指月殿

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以前に[修善寺温泉](/?p=2521)というのですでに書いたのだが、
京都旅行をして気になったので少し加筆する。

伊豆修善寺に政子が頼家のために建ててやったという指月殿というのがあるんだが、
もし当時創建のままだとすると鎌倉初期。
当然国宝になってなくてはならない。
それ以前に拝観料払わないと見れないだろう。

壁は古色蒼然としているがやたらとお札が貼られている。
屋根が綺麗すぎるから葺き替えだろうし、ガラス戸は当然最近付けられたものだ。
もとは経堂だったというが、そのお経はみんな焼けてしまったというし、
お経が焼けるくらいだから経堂も一緒に焼けたのに違いない。

伊豆最古の木造建築、
というのは、
もしかすると当たってるかもしれない。
ちなみに今の修善寺本堂は明治時代の再建。
それよか韮山反射炉のほうが古いわな。

皇統の正統性

状況証拠的に見ると大化の改新というものはなかった、と言って良いだろう。
中大兄皇子と中臣鎌足が謀り、皇位簒奪をもくろんだ蘇我氏を滅ぼしたことになっている。

皇族と蘇我氏の間で紛争があって、
蘇我氏が排除され、孝徳天皇が即位した、という以上の意味はないと思う。

大化の改新は、天武天皇のもとで最初の太政官となった藤原不比等の創作であろう。
私が思いついたというより、wikipediaに挙げられている説の中で、
私が一番もっともらしいと思うものである。

なんと言えばよかろうか。皇族というか、天皇家というか、王家といおうか。
おそらく、天武天皇までは、日本の王というのは、
抜き身の武力に基づく勝者以外の何物でもなかっただろう。
強い者が王となる。
強い一族が王家となる。
日本で一番金をもって土地をもったものが王となる。
それがなんとなく天照大神の時代までさかのぼることができるが、
連綿と続いてきたものなのか、
いろんな断続があったものなのか、
確かな記録がなくてよくわからない。
ただまあ継体天皇以後はだいたい続いているらしい、ということがわかるだけだ。

藤原不比等は、皇統というものをコントロールして、自らを天皇の第一の臣下と位置づけることによって、
大陸から輸入した舶来文明を模倣することによって、
自分の一族を安定にすることを発明した最初の人だったはずだ。
藤原氏が天皇家に対して行ってきたことは結局はそれだ。
つまり、万世一系とか皇統というものは、藤原氏によって初めて創作されたのである。
天皇が自らそう主張したというよりも、
藤原氏が天皇家と外戚関係を結んで自分の地位を確立するために皇統というものを必要としたのである。

力が強いものが天皇になれば良いのならば外戚なんて無意味だ。
皇統と外戚は同時にできた。
外戚を藤原氏が独占したから他の氏族は枯死してしまった。
というより、藤原氏が一族を挙げて守った皇子が皇統ということになってしまう。
それ以外の皇子やそれ以外の氏族は死んでしまう。
それだけ藤原氏の一族の結束は強かった。
当時、政治的に結束できる一族は藤原氏以外いなかった。
天皇家にも藤原氏以外の氏族にも、そんな強固な団結なんてものはまるで見られなかった。
藤原氏以外の王家や氏族はみな砂のようにばらばらだった。
藤原氏に匹敵する結束というものは、のちに在郷武士の間から芽生えてくる。

王家だけを他の氏族より突出させるというマジックを演出したのは藤原氏であった。
天皇家はこの時代そんな器用なことはできない。
とにかくやたらとたくさん妃を持ってたくさん皇子や皇女を生ませた。
皇子は父親に似てみな遊び人でやはりたくさん妃をもってたくさん皇子や皇女を生ませた。
まさにカオス。
源氏物語の光源氏をみよ。嵯峨天皇や文徳天皇や清和天皇や陽成天皇らの皇子たちを見よ。
天皇家が子孫を自分でコントロールできるようになったのは白河天皇になってから。
白河天皇は皇太子以外の皇子をみんな出家させてしまう。
法親王というやつ。
法親王は一生独身。
彼一人多少贅沢したところでたかが知れている。
皇室財産は自然と本家に集約し、分家は消滅する。
皇太子が誰を妃とするかもコントロールできる。つまり外戚をコントロールできる。
白河院は天皇家の長老として完全に一家をコントロールする。
気づいてみれば当たり前のことだ。
なんだ自分でやればできるんじゃないの、ってことは白河天皇になってからで、
それ以前はそんな当たり前なことすらやってなかった。

