人虎伝

「山月記」はなぜ国民教材となったのかというのを書いたせいで気になって調べてみた。山月記の中で、中島敦は虎に

人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い

などと言わせているのだが、私はこの台詞がすごく好きなんだが、これが原作の人虎伝にすでにある文句なのか、それとも、中島敦が独自に挿入したものなのか。

人虎伝の原文現代語訳も、今では簡単にネットでみることができる。当該箇所を読んでみると、それらしきことは書いてなくて、

於南陽郊外、嘗私一孀婦。其家竊知之、常有害我心。孀婦由是不得再合。吾因乘風縱火、一家數人盡焚殺之而去此。爲恨爾。

つまり、女の家に放火して、一家数人をことごとく焼き殺した、などということが書いてある。それでさらに検索してみると、なんと中島敦の本家本元筑摩書房でその箇所について解説しているではないか。

なるほど。「山月記」は国語教科書の定番なので、「人虎伝」までさかのぼって深読みし、指導の助けにしようという教師は少なからずいて、筑摩書房もその要望に応えたというわけだ。

「人虎伝」を読めば明らかなように、人が虎となったのは、密通放火殺人の罪による。中島敦はここをすべて捨て、代わりに、己の詩業に熱中するあまり、妻子を顧みなかったから虎になった、そう読み変えたのだ(家庭をないがしろにする男などいくらでもいる。そういう男がみんな虎になったらたいへんだ。中島敦もだから虎になった理由は明記してない。そんな説得力のある理由じゃない。だから思わせぶりな記述になった)。自分なりにストーリーを書き換えてみたい、あるいは多少のオリジナリティをもたせたいと考えるのは自然で、芥川龍之介もやっていることだ。

この筑摩書房のサイトの解説がなかなかおもしろいのだが、

李徴の詩は、微妙な点において欠けているものがあるから一流になれなかったということなのですが、

李徴の詩が、微妙な点において欠けている、と感じたのは中島敦本人なのである。そう感じたからストーリーを改変した。中島敦はおそらく李徴に自分自身を投影したのだ。しかし中島敦自身は、李徴のような鬼畜な人間ではない。作者は感情移入できない。「妻子とか、生業などに煩わされながら、物書きをしている自分」というものを主人公にしないとそもそも話を物語ることができない。李徴に遭遇した袁傪はただの脇役なのでやはり感情移入しにくいわな。

この微妙な点を生徒の多くは「愛」に求めます。妻子への愛がなかったからいい詩が書けなかったというわけです。私が「では、愛があればいい詩が書けるの?」と問えば、躊躇なく「はい。」と答えてきます。本気で「愛があればなんでもできる。」と信じ込んでいるわけではないのですが、生徒たちは小説・物語はそう読むということに慣れ親しんでいるのだと思います。テレビ・アニメ恐るべしです。

ここで「私」と言っている人が誰なのかと探してみてもよくわからない。署名記事ではなさそうなのだが、いかにも高校国語教師の感想という感じでほほえましい。

妻子への愛があれば良い詩が書けるとは中島敦も考えてなかっただろう。そんな雑な結論を導かれちゃ困るだろう。読者は自分の好き勝手に誤解したがるものだ(そしてそれが当然の権利で正しい行為だと思っている。自分が作者よりもよい解釈をしてやったとすら考えている)。作者の意志などどうでもいいのだ。作者は(と言いながら自分のことを書くが)、そんなありきたりの、誰でも思いつく、誰が書いても同じな、毎日テレビで垂れ流されていてわざわざ自分で書く必要すらない、つまらないストーリーなんか書きたくない。普通の恋愛、普通の推理、普通の歴史小説なんて書きたくない。二重三重に意味を持たせた、トリッキーなストーリーを書きたい。はぐらかしたりだましたりしながら、ちゃんと読めばちゃんとわかるように書いてあるのだ。しかし最初のトリックにつまづいてそこで読了した気持ちになっている読者を見るとがっかりする。

思うに、山月記が説教臭い教材になってしまった理由は、普通の高校生とその教師と親がそういう解釈を好んだためだとしか言いようがないと思う。中島敦が山月記を書いた理由?おそらくは自分の著作活動における自問自答、葛藤のようなものをそのまま書いたのだろう。教科書会社は売れるから載せているだけだ。文科省の役人は特に現状を変更する理由がないから放置しているだけ。「なぜ国民教材となったか」と言われればそれこそ「国民が望んだから」としか言いようがない。文科省の官僚や教科書出版社や指導要領の作成者のせいにするのはよろしくない。

おそらく「人虎伝」で種明かしをされてしまうと怒り出す高校生や国語教師がたくさんいるのではないか。そんなの俺の「山月記」じゃねえ、とか言い出して。アニメとかラノベのファンなんてみんなそうだ。

