埴輪と仏像

日本人が仏像を作り始めるよりもずっと前から日本人は埴輪を作っていた。

そして日本人が仏像を作り始めると日本人は埴輪のような造形を作り出すことをやめてしまった。日本人の創造性が固定化され様式化され、技巧的になり、宗教に絡め取られると同時に、多様性が失われてしまった。自由な創作活動が不可逆的にできなくなった。

もし日本に仏教が伝わらず、仏像を崇め拝むという習俗に染まらなければ、日本人は埴輪的な造形物を作り続けていただろう。仏像は確かに芸術的に非常に価値が高い。洗練されている。しかし所詮仏像は外来のものだ。別に日本で作るまでもない。必要があれば輸入すれば済む話だ(まして奈良の大仏なぞ作る必要はまったくなかった)。日本固有のものは日本でしか作れないのだから、日本はまずもって埴輪を作り続けるべきだった。しかし仏教は伝来し、仏像へ日本人の意識がすべて向けられてしまった結果、仏像以外の造形が絶えてしまったのは非常に惜しいことだと思う。

もちろんこれは仏像に限った話ではない。仏教、儒教、すべてに言える。日本人が日本だけでできたことの多くが外来思想や外来文化によって途絶してしまい、その発展が妨げられた。

実は同じことが明治にも起きたのである。弥生古墳時代には当たり前だった芸術が飛鳥奈良時代に混淆し、平安時代には捨て去られた。明治初期には西洋文芸理論との混淆も見られたが中期以降はただ単に江戸時代の文芸は切り捨てられ西洋文芸理論だけがもてはやされるようになった。

もちろん埴輪と神道は違う。しかし、古代神道と仏教の関係は、埴輪と仏像を見ればだいたい想像がつく。儒教や仏教は、キリスト教やイスラム教に比べればまだ日本と親和性が高く、日本に与えた良い影響ももちろんたくさんある。だが外来宗教には違いない。日本古来の固有の伝統だと言われるのはかなり違和感がある(アザーンはだめだが寺の鐘は良い、など)。

ただ、埴輪にせよ、もとは中国から渡ってきたもので、兵馬俑の模型を真似たものであったかもしれない。或いはもっと近い時代の唐三彩なんかの影響かもしれない。

ついでに言っておくが神社で朝、ブロワーで掃除しているのはなんとかならんのか。うるさくて非常に不愉快だ。別に機械を使って掃除するのがだめだというつもりはない。静かにしてほしい。早朝神社に参拝して清らかな気分になりたいのに、神経を逆なでする。境内を静寂に保つことは神道とは関係ないことなのだろうか?神社の周りを暴走族が取り囲んでエンジンふかしても良いのか?

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