岩波文庫版上田秋成「肝大小心録」を読む。
戦前の復刻。かなり珍しいもの。
> 天にさまざまあるはいかに。
儒・仏・道、また、我が国の古伝に言う所、ことごとくたがへり。
天と仰ぎてのみにもあらず。
天禄・天資・天命・天稟など儒には言うなり。
仏は天帝も下りて我が法を聞くとなり。
キリシタンらの外道の法は、ただ天師と言ひて、天に尊称の君あり。
これを願へり。
この国には天が皇孫の御本国にて、日も月もここに生まれたまふと言ひしなり。
これはよその国には承知すまじきことなり。
さればよその国には君とあがめて崇敬すべきことありと言ひたれど、
このことわりはことわりならず。
とまあ、天と同じ言葉で言っても宗教によってさまざまであり、
我が国の天とか日とか月というものは、よその国では承知されないものだろう、と言ったところで、
> 月も日も、目・鼻・口もあって、人体に説きなしたる古伝なり。
これは何を言っているのか。文脈からしてみると、神道のことのようだ。
天照大神や月読命が擬人化されていることを言うか。
> ゾンガラスという千里鏡で見たれば、日は炎々たり、月は沸々たり。
そんなものではござらしゃらぬ。
ゾンガラスはサングラスの意味で、太陽を観察するためガラスにすすを付けたものと言う。
千里鏡とあるから望遠鏡のようなものだろうか。
沸々とはつまりクレーターだらけという意味か。
> 田舎人のふところおやじの説も、また田舎者の聞いては信ずべし。
京の者の聞くは、王様の不面目なり。
やや難解だが、「ふところおやじ」とは狭い世界に閉じこもった親父という意味のようだ。
田舎の世間知らずの親父の説も、田舎者が聞けば信じるだろう、
京都の人間が聞いたら、恥ずかしくて天使様にも顔向けできない、くらいの意味か。
> やまとだましひということをとかく言うよ。
どこの国でもその国のたましひが国の臭気なり。
おのれが像の上に書きしとぞ
> 敷島のやまと心の道とへば朝日にてらす山さくら花
> とはいかにいかに。おのが像の上に、尊大の親玉なり。そこで
> 敷島のやまと心のなんのかのうろんなことをまたさくら花
> と答えた。
いまからかと言ひて笑ひしなり。
最期の部分、
[「敷島の歌」その後](http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/shikishima_sonogo.html)
では、「喧嘩っ早いねと言って笑った。」となっているが、はて。