小林秀雄 源氏物語

連休だがまったく予定がない。前倒しで仕事を片付けておくというのが一番生産的なのだが、あまりやる気にならない。
最近宣長関連を読んでばかりだったので桜の咲くのが妙に待ち遠しくなった。
「極道めし」を読むと卵かけご飯が食べたくなるようなものだ。
山桜をぼーっと眺めてみようかとも思う。
この際、山鹿素行あたりを一気読みしてやろうかなどとも思うがきりがない。

仕方ないので小林秀雄の「本居宣長」を読み続ける。
ついでにネットでいろんな人がこの本を読んでいる感想を読んでみるのだが、
だいたいみんな私と同じようなこと考えながら読んでるなと思う。
小林秀雄を読みながら宣長全集も読んでいる、という人は不思議とあまりいないようだ。

はっきり言って、まったく読みにくい。十年以上にわたってとりとめもなく書き継がれたものだから、
としか言いようがない。
たとえて言えば神懸かりになって着想の湧くまま筆先の動くままに書いたような、
思いつくままに整理せず書き連ねたというような文章だ。
あるいは意図的に「しどけなく」物語るように、論文というよりは随筆のように書きたかったのかもしれんが、
読んでる方としてはどうか。
どこに何が書いてあるかというくらいで良いので解説があるべきだと思う。
ただこの本はまだ解題や校注付きで出版されるような「古典」ではないというだけだろう。

源氏物語のあたりをまとめて読む。
13から18章までの部分。
宣長どうこうというよりは源氏についての話なので以前は読みとばしてた。
しかし読んでみるとなかなか全体の中でも読み応えのある箇所ではある。
「もののあはれ」を知るということが源氏物語の本質であり、
「もののあはれ」を知るからこそ光源氏はこの物語の主人公として紫式部に取り上げられたのであって、
しかも源氏物語とは本質的には歌物語であって、
そこから導かれるのは男女の間の歌のやりとりこそが「もののあはれ」を知るということだ、となる。
これは歌をあまりにも過大評価した言い方だろうか。
しかし、小林秀雄も

> 詩と袂を分かった小説が、文芸の異名となるまで、急速に成功していく、誰にも抗しがたい文芸界の傾向のうちに、私たちはいる。

と言っている。
事実、中世では文芸といえば物語よりも詩歌の方が優勢だった。
また物語の中にも歌がふんだんに引用されていた。
平家物語や吾妻鏡ですらそうだし、古くは古事記も、竹取物語・伊勢物語・土佐日記みんなそう。
後鳥羽上皇の時代の文壇といえば、まずは和歌だろう。
小説全盛時代といえる現代ではこのあたりがたぶん感覚的にピンと来ないはずだ。
だいたい、仮名漢字変換で「かがくしゃ」とやると「化学者」「科学者」は出てきても「歌学者」は出てこない。
これほどまでに現代人にとって歌というものはうといものなのだ。

> 「源氏」は、(坪内)逍遙の言うように、写実派小説でもなければ、(正宗)白鳥の言うように、欧州近代の小説に酷似してもいないが、
そう見たい人にそう見えるのをいかんともし難い。

かつて物語は、勧善懲悪や啓蒙教育や娯楽といった何かに役立てるためにあるものだったのが、
西洋の影響を受けた近代小説では、ありのままの人間というものを描写するのが小説の役目ということになり、
現代では源氏物語を「もののあはれ」をありのままに描いた近代小説の先駆として読んでしまうために、
逆に本来の源氏物語の姿から離れている、ということになる。

やはり宣長という人を理解しようと思ったら歌というものを基軸にしなくてはわからんと思う。
歌を文芸の価値の頂点においた人なのだよ。
だから詞の用例を学ぶために古事記の勉強もし、歌のやりとりのされ方を学ぶために源氏を学んだ。
ところが、宣長は古事記の研究もしました。
源氏物語では「もののあはれ」という現代小説に通じる本質を見いだしました。
という書き方をしてしまうと、へえっ。いろんなことをやったんだなくらいにしか思えない。
だいたい宣長について書いた本というのはそんな書き方がされているが、
小林秀雄の宣長本は全体としては歌論書として書かれていて、
宣長は歌学者として描かれている。
ここが小林秀雄が他より理解の度合いが深いと知れる点だと思う。

