新々百人一首

古今集を調べている関係で丸谷才一『新々百人一首』を再読しているのだが、うーむ。

二条妃の「雪のうちに」の解釈が異様に長い割には、何も言ってないのに等しい。
最後に「高子のこの絶唱と並ぶほどの返歌は業平にもむづかしかったらう」などと書いている。

二条妃とか良房とか基経なんかというのは非常に政治色の強い人であり、
基経は歌を一つも詠まなかったらしいんだが、
そういう傾向は親兄弟に遺伝するものであって、
基経の妹の二条妃こと高子も、実際に歌を詠んだか疑わしい。
高子の歌も非常に少ない。

高子や良房を古今集に登場させたかった誰かが代わりに詠んだ歌である可能性が非常に高い。
というより、その可能性を考慮したうえで読み解くべきなのである。

この歌はなんのことやらわからぬ、思わせぶりな歌であるというだけであり、
新古今的、あるいは俳句的に解釈すれば「絶唱」かもしれんが、
古今集では政治的寓意という意味以外は考えにくい。
たぶん、高子が兄基経によって皇太后位を剥奪され、不遇のまま死んだことが暗喩されているだけだと思う。

また、光孝天皇「君がため」を「農民の持ち来つた若菜なのに自分が働いたやうに装つて詠じたのである」
などと言っている。
丸谷才一は徒然草の黒戸御所の逸話を知らないのだろう。
光孝天皇は皇統からはずれて、55才まで親王のままで、息子たちは皆臣籍降下して、
まさか庶民のように自分で若菜を摘んだり、炊事をしたりすることはなかったといえ、
当時の人たちが抱いた光孝天皇のイメージは、
庶民のような質素な暮らしをしていた人、なのであり、
そのイメージに沿って、本人だか他人だか知らないが、詠んだ歌であり、
そのように解釈された歌なのである。

> それは呪術とまじりあつてゐる牧歌趣味であつた。

いや、そう解釈してはいけない。
天皇とか、古代の和歌というのがいつもいつも呪術的で言霊思想だと考えるのはおかしい。

醍醐天皇の歌

> みなそこに春やくるらんみよしのの吉野の川にかはづ鳴くなり

「呪歌にふさはしい悠揚たるもの」「三句から四句にかけて、大味でこせつかない効果がいい」
「職業歌人の詠とは違ふ帝王調の魅力を満喫」とあるのだが、これも誤読に近いのではないか。
どちらかといえば丸谷才一が職業歌人と名指しした貫之の屏風歌に酷似している。
何かの間違いなのではなかろうか。

「みよしのの吉野の川に」は単なる常套句であるのに、どうしてこれが帝王帳なのか。
天皇だってわざと庶民のような歌を詠むことだってあるのに。

醍醐天皇の歌の多くは宇多上皇と間違われている危険性が高いと思う。

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