来たるべき日曜日 他6編

うーん。
短編集の二話目まで読んだ。

悪くないが、これはなんか、ギャグ漫画を文字おこしした感じだな。
展開が現実離れしてて、しらける。
マンガとしてならさらっと楽しめるかもしれんが・・・。

日本刀は折れないと思う。
曲がるだけだ。
なんだ頭で考えて作った話かと、しらけた。
そこでもう、話にのめりこめなくなった。

如月の望月の花

> 願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ

西行の命日(とされている日)はグレゴリオ暦だと、3月23日。
旧暦で如月の望月というのはちょうど春分くらい。

西行はだいたい春分(3月20日か21日)くらいをあてにしてこの歌を詠んでいるはずだ。

春分に咲く桜の花はなくもないが、かなり早咲きのほうである。
どうもこの花というのは桜ではない。
梅か、桃ではないか。

西行は確かに桜、特に山桜の歌を詠んでいる。
ヤマザクラの開花時期は春分頃ではない。
とくに吉野のような山の奥のほうのヤマザクラは、
よっぽど異常気象じゃない限り、春分には満開にはならない。

山家集の中の配置を見ると桜のようではあるが、しかし、梅の歌も西行はたくさん詠んでいるから、
梅の可能性はなくもない。
桃の歌はなくはないが少ないので桃ではあるまい。

どうもみんなしてだまされているようだ。

五・七五・七七

> 思ひきや ひなのわかれに おとろへて あまのなはたぎ いさりせむとは

倒置表現というのは、万葉時代にもあったわけである。
ただし、初句切れの倒置表現というのは、小野篁が最初かも知れない。
万葉時代のはだいたい二句切れで、

> こころゆも われはおもはずき またさらに わがふるさとに かへりこむとは

のようになる。

で、これは小野篁が漢文の語順を輸入したからだというのが、
丸谷才一の説だが、
その可能性はないとはいえないが、たぶん違う理由だと思う。

万葉時代は基本的に五七調なので、
初句切れということはまずあり得ない。
二句切れか四区切れになる。
ところが古今集の時代になると、七五調が主流になる。
短歌形式ではわかりにくいが長歌には如実にその傾向が現れている。

七五調になると、二句目と三句目のつながりが強くなる。
そこで初句が浮いた形になって初句切れというものができてくる。
二句三句が強く結びついたせいで、上三句(発句)と下二句(付句)に分かれる傾向が強くなり、
連歌となり、発句だけが残って俳句となる。

平安末期の今様とかそれからのちの歌舞伎の歌詞なんかも、
そして童謡や軍歌や、今の演歌なんかも、
ほとんどが七五・七五・・・となっている。

そんで、初句切れは七五調と相性がいいから、普及したのであり、
漢文語順で効果が斬新だからみんながまねして使われるようになったとは思えない。
特にほとんどの女はそんな漢文とか知らないんだから、漢文っぽい和歌なんて詠むはずがない。

初句切れの倒置表現というのは非常に多い。
「思ひきや」「知るらめや」「忘れめや」「ちぎりきな」「みせばやな」
こういうの使いこなせるようになると、なんか急に和歌がうまくなったように錯覚する。

発句がひとかたまりになってしまい、付句が弱いとものすごく弱いかんじになる。
いわゆる腰折れというやつで、それが昂じて俳句になってしまう。
もう下の句要らんよねということになる。

そこをまあ、枠構造というんですか。
ドイツ語にあるような枠構造というのは、
歌全体の統一感を高めてくれるんですよね。
伏線回収とも言うかも知れない。
初句と付句が七五の二句三句を挟み込む形になって、
非常に安定する。
初句が枕詞になったり、
枕詞ではないが何かのあまり深い意味の無いことばになったり。
或いは初句と付句が倒置表現になったりする。
特に初心者なんかはそれを意識して詠んだ方が、
割と簡単に良い歌が詠めたりするから便利なんじゃなかろうか、
などと思ってしまう。

万葉時代が五七調なのは、単に、もともと長歌というものは、
五七・五七・五七・・・と続けるものだったからだ。
見てみると、五七五七七ではなく五七五七七七というものけっこうある。
仏足石歌というのだな。
まあ、五七で来て、〆に七を重ねたのが長歌で、
さらに七を重ねたのが仏足石歌。