ともかく、奈良平安時代に、外戚と皇統をリンクさせて臣下として権力を握るってことを明確に意識していたのは藤原氏だけだった。
天皇家すらそんなことは考えすらしなかった。
だから、皇子たちは一致団結することなく、
藤原氏によって各個撃破されてしまった。

天武天皇は戦争ばかりやっている人だった。
嵯峨天皇はやたらと皇族を増やして分家を作った。
清和天皇もかなりむちゃくちゃだ。
陽成天皇までの天皇というのは、
ただ日本の王様というだけであり、何か具体的に世の中を治めたり、
王位継承や皇統というものをコントロールしたという形跡がない。
王位継承に介入し、王位というものに権威付けをしたのはもっぱら藤原氏である。

天皇家の皇統に着目して藤原氏がその外戚となって権力をふるったのではない。
藤原氏が皇統を発明したのである。
その戦略は嵯峨天皇の皇統に介入した藤原冬嗣、
その子の良房、
その養子の基経らによって確立された。
つまり摂関政治というやつだ。
藤原氏は天皇家を搾取しつつ、天皇家にとって変わることはしなかった。
そのかわり一族を挙げて自分らと血縁関係のある皇子を守り、
それ以外の皇子を排除した。
そうして実利を得た。
この構図はおおよそ道長の時代まで続いた。

白河院はおそらく藤原氏を観察した結果、
皇統というものを天皇家が自分で管理すれば藤原氏要らなくね?
ということに皇族で初めて気がついた人だっただろう。
このとき初めて自分の一家は自分で制御しなくちゃならないという意識が天皇家に生まれたのだ。

それ以前の宇多上皇は白河院ほどではなかったにしろある程度その必要性には気づいていたと思う。
宇多上皇は自分の皇子の醍醐天皇に確実に皇位を伝えるために生前に譲位した。
平城天皇や嵯峨天皇も上皇になったのだが、そのことをわかってやったのかどうかよくわからない
(皇統は決して安定せずコントロールもできてなかったから)。
後三条天皇や二条天皇も、取り巻きの下級公卿と組んで藤原氏を排除し、中央集権を目指した形跡がある。
この二人は名君であった可能性もあるがその治世はあまりに短すぎた。

藤原氏の次に皇統を管理しようとした臣下は北条氏だった。
北条氏は三種の神器に皇位の正統性があると主張した最初である。
そんなことは藤原氏は発明してない。
藤原氏にとって自分たちの権力の正統性とは、
先祖の中臣鎌足と天智天皇が起こした大化の改新というもの、
藤原が天皇家の外戚であること、
皇統は大事ですよということ、ただそれだけだ。
そして藤原氏は自分たちが拠って立つところの大化の改新なるものが、
まったくの虚構であることも十分承知していたはずである。

北条氏はこんどは三種の神器という虚構を創作して、
仲恭天皇を廃し、後堀河天皇を立てた。
今度もまた、皇統というものをコントロールし、皇統のルール付けをしたのは臣下の北条氏であった。
天皇もしくは上皇による宣旨以外に、神器の正統性というものが北条氏によって追加されたのである。
当時の天皇や上皇が神器は大事だよ、なんて言うはずがない。
後白河法皇は神器など無視して後鳥羽天皇を立てたではないか。
だが、北条氏にしてやられた天皇は、今度は神器を逆手にとって北条氏に楯突いた。
俺は神器を持ってるし譲位もしないよと言ったのは後醍醐天皇である。
いや、おそらくはそのブレインであった北畠親房である。
神器に権威が生まれたのは北条氏と北畠親房のせいだ。
そして神皇正統記は親房のプロパガンダだ。
北条氏は自分が作った虚構に縛られて滅亡した。

次に皇統のルールを書き換えようとしたのは足利尊氏である。
尊氏は後醍醐天皇から没収した三種の神器の権威によって北朝第一代光厳天皇を立てる。
ここまでは北条氏と同じである。
北畠親房も困った。権威の源泉と自ら認めた神器をとられちゃったんだから。
神皇正統記にもそのへんのことはしどろもどろ。
「神器?神器にも権威はあるよ、もちろん」みたいな書き方をしている。

