目安箱とか玉くしげとか

落とし文とか捨て文というものを制度化した目安箱ってのがあったはずだよね。で、ちょっと調べれば、天明の飢饉のとき、松平定信が諸藩や民間人からも献策を推奨し、宣長も『玉くしげ』『秘本玉くしげ』などを紀伊藩主徳川治貞に献上した、くらいのことはすぐにわかるはず。

徳川幕府が人民に施した善政などない、江戸時代は暗黒時代だったっていうネガティブキャンペーンを薩長が文部省なんかを使って長年にわたって繰り広げたせいで、ネトウヨはとかくこうした間違った歴史観をもっている。

定信の父は田安宗武、宗武の父は徳川吉宗で、もとは紀州藩主だった。宗武は賀茂真淵に国学を学び、定信もおそらく国学的な雰囲気の中で成長したはずで、そうなると徳川宗家の開祖家康がとんでもなくむちゃくちゃな宗教観・思想の持ち主だってことは、定信もわかっていたはず。

ところが定信は朱子学を信奉する教条主義者だってことになってしまった。そんなはずないだろ。定信の著作をみれば明らか。尊号一件の扱い方にしても、彼が完成させた大政委任論にしろ、定信が、賀茂真淵や本居宣長らのような、国学者的な尊王家であるのは明らかだ。

ネトウヨの無知蒙昧を正すのでなくそれを煽って部数を稼ごうなどという輩が愛国者と言えるだろうか。

世界最強バルチック艦隊

笑。

日本国紀

松平定信や白河天皇に対する評価なんて、ほんとに一番ダメな部分の水戸学の影響を受けた、ほんとに駄目な薩長の史学を受け継いでる。だからネトウヨはダメなんだよ。ホンモノの勤王、ホンモノの水戸学を知らない。本当の歴史を知らない。ごく大雑把に言えば司馬遼太郎程度の史観しかない。

徳川幕府が260年続いたのはともかくもうまく治めたからだよ。足利幕府や鎌倉幕府と比べてみれば一目瞭然。明治維新からまだ160年。あと100年もたなきゃ薩長は徳川には勝てないよ。

特に、松平定信は名宰相と言って良い。彼がいなければ徳川幕府はもう少し短命だったかもしれんね。家継の後、吉宗が将軍になってちょっとましになり、孫の定信が出たから100年くらいは寿命が延びたんじゃないか。大政委任論は定信が完成させたんだがそれは彼が尊皇だったからだよ。宣長の思想をちゃんと理解できてたからだよ。宗教音痴の家康からはそんな発想は全く出てこなかったと思う。薩長に比べれば徳川宗家はずっと勤王、尊皇だよ。ひどいもんだよ明治政府が作った皇室典範なんてさ。開国して富国強兵が国是だったからある程度仕方ないとしてもだよ。

家康は浄土宗から天台宗に改宗したり、天海とか林羅山とかわけのわからない坊主を側近にした新興宗教狂い、宗教音痴で、日本人を宗教でがんじがらめにしようとした。そのうえ健康オタクでどうしようもないヤツだった。その成れの果てが林家であり湯島聖堂だったわけ。朱子学とは似ても似つかぬ邪教になってた。家康のせいで日本人はますます宗教音痴をこじらせた。定信はこりゃいかんと思ってそこをちょっと改めただけだよ。普化宗とか虚無僧とかアホみたいな宗教流行らせたのも家康だよ。

日本国紀

そうそう。為永春水の小説なんか読むと書いてあるんだがなあ。

日本国紀

ポツダム宣言を受諾したのも、ひとえに当時の大日本帝国政府の大臣らが無知だったせいなんだろうなあ。

三国干渉を飲んだのも当時の明治政府が無知だったからなんだろうな。

日本国紀

今更ブログでいろいろ書きたいことがあるわけでなく、また、酔った勢いでツイッターであれこれ書くのももうやめようと思っているのだが、本は売りたいと思っている。だから本の宣伝になるようなことはしたいと思っている。あと、ツイッターで書き散らしたことも、ある程度こちらでまとめ読みできるようにしておこうという気持ちがある。

