アリストテレスなのだが、
生まれ故郷のスタゲイラはともかくとして、
アタルネウス、ミュティレネ、ペッラ、アテナイなど、
マケドニアにとって重要な拠点にばかり住んでいる。
これは単なる偶然ではない。
アリストテレスはフィリッポス2世とアレクサンドロス大王のエージェントであった可能性が高い。
転居したというよりは、これらの拠点を往還していたのだろうと思う。
王太子時代のアレクサンドロスの家庭教師というのは形式的な肩書きだっただろうと考えられる。
アリストテレスはアタルネウスの僭主エウブロス、ヘルミアスの系統の人で、
ヘルミアスが死んだあとに彼の後継者になったと考えられる。
エウブロスはおそらくアルタバゾスやメントルらと同じ世界の人で、
フリュギア・ヘレスポントス地方の船主で金貸し。
ヘルミアスはエウブロスの奴隷だったが、エウブロスの死後彼のシマを引き継いだと考えられる。
そしてアリストテレスはヘルミアスの婿養子になってアタルネウスに住んだ。
アリストテレス Ἀριστοτέλης は αριστευς (best, noblest) と τέληεις (perfect, complete)
の合成語であり、この当時こんな名前の人はいない。
ソクラテスとかプラトンなどは、まあ当時の普通の人名だが、アリストテレスは後世付けられたあだ名、
というよりは弟子たちが呼んだ美称だろう。
日本語なら「尊師」とでも言うところだ。
アリストテレスが生前この名で呼ばれていた可能性はほとんどないと思う。
後世アリストテレスにあやかって彼の名を名乗った人ならいるようだ。
ウィキペディアなどでは、τέληεις ではなくて τελος (purpose) だとしているのだが、
この二つの単語は明らかに同語源であって、しかも
Oxford Classical Greek Dictionary には purpose などという訳は挙げてない。
アリストテレスの本名だが、
彼の父と息子がニコマコスという名なので、彼自身もニコマコスという名であった可能性が大である。
そうすると『ニコマコス倫理学』は、アリストテレスの息子が編集したものだというのだが、
これこそはまず間違いなくアリストテレス自身の学問を記したものと言えるだろう。
アリストテレスがかくまで崇拝されているのは、
彼がフィリッポス2世やアレクサンドロスのもとで何か顕著な(しかし世には知られていない)功績があったからだろう。
かつ、アリストテレスがアレクサンドロスの教師であったことから、のちに、
ヘレニズム世界の百科事典が編纂されたときに、それを無造作にアリストテレス全集と名付けた。
後世の学者たちはこの全集をアリストテレス自身が全部書いたんだと信じた(というより、
「最高完璧全集」というタイトルが先にあり、最高完璧(アリストテレス)という名前の人が書いたんだと勘違いしたのかも)。
それでまあ、フィリッポス2世とヘルミアスは同盟関係にあって、
ヘルミアスはペルシャのギリシャ人傭兵隊長メントルの謀略によって捕らえられて死んだ。
アリストテレスはメントルとフィリッポスの間のエージェントだったと思われる。
アカデメイアに遊学したのはヘルミアスのおかげだろう。
ヘルミアスの死後、アタルネウスは放棄されて、アリストテレスはミュティレネに移り、
さらにマケドニアの首都ペッラに移り、アレクサンドロスが即位するとアテナイのリュケイオンに移っている。
アリストテレスの学問上の功績はないとは言えないが、
すべてはアレクサンドロスが死んだ後に作られたものだ。
つまり、世に言うように、
アリストテレスの教えによってアレクサンドロスがギリシャを統一しペルシャを征服して大王となったのではなく、
アレクサンドロス大王がヘレニズム世界を統一したことによって、
ギリシャ人によるペルシャ学の編纂事業が成り、
かつ大王の権威を借りてアリストテレスという大哲学者の偶像が作られたのである。
状況証拠的には、どう考えてもそういうふうにしかならない。
なぜこういう学説が主流にならないのか不思議だが、
西洋の学問の源泉が中世のキリスト教神学にあり、
その神学がアリストテレスの名を冠したヘレニズム哲学に呪縛されているからだろう。