追記。やや嫌らしいが、教育指導要領の方もみておこう。

李徴が虎になった原因が三点も記されていることについて考える。

それは、中島敦が、本来の理由を削除して、自分なりの解釈に改変したが、その解釈を読者に押し付ける自信がなかったからだわな。

李徴が詩に執着した理由を考える。

詩人が詩に執着して何がいけないのか。

現代小説に特徴的な主題を読み取り、現代小説に親しむ。

ていうか現代小説を書いているつもりの私にも「現代小説の特徴」なんかわからんよ。主題を読み取るというが、この小説に何か明確な主題なんてあるのか。元の伝記小説にはあったかもしれんが。つか小説なんてのは、特に近代や現代の小説てのは(漫画とかアニメとか娯楽物でない限り)、何か具体的な主題に沿って書かれるものじゃないだろ。無理に高校生に主題を読み取らせようとするから筑摩書房のサイトに書かれているような頓珍漢な答えが出てくるんじゃないの(それとも自己流に解釈すればそれはそれで、自分で頭を使ったからよいということか)。

さらに、「山月記」なんか読んで現代小説に親しめるか?

現代小説独特の表現に親しみ、その特性を理解する。

同上。

表現とそのリズムに親しむとともに、表現された心情を考えながら音読・朗読する。

音読、朗読か。なぜわざわざそんなことをさせたいのかよくわからない。それって必要なのか。てか、朗読させたければ詩にすればいいんじゃないか。

運命に対して無抵抗であり、理由の分からないものをただ受け入れざるを得ないという不条理、人間という存在に対する嘆きがあります。人間がこの世界に投げ出された状況とは、まさにこういうことでしょう。理由などないのです。それを人間は、自分たちの物語に理由づけようとして悪戦苦闘しているのです。

いろんな理由を考えさせて、高校生を悩ませておいて、結論はこれなのだろうか。答えは「理由はない」。世の中は不条理だ。人間は苦しんでいる。それが現代小説の特徴なのだろうか。はて。うーん。ニーチェとかサルトルみたいなもん?(笑)

なんか、もっともらしい理由づけではあるが、高校生に読ませる教材なんだよね?もっとほかにふさわしいのがありそうなものだが。いやいくらでもある。やはり、いろいろ生徒に悩ませておいて、最後にこうですと、手の内をあかして、けむに巻いてみせたいだけなんじゃないかと勘繰りたくなる。

ネット時代の今、そんな手口はもはや高校生には通用しないんじゃないのかなあ。一時期「ポストモダン」な人たちが風靡してたころはそんなわかったようなわからないような禅問答的解釈でよかったかしれんが、今はググればごまかしはすぐばれるよ。

追記あり〼

百人一首3

やはりフローニで脚注使おうとするとフリーズ。
なんなんだこのバグ。
フローニの表紙絵がアマゾンで差し替わったのを確認してからエウドキアの無料キャンペーンやります。
今話題のキエフやクリミア半島もバシレイオス二世ネタとかで出てくるよ。
だから読んでください。

エウドキアも誰かに挿絵描いてもらいたい。
だけど難しすぎて無理だ罠。
東ローマ皇帝とかセルジューク朝のスルターンとか、コンスタンティノープルとか。
設定資料揃えるだけでたいへんだし描くのはさらに大変。
字だけ書くのは楽でいいんだが。
映像化するとほんとはすごいんだよ、誰か映画化してくれ(他力本願)。
つかもともとセルジューク朝の詩人オマル・ハイヤームが主人公で、
イェルサレム王国のバルドヴィンとか出てきて、
アレクシオスとかエウドキアはほんの脇役の話だったんだが、
書き切れないからそのうち連作みたいな形に分けて書くと思う、気がむいたら。
もし万一エウドキアの続編書いてくれって言う人がいたら。
塩野七生の『十字軍物語』と比べ読みしてほしい。
ダメなら遠慮無く★一つでいいから。

定家の日記『明月記』文暦二年(1235)5月27日に

> 予本自不知書文字事。嵯峨中院障子色紙形、故予可書由彼入道懇切。雖極見苦事憖染筆送之。古来人歌各一首、自天智天皇以来及家隆雅経。

とある以上は、定家による百人一首の原型があって、
その始まりは天智天皇の歌で、終わりが家隆と雅経であったのは、間違いないのだろう。

だがしかし、この時点で後鳥羽院や順徳院の歌が入っている可能性はまずない。
依頼した宇都宮頼綱は鎌倉幕府の御家人であるし、定家がいかに後鳥羽院や順徳院と親しかろうと、
承久の乱で流された廃帝の歌を、
しかも流された後に詠んだと思われる恨み節のような歌を入れるはずもないのである。
定家はそんな義侠心のあるような性格ではない。
また、いろんな人が指摘しているようだが、後鳥羽院、順徳院などの追号が確定したのは定家の死後。
後世の人がおもしろがって入れたのに間違いあるまい。

