おもひきや

丸谷才一が『新々百人一首』で、
小野篁の歌

> 思ひきやひなのわかれにおとろへてあまのなはたきいさりせむとは

この「おもひきや・・・とは」という倒置表現が、
漢詩の語順の影響だというのだが、はてどうだろう。
たしかに冒頭いきなり「おもひきや」とやったのは、調べた限りでは小野篁が初出のようではあるが。

> こころゆも われはおもはずき またさらに わがふるさとに かへりこむとは

> こころゆも われはおもはずき やまかはも へだたらなくに かくこひむとは

> やまとには きこえもゆくか おほがのの たかはかりしき いほりせりとは

> うつつにも いめにもわれは おもはずき ふりたるきみに ここにあはむとは

まあ、類似した倒置表現ならば万葉集にもあるわけだが。

しかしいきなり「思ひきや」で切ったのは新しい表現だったかもしれんね。
いや、探せば出てくる可能性はあるがね。

> ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは

これも倒置だわな。
小野篁が隠岐の島に流されたのよりは後だが。

> 月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身一つはもとの身にして

これもやはり業平なんで小野篁よりは後なわけだが。
もしかすると古歌かもしれんがね。

ましかし初句切れは万葉集にはまず出ないよな。

あとは「知るらめや」とか「忘らめや」とかもあるわな。

> はるやとき花やおそきとききわかむ鶯だにもなかすもあるかな

> めづらしや昔ながらの山の井はしづめる影そくちはてにける

> 春やこし秋やゆきけんおほつかな影の朽木と世をすくす身は

これも初句切れ。

亭子院歌合

勝、負、持(ぢ)は引き分け。

> 左の奏は巳時にたてまつる。
方の宮たち、みな装束めでたくして、州浜たてまつる。
大夫四人かけり。

> 右の州浜は午時にたてまつる。
おほきなるわらは四人、みづらゆひ、しがいはきてかけり。

かけり、というのは担いだという意味で、
神輿のようにして四人がかりで州浜を担いだ、と言っている。
州浜が未だによくわからんが、やはり巨大な生け花のようなものだったように思う。

寛平菊合でも州浜に菊を挿すなどという話がでてくる。

> 左 貫之

> さくらばなちりぬるかぜのなごりにはみづなきそらになみぞながるる

> 右 貫之

> みなぞこにはるやくるらんみよしののよしののかはにかはづなくなり

> みぎかつ。うちの御うた、いかでかはまけむ、となんのたまひける。

州浜が入るのも、奏楽があるのも、歌を詠むのも左→右の順番のようである。

左も右も同じ歌人なのはどうなのかと思うのだが、
同じ亭子院歌合ではそういう例がいくつもあるので、
同一人物が判者(この場合は宇多上皇)にどちらが良いか決めてもらうという意味か。
「うちの御うた、いかでかはまけむ、となんのたまひける」がわかりにくい。
貫之の、右の方が良いが、私の歌なら負けなかっただろう、という意味か。
この詞書きのせいでこの歌が宇多天皇の御製に間違われ、
さらに醍醐天皇の歌に間違われたのだろう。
思うに、貫之の歌というのが一番自然だ。
宇多天皇はこういう、見もしないみよしのの歌なんて歌わない気がする。
気がするだけだが。

丸谷才一は、だがたとえそうだとしても、勅撰集に醍醐天皇御製として採られているからには、
醍醐天皇の作とすべきだ、などと言っていて、そんなはずはないと思う。
どこからそんな考え方がでてくるのか。

室町時代の勅撰集はそういうことをよくする。
詠み人知らずの歌を猿丸大夫の歌だとかよくわからんことをする。
けしからんことである。
「王朝文化」というのはそういう江戸時代や室町時代から古代を眺めたフィルターのかかったものではないはず。
それは結局、王朝時代の価値観ではなく、江戸時代の価値観にすぎないからで、
現代人が王朝時代を江戸時代の価値観で眺める必要などない。
古いものが神秘的でありがたく見えるのは人間の習性にすぎない。
実際昔の方が迷信深くて信心深かっただろうが、
なんでもかんでもそんなふうに解釈するのは間違っている。
丸谷才一も結局は「古今伝授」と同じ病気にかかっている。
古今伝授といってもそれは紀貫之が考えていたこととは似ても似つかぬものだ。
紀貫之をありがたがるなら古今伝授などというもので紀貫之の姿がゆがめられていることを排除し、当時彼らがどのようなものの考え方をしていたかを推し量るべきではなかろうか。

