社畜教育の終焉?

そろそろかな入力をやめてローマ字入力にしようかとも考えているのだが。
いやしかしもう三十年近くかな入力してきたので、簡単にはいかぬ。

我々は来るべき未来におびえているようだが、
案外明るい未来が、やっと到来するようにもおもえる。
電力業界も、製造業も、出版放送業界も、いずれも驚くほど類似した形で崩壊しつつある。

マスメディアはwebに収束していくだろう。
ライターや編集、クリエイターなどという仕事は残るが、
彼らはこれから勝手にwebに作品を発表していけば良い。
会社はますます正社員を就業規則でしばり、または契約社員というかたちで組織からアウトソーシングしようとする。
一方でフリーランスの自由度と重要性は増していくはずだ。
大手の大会社が今まで「社内フリーランス」とでも言える人材を、
それより圧倒的多数の「給料泥棒」たちといっしょくたにして安月給で抱え込んでいた、
しかしその体制はもうもたない。
そういう形の大企業、コミュニティとしての大企業は消滅する。
真の大企業は世界企業だけになる。
そのシェアにみあったサイズにまで成長する。
それ以外の企業はすべて中小企業になるしかない。
有象無象の社員をプールしておいて大企業の体裁を整えることはもうできない。
契約社員と正社員を分け、アウトソーシングし始めたときからこうなることは明らかだったのだ。

電力も独占企業が発電・配電するのではなくなる。

製造業はますますスケールメリットが効かなくなり、特に日本の場合、
正社員をたくさん抱え込む大企業ではなく、小回りが効く技術をもった中堅企業が元気になるだろう。

大手志向と新卒採用と終身雇用がいっぺんに崩れる。
そうなると大学教育も変わる。
大学教育が変われなかったのは「大手志向」「新卒採用」「終身雇用」の三位一体セットがあったからだ。
今でも就職課やゼミの評価は、大手に新卒でどのくらい入れたかという基準ではかられている。
しかしそれももう長くは続かない。

大学教育における就職実績のクライテリア自体がこれから変わる。
大学の存在理由自体を変えてしまう大変革だ。
しかしそれに気づいている人はあまりにも少ない。

個人で、CGなりプログラミングなりの確かな技能を持った、
さらに欲を言えば企画プレゼン能力も備えた、
いわば渡り職人のような人材が評価されるような時代が、
やっと日本にも実現するかもしれん。
そして大学教育も真の専門教育機関になれるのではないか。

今までは大学でどんなに高度な教育を行い技能を身につけさせても企業の中でそれらは一旦すべて否定され、
会社の都合で勝手な部署に配属された。
技術職は下請けや孫請けなどの最低辺の職種に丸投げされた。
技術を誇るものはバカにされた。
そういう企業ばかりだから日本の大学は健全な教育ができないのだ。
大学教育を変えれば社会が変わるのではない、残念ながら日本の大学にそんな力はない。

だが、これから大学は胸をはってまっとうな人材を育てれば良い。
そう思うと気が楽だ。
実を言えば今まで卒業していく学生たちが不憫でならなかった。
いくら最先端の優れた技術を身につけても、社会がそれを評価しない。
劣悪な環境で働かされる。
彼らを社会に送り出すのが怖かった。
彼らのためにあえて社畜となる教育をせねばならないのか、と悩みもした。
しかしこれからはそんな良心の呵責を感じずにすむ時代がくるかもしれない。

今の売れる小説というのは、
ひとつにはラノベ、
ひとつにはミステリー、
もう一つにはテレビドラマの原作になるような、気取ったシチュエーションに、
男女が葉の浮くような台詞を並べた恋愛小説、なのだろうと思う。
最後のやつはつまり吉本ばななや村上春樹のようなもの(読んだことなくて知らんが)、
三浦しをんはそれを現代的ラノベ的に若干アレンジしたもの、と言えるだろう。
需要があるのだから仕方ない。

断片のメモ書き

最近パブーがずいぶん軽くなったのではないか。
サーバーを増強したのだろうか。
あまりに快適でパブーらしくない(笑)
パブーというサービスがこれからも順調に提供されていくことはありがたい。

若い頃から小説は書きたいと思っていたが、書いてみると自己嫌悪に陥るので書かずにいた。
一昨年くらいから急にこつをつかんだような気がして、小説を書き始めたのだが、だんだんにかけなくなった。
最初はネタが切れたのかと思ったがそういうわけでもない。
ネタはなくもない。時間とともに勝手にたまっていくのだけど、やはりコツがつかめずにいるのである。

自分が書くべきことはだいたいこの辺だろうと目安ができてきた。
この辺に餌をまけばどういう魚が当たるかということも少しわかる。
しかし、そうやって範囲を狭め制約を増やすということは書くことをずっと難しくしてしまう。

