字下げ

字下げや四百字原稿用紙というのは群書類従に由来するのだとどこかで見た気がするのだが、
いずれにしても、字下げやマス目の原稿用紙というのは、
今の時代には何の意味もないことだ。
さっさとやめればいいと思う。

最近勤務地が変わったわけだが、

神田のようなところに勤めれば毎日昼飯を食べ歩けて便利だなと思っていたが、
いざそうなってみると外食は飽きる。
食べれば食べるほど急速に飽きていく。
コンビニ弁当にもすぐ飽きた。
味付けが濃すぎる、というより狙いすぎてる、というかあざとすぎるんだよな、たぶん。
味覚障害になる、とまでは言わないが、何か、誰か裏に策士がいて踊らされている感じがして不快になる。

家から弁当を作ってもっていって食べた方がましだと思うようになった。
不思議な心境の変化だ。
ところが安い米だと冷えるとまずくて食えないし、
温め直しても大してうまくない。

これまでイオンとかネットスーパーの一番安い米を買っていたが、
これからは一番高い米を買おうかと思う。
米を節約していても仕方ない。

今日のニュースに減反をやめて、補助金もやめるという。
喜ばしいことである。
カリフォルニア米で日本の高級な米よりもうまい米が出てくれば脅威かもしれんが、
日本人が高くてもうまい米を食べ続ける限り、
国内のまともな稲作農家は安泰であり、
逆に補助金もらわんと米作れないような農家は廃業するのだろう。
ていうか、アメリカでも日本と同じ品質のコシヒカリなどのブランド米を作ろうとすれば、
日本と同じようなやり方で育てなくてはならないはずで、
それでは手間と金がかかりすぎて、アメリカの大規模農家的にはうまみが少ないのではなかろうか。

関税なんてもんはさっさと自由化すべきだ。
農業に多少の淘汰圧がかかることは品質向上にも有効だ。

TPPも重要五品目を聖域とするのをやめようと言っているのだが、
当然そうすべきだ。
自民党がそうした大胆な政策をとれるのはすばらしい。
農林族になりたがる議員が少なくなったから、というが、
要は将来性のない部分からは自然と政治家も役人も離れていき、
一部の既得権者だけが残っても無力だから、
いずれは見捨てられるということなのだろう。
政治というのは性急に変えようとしても変わらないが、
長期的には時勢が解決してくれるわけだ。

アマゾンの書評

アマゾンの本で、特にキンドル本のカスタマレビューを読んでいるのだが、

全然書評になってない人がいる。ていうかほとんどすべては書評になってない。

短すぎて情報量がゼロなやつ。「おもしろかった」と言われても困る。
子供じゃないんだから。
子供にじゃあどこがおもしろかったかと聞くと「全部」と答える。
それと同じ。

本の帯の煽り文句みたいなことを書く人がいる。
たぶん著者のファンなのだろう。
それを書くことで他の人もその本を買ってくれると思ったら大間違いだ。
その本の編集者やら、他の作家が依頼されて煽り文句を書くのは仕方ない。
いずれにしても参考にはしないが、本の帯なら読むことは読むが、ただのファンが書いたものは読む時間が無駄(な場合が極めて多い)。

長々と、最高におもしろい、抱腹絶倒、などなどと極端な形容詞を並べてあって実は内容は空疎。
きっとこの本のおもしろさを言葉でなんとか表現したかったのだろうが、逆効果だ。

この[ぼぼ](http://www.amazon.co.jp/gp/pdp/profile/A1IYC1BYD4Z15Q/ref=cm_cr_dp_pdp)
という人の書評はすこしおもしろい。
まあ、著者の同業者なのだろう。
書評というのは、著者とは違う視点で著書を読み、解釈してくれることがありがたいのであり、
そういうユニークな書評がいくつか集まると、
もちろん自分が読みたい本を探すのにも役立つだろうが、
本を読み解く役にもたつわけである。
つまり、自分がざっと読んでも気づかなかったこと、考えも及ばないであろうヒントを書いてくれるのはありがたい。

いろんな人の書評を読んだ限りでは、どうも自分が読んだのよりはずっと浅いところまでしか読んでない。
さらに文章表現能力が足りないからさらに浅いところまでしか書けてない。
そんなのばっかりだ。
お金払うんだから、より深く読んだほうがお得なのに(笑)。
ファンだと言っておきながら実は何も読んでない人が多いんだろうなと思う。