その後、神器は南朝に奪われ、上皇も天皇もみな南朝に連れ去られた。
尊氏は、北朝第四代後光厳天皇を、神器もなく、天皇もしくは上皇による宣旨もなしに即位させたのである。
廷臣に擁立されて即位した継体天皇の先例に倣う、という理屈しか付けられなかった。
説得力ゼロ。
いくらなんでも、継体天皇の前例持ち出されても誰も納得しない。
このことが北朝にとっては致命的な痛手となる。

北朝第六代後小松天皇は南朝の後亀山天皇から神器と皇位を譲られる。
これによって南北朝の合一はなったのであるが、
北朝第四代後光厳天皇と第五代後円融天皇には皇統の正統性がない。
このことは明治になって蒸し返されて、
北朝ではなく南朝が正統であるとされた。
北朝すべてに正統性がなかったというよりも、後光厳と後円融に正統性がなかったというべきだ。

ここで勘違いして欲しくないのは、
国権というものをマネージメントしていくために皇統というものが必要とされたのであり、
万世一系の皇統から国権が派生したのではないということである。
国権とは日本の政治的権限の中心をどこにどういう形で定めるかということであり、
そのために皇統というものが長い年月をかけてじっくりと形成されてきたのである。
イングランド王の王位継承ルールが異様に複雑なのは、
イングランド王国の国権がどのように継承されていくかを明確に定める必要があったからである。
ルールが不確かだとすぐに国王が複数立って継承戦争がおきてしまう。
血統が大切なのではない。
継承戦争が起きないようにするために血統がその根拠とされたのである。
欧州の継承戦争を良く学ぶと良い。
南北朝の騒乱を良く学ぶと良い。
そうすれば血統がなぜ重要かわかる。
他にとって代わる土地相続の方法論が、当時はなかったのだ。
欧州ではキリスト教というファンタジーが血縁をオーバーライドしてくれたがその実効性にも限度があった。
ヨーロッパ人もそこまで信心深くもなかった。
他にはもう切り札はない。

藤原氏によって王家から大臣や官僚というものが分離され、
北条氏によって皇統というものが「血の通わぬ」神器というアイコンに移された。
要は、天皇の歴史とは、武家の歴史とは、皇位継承というものが王族の恣意によるものから、
政治権力に関わるもの全体のパワーバランスと、合議と、客観的な手続きに移行していくという、
至極当然な過程なのだ。

国権に皇統なんて必要ないと言ったとたんに日本の歴史は天智天皇や天武天皇より前にさかのぼってしまう。
奈良平安時代に営々と築き上げた王朝の伝統はすべてご破算になる。
強いやつが自分の都合で天皇になればいいといったとたんに継体天皇の時代まで戻ってしまう。
さもなくば中国の易姓革命の思想を輸入する必要があっただろう。
日本人はそのどれも採用しなかった。
自らの国に続く皇統というシステムを現実に即するよう作り替え整えていくことにしたのである。

こうしてみていくと、皇統の正統性は、いつの場合も、天皇や上皇が自ら主張しているというよりは、
皇室を擁立する公家や武家がルール作りをし、コントロールしようとしていることがわかるのである。
藤原氏は天智天皇までさかのぼった。
北条氏は天智天皇より昔の皇室伝来の神器に正統性を求めた。
足利氏は仕方なくそれよりもまえの継体天皇までさかのぼって正統性を求めたが結局うまくいかなった。
後からルールを追加する者ほど古い神話時代の権威を掘り起こしてこなくてはならなかった。
本居宣長の国学はある意味で神話時代を掘り返した北条氏や足利氏などの武家の理論武装に利用されたのである。
藤原氏にとって神話時代のことなどどうでもよかったと思う。
藤原氏には天智天皇という自分たちだけの偶像がいればそれで十分だったのだ。
それ以外の権威を持ち出されても藤原氏には不利なだけだ。

明治維新はさらに神武天皇や天照大神まで皇室の権威をさかのぼろうとする。
別に近代人のほうがそれ以前の封建時代の人より信心深いというわけではない。
新しい時代ほど、まだ手垢のついていない古い権威を必要としただけのことである。
また古い権威を創作するための学問や想像力も、それ以前の時代より発達していた。

