対訳ハイディについて

投稿者: | 2023年6月26日

自分の中では『ハイディ』は単なる客寄せだと思っている。これだけ和訳もされ、アニメにもなっている作品を今更私が訳したところでそのこと自体にあまり意味はない。

ただ私としてはもう少しヨハンナ・シュピリの書いたものをきちんと読みたいと思っていて、そのためには訳が豊富な『ハイディ』で練習してから、それ以外のものを訳すほうが、遠回りだけど近道なのかなと思ってもいる。もちろん『ハイディ』そのものもきちんと読んでおかなきゃならない。自分ではこう訳したがほんとうはこう訳したほうがいいんだなとか、あーそういう訳し方があるのかでは似たような構文はそんなふうに訳そうとか、そもそもドイツ語を訳すこと自体それほどまだ私はうまくないから、やることはいくらでもある。

ただ今回『ハイディ』を訳していて思ったのは、他のシュピリの作品を訳すよりずっと面白いし楽しいし、はかどるってことだった。なにしろもうあらすじは知ってるし、もともと興味深い作品だしね。

翻訳にせよ、小説の『ハイディ』を読むほどのファンはよほどコアなマニアで、そういう人がはたしてどのくらい日本にいるのだろうか。それよりもむしろ、第二外国語でドイツ語をとっているような人が、楽しみながらドイツ語を勉強しようというときに、比較的親しみやすい『ハイディ』を読んでみようと思うことはあると思うんだよね。

今和訳されている『ハイディ』はどれも児童文学的に、子供や女性に読んでもらうようにアレンジして訳されていると思うんだよ。もちろんもともとシュピリも子供や女性向けの小説を書いているんだけど、そこからさらに和風に、女性向けにアレンジされていると思う。特に人生の辛さとか悲しみとか、病気や死とか、宗教による救済なんてあたりを、シュピリはほんとうは書きたいのだけど、そういう日本人から見て、あるいは現代人からみて、児童文学にあまりふさわしくない部分は薄めてぼかして訳されていると思うんだよ。そういう忖度した要素を削り落として、むしろ今まで忖度されてきた部分を強調して、極力原文の力強い、メリハリのある、はきはきとしたニュアンスが伝わるようにしたい。

ある意味こうした翻訳を新たに提示するってことは、今までの『ハイディ』ファンに嫌がらせをすることになるんじゃないかと思う。『ハイディ』をアニメで見て良い気分になっている人に冷や水を浴びせるようなことになると思う。それはそれで私に取っては面白いしモチベーションになることではあるのだが。私にとって『ハイディ』の中で一番リアルで面白いのはデーテで、だから『アルプスの少女デーテ』という小説を書いたりもしたのだが、私はシュピリが、情け容赦の無い現実を叩き付けてくるところが好きなんで、そういう側面を、ほんわかとしたハイディを愛好しているファンに叩き付けたい。というかそういう人たちからは嫌われるかもしれんが、ほんとうの、リアルなシュピリを知りたいと思う人もそれなりにいると思うんだよね。

たとえば『嵐が丘』なんかもそうだよね。あれほんとに作品も作者も救いようのない話なんだけど、そういう生々しくグロいあたりからは目をそらして、純粋にヒースクリフとキャサリンの恋物語として読んでる人が多いと思うんだよ。読むこともできなくはないしね。特に映画化されたものはそうだよね。そうやって原作は読者によってどんどん改変されて行き二次創作ができ、読者に取り込まれて行き、読者好みのテイストに仕立てられて、しだいに原作者はないがしろにされていく。私としては作者がなんであんな狂った話を書いたかってことのほうに興味があるね。山田五郎が、ミレーは最初歴史画家になろうとしたんだが農民画家として人気が出たので農民の絵ばかり描かされたって話をしてたけどある意味シュピリもそれに近いと思う。そんなこと言ったら藤原定家だって本居宣長だって富野由悠季だってみんな同じようなもんだ。

こういう作業には WordPress より MediaWiki のほうが向いていると思うが、私としてはこのブログを読んでもらうことも『ハイディ』を公開する目的の一つなんで、けっこうめんどくさいが wordpress でやる。で、ついでに他の記事も読んでもらいたいし、小説も読んでもらいたい。そう究極の目的はこのブログから kindle等の小説に誘導することにある。

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