中世歌論集

最近、岩波文庫「中世歌論集」というのが復刻されたので、新宿アルコットのジュンク堂が閉店するとき買ったのだが、最初に出てくる俊成の古来風体抄、長くて何言ってるのかわかんない。定家の毎月抄、これは短いのだが、やはり何言ってるのかよくわかんない。頭にすっと入っていかない。後鳥羽院御口伝、すげえわかりやすい。なんでみんな後鳥羽院みたいに言いたいことをすかっと言わないのかな。

為兼和歌抄。期待に胸ときめかせて読んでみたが、うーん、さっぱりわかんない。やまと歌も漢詩も同じだとか、理屈は仏法と共通だとか、なんか観念的なことばかり書いてあって、で結局何が言いたいのかよくわからんのだ。天照大神、八幡、賀茂、本地垂迹、仏、菩薩、権現、仁徳、聖武、聖徳太子、みなよろしなどと書いてある。で、最初に挙げられている例がよりによって釈教歌。もちろん、釈教歌がすばらしいと言ってるのではない。和歌も漢詩も仏教もその本質はみな同じだと言いたいのだ。治世にも道徳にも幸福にも役立つなどという。要するに万病に効く御利益のある薬か、八百万の神々みなよろしという論法。なんという大風呂敷。なんといういんちき(笑)。同じことは俊成も言っているから、こういう論法が当時の流行だったのだろう。

で、同語反復、或いは「先達のよまぬ詞」を詠む例として俊成、定家、西行、慈鎮などをあげ、俊成の

見てもまた思へば夢ぞあはれなる憂き世ばかりの迷ひと思へば

今日くれぬ夏の暦を巻き返しなほ春ぞとも思ひなさばや

を挙げている。一つ目の例は「思へば」を二度使っていて、二つ目は「暦」が先達よまぬ詞なのだろう。それはそうと正しくは「今日暮れぬる」ではなかろうか。終止形で一旦切れてるともよめるが。
ああそうか、暮れたのは春なんだ。だから終止形で切れてて良いわけだが。

家隆

あふとみてことぞともなくあけぬなりはかなの夢のわすれがたみや

これも「なし」が同語反復となっているが新古今に採られた、と言っている。他にもいろいろ書いているのだが、よくわからん。最後に

浅香山かげさへみゆる山の井のあさくは人をおもふものかは(あさき心をわれ思はなくに)

の「さへ」が余計だという人がいるが、いややはり必要だ、などと書いているのだが、やはり理屈がよくわからない。作者とされる采女は人妻だから人前に出るのがはばかれてうんぬん。なんじゃそりゃ。

それはそうとこの歌、浅香山の姿さえ映るほど浅い井戸と解釈する人もいるんだな。それから、姿が映ってみえるくらいにきれいな山の井と解釈する人もいる。

思うに明治神宮に清正井というのがあるが、あれは井戸というよりはわき水だ。わき水だから水面はごく浅い。浅くて水があとからあとから湧き出している。だから水は清い。「ゐ」というのは、もともと水くみ場という程度の意味であり、泉にも掘った井戸にも使われていたようだ。いずれにせよ、浅い井戸だから水鏡としても使われているのであろうし、そんな浅い井戸のような浅い心で思っているのではない、浅香山は単なる「アサ」のリフレインと山の井の山のイメージ、と解釈すれば良いだけだと思うのだが、どうも歌論というのは、そういう「ひさかたの」とか「あしびきの」とか「かげさへみゆる」だとか、そういうどうでも良い語句の解釈にああだこうだとこだわるところがある。

岩波古語辞典によれば「あしひきの」とは「足がひきつる」とか「足がなえる」というような意味ではないかという。もしかすると「びっこ」も同語源かもしれんな。「びっこをひく」とも言うし。山を上り下りすると足が疲れるからね。

アルムおじさん一家の謎

アルムおじさんがドムレシュクに帰郷したときのことだが、
ハイジの日本語訳は割とまともなようだが gutenberg の英訳はあまり役に立たない。
それで(わからんなりに)ドイツ語を当たってみるのだが、

> Dann auf einmal erschien er wieder im Domleschg mit einem halb erwachsenen Buben und wollte diesen in der Verwandtschaft unterzubringen suchen.

