吾輩は猫である

仕方ないので『吾輩は猫である』を頭から通して読み始めた。

つい最近草枕4というものを書いたが、『草枕』が温泉旅館の女将を画工の目から見て描いた、当時流行っていた一種の暴露小説というか、自然主義小説というか、私小説の類いであって、また画工も漱石自身のカリカチュアであって、要するに『草枕』は漱石の自分語りというか、自分の実生活から取材してそれをそのまんまネタにした(当時の)現代小説である。

これに対して森鴎外の『阿部一族』などは全く別種の、純粋な歴史小説であり、ある対象を客観的に(あたかも医者が患者を観察するかのような視点で)記録したドキュメンタリーである。

『猫』は『草枕』とまったく同じで、猫の視点から描いた漱石そのものだ。漱石は教師をやったり、正岡子規と一緒に俳句を詠んだり、水彩画に凝ったり、新体詩を作ったり、バイオリンを弾いたりと、いろんなことを試してみるがどれも世間で評判になることはない、要するに世間によくいる、人よりもちょっとばかり高級な教育を受けたおっさんの一人、教養人の一人であった(そういう人を高等遊民というのはちょっと間違っていると思う)。それで、世間ではやはり小説を書くのが流行っていたので、ホトトギスを主宰している子規から勧められて小説を書いてみることになった。そしたら非常に好評だったので八話まで連載することになった。『猫』はただそれだけのものだ。

『猫』を読めば漱石が常日頃持病の胃弱に苦しめられており、知人にいろいろ勧められて試してみてもどれも効果がなかったことなど、彼の日常がそのまま書かれている。彼の妻、子供たち、使用人ら、付き合いのある友人ら、彼の仕事、日露戦争当時の世情などが、多少おもしろおかしく改変されてそのまま出てくる。なんのことはない、これは田山花袋の『蒲団』と同じでただの私小説だ。むしろエッセイに近い。ホトトギスという雑誌は新聞のように一般大衆が読むものではなかったのに違いない。それでも当時文芸に携わっている人はほとんどもれなく読んで、それでやっと漱石が世間に知られたというわけだ。そのことまでが全部第二話には書かれている。

国会図書館デジタルライブラリでホトトギスの誌面も見てみたのだが、筆名は「漱石」とだけ書かれていて、これが子規の友人である夏目金之助という人だとはすぐにはわからない、最初はほとんど匿名に近い投稿だったと思われる。挿絵が入っているのだが、これがまた話とは何の関係もない、日露戦争とか朝鮮の絵なのがおかしい。この挿絵、とっくに著作権保護期間は過ぎているはずだが、公開範囲は「送信サービスで閲覧可能」になっているからここに貼ることはできない。

漱石は私小説『猫』を書いてそれがたまたま当たったので『坊っちゃん』を書いた。『坊っちゃん』もまた私小説ではあるが、だいぶ脚色されている。それで『坊っちゃん』も当たったので今度は少しひねって『草枕』を書いたがこれまた一種の私小説であった(『草枕』はモデルとなった女性については漱石の妻が詳しく記述しているし、漱石が温泉を訪れた時のことも詳しく調べられているから、どういう素材をどういうふうに加工してああなったのか、分析するのにちょうど良い)。『草枕』も、評判は悪くはなかったがそれほど当たらなかった。自分自身のネタがだんだん尽きてきたので今度は他人を取材して『坑夫』を書いた。しかし『坑夫』にもある程度漱石自身が投影されているように思える。たぶん自己の体験と取材対象からの聞き取りを適当に混ぜ合わせて話を作ったのだろう(私が一番しっかりと、たびたび読み返したのは漱石の作品は『坑夫』である。だから『坑夫』のことは漱石の作品の中では一番良く知っている)。

でまあこのあたりで教員をやめて朝日新聞専属の作家になったりしたもんだから、まじめに(?)小説を書き始めた結果が『こころ』などになった。夏目漱石という人はただそれだけの人だったように思う。

それで、普通の人は、高校生くらいで教科書で『こころ』を読まされて、それで『猫』の冒頭部分やら『坊っちゃん』などをちょろっと読んで、あー俺も夏目漱石わかるわかると思って、夏目漱石という人は偉い人だな、俺にもわかるわーとか思って、それ以上漱石とはどんな人だったかなんてことは深くは考えない。『猫』にしても全部を通して読んだりしない。読んだとしてもさらっと流し読みしてそのまんま忘れている。要するに社会的に記号化された、記号としての漱石は知っているが、漱石とは何かというところまでは考えたりしない。試験に出るから覚えているだけのことだ。小林秀雄にしてもそうだ。世間で偉い文芸評論家だというから、ちらりと読んでみて、記号としての小林秀雄を知っているだけで、なぜこの人はこんなことを書こうと思ったんだろうというところまでは考えない。小林秀雄は漱石ほど頻繁に名前が挙がることはなく試験に出る頻度も少ないから知らない人は知らない。逆に漱石はみんなが知っている。ただそれだけのことなのではないか。

ほとんど無名時代の漱石が、ほとんど匿名で寄稿したこの一話読み切りの『猫』を当時の感覚で読んでみないことには『猫』を玩味することはできないと思うのだ。予備知識や先入観をできるだけ捨てて。そうしないと漱石という人がわかってこない。

『猫』で、猫の絵を描いているのだが目が描かれてないとか、猫なのか熊なのかわからないとか、色も全然違うとか、人の描いた絵を見ても何が描かれているか察することができないとか、そういうのは漱石が自分の絵を人に見せて言われたことをそのまま書いているのだろう。実際漱石は目を描くのが下手だと思う。目を描けない、顔や表情を描けないのでは絵描きになることはできまい。

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