『日本国紀』の初版が出たときは、私も買ってみて読んで、Shin Hori氏や、桜ういろう氏、事務カリー氏らと競っていろいろアラを探したりしたのは楽しい思い出だ。私は単なるうっかりミスとか、Wikipediaの引用なんかにはさほど興味はなかったのだ。誰だって本を書けば間違いの一つや二つはあるよ。それは改訂版出すときに直せば良い。著者の芸風というか、ビジネスモデルに文句言っても仕方ないしそういう辺りにのめり込む趣味は無い(ってあたりがワイが左翼とは違うところか)。

問題はその間違い方にあるわけで、間違う背景に、非常にいびつな、偏った、よく調べもせずに決めつけたような歴史観があるのが気に障ったわけだ。たとえばヨーロッパ諸国はみな君主国というのはおかしいわけで、古代には共和制アテナイや共和制ローマなどがあったわけだし、中世、近世、近代にも共和国はあった。「重箱の隅」の「驚くほど小さなミス」というより、歴史事実から知見を得ようとせず、逆に自分の主義主張趣味を歴史に当てはめようとする態度が気に入らなかったわけでしょ。

確かにこういう重箱の隅突きなども面白がってやったわけだが、これなども、大学生が適当にレポート書くというのとは訳が違う、物書きとして、本を出版する人間がこういう孫引きをしてはならんというところに憤っているわけですよ。参考文献があるなら書くべきだし、単なる歴史読み物だから参考文献は付けないというならそう断るべきだし、「本当の歴史」などと謳うべきじゃないだろってことを、多くの物書きや研究者が指摘しているのに、それに気づかないふりをしている。本物の歴史なんて言われちゃこちらも反論せざるを得んだろ。「葬り去ろう」というより、自分らのいる領分から「排除」したい、区別したいという気持ちはある。ああいう本が世の中の一部の人たちでちやほやされるのはもう仕方ないと諦めている。

事件物の雑味

鬼平犯科帳全24巻中第21巻辺りまで読んだのだが、だんだんに雑味が増えてきたように思える。
コロンボ全69話を3分の2くらいまで見たときにも同じような気持ちになった。
最初の頃は、話も面白く、濃くて、殺人事件とか強盗というネタを扱っていながら、時にユーモアも交えてあり、爽快感もある。
しかしだんだんと話がドロドロと陰鬱になってきて、リアリティはあるんだろうが、読んでて気持ち悪くなってくる。
犯罪なんだから気持ち悪いのは当たり前で、それを敢えてエンターテインメントに仕立ててあるのだが、つい生のどろどろした部分が、濾過されないままに出てくるという感じか。惣菜の刺身を買ってくれば良いのに、サクを買ってきて自分で切ってみると中に寄生虫がいて食欲を失うような感じと言えば良いか。
ウィキペディアなんかも、普通に読んでる分には良いが、底の底までデータをさらって分析しようとすると、気持ち悪い、読まなきゃよかったようなことまで読まされてしまう。

シリーズものとはそうしたものなのかもしれないが、原作者や演出家も、やりたいことはもう大抵やり尽くしてしまって、無理に新作を作ろうという気は失ってしまって、しかし続きを出せばそこそこ売れるとわかっていれば、周りから言われてどうしても続けなくてはならない。あまり使いたくない、一度ボツにしたネタなども使ったりするのだろうか。

鬼平犯科帳再論

ここの記事を整理していて昔自分で[鬼平犯科帳](/?p=20276)について書いたものを見つけたのだが、今とはかなり認識が違っていて驚く。
当時私はまず、さだまさしが出ていたテレビドラマの鬼平犯科帳を見て、次に、私が通院している病院の待合室に置いてあったさいとうたかをの鬼平犯科帳シリーズを読み始めた頃だ。それから刑事コロンボBlu-rayボックスも平行して見つつ、原作全24巻の鬼平犯科帳も読み始めた。