王朝とか新古今とかいいながら、
実は江戸時代や現代人の価値観で王朝とか新古今とか言ってるだけではないか。
だから、王朝文化は新古今で死んだとかいいたくなる。
江戸時代にも王朝文化は続いていた。
連続性はあった。
古今伝授のような迷信のせいで不連続に見えるだけではないのか。

> 左 御

> はるかぜのふかぬよひだにあらませばこころのどかにはなはみてまし

> ひだりはうちの御うたなりけり、まさにまけむやは

「ひだりはうちの御うたなりけり」左は実は御製だったのだ、負けるはずがない。
判定は誰が詠んだかわからぬ状態でやるらしい。
ま、その方が公平だわな。
詠み手とは別の人がよみあげ係をやる。
で、判者が宇多上皇だから、本人は自分の歌が勝ちと判定するから負けるはずがない、
とまあそんな意味だろう。

大津皇子

日本で最初に漢詩を作ったのは大津皇子ということになっているのは『懐風藻』の冒頭にいくつか大津皇子として漢詩が載っているからだ。

大津皇子がほんとに漢詩を作れたかはあやしい。
弘法大師が温泉見つけたようなもんだと思う。
が、しかし、作ったかもしれん。

> 朝択三能士

朝に択ぶ、三能士

> 暮開万騎莚

暮に開く、万騎の莚

> 喫臠倶豁矣

臠を喫らひ、倶に豁たり

> 傾盞共陶然

盞を傾け、共に陶然

> 月弓輝谷裏

月弓、谷裏に輝き、

> 雲旌張嶺前

雲旌、嶺前に張る

> 曦光已隠山

曦光、已に山に隠れ

> 壮士且留連

壮士、しばらく留連す

まあそんな難しくはないな。
そのまま読めばよい。

「喫臠倶豁矣、傾盞共陶然。」
のあたりが実に愉快そうだ。
「且留連」は、去るにしのびず、しばらくぐずぐずととどまる、の意味。
対句が見事だよね。だからわかりやすい。

小野篁

小野篁は菅原道真と同様に和歌も漢詩もうまかった人ということになっているのだが、
漢詩人というには詩がそれほど残っていない。
たとえば、頼山陽なら一冊の詩集になるくらい大量に詩を作っているし、
当時も菅原道真や嵯峨天皇は大量に詩を残している。
歌人というのも、貫之や業平ならやはり歌集を残しているから、
歌人といえるだろうが、
一つか二つしか残ってなかったり実は本人の作かすらわからんのもあり、
そういうのを何の検証もせずただ歌人とか詩人とかいうのはおかしいのではないか。

小野篁の詩は少ない。
わかる範囲で片付けていく。

> 和從弟內史見寄兼示二弟

従弟の内記に和して、寄りて見るに、二人の弟に兼ねて示す

内史は内記で官職、従弟はいとこだわな。二弟は二人の弟という意味だろうな。

> 世時應未肯尋常 昨日青林今帶黃 不得灰身隨舊主 唯當剔髪事空王

世時はまさにいまだ尋常を肯んぜず、
昨日の青林は今、黄を帯ぶ。
灰身は旧主に随(したが)ふをえず、
ただまさに髪を剔(けづ)り空王に事(つか)ふ。

旧主、空王が具体的に誰を言うはわからんが
(嵯峨天皇と文徳天皇とか、いくらでも解釈はできるが)、
なんかの漢詩の言い回しを使っただけだと思う。
灰身というのはなんかもういろいろ疲れてぼろぼろになった私、とかそんな意味。

> 承聞堂上增羸病 見說家中絕米粮 眼血和流腸絞斷 期聲音盡叫蒼蒼

承り聞く、堂上では羸病増し、
見説く、家中、米粮絶ゆと。
眼血、流るに和し、腸、絞り断つ。
声、音尽きて、蒼々と叫ばんと期す。

和流、というのは兄弟いとこどうしでもらい泣きするという意味か。

つかまあ、少ないよね、関連書籍が。
ネットで検索してもあまり出てこない。
図書館で探し出しても解釈がついてなかったり。

新々百人一首

古今集を調べている関係で丸谷才一『新々百人一首』を再読しているのだが、うーむ。

二条妃の「雪のうちに」の解釈が異様に長い割には、何も言ってないのに等しい。
最後に「高子のこの絶唱と並ぶほどの返歌は業平にもむづかしかったらう」などと書いている。