halb erwachsenen Bub とは「半ば大人の男の子」というのだから、小学校高学年くらいか。
この子供を親戚(Verwandtschaft)に unterbringen (宿泊させる、収容する)、というのだから、親戚に住まわせる、一時的に預かってもらう、
養育してもらうという意味であり、手放して親戚の養子にしてもらう、という意味ではあるまい。
そもそもそんな大きな、もうじき働ける子供を養子に出す理由がない。
子供のない家庭が跡継ぎに(或いは婿養子に)引き取りたがるならともかく。
大きくなって自分で働けるようになったら引き取ろう、それまでの報いは、後に金銭か何かでする、
というつもりだったのではないか。
高校生くらいになれば、立派に自分で働けるから、やはり、トビアスは、せいぜい13、14才くらい、
数年間だけ親戚のところに住まわせてもらおうくらいの感じではなかろうか。

ちうわけで、ニュアンスを少し変えてみた。
つまり、アルムおじさんはハイジやトビアスをやたらと親戚に預けたり手放したりする癖がある、
という見方をやめた。やはり、トビアスやハイジが可愛くて、できれば手元に置いておきたかった、
イタリアからトビアスだけ連れてもどったのも、妻とは別れても子供と別れたくなかった、
ということだろうと解釈してみる。
デーテがハイジを連れてきたときにもあれは一種のツンデレであって、孫はやはり可愛い。
一緒に住んでいるうちに愛着もわく。トビアスの時もだいたいそうだったのに違いない。
トビアスは帰郷時に12才ということにしてみた。
12才というと記憶も自我もはっきりしているから、もし母親と生き別れならば、
母親をよく覚えてもいたろうし、悲しかっただろうし、別れたくはなかっただろう。

アルムおじさんは二人兄弟の長男で次男は失踪してしまった。父母はなくなった。
ドムレシュクの親戚とはおそらく従兄弟(従姉妹)であろう。
何人くらいいたかわからぬが、全部に断られた。
もしかしたら弟が先に戻ってきていたかもしれん。
まあ、嫌われて当然だわな。

> Die Frau muss eine Bündnerin gewesen sein, die er dort unten getroffen und dann bald wieder verloren hatte.

アルムおじさんの妻も同郷、つまりグラウビュンデン州の出身だったに違いない、unten というのはライン川の下流というのではあるまい。マイエンフェルトはグラウビュンデン州では一番北の外れで川下に当たるからだ。
unten は南の方、つまり上流のドムレシュクの方と考えるべきだが、
12年も15年も放浪していて、いきなりドムレシュクに帰ってきて、子供はでかいのに、妻がグラウビュンデンの人で、
素性もしれないとははて、どういうことだろうか。
しかもトビアスを産んですぐ死んだと言っているが、
仮にトビアスが12才だとして、その間息子と二人でどこをどうほっつき歩いていたというのか。
なんか設定が矛盾している気がする。

親子泣き別れの場面

アルプスの少女デーテをまた少しいじった。

アルムおじさんはナポリで事業に失敗して妻と息子のトビアスを連れて、イタリア半島を北へ北へと放浪しはじめる。傭兵時代に知り合ったイタリア人たちを頼りながら。しかし、どこも長くは滞在できず、ミラノまでくる。アルムおじさんは妻とトビアスをイタリアに残して自分だけスイスに戻ろうとする。妻もトビアスと一緒にイタリアに残りたいと思った。スイスには行きたくなかった。

アルムおじさんはトビアスに、自分と一緒にスイスに行くか、母と共にイタリアに残るかどっちかにしろと言った。トビアスは親子が離ればなれになるのは嫌だと言った。どちらも選べなかった。翌朝、母は行方をくらましてしまい、トビアスは仕方なくアルムおじさんと一緒にスイスに戻ることにした。

まあちょっとした愁嘆場を付け足してみたくなったというわけだ。

もともとは、トビアスがまだ幼い頃、ナポリに居たころにアルムおじさんは妻と別れて、それから何年かトビアスと一緒にイタリア各地を放浪した、だからトビアスは母の面影を知らない、という話だった。

