京極為兼

今谷明「京極為兼 忘られぬべき雲の上かは」を読む。
いまいち、ピンとこない本。
この本を読んで、京極派とは何かがわかる人がいるのだろうか。

たぶん、感覚的なものが、人と違っているのだろうが、絵画的、映像的な動きや、音の表現が、
為兼という人にはあるのだよ。

ふと

某所で見かけた指摘だが、

> “跳ね上がらずを得ない”→”跳ね上がらざるを得ない”

古典文法的にはどちらも間違いとは言えないのではなかろうか。
後者の方がふつうだが、前者を間違っていると言う根拠があるか。
まあ、漢文読み下し調なので、和歌には使わないが。

文体

新聞の社説みたいな文章を書くやつがいて、
わざわざ社説みたいな落ちまで付ける。
社説の記者は仕事で仕方なくそういう文章を書いているのだろうが、
そうでもないやつが、なにか美文でも書いているかのように、そのまねをしているのが、
たまに気になる。
ブログとか(笑)。
まあ、他人のブログの文体にけちを付けるなんてのも趣味が悪いわな。

それはそうと社説なんて滅多に読まないわけだが。

それはそうと、画家や詩人で飯が食える人というのは滅多にいない。
しかも埋もれた詩人、正当に評価されてない歌というのはいくらでもある。
映像の世界で生きている人はエンディングロールに名前が残る。
しかし外食産業などでどんなに激務で働いても世の中には何の名前も残らない。
一方で居てもいなくても良い人、
書いても書かなくても良い文章、
そんなものもたくさんある。

永福門院

伏見天皇の中宮で、天皇と共に京極為兼に学ぶ。
京極派最高の歌人の一人とも。

> 過ぎ移る時と風とぞ恨めしき花の心は散らむともせじ

> 風に聞き雲にながむる夕暮れの秋の憂へぞたへずなりゆく

> 夕暮れの庭すさまじき秋風に桐の葉落ちてむらさめぞふる

> 川千鳥月夜を寒みいねずあれや寝覚むるごとにこゑの聞こゆる

> 音せぬがうれしき折りもありけるよたのみ定めて後の夕暮れ

> たまづさにただ一筆と向かへども思ふ心をとどめかねぬる

> 過ぎて行く月日を返すものにあらばこひしきかたをまたもみてまし

> むら雲に隠れあらはれ行く月のはれもくもりも秋ぞかなしき

> 月の姿なほありあけのむら雲にひとそそぎするしぐれをぞ見る

> むらむらに小松混じれる冬枯れの野辺すさまじき夕暮れの雨

> 寒き雨は枯れ野の原に降りしめて山松風の音だにもせず

> 鳥のこゑ松の嵐の音もせず山しづかなる雪の夕暮れ

> 荒れぬ日の夕べの空はのどかにて柳のすゑも春近く見ゆ

> さても我が思ふ思ひよつひにいかに何のかひなきながめのみして

> あやしくも心のうちぞ乱れ行くもの思ふ身とはなさじと思ふに

> とはぬかなとふべきものをいかにあればきのふもけふもまた過ぎぬらむ

> 山あひにおりしづまれる白雲のしばしと見ればはや消えにけり

うーん。ふつう?
確かに京極為兼の影響は見えるが。
伏見天皇の歌も見たが、こちらもごくふつう。
だいたいこの三人しかいないんだよな、京極派って。
結局、為兼が突然変異だった、ということだろう。

あしわけをぶね

宣長の初期の歌論書「あしわけをぶね(排蘆小舟)」だが、検索して見ると、一番古いのは人麿

> みなといりの葦わけを舟さはりおほみわが思ふ人にあはぬころかな

拾遺集に収録。つまりはまあ、本来は葦がたくさん生えた入り江に入った小舟が、
葦を分けながらなかなか前に進めない、或いは目的の港にたどり着けない、というもどかしさを言うもののようだ。
歌の意味としては「差し障りがあって思う人に会えないこの頃だな」という程度。