二条妃とか良房とか基経なんかというのは非常に政治色の強い人であり、
基経は歌を一つも詠まなかったらしいんだが、
そういう傾向は親兄弟に遺伝するものであって、
基経の妹の二条妃こと高子も、実際に歌を詠んだか疑わしい。
高子の歌も非常に少ない。

高子や良房を古今集に登場させたかった誰かが代わりに詠んだ歌である可能性が非常に高い。
というより、その可能性を考慮したうえで読み解くべきなのである。

この歌はなんのことやらわからぬ、思わせぶりな歌であるというだけであり、
新古今的、あるいは俳句的に解釈すれば「絶唱」かもしれんが、
古今集では政治的寓意という意味以外は考えにくい。
たぶん、高子が兄基経によって皇太后位を剥奪され、不遇のまま死んだことが暗喩されているだけだと思う。

また、光孝天皇「君がため」を「農民の持ち来つた若菜なのに自分が働いたやうに装つて詠じたのである」
などと言っている。
丸谷才一は徒然草の黒戸御所の逸話を知らないのだろう。
光孝天皇は皇統からはずれて、55才まで親王のままで、息子たちは皆臣籍降下して、
まさか庶民のように自分で若菜を摘んだり、炊事をしたりすることはなかったといえ、
当時の人たちが抱いた光孝天皇のイメージは、
庶民のような質素な暮らしをしていた人、なのであり、
そのイメージに沿って、本人だか他人だか知らないが、詠んだ歌であり、
そのように解釈された歌なのである。

> それは呪術とまじりあつてゐる牧歌趣味であつた。

いや、そう解釈してはいけない。
天皇とか、古代の和歌というのがいつもいつも呪術的で言霊思想だと考えるのはおかしい。

醍醐天皇の歌

> みなそこに春やくるらんみよしのの吉野の川にかはづ鳴くなり

「呪歌にふさはしい悠揚たるもの」「三句から四句にかけて、大味でこせつかない効果がいい」
「職業歌人の詠とは違ふ帝王調の魅力を満喫」とあるのだが、これも誤読に近いのではないか。
どちらかといえば丸谷才一が職業歌人と名指しした貫之の屏風歌に酷似している。
何かの間違いなのではなかろうか。

「みよしのの吉野の川に」は単なる常套句であるのに、どうしてこれが帝王帳なのか。
天皇だってわざと庶民のような歌を詠むことだってあるのに。

醍醐天皇の歌の多くは宇多上皇と間違われている危険性が高いと思う。

嵯峨天皇

嵯峨天皇「春日遊猟、日暮宿江頭亭子」

> 三春出猟重城外 四望江山勢転雄

> 逐兎馬蹄承落日 追禽鷹翮払軽風

> 征舟暮入連天水 明月孤懸欲暁空

> 不学夏王荒此事 為思周卜偶非熊

これは恐ろしく良くできた詩だ。
平仄も押韻も対句も完璧。

しかも、天皇なのに乗馬して猟をしている。
嵯峨天皇が実際にこういう人であったかどうか。
少なくとも嵯峨天皇は日本の大君ではなくて中国の皇帝を理想としていた。
唐の皇帝を。それを唐詩にした。

大和朝廷の王権というのは、ま要するに、天武天皇くらいに固まったのである。
天武天皇から嵯峨天皇まではわずかに150年くらいしかない。
当時の日本国というのは若い国家だった。
この頃はまだ万世一系とかそんなことは関係なく、
日本は、
アジアによくある、生まれては滅んでいく王朝の一つにしかすぎなかったのだ。
南北朝のころになってやっとなんか日本という国は特殊だな、ということに北畠親房あたりが気づいたのに過ぎない。

嵯峨天皇は中国式の完全に新しい国家を作ろうとしたのだろうと思う。

経国集

[経国集](http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/waka/keikoku/keikoku.htm)
はここで読むことができるが、立派な漢文の序文がついている。
やはり、この流れで行くと、古今集の序も最初は漢文だったのではないかと思われてくる。