さだまさしが出たのは中村吉右衛門が鬼平を演じる、犯科帳テレビドラマシリーズの最後、2016年のものだ。1969年から2016年まで、50年近くかけて、主演もさまざまに変わりながら、原作をテレビドラマとして骨肉化した最終形態だったと言える。
その後もしばしば他のドラマ版鬼平をみたが、それらは決して原作をそのまま忠実にドラマ化しているのではなく、配役を増やしたり減らしたり変えたり、原作のいくつかのネタを合わせて一本にしていたり、くノ一みたいな女盗賊を加えたりして、かなり脚色している。
原作はほぼ時系列につながった長大なストーリーであって、これをドラマにぶつ切りにしては、見る人は到底理解することはできないだろう。

原作者の池波正太郎はぎりぎり大正時代に生まれ、前近代的雰囲気を残す江戸をある程度まで実体験し得た人だ。だからこそ町の雰囲気や、情景描写や、あと盗賊のあだ名の付け方などに非常にリアリティがある。今の人がどんなに想像を膨らませてもあんな盗賊の名前は思いつかないだろう。
テレビドラマではそこらのディテイルがかなり削られ、現代風に相当様式化されていて、リアリズムを失っている。1950年代に作られた時代劇が今の時代劇とは全然雰囲気が違うのと同じだ。
例えば今の時代劇には、田舎の河原や田んぼでヤクザどうしが大勢でチャンバラをするなどというシーンはほぼ出てこない。たいていどこかの武家屋敷の中庭辺りで斬り合うばかりだ。しかしおそらく昔は、つい最近まで、こうしたヤクザどうしの喧嘩が見られていたのではなかろうか。昭和残侠伝や、あるいは鬼平の原作などでは刀の他に槍や弓矢も出てくるが、こうした道具は今の時代劇で出てくることはほとんどなく、刀と刀のいわゆる殺陣という形に様式化され、多様性を失っている。

さいとうたかをの鬼平犯科帳は比較的原作に近く作られているほうだと思う。

原作に関して言えばこれだけ長い小説をこれだけ中だるみもせずに書けたのはすごいと思うが、おそらくこれは池波正太郎一人の力というよりは、取材やシナリオ作りを大勢のスタッフが助けたためと思われる。こういうプロットがしっかりしていて、人気がある小説というのは、出版社としても金づるだから、元手も人手もたっぷりかけたに違いない。それは刑事コロンボも同じだったはずだ。

吉川英治が書いた太平記や平家物語は実際現代小説を単に舞台だけ過去にもっていった時代小説にすぎなかった。あんなものを読むくらいなら普通に現代のサラリーマン小説を読んだ方がましだ。
しかしながら、少なくとも原作の鬼平犯科帳は、野村胡堂や岡本綺堂らにリスペクトを払いつつ、松平定信時代の江戸を忠実に再現しようという明らかな意図をもって書かれたものだと思う。恐るべき傑作だと思う。
残念ながら、『相棒』にせよ『古畑任三郎』にせよ、刑事コロンボほどの金と人手はかけられないと思うよ。

これだけ私がこうした刑事物にのめり込んだのは私自身『潜入捜査官マリナ』という警察捜査ものを書いたからだ。
いろんな刑事物を読みつつ『マリナ』にはかなり加筆修正を加えた。
自分で書くことによって他人の作品も何倍も面白く読めるし深読みできるようになるしもちろん執筆の参考になると思う。