それでまあ、98首目が藤原家隆で、99と100が後鳥羽院、順徳院なので、
原型は98首しかなかったんじゃないかというのが通説らしいのだが、
おそらくほんとはもっと少なかったんじゃなかろうか。
だがまあ定家という人は天智天皇の「秋の田の」みたいな凡作を敢えて入れるような人であったかもしれず
(別のも少しまともな歌と差し替わっている可能性は低い)、
そのほかの歌も定家が選んだ可能性はなくもない。

しょうがないがやっぱり小倉百人一首は、定家の趣味で選ばれたと考えるしかないのだろう。
ただし、依頼主の宇都宮頼綱の趣味がかなり反映されてはいるだろう。
後から追加や入れ替えはある程度あっただろう。

西行

小林秀雄「西行」を読んでいて思うのだが、小林秀雄は、知ってか知らずか、西行の歌の真作、偽作かまわず、西行の歌と言われている歌すべてを対象にして、西行という人を鑑賞しようとしている。その態度はある意味潔いが、当然のことながら西行の実像を濁らせてもいる。小林秀雄ですらそうなのだからそれ以外の人たちは、ほぼ皆、西行の伝説に惑わされている。あまりにも古びて改変されてしまっていて、江戸時代の古い写真や、中世のはげかかったフレスコ画を見ているようなものだ。それは生きている西行からはほど遠い。ごく一部の疑い深い学者しか西行の歌の真偽については考慮してない。

西行の歌はいくつか分類して考えねばならない。出家前に詠んだ歌(もしあれば)、出家直後に詠んだ歌、晩年の歌、そして後世の偽作。

西行は多作だったので、確実に真作であろうと思われる歌を集めるのはそんな難しくない。

詞花和歌集に初出の歌は33歳までに詠んだわけである。

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

小林秀雄はこの歌を「作者の自意識の偽らぬ形」「こういうパラドックスを歌の唯一の源泉と恃み」などと言っている。つまり禅問答的な形をとった過剰な自意識の発露だといいたい。詞花集には読み人知らずとして載ったわけだが、もしかするとそのころはまだ俗名で、しかも勅撰集に名を出すにはおそろしく身分の低い武士だったのだろう。

「捨てぬ人」とはまだ出家してない西行自身のことであって、自分は在俗のまますでに身を捨てたようなものだが、出家して世を捨てたと言っている坊さんたちは、ちっとも世の中など捨ててないように見える(権力や名誉に執着している)、ということか。「身を捨つる人はまことに捨つるかは」という強い言い方、おまえら、ほんとに身を捨てたのかよ、そんなんじゃ身を捨てて救われようとは思えんね、みたいな軽蔑の感情を感じるのは私だけだろうか。あなた方は行い澄まして世の中を捨てたなぞとうそぶくが、私のほうこそ、俗世の中にいて、深い絶望を抱いているのだ、と。

あるいは、出家することを身を捨てるというのは間違いで、身を捨てない人の方が、後生に障るから実は身を捨てているのだ、と解釈する人もいる。「身を捨ててこそ 身をもたすけめ」が西行の真作ならば、その解釈であっているかもしれない。「身を捨つる人はまことに捨つるかは」はその場合お坊さんが檀家の人に説教をしている口調、身を捨てるというのは、ほんとうに身を捨てたことになりますか、いえ、ちがうんです、みたいにも思えてくる。西行がただの坊さんならばこの解釈であっていると思うのだが。西行は、坊さん臭い、説教臭い和歌は詠まなかった人だと、私は考えている。

勅撰集に「詠み人知らず」としか載らない身分の低い私でも出家すれば名前がのこるようになる、と解釈する人もいる。なるほどいろんな解釈があるものだ。

西行の他の歌も参考にしつつ考えると、西行は出家はしたものの普通の人と同じような生き方をした。花をめで、歌を詠み、京都市内に住んだりした。出家した後も悟りは得られず、一生悩み苦しんだ。そのことと関係あるんだろうが、よくはわからん。

まともかく西行は普通の坊さんと違うので、解釈が難しい。「パラドックスを源泉」と言えばそうなのかもしれない。

追記: 以前に似たようなことを書いていた。西行の歌。そうだな。この歌は変に説教臭いし、同時代の人がこれを西行の歌と認めたのならともかく、どうも「西行物語」に詠み人知らずの歌が西行の歌として載ったから、西行の歌ってことになった、と解釈した方が話は簡単だ。少なくとも確実に真作とは言えないだろうな。ま、これ以上この歌だけに関わっても仕方ない気はする。

彼ほどに真に悟りを必要とした人は、その当時にも滅多にはいなかっただろう。それほど深い苦しみを抱いてた。早く楽になりたかったが、なれなかった。そこへいくと慈円なんかは何の悩みも迷いもなく僧侶となり、のほほんと一生を送ったのに違いない。