定家は源氏物語を評して詞花言葉をもてあそぶようなものと言い、
また俊成は「源氏見ざる歌読みは遺恨のことなり」と言った。
要するに当時は歌があり、詞があり物語があり、
それ以上でも以下でもなかった。その主人公としての光源氏がいて、紫の上との恋愛があって、
歌のやりとりがあって、物語があったのだ、ということになる。
恋愛至上主義でもなければことさら猥褻をねらったわけでもない。
それは別に写実でもなければ現実主義でもなく、
またそれらの思想に基づいて現代語訳された源氏を読んでも、
意味はわからない、というのが宣長の、また小林秀雄の結論ということになる。

そのほかいろんな解釈が紹介されている。

源平争乱の頃にはすでに、上流男女の乱脈な交際の道を、狂言綺語を弄して語った罪により、作者は地獄に落ちたに違いないので、
供養してやらねばならない、といういわゆる「紫式部堕地獄論」というものがあったらしい。

それから、源氏物語は単なる架空の物語ではなく、歴史的な事実を反映していて、
もとの史実と対応づけることによって源氏物語を再構成し、
その真意を儒仏的に解釈できるという「準拠説」というものもあったらしい。

契沖は、源氏物語の中の登場人物は一人のなかに良い面も悪い面もあり相混じり合っている、
善人と悪人をきっぱりと分けて論じる勧善懲悪に基づく春秋の筆法とは比較できない、などと言っている。

そのほか森鴎外の源氏悪文説(実際には源氏に対する単なる無関心)やそれに対する谷崎潤一郎の反論、など。
私も源氏物語は読んでも別におもしろいとは思えないので、鴎外や漱石が源氏に冷淡だったというのも、
まったく同感で、これから好きになるかどうかもわからない。
正宗白鳥は英語訳された源氏物語を読んではじめて源氏に感動したので鴎外と違ってまったく率直な悪文論者である、など。

まし

ふと思ったのだが、吉田松陰の留魂録冒頭の

> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂

ここで「まし」というのは通常は事実と反することを想像したり希望したりするものなので、
「まし」を古典文法どおりに解釈すれば「たとえこの身がくちても私の魂をとどめおけたら良いのに(実際には留めることはできない)」
となる。
しかし通常は
「この身がたとえくちても魂は留めおくぞ」
のように解釈されるだろう。
「たとひ・・・とも」はふつう逆接的に解釈されるからだ。
この、「たとひ・・・とも」と「まし」はあまり相性が良くはない。
逆接と反実仮想は素直につながらない。
いろいろ悩んだが、うまくなじませるため

> この身が武蔵の野辺に朽ちたあとにも、私の大和魂はとどめておきたいのに。いやたとえ身は朽ちても魂だけはきっと留めてみせる。

ややくるしいが、歌全体を「たとひ・・・とも」による強い希望とし、
その中に「まし」は、未来への不安やためらい、自分の欲しない未来を否定したい強い希望として反語的に挿入されているという重層構造に解釈してみたわけだが。

「まし」は通常なら「もしこうだったならこうするだろうに、しかし実際にはできない」という形になる。
たとえば

> もしわれに死ぬまで足れる金あら明日よりつとめやめましものを

> ひとしげくことまたしげきみやこよりのがれましかばうれしからまし

のように。だが、

> もし身が朽ちな魂を留め置かましものを

では意味をなさない。身に朽ちて欲しいわけではなく、たとえ身は朽ちてもせめて魂だけは残したい、と言いたいわけだから。

> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かばや大和魂

> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かなむ大和魂

> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留めて置かむ大和魂

とか、或いは多少口語調だが

> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置きたし大和魂

などだとすっきりする。
だが「まし」にはある心理的な屈折がないわな。
「まし」を生かすとすれば、字数合わせは難しいが、

> 身が武蔵の野辺に朽ちしのちまで 大和魂だに 留め置かましかば うれしからましものを

とでもなろうか。
「たとひ・・・とも」「まし」という文法的な危うさが普通でない感じを出していると言えば言える。
しかし普段の詠歌でそういう冒険をするかというと、難しい。
「まし」とか「ましものを」「ましかば・・・まし」は難しいから、つい無難な使い方しちゃうよね。

