Sonntag](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16662) 1881 日曜日に

## Basel: Allgemeine Schweizer Zeitung
* [Aus dem Leben eines Advocaten](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-26408) 1885 ある弁護士の生涯

Heidi, translated by Louise Brooks 1885

「ハイディ」だが、
Heidi’s Lehr- und Wanderjahre が出たのが 1880 年。
続編の
Heidi kann brauchen, was es gelernt hat が出たのが 1881年だった。

[初フランス語訳](http://www.e-rara.ch/sikjm/content/titleinfo/5337916)
は 1882 年。
原著の版元 Gotha: Perthes が出版していて、訳者は不明。
Heidi’s Lehr- und Wanderjahre のみの内容。

[英訳は1885年](http://www.e-rara.ch/sikjm/content/titleinfo/5320749)。
訳者は Louise Brooks。
出版社は Couples, Upham, and Company,
The Old Corner Bookstore, 283 Washington Street, Boston.
巻末の広告の価格がドルで書かれているので、間違いなく、
イギリスではなくてアメリカのボストンだ。
こちらは前編と続編両方の合冊になっている。
これがおそらく最初の英訳。
そしてハイディを世界的に有名にした本なのだろう。

> From the pleasant village of Mayenfeld a path leads through green fields, richly covered
with trees, to the foot of the mountain, which from this side overhangs the valley with grave and solemn aspect.

冒頭だけだが、ドイツ語原文と比べてみると、そのまま自然に訳されていることがわかる。

> Vom freundlichen Dorfe Maienfeld führt ein Fußweg durch grüne, baumreiche Fluren bis zum Fuße der Höhen, die von dieser Seite groß und ernst auf das Tal herniederschauen.

[「ハイディ」邦訳疑惑](/?p=17598)参照。

ヨハンナ・シュピリ初期作品集

ヨハンナ・シュピリ初期作品集

* 価格 1800円(税別)
* ISBN 978‐4‐7734-1000-6
* 著者 ヨハンナ・シュピリ(訳・田中紀峰)
* 発売日 2016/2/27
* 四六判(130mm×188mm) ソフトカバー 292ページ
* 発行 夏目書房新社
* 販売 垣内出版

初版第一刷の誤記・誤り等

p. 4 (p. 49 も同様)

> できるだけうまく話してみまし

→ みまし

p. 55 (p. 232 も同様)

> DAHEIM UND FREMDE

→ DAHEIM UND IN DER FREMDE

p. 85 (p. 240 も同様)

> AUS FUÜHEN TAGEN

→ AUS FRÜHEN TAGEN

p. 210

> 直訳すれば「地上の小さな寝床に憩え(zur Ruh ein Bettlein in der Erd)」

Paul Gerhardt の[Nun ruhen alle Wälder](https://de.wikipedia.org/wiki/Nun_ruhen_alle_W%C3%A4lder)
に見える句だが、

> Nun geht, ihr matten Glieder,
geht hin und legt euch nieder,
der Betten ihr begehrt.
Es kommen Stund und Zeiten,
da man euch wird bereiten / zur Ruh ein Bettlein in der Erd.

該当箇所を訳すと

> さあ、行け。おまえたち、疲れきった手足よ
行って横たわれ
おまえたちが望んだ寝床に。
時がやってくる、
そこに、地上の寝床に休む準備をしよう

「bereiten zu 物」で「物を用意する」、の意味。
だから、できるかぎり直訳すると「地上に用意された休息の寝床」となるか。
だから本文中の「直訳すれば」は余計か。
man euch の euch は再帰代名詞だと思うが、特に訳さなくてよいか。

p. 220

> Freude die Fülleあふれる喜びと
> Und selige Stille 至福の静けさ
> Darf ich erwarten 私は待っている
> Im himmlischen Garten, 天国の園で
> Dahin sind meine Gedanken gericht’. 私の考えが裁かれるのを

Darf ich erwarten は「私は待っていてもよかろうか?」のように推量疑問、もしくは
「私は待っていたい」のように願望として訳すべきだろう。

Dahin sind meine Gedanken gericht’ は「そこへ(dahin)私の思いは向けられている(sind gerichtet)」と訳すべきだった。

p. 287

> アルトゥールとリス

Squirrel は「リス」ではなくて女の子の名前である。
無理にドイツ語読みすれば「シュクヴィレル」とでもなろうか。
Arthur も「アートゥア」などと記した方が良いかも知れない。

p. 288

> 1890 Cornelli wird erzogen

「コルネリは育てられる」
これとその前の

> 1889 Was aus ihr geworden ist

「彼女は何になったか」
は別の年に出た別の本。
「彼女は何になったか」は 1887年の

> Was soll denn aus ihr werden?