五七だと、五と七の間に間が空く。
声に出して詠めばすぐに気がつくこと。
これは、呼びかけ、語りかけの場合には、
相手が気づくのを待つ、
こちらの呼びかけの意味を理解する、
その間だという気がする。
相手が聞いた。それを理解した。それから続ける。
今の会話でもそういうことはある。
「いいかい、」とか「ほらね、」とかまず短く相手の注意を引くわけで、
注意を引いたところで言いたいことを継ぐ。
呼びかけだから、特に意味は無くて良い。だから枕詞のようなものが使われる。
枕詞だと次に来る語がだいたい予想つくから、余計に呼びかけには都合がよいわけだ。
「ひのもとの」とくれば「やまと」とくる。
冗長であるが、これもまた語りかけのプロトコルだと思えばリーズナブルだ。
今で言う、ヘッダーみたいなもの。

五七・五七・七ってのはだから、
ヘッダーとメイン、ヘッダーとメイン、フッターみたいなもんだと思えばいい。

政治家の街頭演説もだいたいそんな風にできている。
歌とは本来、訴えるひとから聴衆への語りかけだからだ。
「ねえ、みなさん」「なんとかかんとかでしょう。」
そこでいったん聴衆の反応を見て、
「ですから、」「これこれなわけなんですよねえ。」
それの繰り返し。
たぶんなんかの話術のテクニックとして学んだもんじゃない。
自然と語りかけとはそうなるもんだ。

五で相手の気をひいておいて七でつなぐ。
ふたたび五で気をひいて七でつなぐ。
それが五七調なんだが、
楽器の伴奏なんかが入ってくるとそういう相手とのやりとりというのかな。
プロトコルが必要なくなるじゃないですか。
むしろリズムの方が重要になる。
リズム、テンポという意味では七五調のほうがずっとなめらか。
あと、文字に書いた歌には、やはりそういう相手の気を引く、相手がこちらの語りかけに気づくための間がやはり要らない。
むしろ間があるとじゃまな感じがする。

だから、言葉だけの時代から、
奏楽と文字の時代に移って、
五七が七五に逆転したのだと思う。

おそらく外国の詩歌にも類例はあるはずだ。
探してみたいもんだ。

古今集の時代

古今集は平城天皇から醍醐天皇までの歌集なんだが、
平城天皇の歌が残っているのは、たぶん、
平城天皇から在原氏が出て、在原行平が宇多天皇から歌を集めるように依頼されたからだろう。

次の嵯峨天皇は和歌には何のシンパシーもなかった。
嵯峨、淳和、仁明、文徳、清和、陽成の六代は和歌の低迷期であった。
この時代のことはほとんど忘れられて、知られてない。

特に嵯峨天皇が即位してから崩御するまでの三十年間くらいは暗黒時代といってよく、
この時代に歌人だったといえるのは、小野篁と在原行平くらい。

仁明天皇から光孝天皇の代というのは藤原良房と基経の時代であった。
この時代に登場してくるのが、
僧正遍昭、文屋康秀、在原業平、小野小町であり、
(あまりにも情報が少なすぎてわけわからんが)喜撰と大伴黒主もこの時代であろうと考えられる。
つまり六歌仙の時代である。
六歌仙の時代とは良房・基経の時代であり、伊勢物語の時代である。
遍昭は桓武天皇の後胤、業平は平城天皇の後胤であるから、
比較的身分が高く、歌もよく残っているが、
あとはよくわからない。
ともかくこの時代は和歌の低迷期で、
六歌仙に関する情報も断片的にしか残ってない。
この時代の情報はノイズに埋もれかけており、間違っているものも多いと思う。

で、光孝天皇が和歌を復興させはじめる。
いよいよ本格的な古今集の時代が始まる。
宇多天皇はそれを加速させ、上皇時代にほぼ完成させる。
その成果が古今集となるのだが、
この時代の歌人というのが、いわゆる古今集の撰者たちであり、
紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑。
あとは素性法師、菅原道真、伊勢、藤原敏行。

素性法師は僧正遍昭の息子だからまあいいとする。
菅原道真もまあ古くからの公卿の家柄。
あとがよくわからない。
紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、伊勢。
これらは殿上人未満の下級役人だったが、
光孝天皇という人は苦労人で下積みが長かったし、
宇多天皇は臣籍降下までした人だったから、そういう地下にいて、
才能ある人によく気がついて、抜擢したということだろうと思う。