社長さん

ある人に社長さんの話をきいた。
その人はもとは役所の清掃部門か何かにいた人だが、もう30年くらい前に独立して、
ペットボトルの再生工場を経営しているという。
ゴミのリサイクルに人より先に目をつけたのは偉いなどというがそれは結果論に過ぎないと思う。
同じような起業家がたくさんいて、彼はたまたま成功したからいま社長でいるだけだと思う。
あまり参考にならない話だ。

未来のことは正直わからん。
キンドルやkdpがどうなるか、どのくらい先行投資してよいものか、わからん。
少なくとも人生のすべてを賭ける気にはならない。
後で悔やむことになるか、ほっとするか、どちらであっても仕方ないことだ。

紙の本屋

久しぶりに紙の本屋さんで時間をつぶしたのだが、
アマゾンと比べると、明らかに何かが違う、本屋さんの個性というかこだわりというか営業というか、
本屋さんの売ろうという意志によって、本が陳列されているのを感じる。
本の背表紙を眺めて手にとって中身を確認できるというのがやはり紙の本屋さんの特徴であり、
アマゾンのインターフェイスは便利だとはいっても本屋さんにはかなわないところが多い。

紙の本屋さんにはしかし蔵書に限りがあり検索もできない。
紙の本屋でつい買ってしまいそうになるが買わないのはやはり選択幅の狭さによるのだと思う。
むろん紙の本自体は電子書籍よりははるかに数が多いわけだが。
紙の本の多くは私の嫌いな営業がされていてそういうのを除外すると残りはあまりない。
たとえば岩波文庫の灰色のやつとか黄色のやつとかに限定するとほんとうにちょっとしか置いてない。
たぶんそれ以外の学術系の文庫にしても新書にしても、ほんとうはもっとたくさんあるのに、書店の品揃えはその一部でしかない。
あれば買ってしまっているかもしれないのに。
まあ、イオンとかイトーヨーカドーくらいの大きさの本屋があればよいのだが、本屋にはそこまでの需要(出店するうまみ)がない。

普通の人は、本以外の、服とか食べ物とか家具を、紙の本と同じように目でみて触って買っているわけで、
それらと同じ感覚でお金を払って所有しているわけだから、
紙の本が当分の間は売れるのは当たり前だなと思う。
だが将来どうなるかはわからない。

自由業をうらやむ

私の知り合いに、日本のCGの黎明期に仕事をしてそれから電飾職人になった人がいる。
CGはすでにいろんな人がよってたかって仕事してるから、日本に一人しかいない電飾職人になったほうが食えると。
今からPICマイコンとか覚えた方がましだと。

またある知り合いは、ほんとうのお金持ちを顧客にして建築業と不動産業を両方兼ねたマネージメントの仕事をしているという。
つまり、ほんとうのお金持ちは土地をもったりして運用しなきゃいけない。
自分の土地に家族の家を建てることもあればマンションを建てることもある。
そんなとき不動産屋と建築会社の両方に話を通すのは面倒だから、両方いっぺんにやってくれるエージェントがいればありがたいということ。

また、私は知らない世界だが、弁護士と税理士と司法書士と私立探偵を一度にマネージメントしてくれる営業の人なんかがいれば、
たぶんお金持ちな人には便利だろう。

そんなふうにして、会社のサラリーマンになればこれからは拘束され搾取されるだけで、
まあこれまでは給料そこそこもらえてたからそれでもいいやとなったかもしれんが、
これからは正社員になったからといってどれほどもらえるかもしれんし、
まして契約社員なんかだともうフリーランスになったほうがましかもしれん。

そうやって会社としてプールする金とか無能な社員を飼っておくために本来は自分がもらえるはずだった給料が天引きされると考えると、
これからの時代はやはりフリーランスでいける人はいったほうがよい、
少なくともその機会は常にうかがっていたほうがよいと思う。
なんか独立できるうまい話はないかと(うまい話もないのに独立するはダメ。今のポッと出のキンドル作家とか(笑))。

ていうかフリーランスでうまくやっている人がうらやましい。
自由業というのは昔の「社会主義」社会ではカタギな仕事じゃないとか見られていたかもしれんが、
今の「新自由主義」社会では誰にも迷惑かけず自分で食っていくまともな人、といえないか。

新古今集

11月に入ってまだ一冊も売れてない。
私はまあ、本の印税というものは、カラオケの印税みたいなもんで(?)、
いっぺん登録しておけばじわじわ年金みたいにお金が儲かるもんだと思っていたのだが、
そういう人もいるのかもしれんが、私の場合全然ダメで、
そりゃそうだ、まだ売り出して半年のペーペーなのだから(昔新人賞に応募したりパブーで公開していたストックはあった)。