世の中に未練のあるような歌は他にもある。

はらはらと 落つる涙ぞ あはれなる たまらずものの 悲しかるべし

物思へど かからぬ人も あるものを あはれなりける 身の契かな

捨てたれど かくれてすまぬ 人になれば 猶よにあるに 似たるなりけり

数ならぬ 身をも心の もち顔に うかれてはまた 帰り来にけり

捨てしをりの 心をさらに あらためて みるよの人に 別れはてなん

まどひきて 悟りうべくも なかりつる 心をしるは 心なりけり

など。こういう歌を、小林秀雄は「西行が、こういう馬鹿正直な拙い歌から歩き出したという事は、余程大事なことだと思う」などとからかっている。しかし果たして、「馬鹿正直な拙い歌」なのだろうか。

世の中を 捨てて捨て得ぬ ここちして みやこはなれぬ 我が身なりけり

などは、確かに誰にでも詠めそうな、しかし西行にしか詠めなさそうな歌ではある。普通の僧侶はこんな歌は詠まない。同時代の慈円なんかは絶対詠まない。

心なき 身にも哀は しられけり 鴫たつ沢の 秋の夕ぐれ

世をいとふ 名をだにもさは とどめおきて 数ならぬ身の 思ひ出でにせむ

うらうらと 死なむずるなと 思ひとけば 心のやがて さぞとこたふる

そらになる 心は春の かすみにて よにあらじとも おもひたつかな

世のなかを そむきはてぬと いひおかん おもひしるべき 人はなくとも

山里に うき世いとはむ 友もがな 悔しく過ぎし 昔かたらむ

古畑の そはの立つ木に ゐる鳩の 友よぶ声の すごき夕暮

ここらも、未練を断ち切った、というより、未練たらたら、という感じの歌。まあ先の歌と同じ心境を詠んだもの。意味もさほど難しくない。西行には大胆な字余りの歌があって驚く。

世の中を 思へばなべて 散る花の 我が身をさても いづちかもせむ

わきて見む 老木は花も あはれなり 今いくたびか 春に逢ふべき

吉野山 やがて出でじと 思ふ身を 花ちりなばと 人や待つらむ

花みれば そのいはれとは なけれども 心のうちぞ くるしかりける

春風の はなをちらすと 見るゆめは さめてもむねの さわぐなりけり

春と桜の歌。最後のやつは宣長の

待ちわぶる 桜の花は 思ひ寝の 夢路よりまず 咲きそめにけり

にも似るが、両者それぞれの個性が出てるわな。

いとほしや さらに心の をさなびて 魂ぎれらるる 恋もするかな

こころから 心に物を 思はせて 身をくるしむる 我が身なりけり

あはれあはれ このよはよしや さもあらばあれ 来む世もかくや くるしかるべき

わればかり 物おもふ人や 又もあると もろこしまでも 尋ねてしがな

はるかなる 岩のはざまに 独り居て 人目思はで 物思はばや

恋の歌。

おそらく偽作と思われるのは

何事の おわしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる

うき世をば あらればあるに まかせつつ 心よいたく ものな思ひそ

惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をもたすけめ

その他、聞書集に載る、

うなゐ子が すさみに鳴らす 麦笛の 声におどろく 夏のひるぶし

すさみすさみ 南無ととなへし ちぎりこそ 奈落が底の 苦にかはりけれ

たらちをの ゆくへを我も 知らぬかな 同じ焔に むせぶらめども

などはほぼ間違いなく後世の創作であろう。説教臭く、坊さん臭い。おそらく西行は「たらちを」とか「うなゐご」にはほとんど何の関心もなかったと思う。小林秀雄はそこに後の良寛を見るが、良寛と西行は坊さんで歌人という以外には何の共通点もない人たちだと思う。

脚注とか。

昨日はまた飲みすぎた。いまだにアルコールが体の中に残っている。こんな飲み方をしてはいけない。

フローニも脚注を使おうとしたらmobiでもepubでも書き出せずに一太郎フリーズ。脚注のせいかと思い、エウドキアでもやってみると普通にできる。わけわからんが何か謎のエラーらしい。

しょうがないのでフローニの脚注は今のままで一太郎の機能は使わないことにする。

脚注の設定ではページごとと巻末にまとめてが選べる。脚注専用の領域を指定できないのが痛い。mobi で出力すると結局一番最後にまとめて脚注が出力される。

フローニの表紙と挿絵がもうじき上がってくるので改版することにする。ええっとつまり更新に関してお客様に通知てのを初めて依頼してみようかと思う。

フローニの改版と同時にエウドキアの無料キャンペーンをやるつもりです。エウドキアを校正しながら、まだまだ文章はいじれるってことに気づいてしまう。こういう女一代記みたいなものは、75年間もあって長いから、すきますきまにいくらでも小話を挿入できてしまう。このままどんどん書き足して長編小説にもなるかもしれん。きりがない。カラオケでいうところのビブラートとかこぶしのようなディテイルを付け足したりとか。それやってると永久に終わらんし、誤植も入り込むし、ぎっとぎとな文体より、シンプルなほうがましという人もいるかもしれんし、この辺でやめないと。