藤原氏や北条氏、足利氏、徳川氏などは、
神武天皇や天照大神がどうこうなどということは考えてもみなかっただろう。
どんなものか想像すらできなかったし想像してみる必要性も感じなかった。
空想力がそこまでいたらなかったはずだ。
家康は自らを東照神君と呼んだ。
明らかに天照大神とタメをはろうとしている。
家康はまた天台宗にも凝った。
かなりやばい人だが要するに宗教も神話もよくわかってはいなかったのだろうと思う。
周りの人もやはりわからなかった。
誰もわからないからダメだししなかっただけだと思う。

国粋主義によって国家が生まれるのではない。
産業革命によって近代国家がうまれ、近代国家というのは王室を持つにせよ共和国であるにせよ、
国民万能主義であるから、国民の要請によって国粋主義が生まれるのである。
国粋主義は往々にして太古の昔の神話を必要とする。
近代考古学によって箔付けされた神話を。
ヒトラーが「アーリア人がー」と言ったのにも似ている。
イタリアルネサンスもキリスト教以前の多神教を必要とした。
トルコからギリシャが独立するのにもヘレニズムやそれ以前のギリシャ神話を必要とした。
国粋主義者は国粋主義がどのようにして生まれてきたかをしらない。
国粋主義者は国粋主義に「酔う」が故に国粋主義の本質が見えぬ。
国粋主義とは何かということは覚めた目で見なくてはわからぬ。
本居宣長の理論も、日本に産業革命がおき、近代国家が成立したから必要とされたのである。
国学という国粋主義が発展して国民国家ができたのではない。
国民国家ができたから国粋主義が必要になったのである。
たぶん日本の国をありがたがっている人たちはなぜ日本という国がありがたいのかよくわかってない。
天皇をありがたがってる人たちも、ほぼ誰も天皇を知らない。
天皇を知るには藤原氏や北条氏や足利氏を知る必要がある。
南北朝の歴史を知る必要がある。
しかし日本人のほとんどは南北朝音痴なのだ。
歴史はつねに緩慢に連続的に進化していく。
あるとき急に完成した形で生まれるのではない。
急に過渡的に突然変異したように見えても、そう見えるのにはしばしば何か見落としがあるのだ。
ちゃんと調べれば連続性はあるものだ。
些細で不確かなものが、次第に明確でしっかりしたものに成長していくのだ。
日本はその歴史を一応独力で今日まで、地道に地道に、積み重ねてきた。
しかしその長い長い過程をきちんと連続して観察し理解するのは一般人には無理だ。
だから学者が要領よく整理して見せてやらねばならぬ。
しかし現代の学者は通史というものが苦手であり、
日本史なら日本史、世界史なら世界史。
その中の特定の時代しかやらない。完全にたこつぼにはまってる。
司馬遼太郎の如きは幕末維新と戦国時代しかやらない。
歴史のつまみ食い。
これでは歴史はわからない。

明治天皇や昭和天皇も、また敗戦当時の右翼(山本七平の言説を見よ)らもみな、
いわゆる「天皇制」というものが一種のファンタジー(虚構)であることは十分承知していた。
従って、人間宣言というものがあのような形で出た。
その内容は極めて妥当なものだった。
昭和天皇は「天皇制」にまとわる虚飾を捨て去りたかった。

> 朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス
(We stand by the people and We wish always to share with them in their moments of joys and sorrows)。

> 朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ (The ties between Us and Our people have always stood upon mutual trust and affection. They do not depend upon mere legends and myths)。

> 朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ、自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ
(We expect Our people to join Us in all exertions looking to accomplishment of this great undertaking with an indomitable spirit)。

これが天皇と日本国民の間で新たに結ばれた契約であって、
またしても敗戦とGHQという外圧によるものであったのは皮肉であるが、
皇統のルールが更改(再認識)されて、明文化されたのだ。
しかるに右翼はこの人間宣言を認めず過去のファンタジーに固執し、
左翼は鬼の首を取ったように勝ち誇って「天皇制」という右翼を攻撃するための偶像を捏造しようとし、
今日に至っているのである。