その後、あしわけをぶねが入る歌はずっと下って、後嵯峨院

> 道あれと難波のことも思へども葦分け小舟すゑぞ通らぬ

これはまあ普通に和歌の道がなかなか進まないということだろう。為藤

> 澄む月のかげさしそへて入り江漕ぐ葦分け小舟秋風ぞ吹く

> 同じ江の葦分け小舟押し返しさのみはいかが憂きにこがれむ

> 漕ぎ出づる葦分け小舟などかまたなごりをとめさはりたにせぬ

ここらはまあ、普通に叙景の小道具として使われている感じで、為世など、
他にも何例かあるが、草庵集(頓阿)

> 漕ぎ出づる葦分け小舟などかまたなごりをとめてさはり絶えせぬ

これは、為藤の歌とほとんど同じだな。

> 波の上の月残らずは難波江の葦分け小舟なほやさはらむ

> 波の上の月を残して難波江の葦分け小舟漕ぎや別れむ

> 有明の月よりほかに残しおきて葦分け小舟ともをしぞおもふ

> 難波江の葦分け小舟しばしだにさはらばなほも月は見てまし

> さりともとわたすみのりをたのむかな葦分け小舟さはりあるみに

とまあ同工異曲というか粗製濫造というか、頓阿は他にもたくさん似たような歌を詠んでいるようだ。
本歌取りするにもほどがある。題詠+本歌取りで自己完結した知的遊戯に走りすぎる。
ここらが確かに二条派の良くないところ。
宣長はたぶん頓阿から影響を受けたのだろうな。
題名に託した意味としてはたぶん、
和歌の道を進む困難さを言いたかった、くらいか。
宣長は確かに、為世や頓阿によく似ている。
二条派の中の二条派だわな。

二条為世の歌

たくさんあるのでとりあえず新千載集から為世の歌。

明けやすき空に残りて夏の夜は入ること知らぬ月のかげかな

夏は月が入るより先に夜が明けてしまう。

あくがるるものと知りてや秋の夜の月は心をまづさそふらむ

恨み侘び夕べは野辺にこゑたてて来ぬつまこひに鹿ぞ鳴くなる

音たててこずゑを払ふ山風もけさよりはげし冬や来ぬらむ

ひさかたの空に積もると見えゆるかなこ高き峰の松の白雪

白波も寄せつるかたにかへるなり人をなにはのあしと思ふな

白波でも心を寄せる方に帰るのだから人を悪く思うな、と。まあ縁語などがそこそこ面白い。

言ひ初めて心変はらばなかなかに契らぬ先ぞこひしかるへき

したもえの我が身よりこそ立てずとも富士のけぶりのたく人は知れ

うーむ。

うつつにはまた越えも見ず思ひ寝の夢路ばかりの逢坂の関

おのづからいつはりならで来るものと思ひ定むる夕暮れもがな

うーむ。

同じ江の葦分けを舟押し返しさのみはいかが憂きにこがれむ

長き夜もひとり起きゐてまどろまぬ老いの友とは月を見るかな

いく夜かは見果てぬ夢のさめぬらむ松の戸叩く峰の嵐に

月かげの夜さすほかはみなと江に行くかたもなきあまの捨て舟

さかのやま照る日のかげの暮れしより同じ心の山に迷ひき

確かに平坦、確かに平凡。幽玄とか有情とか言えばそうかも。題詠なんだろう。これが二条派なんだな。なんか、ドリルを解いてるみたいだよな。頓阿、契沖、宣長に通じる。

定家の前衛的なところとか西行や和泉式部の情熱的なところとかは京極為兼に行き、定家や西行の無情感とかわびさびは二条為世に受け継がれた。こってりと情緒的な京極派は仏教、とくに禅宗が流行った中世の雰囲気には合わずに衰退した。文芸の担い手に僧侶が多かったことも、京極派には災いしただろう。そういう芸術家肌のこってり情緒的な公家文化を担っていけるような余力のある公家というものも、もはや存在しなかった。武士にも愛好されることがなかった。狩野派の絵や茶道のように家元の言う通りに作法を学べば万人にも嗜むことができる、それが二条派。陶芸や書道のように希少性(カリスマ性や芸術性)を要求されるのが京極派。前者をデザインと言えば後者はアートだ。あるいは、前衛的実験的なデザインがアートであり、逆に定型化し普遍化したアートがデザインといえようか。そんなところだろうか。