古典的な用例だと、

> 見る人もなき山里の桜花ほかの散りなむのちぞ咲かまし

他が散ったあとに咲けば良いのに。
これは事実に反することを想像して、そうなってくれたら良いのにと希望している。
普通の使い方。

> うぐひすの谷よりいづるこゑなくば春来ることを誰か知らまし

これなんかは反語的に使われている。
誰が知るだろうか、誰も知りはしない。
事実に反することを想像し希望しているといえば言える。

> 世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

これも事実に反することを想像し希望している。

> いかにせまし、迎へやせまし、と思し乱る。

源氏物語によく出るパターンだが、
訳としては「どうしたらよかろうか」だが、「いかにせむ」とどう意味が違うのか説明するのは難しい。
ああしようか、こうしようか、どうしようか、というように、ひとつに定まらず、
いろいろとできるかどうかわからないことを仮定し想像しながら悩んでいるときに使うのかもしれん。

> ほにはいでぬいかにまし花すすき身を秋風に捨てやはててん

小野道風。
迷い、ためらいの例。

> あらはれて恨みまし隠れぬのみぎはに寄せし波の心を

小式部内侍。少し面白い歌。

> 六条前斎院にうたあはせあらむとしけるに、みぎにこころよせありとききて、小弁がもとにつかはしける

と詞書にあるので、歌合わせは右と左に分かれて戦うが、水際(みぎは)に右をかけて、右をひいきにしているというので恨んで、という意味になる。
わけがわかるとかえってつまらんな。

国意考

真淵が「にひまなび」と同じ頃に書いた[國意考](http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/1765_kokuikou.htm)というものがあるが、
真淵の「大和魂」とはこの「国意」つまり「日本精神」というものを大和言葉に訳しただけのものではないか。
宣長がやった(と思われる)方法で、日本の古典の「大和魂」という用例からその意味を解釈したのではなく、
北畠親房や山鹿素行などに由来する当時の(反儒学的な)武家の思想から来たものだと思う。
なので、中世の「大和魂」の用例と相違があっても特に意に介さなかったのだろう。
「にひまなび」はその題名からしてできるだけ大和言葉で論じようとして、
用語も出来る限り大和言葉に翻訳しようと考えて、そのために「大和魂」という言葉を作り出したのではないか。
たまたま、それだけだったのではなかろうか。
とりあえず、wikipedia などの記述を参考にすれば、
当時は仏教や儒教が伝来する以前の、日本古来の思想や精神というものを、それらの影響を排除して、
できるだけ昔のままに再現し復活させることが国学の目的だと考えられていた。
江戸時代になって幕府によって儒学、特に朱子学が官学と位置づけられ、
急激に隆盛したことに対する心理的反発もあったのだろう。
そこで当然、仏教や儒教に対立する概念としての国意というものが理論武装のために用意され、確立されねばならない。
平安王朝というのはすでに仏教や儒教などによって古来の日本精神というものが変容し、廃れて衰えており、
参考にするに足りず、それらの影響を受けていない記紀万葉などから復元されねばならないというのが、真淵の考え方だったのではなかろうか。

小林秀雄は、「大和魂」という言葉を「発明」したのが真淵であるところまでは突き止めた。
しかし、宣長がやったような古文辞学的な方法をとらず、源氏物語に初出のこの「大和魂」という言葉を、
自分の都合の良いように、中世の用例を無視する形で使ったことを批判している。
しかし、それは現代人から見たときの結果論であり、
というか、「大和魂」の初出を源氏物語に見いだしたという方法論や論法自体が極めて戦後的であって、
当時の真淵にしてみると、
武家政権によって官学とされた朱子学に対抗するための国学というものを打ち立てるというのが緊急の課題であって
(それは古今集の選者となった紀貫之と似たような使命感だっただろう)、
そしてそれは儒学との対抗上、武士の精神としてふさわしい「高く直き」「ますらお」ぶりの「もののふ」というものが、
万葉時代からすでに日本古来の美風として存在しており、外来の学問の存在は不要だというような論法に傾かざるを得なかった。
宣長のような、非常な時間と努力を必要とするような方法は、あまりにも回りくどくて、取りえなかっただろうなと思う。
しかも宣長が至った、「大和魂」とは源氏物語や新古今集などに代表されるような「もののあはれを知る」的なものだという結論は、
国学のためには有害無益だと見えたに違いない。