それでだいたい分かったことは、新作を常に投入しなきゃならないということだ。
一年に二冊では少ないくらいで、
もっとハイペースで出していく。
そのたびに無料キャンペーンかなんかやる。
そうすると目立つ。
旧作もついでにうれる。
ファンも徐々に獲得できる。
そうして10年くらいがんばってみないと結果はでない。
それが営業というものだろう。

最近は新作を出すと驚いたことに最初の5冊くらいはすぐに売れる。
ありがたいことにすでに何人か私のファンがいるらしい。

3月くらいから10月までkdpで本を出版して1万円とちょっとくらい売れた。
確定申告しなきゃならんな、大した額ではないが。
全部必要経費で落とせる程度ではあるが。
そういうことも学んでいかねばならん。

そんでまあ老い先も短いのだが、
エウメネスが一番売れていて、残り全部合わせてその半分以下くらいだと思う。
では私は古代ギリシャの小説を書くべきなのだろうか。
とりあえずエウメネスの続編か姉妹編を書くべきなのだろうか。
それはまあそれとして、
たぶん私が他人に対して比較優位なのは和歌だと思う。

和歌はやっている人が極めて少ない。
大野晋も丸谷才一も亡くなってしまったし、
あとは、京極派の研究をやっている岩佐美代子という人くらいしか思いつかない。
いや、他にもいるのかもしれないが、
ともかくあまりいない。
私が今本業でやっているようなことはいろんな人が世界中でやっていることであり、比較優位とは言いがたい。

人生が無限にあればやりたいことすべてをやれば良いかもしれんが、
良い仕事をただすれば良いというのではなくて、
優先順位をつけて、
その中で重要度は高い割に競争相手が少ない仕事をすべきだと思う。
エウメネスはまあ2番目くらいに置いておく。

本業の方は一応つきたい仕事に就いたわけでしかしなってみると全然物足りないわけで、
しかも自分くらいのやつはざらにいる。
となると、本業の範囲でできることはもちろんがんばるとして、
それ以外の分野、特に子供の頃から好きだったこと(趣味)で何か仕事をしてみたいと思うわけだ。
しかし、本業をやめて趣味だけで生きていく金もなければ自信も無い。

それで古今和歌集を調べて一冊書いてみて次に新古今集を見てみると、
古今集は非常に危なっかしくてナイーブなのだが、
新古今集はすっかり成熟して安定していて安心して読んでいられるのが心地よい。
古今集は、いろいろ謎解きするのが楽しいのだが、
新古今集は完全に観客席に深々と腰掛けて、後鳥羽院の演出を楽しめばよい。
古今集の場合は、つい自分も舞台に上がっていろいろいじくり回したくなってしまうのだが、
新古今集に関してはそれはほとんどない。
遠くから眺めていてぼそぼそ批評をつぶやくくらいだろう。

古今集はつまらん埋め草や屏風歌も多いし単なるだじゃれ以上でかつ当時の人の内輪受けみたいなのが多い。
ああいうのが新古今にはまったくない。
すべては後鳥羽院によって緻密に構築されている。
丸谷才一が後鳥羽院や新古今が好きなのはそんな絶対安心感のようなものによるのに違いない
(そして多くの人はそこから派生した小倉百人一首を無批判に楽しむのだ)。
彼は、本居宣長や香川景樹や細川幽斎の歌の中から秀歌を拾い出すようなことはしない。
室町時代より後だからだ。
むしろ彼は江戸狂歌の蜀山人を好むのだが、
蜀山人の歌には良いものもあるが全体に粗雑で私には鑑賞に堪えない。

新古今集という名前も非常におもしろい。
それまで既存の和歌集に「新」をつけた例はなかったのではないか。
後鳥羽院の万能感が反映された題名。

というわけで新古今集でもこんどはいじろうかと思っているのだが。

もし和歌の研究者が今の百倍くらいいたら、私がこないだ書いたようなことくらいとっくに指摘されていて、
わざわざ私は本を書くこともないか、
或いはもっと先を調べるのに手間取っただろうと思う。
他にも疑えば疑えることがたくさんあるわけで、今本屋に新書で並んでいるような程度しかまだ研究されてないのなら、
私に書けることはまだまだいくらでもある気がしてくる。

普通の人には古今集のほうが新古今より簡単に見えると思う。
新古今はそうとうにひねってあるからだ。
しかし、慣れてくると古今集は古さ故の難解さがあり、
逆に新古今は出典さえ調べれば割と簡単にわかる、見た目だけの難しさだということがわかる。
逆に先行研究や資料がそろっているぶんつまらないともいえるかもしれない。