藤原通俊という人は、歌があんまりない。もともとあまり詠んでないのか、失われたのか。後拾遺集をみてもそんな面白いのはないから、誰かが意図的に隠蔽した、というわけではなさそう。歌の目利きではあったが自分ではあまり詠めなかったということか。白河院も「大井川古き流れをたづねきて」くらいしか有名なのがない。この人も実はあまり自分では歌は詠まなかったのかもしれない。だが勅撰集編纂には普通でないこだわり方をした。すこし不思議だ。

自分の書いたものをいくつか読み返してみると、全然今書いている文章と違っていて我ながら驚く。「エウドキア」と「将軍家の仲人」は全然違う。なるほどなあと。書いてるときは作中の人物になりきって書いてるから書けるのであって、一度離れるともう書けない。漢詩も和歌もそうだが、その世界に入りきってないと詠めなくなる。なんかよくわからんがある集中力が持続している間しか作れないんだが、それに似たところはあるわな。絵を描くのもそうだわな。

これ、前半部分で新井白石の説明長すぎるよね。たぶんここで読者は飽きるだろうなあとか。

将軍放浪記は蘊蓄多すぎだよね。蘊蓄を物語に落とし込みきれてない感じ。調べたものを全部書いてるよなあ。

百人一首2

小倉百人一首が順徳院でぶつっと切れているのはかなり不自然であって、
心臓に悪い感じ。
やはり順徳院の時代の人が承久の乱に絶望して、作ったものか。
もし後世の偽作だとすると、とてつもなく順徳院に思い入れのある人の作になると思う。

[丸谷才一の新々百人一首](http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/100i/sinsin100.html)
だけど、
これはこれで非常に不満だ。
勅撰21代集あたりの作者を採ってるらしいが、
最後が正徹、心敬、宗祇、肖柏。
この二条派のお坊さん四連発があまりにも強烈で、
泣きたくなる。
かなり偏った選び方で、
人の好きずきと言ってしまえばそれまでなんだが、
少なくとも、
和歌の初学者のために選んだのではない。
お坊さんに和歌が死んだのでお弔いしてもらってる感じ。
王朝和歌へのレクイエム、といったところか。

初心者は幕末維新とか明治時代の歌人から入るとわかりやすいと思うのだが、
中には与謝野晶子みたいなとんでもないのが混じってたり、
すでに変な方向に曲がり始めてたり、
尊皇攘夷思想が強すぎてアレだったりするので、そういうのは除けた方がよい。
私は明治天皇から入ったのだが、
明治天皇の歌は、初心者にはそれなりに骨があるが、
慣れればなんということはない。
ただし明治天皇とか孝明天皇とか吉田松陰とか歌はうまいけどここらをまねるとやはり特有の風味があるので、
ほんとうは最初は除けた方がいいのかもしれない。

となってくると現代人にも理解しやすくてナチュラルな歌人というとやはり、
香川景樹、
小沢蘆庵、
上田秋成あたりが入門しやすいのじゃなかろうか。
堂上でなく、かといって野人でもなく、
江戸時代特有の粋と言うか艶というか優美さがあって、蜀山人のようにふざけてもいない。
江戸後期、幕末の人たちは自然とここらをエントリーにしたのだけど、
私がここにたどり着くにはものすごく時間がかかった。
ほぼ和歌を習得し終えた後だった。

真淵と宣長はあまりにも国学的なので、やはり最初はやらないほうがいい。

古今集から入ろうとか新古今からとか、まして万葉集からというのは論外だわな。

百人一首

小倉百人一首ネタでなんか書こうかとも思ったのだが、
まず、秀歌と言えるのは全体の三分の一ほどであって、
定家ともあろう人がこんな下手くそな歌の選び方をするだろうか。
また、定家は新勅撰集を一人で選んだのだが、
そこには順徳院の歌も後鳥羽院の歌も選ばれてない。
歌の内容も承久の乱の後のものであって、
定家がそのような歌を選ぶことは非常に考えにくい。

順徳院が勅撰集に採られたのは1251年の続後撰和歌集からだが、
藤原定家はその10年前に死んでいる。
順徳院や後鳥羽院が1251年にはすでに名誉回復されていたとしても。

> 人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は 後鳥羽院

> ももしきや ふるき軒ばの しのぶにも なほあまりある 昔なりけり 順徳院

この二首で締めくくられている小倉百人一首は、明らかに鎌倉幕府と北条氏に喧嘩を売っているのであるが、
こんなものがおおっぴらに定家の選として鎌倉時代に流通していたなどということは、考えにくい。

ほとんど同じ内容で定家が選んだとされる百人秀歌には後鳥羽院も順徳院も入ってない、
源融の歌が古今集のままになっている。
時代的にはこちらの方が自然だが、
あまりにも自然なところが不自然だ。
1951年に存在が確認されたとか、とてもじゃないが信用できない。
だれか、小倉百人一首が時代にあってないことを察して作り替えたものに違いない。