以前は書きながらストーリーを考え、考えながらストーリーがどんどん変わっていく。
または、一度書いたものを全部捨てたりもした。
そりゃ仕方ない。書き慣れてないのだから。
書き慣れてくると今度はなかなか書き出せない。
自分という人間がどんな小説を書くのかというのがわかってくると今度はそれを目標に書くようになる。
試行錯誤や無駄うちをしない分、頭の中に完成像ができあがるまでかけない。
しかしそれではどんどんディテイルを忘れてしまうから、メモ書き程度の断片をどんどん書いておく必要があるだろう。
脳の中でパイプラインの分業をやり、脳の外にときどきたまったバッファを書き出すようなものだ。
今までは「一つの自我」がすべてを「無意識」にやっていた。
しかし今ではその作業の多くが「意識」の上にあらわれてきて、複数の「意識」と「無意識」が分業して、
それらの「調整」が必要になった。
そういう書き方を今までしたことないからうまくかけないのだろう。

もう一つ。
以前は、自分で読んで面白いと思える小説がないから自分で書くことにした。
自分で書いた小説というものが一応世の中に存在するようになると、今度は、
それよりもっと面白い小説が欲しくなる。
要求のレベルがあがってしまう。
それもかけなくなる理由の一つだと思う。

副業や趣味の効用

いわゆる本業というものがあるとしよう。
本業をずっと愛し続けられる人もいるかもしれないが、
私の場合、それよか転職の方が好きで、
或いは頻繁にジョブチェンジしていないと遠からず飽きが来る。

ところが転職というものは、若い頃とか景気の良い時代にはわりと気易くできるが、
年をとり、または不景気な時代にはなかなかできないものだ。
転職なしで、転職と同じくらいの刺激を毎年相も変わらぬ仕事から得ようとすると、
ますます極端に、ますます細かなことに走らなくてはならないが、
それがさらに迷走感につながる。

だから、本業から刺激を受けようとしてはならないのではなかろうか。
本業というものは、ある一定の要求に対してある一定の成果を出すものと割り切るべきなのではないか。

それよりか、副業や趣味のようなものが、自己に対する刺激をコントロールしやすい。
のめり込みすぎて煮詰まることも少ない。
運が良ければ副業や趣味の方が本業より稼げるようになり、
結果的に転職を可能にしてくれるかもしれない。

円心

昔、円心という架空の坊さんの話を書いたのだが、
赤松則村という、南北朝時代の有名な武将の法名が円心というのだった。

坊さんの名前を新しく思いつくのは不可能なのではないかと思う。
むだな抵抗はしない方がよい。

国際問題と国内問題

捕鯨問題にしろ領土問題にしろ、多くの日本人はこれらを国際問題だと考えているが、
実際にはその大半は国内問題なのだ。

国際的な喧嘩になると、日本人の中には、そんなアメリカ様やヨーロッパ先進諸国や、
アジアの隣国ともめるくらいなら譲歩しましょうとよとか、必ず言い出すやつが出てくる。
そのメンタリティは結局は、言うこと聞かない外国がいるなら征伐してしまえ、というものと裏返しなだけだ。

国際問題をきちんとネゴシエートして解決していきましょうというのがめんどくさいだけ、
日本人は日本に閉じこもって外国の面倒に向き合いたくないだけなのだ。

ある女性の中国人の留学生がいた。
彼女は非常に慎ましく穏やかな人だった。
しかし、彼女に連れられて中国本土、とくに彼女の生まれ故郷の町にいくと、
彼女は非常に強い女性になり、
タクシーの運転手と喧嘩しはじめてびっくりした。
しかし彼らの間ではそれは単なる運賃の交渉なのであり、日常茶飯事なのである。
中国人はそうやってけんか腰で自分の民族や多民族と交渉をし、場合によっては武力に訴えることもあるかもしれん。

しかし日本人の場合、たちが悪いのは、
にこにこおとなしそうなのに、
ある譲歩できない限度を超えるといきなりぶち切れて殴りかかってしまうことだ。
そんなに怒っているなら怒っていると最初から言えばいいのだ。

中国人は、或いは中東の人たちなどは、真の国際人だから、
国内問題と国際問題を分ける習慣がそもそもない。

日本人が国内できちんとコンセンサスを取り毅然とした態度で向かえば、
たいていの国はそれを理解して対応してくれる。
日本に対して挑発してくるのは日本の中でしなくても良いのに勝手に譲歩するやつがでてくるからだ。

人口わずかに四百万人のノルウェーですら毅然とした態度で商業捕鯨しているではないか。
あれは国全体が捕鯨で食っていくというコンセンサスがとれているからだ。
日本人は一億人以上いるのにクジラなんて食わなくてもいいとか、
アメリカやオーストラリアから牛肉輸入して食ったほうがうまいとか言い出すやつが大勢いる。
だからつけ込まれるのである。

尖閣諸島とか竹島の問題も捕鯨問題とまったく同じだ。
日本人は日清戦争以来何も学んでいないように思える。