その時期はわりと遅く、おそらくは菅原道真が失脚し、
宇多天皇が上皇になった後だろう。
もともと宇多天皇は菅原道真、在原行平、是貞親王あたりに歌の蒐集・編纂をやらせようとした形跡があるからである。
業平の妻が紀名虎の孫(紀有常の娘)だった関係で、在原氏と紀氏は当時比較的近く、
おそらく有常が仲介となって業平と友則がつながり、
貫之、躬恒、忠岑、伊勢らはもともと下級役人仲間でつるんでいたか。
実際古今集の歌人で全然どんな人か知られてない人がたくさんいるのだが、
そういう連中もおそらくこの階層の人たちだ。

藤原敏行の妻も有常の娘である。

たぶんもともとは友則が選者の第一人者だった。
延喜五年というのがだいたいそのタイミング。
何らかの理由で、
友則をリスペクトするために、彼が生きていた時代に勅撰があった、
としたいのだと思う。

六歌仙時代の歌というのは、伊勢物語を中心にして、なんとなくもやっと、
伝説的に残っていた。
業平、二条后、惟喬親王、源融、良房、基経、遍昭、文屋康秀、小野小町。
政治的には非常にどろどろとした時代であり、
その雰囲気が古今集にも投影されている。
暗かった旧き悪しき時代というイメージ。

有常、貫之、友則の関係は少しわかりにくい。
ずっと祖先に紀勝長がいた。
勝長の子に名虎と興長がいた。
名虎の子が有常。
興長の子が本道。
本道の子が有友と望行。
有友の子が友則で、望行の子が貫之。

古今集の真名序を書いた人というのが、
紀淑望なのだが、彼と貫之らとの家系の関係はよくわからん。
同じ紀氏ではあろうが。
で、淑望はけっこう早死にしている。
宇多天皇や貫之より先に死んでいる。
てことはたまたま漢文が書けたというので、
おまえ古今集の序文書けとか言われて、
古今集ができた直後くらいに(つまり亭子院歌合の直後くらいに)、
いろいろ調べて書いた人なのだろう。
彼の時代までくると六歌仙の時代というのは伝聞であり、伝承であって、
よくわからなかったはずだ。
宇多天皇にも貫之にもよくはわからん。
伊勢物語の原型になったような、大鏡的な歴史書(日記?)があった可能性がある。
さらにもっと時代が下ってから、仮名序は書かれたはずであり、
ゆえにあのような支離滅裂な文章になってしまった。

源氏を賜った皇女

普通、皇女や内親王は、一般人と結婚するときに、
皇籍を離脱して、そのまま夫の姓になる。

たとえば、清子内親王は、結婚したあと、
区役所に婚姻届を出したと同時に皇籍離脱して、黒田という姓になったことになっているようだ。
これが「臣籍降嫁」というものだろう。
だから、清子内親王がいったん「臣籍降下」して、
たとえば源清子という名前になり、
源清子が一般人として婚姻して黒田清子になったわけではない。
もしそうなら一時的にも、昭和源氏というものが生まれたことになる。

或いは皇族以外と婚姻しても内親王などの身分はそのままで、
厳密には姓がない、のか。

だが、女性でも源氏をたまわって臣籍降下した人いる。
たまたま見つけた。
[源潔姫](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BD%94%E5%A7%AB)
という人だ。
しかしいくらなんでも四歳で良房の妻になったりするのだろうか。

他にも例があるのだろうか。
ああ、嵯峨天皇の皇女には源氏を賜った人がたくさんいるな。
光孝天皇や宇多天皇にもいるな。
[源順子](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%86%E5%AD%90)
とか。

ついでだが、
宮家の場合は「親王」ではなくて「王」なのだな(間違った。「親王」の場合もある)。
で、厳密には姓があるのかないのかよくわからない。
宮家から皇籍離脱したときには、たしかに宮家を姓とするように思われる。

ふむ。宮号というのは、称号であって姓ではないようだ。
しかも宮家の当主で皇族男子しか宮号は用いないのだから、やはり姓ではない。

つまり宮家というのは、普通に皇族(変な言い方だが)なわけだ。

ふむ。たとえば、
伏見宮博明王は伏見博明という名前になったわけだ。