冒頭の天智天皇の

> 秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ

にしても、陽成天皇の

> つくばねの 峰よりおつる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる

にしても、あまりにも凡庸な駄作であり、かつ本人の作である可能性はほとんどない。
また、
蝉丸

> これやこの 行くも帰るも わかれては しるもしらぬも 逢坂の関

とか喜撰

> わが庵は 都の辰巳 しかぞ住む 世を宇治山と 人はいふなり

にしても、多少もののわかった人なら、わざわざ百人の中に入れるはずもない、
おもしろくもおかしくもない歌だ。
俊成の歌も

> 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる

などと言う抹香臭い歌が採られているのだが、
これもやはり後世の仏教思想の影響が感じられる。
紛れもない俊成の真作ではあるが、なぜわざわざこれなのかと。
そのほか坊さんの歌で良くないものが多い。
定家の

> こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ

なんでこんな変な歌を選ぶかなあ、って気がする。
ていうか定家の恋の歌はなんかどれも作り物っぽくて白々しくって。

> 駒とめて 袖うちはらふ 影もなし 佐野のわたりの 雪の夕暮

だと丸谷才一の受け売りになって悔しいから、

> 旅人の 袖ふきかへす 秋風に 夕日さびしき 山のかけはし

とかでどうよ。
あれっ。なんかほとんど同じっていうか、同工異曲というか。

小倉百人一首は順徳院までで終わっているから武士が栄え公家が衰えた時代の和歌が含まれない。
さらに江戸時代の庶民の歌も、国学者の歌もない。
このことが、どのくらい和歌の理解を妨げているかしれない。
非常にまずい教材だという気がする。

もし今、和歌を学ぶ人のために百人選ぶとしたら、
私なら、
江戸後期、香川景樹、上田秋成、小澤蘆庵でしめくくると思う。
宣長と真淵も入れていいけど田安宗武はどうかと思う。
ていうかこの辺りの人たちの歌はおもしろいんだが、あんまり膨らませるのもバランス崩すわな。
江戸前期は、後水尾院、細川幽斎、松永貞徳。
室町時代は、あまり思いつかないが、正徹と太田道灌を入れたい。
正徹は食わず嫌いだったが割と良い歌を詠む。
少なくとも頓阿よりはずっとましな気がする。
南北朝は、後醍醐天皇、後村上天皇、宗良親王、光厳院。
鎌倉後期は、京極為兼、伏見院、亀山院。
鎌倉前期には、宗尊親王あたりを押さえたい。
平安時代の歌人には、後拾遺集の選者の藤原通俊と白河院を入れてやりたいし、
二条天皇と二代后はぜひ入れたいし、
醍醐天皇や宇多天皇の歌が入ってないのはけしからんことである。
清少納言とか紫式部は別に入れんでいい。
万葉時代は、柿本人麻呂、山部赤人、山上憶良、額田王、くらいでいいんじゃないか。
額田王のついでに天武天皇を入れたい気もする。
家持あんまり好きじゃない。入れてもいいけど。
古歌にはやはり難波津の歌と浅香山の歌を入れておきたい。

そうするとなんとか和歌の通史というものが見えてくると思う。

香川景樹以降を入れるとわけわかんなくなるからこの辺で止めておくのがとりあえず和歌の理解という意味では無難だと思う。

auブックパス雑誌読み放題

正直な話最近はキンドルよりもずっとスマホでauブックパスを読んでることが多い。
手塚治虫はだいたい読み飽きて、
だめんずうぉーかーとかも読み飽きて、
今は雑誌読んでるが、有料なのはよけて、
読み放題だけ読んでるのだが、それでも読み切れないくらい多い。
電子書籍やばい。

エコノミストとか東洋経済とか日経ビジネスアソシエとかクイックジャパンとか週刊プレイボーイとか。それぞれどういう基準で読み放題にしているか有料にしているかが違う。
エコノミストは最近2号は有料、それよか古ければ読み放題。
東洋経済は全部読み放題。

どうみてもこの雑誌の読み放題はやばい。
すごい時代がきたわ、これは。

ポントスとボスポロス

[へレースポントス](/?p=14070)にポントスは固有名詞なんじゃないかと書いたのだが、
昔黒海にはポントス王国というものがあったようだ。
またアゾフ海からクリミア半島あたりにボスポロス王国があった。
イスタンブルの海峡をボスポラスというのだが、どういうつながりがあるのだろうか。

wikipedia

> ボスポラスとは「牝牛の渡渉」という意味で、ギリシャ神話の中で、ゼウスが妻ヘラを欺くため、不倫相手のイオを牝牛の姿へ変えるが、ヘラはそれを見破り、恐ろしいアブ(虻)を放った。そのためイオは世界中を逃げ回ることになり、牛の姿のままこの海峡を泳いで渡ったとされる。

> bous βοῦς ‘ox’ + poros πόρος ‘means of passing a river, ford, ferry’, thus meaning ‘ox-ford’,