「彼女はどうなるべきか」の続編 (Fortsetzung)。

これら三つの本の説明がごっちゃになっている。

その他

表紙に書かれている

Frühe Erzählungen von Johanna Spyri, die Verfasserin des «Heidi»

だが、これは(出版社に頼まれて)「ヨハンナ・シュピリ初期作品集」というタイトルを私が独訳したものであり、それ以上の意味はない。
原著名は Verirrt und Gefunden (1872) ですが、のちに Aus dem Leben (1900) と改題・微妙に改訂されて再出版されている。

Verirrt und Gefunden と Aus dem Leben の違いは、
次のテキスト(ただし Ein Blatt auf Vronys Grab のみ)の差分を取るなどして確かめてみてください。

* [Ein Blatt auf Vronys Grab 1883](http://tanaka0903.net/libroj/Vrony_1883.txt)
* [Ein Blatt auf Vronys Grab 1900](http://tanaka0903.net/libroj/Vrony_1900.txt)

思うに、ゲーテに Aus meinem Leben, Dichtung und Wahrheit という自伝があり、
またヨハンナによって書かれた夫の伝記 Aus dem Leben eines Advocaten (ある弁護士の人生から)があることから、
ヨハンナ自身によってその死の直前に Aus dem Leben と改題されたこの書名には、これが自伝の代わりであることがほのめかされていると思われる。

参考

* Johanna Spyri geb. Heusser projekt gutenberg DE
* Johanna Spyri projekt gutenberg
* [e-rara Johanna Spyri 文献](/?p=18475)
* [堅信礼の贈り物](/?p=18643)
* [「ハイディ」邦訳疑惑](/?p=17598)
* [シュピリ ヨハンナ](/?p=14107)
* [デーテの言い訳](/?p=17566)
* [フローニ他](/?p=18305)
* [Heidis Lehr- und Wanderjahre](/?p=17564)
* [ラガーツ温泉](/?p=8919)
* [ラガーツ温泉2](/?p=8928)
* [ひたすらハイジを観る。](/?p=1113)
* [Johanna Spyri](/?p=17402)
* [アルムおじさん一家の謎](/?p=10140)
* [Geißenpeter](/?p=9782)
* [unten と oben](/?p=8940)
* [アルムの小屋のトイレの謎](/?p=1115)

クララ

びびりなのでときどきドイツ語原文を読み直したりしているのだが、

> »Ja,« erwiderte sie, »sehr lange und tief krank war ich an Leib und Seele.«

> 「ええ、」彼女は答えた、「とても長く深く、私は体も心も病んでいた。」

この部分、本の中では

> 「ええ、とても長い間、とても重い、体と心の病気を患ってた。」

と訳している。
会話中に erwiederte sie とか sagte sie(彼女は言った)のような短い言葉が挿入されることが非常に多いのだが、
これはヨハンナの癖というよりは、
ドイツ文にはよくあることのように思える。
現代日本文としてはやや違和感あるし、文脈上書かなくてもわかるので、全部省くことにした。
しかし、

> »Klara,« sagte ich nun, »hast Du die Krankheit durchmachen müssen, an der wir Marie damals so elend sahen?«

の nun ような語が付加されている場合には、省かずに

> 「クララ、」私はまた言った、「あなたはもしかしてマリーが苦しんでた頃からもう心身を病んでいたの?」

などと訳した。
ところでこのクララという女性なのだが、
もちろん「ハイディ」に出てくるクララとは名前が同じだけなのだが、
どうもヨハンナの友人というよりはヨハンナ自身がモデルなのだろうと、
私にはますます思えてきた。

数年間、心も体も病んでいて、音信不通で、しかもある詩人に失恋していた。
何千もの「知性の泉」の水を汲んで飲んでみたが、何の役にも立たなかった。
友人に聖書を薦められても納得がいかなかった。

ヨハンナが結婚してチューリヒで暮らしはじめ、
子供が生まれるまでの間、ヨハンナ自身がそういう状態だったのだろうと思えるのだ。
親しい女友達の「私」とは、
コンラート・フェルディナント・マイヤーの妹、ベッツィー・マイヤーであったかもしれない。
ベッツィーのほうがむしろ、ヨハンナよりは信心深かったかもしれない。

