子規の和歌

投稿者: | 2010年4月2日

[子規以前の短歌は堂上和歌。庶民は関知しないもので、一部の階級のものであった和歌を一般の人のために引き下ろした](http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1230335577)
などといわれているが、
契沖も賀茂真淵も上田秋成も堂上ではない。
堂上家の門人にはなってないから、いわゆる地下(じげ)だ。
田安宗武も真淵の弟子だから、将軍の子であっても地下だ。
子規によって堂上から地下への変革が起きたのではない。
香川景樹と小沢蘆庵は半分堂上だが半分は地下だ。
つまり、堂上家の門人だったが離縁したり破門されたりして、のちに桂園派という独自の一門を作り出した。
ある意味で、堂上から地下への橋渡しをしたのは蘆庵と景樹の功績だ。
それまでは堂上家の家柄の者でなければ歌道の一門を立てたり門人を取ったりということは事実上できなかったのだろう。
堂上から生まれ、堂上を受け継ぎ、堂上との腐れ縁を断ち切ったのは大いなる改革者というべき。
それなりの実力があったからできた。
ところがこの桂園派が明治時代には堂上和歌として攻撃される始末。
先達者に対するなんという無礼か。
桂園派ではないとすると明治の歌人たちの好みで残るのは真淵の国学の系統しかない。

吉田松陰に代表される幕末の志士たちも明らかに地下だし、
孝明天皇や明治天皇でさえその作風はもはや堂上ではないのである。
子規が攻撃した歌会所の歌だって、その代表格の高崎正風の歌だって、
みな蘆庵や景樹の影響を受けているのであって、堂上とは言い難い。
宣長が古今伝授を批判して以来、もはや純粋な堂上などは存在しなくなった、
と考えられる。
確かに江戸初期には、冷泉、飛鳥井、武者小路、中院などのいわゆる堂上家の歌人やその門人が活躍してしたが、
幕末にはほとんどその影響はなくなっていた。

庶民が和歌を詠まなかったというのもまったくの誤解だ。
仮に和歌は詠めなくても狂歌はさかんに詠んでいたはず。
下級武士や町人に至るまで盛んに歌は詠んでいた。
江戸時代からすでに和歌は完全に国民レベルにまで浸透していた。
明治になってからいきなり牛飼いが歌を詠み始めたのではない。
というか、明治になっても牛飼いは滅多に歌は詠まなかった。
きちんと教育を受けないと歌は詠めないのだから。
明治と江戸とどれほどの違いがあっただろうか。

江戸時代という長い平安の中で後水尾天皇から橘曙覧まで徐々に和歌は民衆に浸透していった。
和歌を大衆化したのは江戸文化そのものであり、明治維新でも文明開化でもない。
極限まで過小評価したとしても、
江戸時代という準備の時期がなくては明治になっていきなり和歌を大衆が詠めるようになるはずがない。

子規が20代に詠んだ歌などは確かに古今調だ。

> 物思ふ我身はつらし世の人はげにたのしげに笑ひつるかな

> いはずとも思ひの通ふものならば打すてなまし人の言の葉

> 我恋は秋葉の杜の下露と消ゆとも人のしるよしもなし

あまり感心しない罠。
30代に病床で詠んだ歌などは確かにあわれは誘うが、秀歌とは言い難い。
むしろ、反則技に属するものと言える。
実質的に子規が近代和歌に与えた影響というのはほとんどない。
子規によると思われている功績のほとんどは実は蘆庵と景樹によるもので、
或いは江戸中期以降に大流行した狂歌からの間接的な影響であって、
ある種の「司馬史観」とでも呼び得るものによるすり替えが起きているのである。

私たちは明治時代を過大に評価しがちだ。
確かに明治は偉大だったが、しかし、その多くは実は江戸時代に準備され、
あるいはすでに完成していたものなのだ。

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