華冑会。三島由紀夫について

私は三島由紀夫の著作をすべて読んだわけでもなくまたこれから読破してみようという気力もおそらくないのだが、今のところのざっくりとした予想を書いてみようと思う。
三島由紀夫の家系というのは平民出身の官僚だ。彼の父、平岡梓は開成中学から旧制一高、東大法学部に進んでいる。平民に与えられたごく普通のエリートコースだ。しかし三島由紀夫はなぜか学習院から東大へ行く道をとった。
彼の最初の長編『盗賊』は副題に「華冑会の一挿話」とあるが、つまり華族社会のことを彼は書きたかったのである。彼は官僚の息子だし学習院にいたから、平民の中でももっとも華族階級に近いところにいて彼らを観察しえた。そのいわば、上流階級のスキャンダラスな暴露話を書きたくて仕方なかったらしい。
この『盗賊』は川端康成に絶賛されたらしいがほとんど反響がなかった。実際長くて退屈な話である。三島由紀夫にとってはしかしこの長く退屈な話を書く必要があったしこの体裁でなければ華族のアンニュイな暮らしは表現できないのだ。またそこを川端康成は高く評価したが同時に世間に受け入れられなさそうなことを惜しみもしたのだろう。
私は、『仮面の告白』ではなくこの『盗賊』にこそ、三島由紀夫のすべてのエッセンスがすでに内包されていると思う。
『仮面の告白』は自分自身を描いた私小説と言える。当時としてはセンセーショナルな内容だったから、たちまち世間に認知されるに至った。しかしながらこれもまた長くて退屈な話には違いない。
『金閣寺』に至っては単に金閣寺を焼いた男というこれまたセンセーショナルな話題を小説にしたというにすぎず、まあ、一般受けはするかもしれないし、外国人にも面白がられるかもしれないが、しかしやはり、退屈で長い話に過ぎない、とも言える。
その他の小説はおおむね売れっ子作家になったあとの頼まれ仕事のようなものだろう。いちいち読むほどの価値があるものがそれほどあろうか。
で、三島由紀夫は死を覚悟した。そこでもう一度、「華冑会」の話を書いてみたくなったのではないか。自分が死ぬ前に、自分が売れる前に書いた小説をもう一度リメイクして、広く読んでみてもらいたくなったのではないか。『豊饒の海』、特にその第一部『春の雪』は『盗賊』に題材が酷似している。そしてこの『春の雪』こそは、私が見た限り、三島由紀夫の作品の中ではとりわけ面白いのである。
作家が最初に書いた長編小説ほど、作家自身がほんとうに書きたかった作品に違いない。その上彼はそれを再び書いて彼の最後の作品にした。よっぽど書きたくて仕方なかった。よっぽど人に読ませたかった。よっぽど後世に残したかったのだ。
三島由紀夫はほんとうは何を書きたかったのか。
三島由紀夫は自決にあたって輪廻転生を信じたくなったのだろう。だから『豊饒の海』はああいう構成になった。しかしながら、彼がほんとに書きたかったのは、彼がほんとうに愛してやまなかったのは、「華冑会」の退廃した世界、もはや二度とよみがえることのない虚構の世界だったのではないか。ああいう世界は奈良時代にも、平安時代にも、鎌倉時代にも、室町時代にも、江戸時代にもなかった。日露戦争の勝利から第二次大戦の敗北まで、わずか40年ばかりしか存在しなかった。彼の文体、彼の文章の美しさというのはその世界を描くときにもっともしっくりとくる。なぜなら三島由紀夫が彼の青春時代に憧れてやまなかった世界だから。彼そのものが作られた世界だから。
この華族というものは明治政府が生んだ虚構社会だ。人工的に作られたフィクションの世界だ。そして彼はもともとその外の世界の人だ。しかしながら、いや、だからこそ、外側から、マジマジと、その世界を客観的に観察し得た。もし彼が最初から華族だったらあんな屈折した小説を書くはずがなかった。中にいた人ならその虚構に最初から気づいてしらけてしまうだろう。だがその「華冑会」の外にいて、いわばセレブに憧れるマニアであったから、あんな小説が書けたのである。
おそらく彼が守りたかったのは天皇ではなく華冑会なのだ。
明治政府が作り上げた戦前の皇室制度というものが華冑会を作った。その制度が失われれば華冑会もまた失われる。だから天皇は人間宣言などしてはならなかったのだ。「華冑会」がよみがえらなければ生きていても意味が無い。そうも思ったかもしれない。
彼にどうして天皇などというものが理解し得ようか。天皇の実態を想像し得ようか。彼に見えていたのは、目の前の現実であったのは華冑会だったのだから。

評伝 小室直樹

たまたまアマゾンを見ていて、『評伝 小室直樹』という本が2年前に出ていたことを知った。しかるにその上巻はすでに品薄状態で中古でもかなりのプレミアがついている。仕方なく、とりあえず上下巻とも図書館で借りて読むことにした。