ヨハンナ・スピリ少年少女文学全集

「ヨハンナ・スピリ少年少女文学全集」をある種の義務感で読破してみようとしたのだが、余りにも退屈で挫折した。
この全集があっという間にその存在を忘れ去られてしまったのは、やはり単につまらないからなのだろう。
簡単な解説、あらすじくらいは付けて欲しかった。
この膨大な文書を読み通す人がはたしているだろうか。

例えば、Arthur und Squirell という話では、工場の経営者の子供に兄と妹がいて、兄は会社を継ぐのが嫌で失踪、社長は妹に婿をとって仕事を継がせようとしたが、妹にはすでに好きな男(牧師の息子)がいて、結局工場は売ってしまい、妹は牧師の息子と結婚した。
二人には男の子が出来たが(この子が主人公 Arthur)、Arthurが小さいうちに両親は他界してしまい、親戚に引き取られて、寄宿学校に入れられてしまうが、そこですったもんだあって、Arthurはある女の子(Squirell)と親しくなる(ボーイミーツガール!)。
そこへ失踪した兄(つまりAuthurの叔父)が大学教授となって戻ってきて(予定調和的な伏線の回収!)、甥Arthurとついでにその彼女Squirellを引き取って楽しく暮らす、という話なのだが、こんな話を延々と読まされたら気絶しそうだ。
あらすじだけで十分な気がする。
主人公が孤児で親戚に引き取られて知らない土地に連れて行かれる、という辺りがなんとなく「ハイディ」っぽい。

なぜ「ハイディ」だけがある程度読むにたえうる作品になり得たか(アニメの「ハイジ」はとりあえずよけといて)という考察は、もう少ししたほうが良いのではないか。
やはりストーリーというよりは、ハイディやアルムおじさんやデーテやロッテンマイヤーなどのキャラの濃さだと思うのだよね。
キャラの濃さという意味では「フローニ」もそれなりのもんだと思うよ。

そんで余りにも頭が疲れたのでヨハンナ・シュピリはやめにして佐佐木信綱を読み始めたのだが、
これも恐ろしく退屈だ。
この人は、少なくとも初期はちゃんと大和言葉だけで和歌を詠んでいた。
江戸時代の和歌や、明治期の桂園派の和歌と大差ない。
だが次第に漢語やそのほかの外来語が混じり始める。
明らかに明星派やアララギ派の影響をうけているのである。
佐佐木信綱の代表作である

> ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲

あるいは正岡子規の代表作といわれている

> くれないの二尺のびたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る

これらは長く伸びた俳句、或いは漢詩の翻案とでもいうべきものだ。
漢語を交えて叙景、もしくは叙事だけでできあがっている。
確かに古く武士にもこのような直截な叙景の歌はあったかもしれないが、
叙景や叙事が心象風景に転調するところが和歌の骨頂であって、
叙景に仮託した心象の微妙な表現というものはやはり大和言葉、和歌でなくてはならない。

佐佐木信綱は明治の歌を詠みたかった。
新しい時代の和歌は変わらねばならないと思った。
だから明治以後の話題を歌に取り入れなくてはならない、という義務感のようなもので、
いろんな概念、例えば「サタン」のような言葉を取り入れた。

> 敗られしサタンの軍ちりみだれくづるるがごと雲走りゆく

これは単に雨雲がサタンの軍勢のように見える、ということが言いたかったのだが、
こういうものが世間にもてはやされることによって佐佐木信綱という歌人自体が変容していく。

佐佐木信綱の崩れ方というのは昭和天皇の崩れ方と良く似ている。
おそらく昭和天皇も佐佐木信綱の影響をうけたのだろうと思う。
そして今の現代短歌というものは、もはや何でもありのカオスになってしまった。
ましかし、短歌は短歌で勝手にやれば良い。
問題は和歌を詠む人がほとんどいなくなり下手をすると私で断絶するかもしれないってことなのだ。

私には、明治の歌人たちは、
明治という一過性の時代に和歌を適合させようとして和歌を破壊した(あるいは和歌から逸脱していった)だけのように見える
(柳田国男などの桂園派の歌人は抵抗した。明治天皇も最後まで大和言葉だけで歌を詠んだ)。
明治は過ぎ去っても和歌は残らねばならない。
和歌は時代の影響をうけるとしても、和歌自体は「永遠の過去」に属するものでなくてはならない。
能や歌舞伎ではそれが当たり前なのに和歌はそのことが軽んじられているのは残念ではないか。