なんかこの話なかなか収束しないな。

中島敦の日記と書簡

改めて中島敦の日記を読んでみたが、南洋の見聞と途中で日米開戦の話が挟まる程度であり、
肝心の、パラオに行く直前からパラオに滞在している間に、なぜあれほど著作を残したのか、
という部分は書いてない。
著作活動時期と完全に重なっているのに、残念なことである。
書簡の方が出版社とのやりとりがあったりして、まだましだが、それでもやはり肝心なことは書いてない。
病気や貧乏で小説で多少稼ごうかと思ったのだろうか。

中島敦生誕百年

2009年が中島敦生誕100周年だったせいでこの年に中島敦に関するいろんな出版物が出ているようだ。
まったく知らんかった。

小谷野敦[中島敦殺人事件](http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E6%95%A6%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6-%E5%B0%8F%E8%B0%B7%E9%87%8E-%E6%95%A6/dp/4846009084)

> 中島敦生誕百年で賑わう文藝ジャーナリズムに対して、あんなに寡作でしかも元ネタのある小説をいくつか書いただけの中島敦がそれほど偉い作家なのかという疑問を小説の形で書いたもの。

まったくその通りだ。
寡作とまでは言えないと思うが(実際の活動期間を考えれば、たとえば綿矢りさのほうがずっと少ない。
むしろ中島敦は死ぬ直前のごく短い期間に大量の作品群を執筆している、といえる)、
冷静に世の中に知られている作品だけで言えば、
「元ネタのある小説をいくつか書いただけ」なのであって、
こんなへんてこりんなことはない。
もっといろんな人が指摘すべきだと思う。

[中島敦 生誕100年 永遠に越境する文学](http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E6%95%A6-KAWADE%E9%81%93%E3%81%AE%E6%89%8B%E5%B8%96/dp/4309740235/)
図書館でチラ見しただけなのだが、一番最初に書いてた人が、
中島敦の作品が最初に載ったのは国語の教科書ではなくて漢文の教科書であり、
「弟子」が「論語」の日本語訳として採録されていた、これは私の発見だ、などと書いている。
当時、GHQ的には漢文教育自体は悪くない、論語なら問題ないと判断し(そりゃそうだ、何しろ戦勝国の中には中国がいたのだから)、
戦前の教材が軒並みやられた中で中島敦だけがGHQチェックを通った、ということのようだ。
だいたい、私の予測通りだな。

問題は、GHQが居なくなってもずーっと高校の国語教師が中島敦の漢文調の小説「だけ」を愛好し、
そのため教科書会社がなかなか彼の作品の掲載をやめられなかった、と言ってることで、
おそらく国語教師は、中島敦の小説をバーンと高校生にぶつけて、生徒が皆ショックを受けるのが面白くてしかたなかったのであろう。
そこで教師が得意げに解説すると、ははあ、やっぱり高校の先生ってすごいんだなあ、と思うわけだ。
はっきり言って、わかってない。中島敦のことがわかってない。
そういうちゃらい目的に使われては中島敦がかわいそう。

もし中島敦の霊が今の国語教育を見たとしたら半ば嬉しくもあり、しかし半ば落胆するだろう。

さらに深読みすると、中島敦は、南洋庁の役人として、現地人の教科書を作るためにパラオに赴任している。
それと、一連の小説を書いている時期がぴたりと一致している。
もしかして、「弟子」「山月記」「李陵」などの、漢籍に由来する作品群は、もともと、教科書に載せる教材として書いたものなのではないか。
パラオの人々に日本語や漢文を学ばせる、初等国語はともかくとして、やや高等な国語を学ばせる。
たとえばパラオ人の中から内地でも働けるような高級官僚を育てようと。日本とパラオの橋渡しができるような。
それには古典の教養が必要だ。
しかし、いきなり古典を読ませてもわからんから、かみ砕いた現代語に直してみよう。
そういうつもりで書いたのではなかろうか、そんな気がしてならない。
それが戦後、そのまま日本人の国語教育に使われたのではあるまいか。

しかし、中島敦は言っている、「戦時中で、食料も満足に調達できなくなってきているのに、教科書だけ多少立派にしてもなんにもならない。
むしろ、昔どおりの生活のままにほうっておいた方が彼らはどれだけ幸せかわからない。」
そして中島敦は教科書作りにだんだんと興味を失ってしまう。

でまあ、そう仮定すると、文章だけやたらと立派で、大してオリジナリティのない短編作品をなぜいきなり彼が書き始めたのか、
すとんと腑に落ちるのである。