著者の村上篤直氏は橋爪大三郎が編んだ『小室直樹の世界』という本に付録された目録を執筆したというから橋爪氏のお弟子さんか何かなのだろう。橋爪氏は当然小室直樹について熟知していた。そしてそれを村上氏にもたびたび語っていただろうし、村上氏も橋爪氏に小室直樹のことについてたびたび質問していただろう。その過程で村上氏は、橋爪氏がどうして小室直樹の本当の姿を書かないのか、小室直樹の評伝を執筆して世に広めないのか、橋爪先生が書かないのなら私が書きますよ、もちろん推薦文くらいは書いてくれますよね、くらいのことは言ったのではないか、と想像されるのである。

私が読みたいと思うのは小室直樹全集であり、その一つ一つの著作に対する解説であり、また校注である。しかしどうも橋爪氏はそのようなものを書く気はまったくないらしい。橋爪大三郎が副島隆彦と共著で書いた『小室直樹の学問と思想』ではただ、小室直樹は偉い学者だったとしか書かれてなく、その著作についてはほとんど触れられていないと言って良い。

で今回『評伝 小室直樹』を読んでその謎が氷解したような気がした。橋爪氏は書きたくなかったのだ。なぜなら小室直樹が出版した著書のほとんどすべては小室直樹が直接執筆したのではなく、出版社のプロデュースとリライトによって書かれたものであり、中にはほとんどゴーストライターが書いたとしか言いようが無いものも含まれているからだ。そのほとんどすべては小室直樹が自分で書きたいと思って書いたものではなく、周りがお膳立てして書かれたものだ。そんな著作群について橋爪氏が言及したくないのは当然であろう。村上氏は橋爪氏が書かないのであれば自分が、という半ば義務感で、この暴露本を書いたのだと私は推察する。

下巻256p、ある日、橋爪、白倉、志田が集まったとき、「小室直樹とは何者か」が話題になった。「最高のティーチャー」との結論で意見は一致した。

教育者として、学問の本質をわかりやすく教えられる能力は抜群のものがある。

では、学者、研究者としてはどうか、小室先生は何か発見はしたのか。ティーチャーとしては最低でも、大発見を一つでもすれば学者、研究者として名前は残る。たった一本でも、学術論文として意義のあるものを書けば、学説史に名を残せる。

では、小室先生はどうか。結論は出なかった。

ここはいろいろ考えさせられるところで、小室直樹がMITのサムエルソンのところへおしかけてPh.Dを取ろうとして失敗し、帰国して東大で学位を取ろうとして指導教官の京極純一になかなか学位審査をしてもらえなかったとか、いろいろ同情するところはあるが、結局、小室直樹が法学博士の学位をとるにはとったが、橋爪にあてがわれた非常勤講師や特任教授などのアカポスしか得られなかったというのは、厳然とした事実だ。客観的に彼が偉大な学者だという証拠は無い、ということになる。

上巻253p、「小室は、何かをするときに、雑駁だ。大づかみなことは正しいんだが、細かいところに目が届かんから、失敗する。」まさにそうなのだろう。

決定的な学術業績もなく、著書もまたマスコミに踊らされて書いたものだとしたら、では小室直樹に残るものとはなんなのだろうか。

それでも彼に残るものとはやはり、人を感化する力、なのかもしれない。

『評伝 小室直樹』下巻p133から『週刊宝石』に掲載された小室直樹と横山やすしの対談が一部掲載されている。私はこれをリアルタイムで読んだはずだから、それは1984年7月。つまり私が駿台予備校京都校で浪人生だった頃読んだことになる。

『週刊プレイボーイ』だったかと思ったが記憶違いだった。

この対談は非常に面白くて、これを読むだけのためにも、『評伝 小室直樹』を読む必要があると思う。再び読めてたいへんうれしい。結局、世間一般の人からみた小室直樹という人は、この横山やすしが見たようなものなのだ。世間一般の人からみた、世間離れした学者というものの姿なのだ。ようするに、結婚して家庭を持ち、妻子をもっていないと人は学者のいうことを信用しないものなのだ。彼らにとってわかりやすいことを学者が言えば、彼らはなるほどその通りだとなっとくしてくれるが、自分たちの常識に反することを言っても理解してはもらえないんだっていう教訓になった。