京町屋

豪雨の関東を脱出してなぜか京都にいた。
雨も降ったが割と晴れていた。
普通のホテルではなくて町屋一棟借りて住んでみたのだが、
町屋というのはいわゆる一軒家ではない。
棟割り長屋、つまりテラスハウスであって、
長屋でないとしても、隣の建物と完全に密着して建てられているから防音というものがない。
実際隣のうちの声など聞こえてくる。
上下左右が他人のうちである賃貸マンションよりは少しましかもしれないが、
やはり全然落ち着かない。
そのうえ下水臭かったり、蚊が入ってきたりしてかなりやばい。
まだ六月の初めだからよかったが夏に借りたらどうなっていたのだろう。
よく見ると京都にはまだまだ町屋建築がたくさん残っているようだが、
空襲がなかったおかげだろうが、
いまさら私はこんなところには住みたくないなと思った。

日本建築はすばらしいとは思う。
銀閣寺東求堂なんかには実際住んでみたいと思う。
それは庭付き戸建てだからである。
町屋は所詮賃貸長屋である。
あれをわざわざ良いというのはどうかと思う。
東求堂にしてもエアコンは効かないし虫は入るだろう。
私の子供の頃ならともかく今は逃げ出すかもしれん。
特に夏や冬。

六人、いや、下手すりゃ十人くらいはなんとか泊まれるからそういう大人数で行くのには良いかもしれん。
例えば女が二階に、男が一階に、シェアハウスみたいにして泊まれば案外割安ではなかろうか。

だがまあこれからは自分は四条とか七条あたりの普通のビジネスホテルに泊まると思うわ。

左翼は良い仕事をした。

私は高校生の頃、日本史ではなくて世界史をとったのだが、
それは、日本史というのは世界史が理解できないような馬鹿が取る科目だと思ったからだ。
世界史もわからないのにどうして日本史がわかるのだろう。
日本史というのはローカルで、閉鎖的で、つまらぬ学問だと思った。
語呂合わせで年号を覚える勉強に思えた。
或いは戦国オタクや幕末オタクがやる科目だと思った。
三十年前は明らかにそうだったし今でもだいたい同じだ。
古文や漢文は面白かったから古文II、漢文IIまで取った。
古典は嫌いではなかった。しかし日本史は嫌いだった。

私が文系を馬鹿にして理系に進んだのもだいたい同じ理由であった。
文系なんてどうせ大学四年在学しててろくに勉強なぞしないのだから行くだけ無駄だと、
普通の感覚の人間なら思うだろう(しかし世の中は文系がマジョリティなのだから、一般社会では彼らが普通なのだろう。
人間社会で馬鹿がマジョリティなのは別に驚くべきことではない)。

今から思えばだが、江戸時代の文人が到達した日本史というものはそれなりにレベルは高く、
成熟したものだった。
その思想は十分に明治維新に耐えた。
少なくともドイツやイタリアで起きた市民革命と同レベルの水準にあった。
しかし次第に陳腐化した。
敗戦によってそれまでの日本史は否定された。
過去の遺物ということになった。
左翼につけいるすきを与えた。
左翼は日本史をさんざんおもちゃにし、切り刻み、解体した。
おかげで右翼の気づかない、敢えていじらないところもいじった。
日本史はそれでそれなりに戦後進歩したのだが、
しかし左翼思想によって明らかにおかしな方向へねじ曲げられ、粉飾された。

左翼(革新)の仕事には見るべきものもあり、
右翼(保守)の一部もその意義に気付き、自分たちの理論武装に取り入れようとする動きもある。
現代的な保守思想というものも生まれつつあるのを感じる。
しかし多くのネトウヨを含む右翼は、未だに戦前の、
場合によっては江戸時代とか神皇正統記の頃の理論を使おうとする。
それでは左翼の思うつぼである。
坂本龍馬を偉人だと思う連中と同じで、何の役にも立たない。
それだからある程度もののわかる若者は右翼や日本史を馬鹿にして学ばないのだ。
左翼はこれまでかなり敵失に助けられてきたのだ。
もちろん私は左翼が大嫌いだ。三十年前から嫌いだった。
私は右翼のふがいなさに悔しくて仕方なかった。
右翼はなんて頼りないんだろう。馬鹿ばかりで。日教組みたいな左翼連中をのさばらせて。
朝日新聞みたいなやつに勝手ほうだいなこといわせて。
高校には右の教員もいたし左の教員もいた。
右の教員は合気道をやっていた。
精神論者だった。
なんのロジックも身につけてなかった。
これじゃダメだと思った。