よくわかんねえ。
英語の ox-ford と同じとか言ってる。

また、ポントスというギリシャ神話の海の神がいるようだ。

クリミアという地名はロシア語で、ギリシャ語ではタウリカというようだ。
またケルソネソスという言い方もある。
c.f. パンティカパイオン、スキュタイ。

貫之と定家

知り合いに[大塚英志](/?p=13903)についてこないだブログに書いたでしょとか言われて、
最近たくさん書き散らしているのですっかり忘れていたが、
たしかにそんな人の話を書いた。
その知り合いというのは私の話の中にもちょくちょくモデルとして出てくる。
直接そのまんまではなくて、
彼のパーソナリティの一部がある人物のパーソナリティの一部として使われていたりする。
そんで彼といろいろ話をしたのだが、
私はkindleで旧作を含めて割とたくさん数を出している方だと思う。
また、ジャンルも割とあれこれ試しに書いてみて、1年経ってみて、
彼の話など聞きながら客観的に分析してみたのだが、
やはり、小説というのは売れるのはラノベである。
中学卒業高校受験くらいの知識で読めるものがストライクゾーンである。
大学受験だと難しすぎる(源氏物語を原文で読めるやつなんていないし、
今年のセンター試験の問題とかあり得ない(笑))。

蘊蓄本や解説本、歴史小説を書くのはよい、
本を読むことで中学か高校で昔習ったなというような曖昧な知識を掘り返して知識欲を満たしてくれるような本は売れるが、それより難しい本は、要するに売れないと。

そこでまあ聞いてみたのだが、
では、
紀貫之と藤原定家はどちらが有名か、
というと、紀貫之の方がずっと有名らしい。
でも定家は小倉百人一首とか作ったよね、とかいうとそれはそうだが、
紀貫之は古今集と土佐日記でそっちが有名だ、ということになるらしい。
そう言われればそうなんだが、
ずっと和歌のことを調べていると、なんだか紀貫之より藤原定家の方がずっと重要な気がしてくる。
世間一般の感覚がわからなくなる。

西行とか和泉式部はすごい歌人なんだが、たぶん世間一般でいうと、
ものすごくマイナーなんだよね。
そういうところいくら書いても売れない。
本屋とか図書館にいくらそういう本が並んでたしても、たぶん売れてない。

一人で書いて一人で売るということはDTPみたいなもんであって、
一人の人間が作家となり編集となり営業をこなさなくてはならないのだが、
それはけっこう難しい。

で、うちのブログとかみてると吉田松陰で見にくる人が割といる。
じゃ吉田松陰で書けばどうかと言うと、
吉田松陰なんて誰も知らないよと。
そこで、
坂本龍馬ならみんな知ってるけど、龍馬の和歌なんてみんな松陰のまねだよ、というと、
なら松陰と龍馬という本かけば売れるんじゃないかという話になり、まあそうかもしれんねと思う。
「[龍馬を斬る](/?p=6694)」みたいな本書いてみたいが、
ブログに書いたネタかき集めただけですでに本になりそうではある。
もしかしたら売れるかもしれんが、いろんなところから怒られそうで怖い、正直な話。
龍馬が新葉集の影響を受けているというのは、まああり得ない。
新葉集なら私はよく知ってる。
宗良親王の話(「将軍放浪記」)も書いたし。
龍馬の歌とは何の関係もないと思う。
みんな新葉集も宗良親王も知らんでよく言うわと思う。

あるいは貫之と定家とか。
そういう本書けば売れるんじゃないか。
そういう売れ筋の本をいくつか書いておけば私の売れない本もついでに読んでくれるかもしれん。

女子校と男子校が毎年正月に百人一首のカルタ取りの勝負をする、
そこで百人一首の歌を一つずつ紹介する、というラノベ書いたら売れるんじゃないかという話になり、
そういうマンガすでにある、「あかねさす」じゃなくて「ひさかたの」じゃなくて「ちはやふる」
ってやつらしい。
全然しらんがたぶん私が書こうと言ってるやつとはあまりネタはかぶってないだろう。

> ちはやふる かみよもきかず たつたがは からくれなゐに みづくくるとは

業平か。
業平ネタならいくらでも書けそうな気がする(もう書いたけど)。
「あかねさす」じゃなくて「ひさかたの」じゃなくてなぜ「ちはやふる」というタイトルにしたかということは別に深い意味はないのだろう。
「ちはやふる」が一番タイトルにふさわしかった、ただそれだけだ。

で、「古今和歌集の真相」は私の意に反して割と人気があったんだが、
彼もおもしろかったという。
難しくなかったかというとまあ読めたという。
彼は和歌も日本史も普通レベルだと思う。
どうも知らずに自分の得意分野でかつストライクゾーンなものを書いていたらしい。
「将軍家の仲人」とどっちがおもしろいかというと、
新井白石とかおもしろくないですよとか言われる。
大塩平八郎(「巨鐘を撞く者」のこと)は有名だろというと、
たしかに有名だがあまり興味ないという。
なんかいろいろ売れない方向にこれまで努力を重ねていたらしい。
企画会議は重要だ。