wikipedia や今のネットの「大和魂」説はだいたい小林秀雄の「本居宣長」か、広辞苑に基づいている。
広辞苑の方が常に新しく改訂されているだけあってより正確だ。
だがおおむね、議論は小林秀雄時代で完結してしまっていて、それからたいして進んでない。
しかし、真淵がなぜ「大和魂」という造語を作ったかという考察が抜けているため、話は混乱してしまっている。
さらに、真淵と宣長の立場の違いというものも、小林秀雄を良く読んでない人はたいてい混同してしまっており、
またほとんどすべての人たちは「大和魂」について新渡戸稲造的なイメージしか持ってない。
一番良くわかっている人でも大野晋、小林秀雄らの説までだ。
こんな具合で「やまとだましい」について正確に把握している「やまとびと」は実はほとんどいないという状態になってしまっている、
というおそるべき結論に達してしまう。

ヨドバシ

たしかにヨドバシって、家電量販店な面もありつつ、
カメラ専門店でもあって、かつ自作PCとかもある程度はやってて、
そこは採算的には大したもうけじゃないか知らんが、量販店とかスーパーとかの泥沼の戦いからは距離を置いている。
長期的にはその方が安定してやっていけるということか。
地方郊外型でテレビ白物家電の他はホームセンターと大差ないとことはやっぱ棲み分けてるんだろうが、
ヨドバシ以外はそこまで体力ないか。
というかカメラや自作PCを切ってるところが狙い撃ちにあってるよな。
そこを切るともう、差別化できないから、あとは物量戦に巻き込まれる。
あと、自作PCだけとかになると今度は秋葉とかしか生きていけない。
家電量販+専門店という絶妙なさじ加減なのだろう。
あとヨドバシはスケールメリットもすごいよな。
あんだけのものを作ると後から出店するにもひるむ。
逆に、ちょっと中途半端な規模だと後からもっと大きな店が来るとつぶされる。
プラモやゲームやDVDなどを取り込んでるところもわかってらっしゃる。

やっぱ聖地秋葉原に巨大店を出店したあたりからして、戦略的にかなり前から読んでいたということか。
オタは駅前にしか来ないし。郊外に車で買いにはいかんわな普通。

賀茂真淵の大和魂

[賀茂真淵にいまなび](http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/niimanabi.htm)によれば、

> 女の歌はしも、古は萬づの事丈夫に倣はひしかば、萬葉の女歌は、男歌にいとも異ならず。

> かくて古今歌集をのみまねぶ人あれど、彼れには心及さく巧みに過ぎたる多ければ、下れる世人よひとの癖にて、
その言狹せばく巧めるに心寄りて、高く直き大和魂を忘るめり、とりてそれが下に降くだちに降ち衰えつゝ、終に心狂ほしく、言狹小ささき手振となん成りぬる。

女の歌も古い時代には何事も丈夫であって、万葉の女歌は男歌と大した違いはなかった。
古今集の時代によると言葉を狭く巧むようになって高く直き大和魂を忘れ、だんだんと衰えて言葉狭く小さくなっていった、とある。

> 末の世にも、女をみなにして家を立て、鄙つ女にして仇あたを討ちしなど少なからず。かゝれば、此の大和魂は、女も何か劣れるや。まして武夫ものゝふといはるゝ者の妻、常に忘るまじき事なり。

末の世でも女が家を建てたり、田舎女で仇討ちをしたりするものが少なくない。
このように考えれば大和魂というものも女が劣るというものではなく、
まして武士の妻というものは常に忘れるべきではない、と。

こうしてみると、「大和魂」「大和心」という用例は源氏物語や赤染衛門が初出であるのに、
その精神は万葉時代からすでにあったという論法だ。
確かにそのようなますらおぶりな、高く直き心というものは、古くからあり、また近世の武士にもあるかもしれないが、
それを「大和心」「大和魂」と呼んでしまうと、
中世の用例と齟齬ができてしまう。

いったい全体、賀茂真淵のような用例はいつ頃から誰が言い始めたのだろうか。
賀茂真淵がいきなり始めたこととはとても思えないのだが。
「にひまなび」は1765年成立とあるから、宣長が35才のときにはすでにこのような説があったということだな。
真淵と宣長がはじめて松坂で面会するのは1763年。
国学者が「大和魂」などと言い始めたのはいつかってことは、
たとえば小林秀雄の追求も真淵までで止まっており、そこからさかのぼってはいない。
北畠親房「神皇正統記」、山鹿素行「中朝事実」あたりが怪しいと思うのだが。