古文Iの教員はただの粗暴な馬鹿だった。
古文IIは合気道。
しかし、古典文法はなぜか英文法の教師が教えていた。わりとまともな教師だった。
そりゃそうだろう。
英語のわからんやつに古文が教えられるわけがない。

日本史というのは私は研究するに値しない学問だと思ってきた。
しかし和歌を詠み、
和歌好きがこうじて小説を書くようになって、
いろいろ調べるうちに、面白いところもあるなと思い始めた
(何度も言うが世界史はもともと好きだった)。
高校までに習う日本史というのはほとんどすべてでたらめであり、
それを一つ一つ直していく作業がなかなか面白いと思い始めたのである。
日本史ほどつまらぬ学問はないというのは小林秀雄も言っている通りだ。
もともとつまらないのではない。
誰のせいかはしらないが、あれほど面白い学問をあれほどつまらなくした何者かがいるのである。
私も小林秀雄にまったく同感だ。

今の日本史は救いようがない。
今のネトウヨの99%は救いようがない。
だからあそこまで左翼が力を持ち得たのだ。
しかし左翼の理論も今や古色蒼然としてきた。
いかなる学問も日進月歩である。
時代とともに理論は新しくなる。
過去の理論は新しい理論によって淘汰される。
自然科学だけではない。
人文科学も長い目でみるとそうだ(論文誌は伝統的に紙メディアでなきゃいけないとかいうやつがいる。
学問と紙媒体に何の関係がある?)。
かれらもそろそろ過去の栄光にあぐらをかき、
その進歩に取り残されつつある。
彼らは西欧の洗練された理論を輸入して日本史を小馬鹿にした。
馬鹿にされて当然でもあったが、
しかし、
日本史そのものは、
ちゃんと調べれば、研究するに十分足る学問である。
それを立証するのが、
私が死ぬまでにやっておかなきゃならない仕事の一つだ。

いまの神社の神主はろくに説教もできない。
ただ神話の解釈をテープレコーダのように話し、祝詞をぺらぺらっとしゃべるだけ。
Wikipedia未満。
それでいいと誰が決めたのだろう。
神道に現代的で洗練された理論や思想が要らないと誰が決めたのだろう。
また、神道理論が平田篤胤のような空理空論になってしまうのはなぜなのだ。
もう少しなんとかしようよ。

未来に希望をもとう。

このブログを検索してみると、
2013年1月に kindle paperwhite を買ったなどと書いていて、
一番最初にkdpで出したのは2月頃「川越素描」だったらしい。

最近のKDPだが、
といってもKDPが日本で始まって一年半しか経ってないわけだが、
次々に新人作家が出てきて、
その中には割とまともな人もいるなと思う。
このままどんどん若手が育ってきて、
古顔も(笑)そこそこ頑張ってれば活気がでるだろうし、
わざわざ本屋行くより新しい本や新しい作家探すのに便利だということになれば、
読者はさらに増えるはずだ。
ビジネス本や英会話やエロや啓発本も相変わらず多いが、
普通の小説もだいぶ増えてきて、
メインはラノベ風な純文学か純文学風のラノベあたりが多いのが私としてはじゃっかんアレだが、
キンドル作家や読者の裾野が広がるというのは要するにそういうことだろうし、
その中でも時代物や歴史物をせっせと書く人も、徐々にだが含まれるようになってきている。

たった二年でここまで変わったのだからすごい。

連歌

白河院の院宣により源俊頼が「金葉集」を編み、院の気にいらなかったために、
三たび奏覧した。
俊頼は「散木奇歌集」に連歌を収録したが、
「金葉集」の巻十にも連歌が採られているというので見てみたのだが。