で、「古今和歌集」のどこがおもしろかったかというと、なんとなく全体的にだという。
本読んでしばらくたてばそんなものかもしれんがそれではわからんからと根掘り葉掘り具体的にどこがおもしろかったのかと聞くと、どうも藤原高子のどろどろした話とかがおもしろかったらしい。

そうなんだよね、たぶん。
読んだ後にああおもしろかったと思わせることは重要だと思うよ。

それで「百人一首」は短いからもう腐るほど解説本はあるんだが、
私なりに書いてみる価値はあるかなとすこし思い始めた。
あーそういえば丸谷才一も書いてたなあ。
このブログでは割と丸谷才一の批評とかしてて、
「古今和歌集」にも書いてたりするんだが、
丸谷才一論とか書いても誰も読まないよね。

実は俵万智はすごい歌人だと私は思っていて、
以前にも[プーさんの鼻](/?p=4366)とか書いてるんだが、
「ほんとはすごい俵万智」なんて本書いたら売れるんじゃないかとかどきどきするんだが、
同世代のまだ生きている人の評論なんて書くと怒られるんじゃないかと思って書けない。
俵万智は不倫からシングルマザーに突っ走った彼女の生き様がおもしろい。
それを赤裸々に歌にしてるところが彼女の歌のすごさなんだが、
単に現代語で和歌を詠んだひとくらいにしか思われてない。
そこを敢えて書いてみるのもおもしろいかもしれない。

現代歌人の評論なんて書ける人はいないよ、私以外は(笑)

1185か1192か

1185年は平氏が滅んだ年である。奥州藤原氏はまだ滅んでいない。
義経もまだ討たれてない。
諸国惣追捕使とか守護とか地頭とかいうのは必ずしも1185年に始まって、また、
この年に確立したとも言えない。
どちらかと言えば緊急時の臨時措置とみられていた。
そして鎌倉幕府の軍事力や警察力が確定するのは明らかに承久の乱においてである。

実質的な幕府の成立というのであれば、1221年の承久の乱であるべきであり、
平氏が滅んだ年では結局、説得力としては、源平合戦の域を出ていないのだが、
そもそも源平合戦という言葉が嫌いで、治承・寿永の乱と言い換えたがる学者の方々は、
そんなことで良いんですかと言いたくなる。

[徳川慶喜と勝海舟](/?p=3111)
で書いたのだが、
少なくとも勝海舟は、武家政権というのは、源頼朝が征夷大将軍に任ぜられて、
徳川慶喜が大政奉還したときまでだという認識であった。
頼朝三代とその後の宮将軍、室町将軍、徳川将軍というものがつまりは幕府なのである。
武家の棟梁が天皇に征夷大将軍に叙任されることで、オーソライズされている状態、それが幕府。
武士が実質的に政権を掌握している状態を幕府であったとは考えていなかったと思う。

1192という年はただ頼朝が征夷大将軍になったというだけの年ではない。
武士の共通認識、日本人の伝統的な歴史観、
象徴的な意味での鎌倉幕府の始まりはやはり1192でなくてはならない。
1185は根拠としてはかなり脆弱だと思う。
学術的な意味としてなら1221も許せるが。
誰がなんのために1185だなどと言い出したのだろうか。
やはり天皇とか征夷大将軍の権威を認めたがらない人たちではないか。
あるいは江戸時代までの日本人の感覚は古くさいといいたい人たちではなかろうか。

> 鎌倉に もとゐ開きし その末を まろかにむすぶ 今日にもあるかな

> 結ぶうへに いやはりつめし 厚氷 春のめぐみに 融けて跡なき

ついでにいっておけば律令制は天皇を元首として戴く明治政府によって正式に、
正当な手続きを踏んで、新しい制度に置き換えられたのである。
実質的にはすでに嵯峨天皇の時代に破綻していたが、
制度としては完全な形で残っていた。浅野内匠頭とかいう官位官職がそうだ。
徳川幕府の軍事力は別として、その権威は、完全に勅令と律令にオーソライズされる形をとった。
室町幕府をそっくりそのまままねたからだ。

同様に維新政府時代の太政官令、これも正当なものである。

何が実質的(学術的)であり、何が正当な手続きを踏んだものかというのは、
別に考えなくてはならない。
つまり両者を混同するとわけわからなくなる。
或いはわざと混同してわけわからなくしたい連中がいる。

ローマ教皇がなぜいるのかとか神聖ローマ皇帝はなぜローマ教皇に戴冠されなくてはならないのかとか、
東ローマ皇帝はなぜコンスタンティノープル総司教に戴冠されねばならないのかというのと、
同じ問題だ。
オーソライズされない軍事政権は不安定で、どうしても権威付けが必要になってくる。
徳川家が天皇家に依存したのもまさにそこだ。
複数のオーソライズされた政権というのはローマ帝国にはよくあった。
複数の教皇が立てられることもあった。
複数の教皇と複数の皇帝の間で誰が誰をオーソライズするのかというので良く戦争になった。
なんのことはない、日本の歴史と同じだ。