うーん。やはり、それらしい思想はすでにあったけれど、
その思想にそのものずばり今日の意味の「大和魂」という言葉を「発明」し当てはめたのは、
やはり賀茂真淵なのかもしれない。
そういうことはうまい人だったのだろう。
宣長は真淵の弟子ということになっているので、
宣長も真淵と同じような意味に「大和魂」という言葉を使ったに違いない、
という誤解はあり得ただろうし、宣長よりは真淵の意味の「大和魂」の方が勇ましくてわかりやすいので、
宣長の主張はかすまざるをえなかったということかもしれん。

地名づくし習作。

> たばこぐさともに飲み食ひするがなる富士のけぶりのけぶたくもあるか

ええっと。「飲み食いする」と「駿河」がかけてあるわけです。

> しらぬひの筑紫しまねの峯の湯の湧き捨つるほど歌は詠まばや

> 蝦夷島の人も通わぬ山の湯におびただしくも湧く歌もがな

> 伊豆山に千とせふりにし走り湯の果つる世もなく歌は湧かなむ

> うつせみの代々木の杜に絶えもせで湧く水のごと歌も出でばや

敷島の大和心の謎まとめ暫定版

結局、「敷島の大和心」に類する宣長の言い回しは発見できず。
とりあえずのまとめ。

44才の時の自画像には「めずらしきこまもろこしの花よりも飽かぬ色香は桜なりけり」
とある。鈴屋集など自選集にもたびたび掲載されている。こちらには山桜も描かれてる。
この年、ものぐるおしいほど異様な桜に対する執着を歌った歌がたくさんある。
この歌と同工異曲だとして補助線としてこの歌を利用することが許されれば、
珍しい外国の花よりも朝日に匂う日本古来の山桜を愛するのが洋才漢才でなく和魂というものだ」と解される。
特に「やまと」を「こまもろこし」に対比させる意味に使っている可能性は宣長自身の用例からかなり高い。
漢意に囚われず大和心をしっかり固めれば外国の花より桜の花の方がずっと良いのだ、ということ。
つまり、自分の桜に対する異常なまでの愛着と国学への心構えを同時に述べたものと考えられなくもない。
たまたま花が例に挙げられているが、さらに広く解釈すれば、
珍しい舶来ものをありがたがらず、日本古来の独自のものを愛するのが大和心だよという、宣長らしい教えにたどり着く。

61才の時の自画像には「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」とある。
還暦を迎えて功成り名を遂げて、弟子も増え、自分の学問も広く世の中に知られるようになり、
ライフワークにも一区切りついて(とは言っても「古事記伝」はまだ脱稿してない)、
後世に残すというつもりで書いたものだろう。
自選集にはない。
ここで、この歌には特に重要な意味があり、またその自画像と切り離せない意味があるために、
自選集に載せなかったという解釈もできるが、
どちらかと言えば、大して重要ではなかった、大してうまいできではなかったので、自選集に入れなかった、と考えた方が良いのではないか。
およそ宣長の歌は読めばすぐに納得の行くわかりやすい歌がほとんどであり、
何かをほのめかしたような、
禅問答のような、
意味不明な歌というものは一生懸命探しても滅多には見つからない。
意味がすっと通らないという意味において、良い歌ではないと判断した可能性が高い。
44才の自画像の歌の補足として考えると極めてわかりやすいのだが。
なので、それ以上の意味はないのかもしれない。