> あづまうどの 声こそ北に 聞こゆなれ みちのくにより こしにやあるらむ

> 日の入るは くれなゐにこそ 似たりけれ あかねさすとも 思ひけるかな

これは酷いだじゃれである。
勅撰集に採るようなものではない。
ただ、古今集にはこんな具合なただの語呂合わせだけの歌も中にはあるが。

> 取る手には はかなくうつる 花なれど 引くには強き すまひ草かな

> 雨よりは 風や吹くなと 思ふらむ 梅の花笠 着たる蓑虫

面白いが、明らかに和歌の題材ではない。
俗謡のたぐいであろう。
同じ時代に梁塵秘抄があるが、それと同類だろう。

ところが莵玖波集になると、形式はいわゆる連歌であるが、
内容は和歌そのもの(というより和歌の劣化版)である。

つまり、平安後期には連歌とは俗な内容の、形式的には和歌であったものが、
南北朝になると、形式的には連歌だが、内容的には和歌になった、
ということではないのか。
誰もそういう指摘をしてないのだが。

後拾遺集で藤原通俊は和泉式部や赤染右衛門などの現代女流歌人を発掘してみせた。
金葉集で源俊頼は、より過激に、俗謡を和歌に取り入れようとしたのではなかったか。
金葉集については[金葉集](/?p=13325)、[金葉集三奏本と詞花集](/?p=13338)などにも書いたが、ぱっと見退屈な歌集である。
ところが連歌のところだけが異様に斬新である。
退屈だけど駄洒落は大好きな人というのは確かにいる。
狂歌人の大田南畝などがまさにそうだ。
巻頭歌が紀貫之だとか藤原顕季だとか源重之だとか、
そんなことはどうでも良いんだよ。
どうしてそんな些末なことにこだわるのかな。

後拾遺集序に

> 麗しき花の集といひ、足引の山伏がしわざなど名づけうゑ樹の下の集といひ、集めて言の葉いやしく姿だみたるものあり。これらの類は誰れが志わざとも志らず。また歌のいでどころも詳ならず、たとへば山河の流を見てみなかみ床しく、霧のうちの梢を望みていづれのうゑ木と知らざるが如し。

これが当時のいわゆる連歌なのではないか。
「麗しき花の集」とは「麗花集」(ほとんど残らない)、
「足引の山伏がしわざなど名づけうゑ樹の下の集」はよくわからんのだが、
これが「散木奇歌集」の元なのではないのか。
藤原通俊はそれら俗謡を捨て、源俊頼はこれを拾ったのではなかったか。

良く読んでみると後拾遺集も金葉集も実に面白く興味ぶかい。
その理由の一つは従来の学説というものがまったく当てにならないからでもある。
当てにならないという意味では古今集もそうだ。
そういう意味では新古今が一番きちんと理解されていて、
また難しく見えてもあれほど勉強さえすれば簡単なものもなくて、
現代人にもわかりやすいとはいえる。

あつまうとの-こゑこそきたに-きこゆなれ/みちのくにより-こしにやあるらむ

ももそのの-もものはなこそ-さきにけれ/うめつのうめは-ちりやしぬらむ

しめのうちに-きねのおとこそ-きこゆなれ/いかなるかみの-つくにかあるらむ

はるのたに-すきいりぬへき-おきなかな/かのみなくちに-みつをいれはや

ひのいるは-くれなゐにこそ-にたりけれ/あかねさすとも-おもひけるかな

たにはむこまは-くろにそありける/なはしろの-みつにはかけと-みえつれと

かはらやの-いたふきにても-みゆるかな/つちくれしてや-つくりそめけむ

つれなくたてる-しかのしまかな/ゆみはりの-つきのいるにも-おとろかて

かもかはを-つるはきにても-わたるかな/かりはかまをは-をしとおもふか

なににあゆるを-あゆといふらむ/うふねには-とりいりしものを-おほつかな

ちはやふる-かみをはあしに-まくものか/これをそしもの-やしろとはいふ

たてかるふねの-すくるなりけり/あさまたき-からろのおとの-きこゆるは

ひくにはつよき-すまひくさかな/とるてには-はかなくうつる-はななれと

あめふれは-きしもしととに-なりにけり/かささきならは-かからましやは

うめのはなかさ-きたるみのむし/あめよりは-かせふくなとや-おもふらむ

よるおとすなり-たきのしらいと/くりかへし-ひるもわくとは-みゆれとも

おくなるをもや-はしらとはいふ/みわたせは-うちにもとをは-たててけり

ヤリューティスタン

ここのところずっとネタだしに苦しんでいた。

特務内親王遼子は王道の狗をヒントに川島芳子をモデルにして出来た話なんだが、
ヤリュート王族の末裔タプイェンというのが出てくるのが少しオリジナルで、
ついでに欧州の王族もわりと絡んでくる(予定である)。
近代史なのもよけいにややこしい。