どうかんがえても淳和天皇の勅撰じゃないだろ。
嵯峨上皇の命令だと思うよな、普通。

[滋野貞主](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%8B%E9%87%8E%E8%B2%9E%E4%B8%BB)が選んだと書いてあるのだが、
ウィキペディアには、
良岑安世、菅原清公らが編纂とあるのはどういうわけだ。

> 春宮學士從五位下臣滋野朝臣貞主等奉敕撰

ここで東宮というのは嵯峨天皇の皇子で、
淳和天皇の皇太子に建てられていた、
のちの仁明天皇だわな。

勅撰というものが明らかに意識されたのも、漢詩集のほうだわな。
和歌集の方は、勅撰という意識が確立されるまでにだいぶ時間がかかった。

良岑安世は僧正遍昭の父で素性法師の祖父だから、
もとはこの家系は漢学の家だったのかもしれんね。

当時の平安京というのは、
完全に人工的な未来都市として作られて、
原始神道的匂いのする和歌は嫌われてて、
そもそも新都平安京には和歌を詠むような住人もいなくて、
それで自然に廃れたんだろうな。

奈良の仏教というとなんか密教的な、山岳信仰的な匂いがあるよね。
そういうのも一切捨てられてしまって、
完全に中国式の宗教儀礼に入れ替わったということじゃないかな。

大伴旅人の酒の歌十三首

万葉集に山上憶良の酒の歌臣罷宴歌一首

> おくららは いまはまからむ こなくらむ それそのははも わをまつらむぞ

のあとに大伴旅人の酒の歌十三首というのがあって、これがなかなかおもしろい。

> しるしなき ものをもはずは ひとつきの にごれるさけを のむべくあるらし

> さけのなを ひじりとおほせし いにしへの おほきひじりの ことのよろしさ

> いにしへの ななのさかしき ひとたちも ほりせしものは さけにしあるらし

> さかしみと ものいふよりは さけのみて ゑひなきするし まさりてあるらし

> いはむすべ せむすべしらず きはまりて たふときものは さけにしあるらし

> なかなかに ひととあらずは さかつほに なりにてしかも さけにしみなむ

> あなみにく さかしらをすと さけのまぬ ひとをよくみば さるにかもにむ

> あたひなき たからといふとも ひとつきの にごれるさけに あにまさめやも

> よるひかる たまといふとも さけのみて こころをやるに あにしかめやも

> よのなかの あそびのみちに たのしきは ゑひなきするに あるべくあるらし

> このよにし たのしくあらば こむよには むしにとりにも われはなりなむ

> いけるもの つひにもしぬる ものにあれば このよなるまは たのしくをあらな

> もだをりて さかしらするは さけのみて ゑひなきするに なほしかずけり

どうも泣き上戸だったらしい。
自分は飲んでもあまり泣かないので気持ちはよくわからない。
オマル・ハイヤームのルバイに通じるものがある。

冒頭の歌は有名だが、あとのもおもしろい。
昔の七賢人も好きなのは酒だったとか、
ああ醜い、偉そうに酒を飲まないやつをよく見たら猿に似ている、とか
このへんの歌はもっとはやっても良いはず。

古今集の成立

万葉集やらも合わせて読んでいるのだが、
万葉集はなんか、
関連ある歌が連続して採られているらしいのはわかるが、
選び方や配列が漫然としていて、古今集ほどおもしろくない。
この漫然感は後撰集や拾遺集にもあって、
逆に古今集というは歌の配置というものがものすごく意識して作られている。

この配置の妙というのはやはり歌合に影響を受けたものと言わねばならない。

在民部卿家歌合というのは左右に分かれて普通に競技として行われていて、
州浜を使って会場を飾ったり、勝ち負けを決めたりしている。
ただし誰の歌かは記されていない。

在民部卿家歌合が光孝天皇の御代に行われたのも偶然ではない。
光孝天皇が和歌復興の先駆者であるからだ。
かつ、在民部卿こと在原行平、彼が平城天皇の孫であることも実に興味深い。