大和心、大和魂などの用例は古くは大鏡、赤染衛門の歌などにある。源氏物語と今昔物語にも一例ずつある。
学問として学んで得た漢籍仏典などの「机上の空論」に対して、日常生活から得られた実体験に基づく「生きた知恵」、
機転や工夫、世の中で生きていく上での才覚、甲斐性みたいな意味に使われている。
具体的には商才、実務を裁く能力、戦争を指導し遂行する能力、災難や危害から逃れる機転や深慮、
家事をやりくりする能力、などのこと。
「やまとうた」は古今集の時代にはすでに表向きの「朝廷における漢学の素養」に対する「日常生活の仲間や親子や男女の間でやりとりされる歌」
という意味に使われていた。
というかそもそも古今仮名序に初めて使われた用語で、漢詩に対してわざわざ断る意味で、「やまと」歌と呼んだわけだ。
ここでもまた外国と日本の対比として使われているが、明らかに宣長の使い方とは違う。
違うけれども、宣長という人は、過去の用例というものに極めて神経質で、最大限に配慮した人だから
(つまり「語釈は緊要にあらず」として、古語を自分の都合の良いように解釈せず、用例を最優先した)、
「外国と日本の対比」という意味合いだけは決して外してないものと考えて間違いないと思う。

近世では滝沢馬琴の椿説弓張月に「事に迫りて死を軽んずるは、大和魂なれど多くは慮の浅きに似て、学ばざるの誤りなり」
とある。発刊は宣長の死後10年くらい。歌舞伎となった。
また桜に対する武士の愛好もまた歌舞伎の忠臣蔵による。
これらのことから「桜のように命を軽んじる」という風潮は遠くは中世の仏教的厭世思想や、葉隠などの武家の思想や、水戸学や国学などが理論的背景にあるが、
主に歌舞伎によって「国民精神」として定着し
宣長の歌もまたそれに飲み込まれていったものと思われる。
宣長の正確で緻密な学術考証はいろんな「思想」に便利に利用されていったが、
彼自身の「思想」はほとんど万人には理解されず受け入れられなかった、と言える。
宣長にとって桜はあくまでも愛でるものであり

> もののふのたけき心も咲く花の色にやはらぐ春の木のもと

というようなものだった。
大和魂を「清く直き心」などと言ったのは賀茂真淵であり、宣長の考え方とは異なる。
宣長は桜に心があるなどとは一度も言ってない。
また、宣長は桜が散るのが嫌いで一年中咲いていれば良いと考えていた。

> 願はくは花のもとにて千代も経むそのきさらぎの盛りながらに

平田篤胤以降の国学は宣長の考えた「大和心」とは根本的に異質なものである。

詠草

カラオケ歌った次の日は、気分は絶不調。

> 蚊も飛ばぬ春の暮れには松が根を枕に我もゑひて寝まほし

> 八千歌を我は残さむもののふの八十路を過ぐるよはひ保たば

いまいち。

やまとごころ

検索してみた。

赤染衛門

> さもあらばあれ やまとごころし かしこくは 細乳(ほそち)につけて あらすばかりぞ

(外国渡来の)学がなくとも利口な人ならば、の意味。

> からくにの もののしるしの くさぐさを やまとごころに ともしとやみむ

舶来の種々の物を、日本人の私の心は、うらやましいと思う、という意味。

> はじめから やまとごころに せばくとも をはりまでやは かたくみゆべき

上の歌の次の歌なのだが、難しい。「心狭し」か。
はじめのうちは度量が小さいが終わりまでは続かないの意味か。

建保名所百首(順徳天皇が催した歌会)

> もろひとも けふこそここに たつのいちや とりどりみゆる やまとごころ

たくさんの人が辰の市に立っている。さまざまに(学問ではない日常的な)工夫が凝らされている、の意味か。

赤染衛門の歌が三つ。後一つは誰かわからん。

大鏡

> あさましき悪事を申し行ひ給へりし罪により、このおとどの御末は御座せぬなり。さるは、大和魂などは、いみじく御座しましたる物を。

分別のある人だったのに、のような意味か。

> かの国に御座しまししほど、刀伊国の物にはかにこの国を討ち取らむとや思ひけむ、越え来たりけるに、筑紫には、かねて用意もなく、大弐殿、弓矢の本末も知り給はねば、いかがと思しけれど、大和心かしこく御座する人にて、筑後・肥前・肥後、九国の人をおこし給ふをばさることにて、府の内に仕うまつる人をさへおしこりて、戦はせ給ひければ、かやつが方のものども、いと多く死にけるは。さはいへど、家高く御座します故に、いみじかりしこと、平げ給へる殿ぞかし。

機転の利く人、のような意味か。

源氏物語

> なほ、才をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ。

学問を基礎とした方が才能も発揮できる、という意味だろう。

ま、いずれにしても、民族精神というような意味合いはないな。
同様に宣長の用法とも違う気がする。