ヤリュート、つまり耶律氏は東北アジアに発する契丹(キタイ)人の一族であり、
おそらくは内モンゴルか満州地方に住んでいたモンゴル系の遊牧民の一支族であろう。
耶律阿保機のときに遼という国を作った。
遼は女真族の金に滅ぼされ、耶律はモンゴルの臣下となる。
また、耶律大石は中央アジアに西遼(カラキタイ)という亡命政権を作った。
カラキタイはナイマン部の王族クチュルクに簒奪されたあと、
モンゴルに滅ぼされた。
タプイェンはそのカラキタイの王族の末裔という設定なのだが、
ヤリュート族の末裔がどうやって700年ほど後の時代に復活するのか。
日本で言えば後南朝の末裔が昭和になって出てくるくらいの話である。
フィクションだからとでたらめに作ることもできるが、
そんな無理はしたくない。
史実にまがうようなリアリティが欲しい。

こんなときファンタジーなら簡単で、
たとえばシータがラピュタ王の末裔であるのは、
古代の超文明とか飛行石とか超能力が証明してくれる。
ナディアならブルーウォーターだわな。
イデオンもナウシカもエヴァもインディージョーンズも結局はみんな同じ。
ファンタジーは楽だ。
しかしファンタジーを禁じ手とし、
あくまでも史実として成立可能な設定にする。
とても難しい。

天皇の皇位継承も承久の乱や南北朝なんか見るととてつもなく微妙でやっかいで込み入っている。
ヨーロッパでもルイ十四世なんかずっと継承戦争とかやってる。
誰が正統な王位の継承者かってのは、
サルゴン大王の時代からずっと貴種流離譚と言って神話の典型パターンである。
王位継承ってのはそんだけ関心も高かったし、ちゃんと立証するのは難しくもあったのだ。

どうやってヤリュート王族の末裔であることを証明するか。
血?中央アジアではモンゴル人、トュルク人、ペルシャ人らが複雑に混血しているので、
単に血筋だけでは何族かは決まらない。
土地?ヤリュート族は土地も国も失った。ユダヤ人やアルメニア人やクルド人みたいなものだ。
三種の神器みたいなもの?そういうものにはあまり頼りたくない。
家父長制とか律令とか?これまたちゃんと説明するのは難しい。
文化や言語や宗教?ある意味落としどころはそのへんかもしれぬ。
ともかく青くて光る宝石のせいにするわけにはいかない。
どうすりゃいいのか。

中央アジアから北インドにかけて20世紀になってもたくさん「藩王国」とか「土侯国」
が存在していた。
ネパールやブータンなどは王国のまま現代まで存続している。
トゥルクメニスタン、キルギスタン、ウズベキスタンなどは共和国になっている。
東トルキスタン(ウィグル)やらチベットは中国の一部になっている。
モンゴルやアフガニスタンなんかはずっと存在している。
これらは全部もとはといえばモンゴル帝国のなれの果てである。
ムガール帝国も語源はモンゴルだし。
モンゴルやムガール帝国が衰退すると、
これらの土侯国は大英帝国かロシア帝国か中国の保護国となった。
だけど宗主国が衰退したり、
内戦状態になったり革命が起きたりすると独立することもあるわけだ。
旧オスマン帝国領内の少数民族もまあ似たようなもんだ。

そういうややこしいところにカラキタイの王族の末裔が突如現れて、
中央アジアにヤリューティスタンという国を建国する、
その主たるエージェントがタプイェンという設定なのだが、
先に多少ネタばらししておくと、
特務内親王遼子2でタプイェンが遼子を「姉さん」と呼んでいたわけだが、
実は遼子もヤリュートの血を引いている。
「遼子」という名もそれを暗示している。
気づいている人はすでに気付いているし気付かない人にはなんのことやらわからないと思うが、
高黍宮の高黍とはコウリャンのことで東アジアでは主要な穀物である。