光孝天皇も平城天皇も非主流派である。
光孝天皇は和歌・和琴・鷹狩を復興させた。
光孝天皇が行平に命じて、奈良に残っていた古い和歌の流れを発掘させた。
そして、おそらくは、奈良に自然発生した歌合というものを京都の宮中にもってこさせた。
嵯峨天皇『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』以来、京都は漢詩であって、
歌合が発生する素地はなかっただろう。
和歌の歌合に先だって漢詩の漢詩合(からうたあわせ)のようなものが、
なかったとは言い切れないが、
おそらく歌合は最初から即興で歌を詠む競技であったろうから、
日本人が即興で漢詩を作れるはずもなく、
やはり、長い和歌の伝統がある奈良でまずは歌合が発生したのではないか。
『新選万葉集』も奈良で引き続き詠まれていた和歌を集めたものかもしれない。

ともかく、奈良と京都、光孝天皇以前と以後では文化に大きな断絶があるのだが、
そこをある程度埋める作業をしたのが光孝天皇で、それを引き継いだのが宇多天皇といえる。
光孝天皇の治世は短すぎた。

そんでまあ行平が平城天皇の流れで奈良の歌合というものを京都に輸入すると、
爆発的に流行し始めて、
村上天皇の時代の天徳内裏歌合まで一気に加熱していくわけである。

ただ古今集があんなふうになったのは、
寛平御時后宮歌合のようなヴァーチャルな歌合から発展したものだろう。
歌合がヴァーチャル化したのは、漢詩集の影響があったかもしれない。
漢詩というものはあらかじめ詠んで持ち寄るものであっただろうから。
まともかく、実際に競技として行うのではない歌合が長大になったのが古今集。
歌合だと左右交互に詠む。
そこまでの規則性は古今集にはないが、
その雰囲気で配置されている。
現代歌人とよみ人知らずの歌を交互に並べたりとか。
春夏秋冬恋という部立ても明らかに歌合の影響だ。

もひとつ、古今集をおもしろくしているのは、
主に伊勢物語から、歌物語の要素を輸入したことと、
実際の歴史的事件を歌として配置していること。
これがあるから、我々はまるで大鏡を読むような気分で、古今集を読むことができる。
こういう工夫はおそらくほかの勅撰集にはない。

歴史物に歌物語的要素を持たせたものとしてはむしろ平家物語が近いといえる。
二代后あたりの作り話などいかにも古今集的だ。

かろうじて、定家の『新勅撰集』にそのかすかな匂いを感じるくらいかな。

『新古今集』のおもしろさはもっぱら歌合的なものだと思う。

陽成院も歌合をやっているが、古今集よりかはあとなくらいだから、
たぶん周りで和歌が流行ってるから自分もやってみたくなったのだろう。
やはり和歌は光孝天皇よりか後だ。

脳の老化と酒

酒は好きでよく飲んできたけどそろそろやめた方が良い気がする。

酒が弱くなった、というか、アルコールの代謝機能が落ちてきた、というわけではなさそうだが、
ある程度以上飲むと記憶が残らなくなってきた。

かなり酔っ払っても、だいたい意識はあるのである。
意識はあったというおぼろげな記憶はある。
でも翌朝起きてみると忘れてしまっている。

年を取ってしまえばだいたい経験だけで生きていける。
判断力と、昔の記憶があれば生きていける。
だから、
短期記憶から長期記憶へ記憶を移すところというのは、
年を取るとさほど重要ではない、少なくとも命に関わらないから、退化する。
いわゆるぼけというやつだ。

でまあ私はまだぼけが始まる年でもないし、ぼけてもいないはずだが、
酒を飲むとそれがでる。
すごく前倒しにぼけの症状が出ているのではなかろうか。
もう五十近くだしな。

昔は酔えば、記憶をなくす(正確に言えば判断力はあるが記憶が残らない)前に、
眠くて仕方なくて寝たと思う。
寝てなければだいたい覚えていたと思う。

昔も、酔えば無茶した。
生け垣に飛び込んだり、
自動改札を走り抜けたりした。
道で寝てたこともあるらしい。

今はそんなことはしないが、逆に違うところに問題が出てきた。

怒りっぽくなるというのもたぶん老化の一種だろう。

どんどん脳が老化していて、特に酔ったときにその症状が出る。
老眼も進行している。
要するにこれが年よりになるということなのだ。